大日本帝国の「国号ニ関スル件」2016-10-01

2016-10-01 當山日出夫

昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2016年9月30日
大日本帝国という言い方
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/30/8205432

ここで、日本が対外的に「大日本帝国」を国の名称とさだめた件について、半藤一利は「歴史探偵」として記述してはいるものの、史料が示されていないことについて触れておいた。書いてないなら、探してみる。そして、これは、今の時代、簡単にみつかる。

アジア歴史資料センター
https://www.jacar.go.jp/

である。

年月がわかっているから、検索は簡単。詳細検索で、昭和11年4月の外務省文書で、大日本帝国をキーワードにすればいい。次の史料がヒットした。

国号ニ関スル件 自昭和十一年四月
レファレンスコード B12080810400

史料の作成年月日は、昭和11年4月13日とある。

内容についての説明文は以下のとおりである。

国号ニ関スル件 内閣川島書記官ヨリ電話アリ、寿府ニ於ケル労働会議ニ出席ノ本邦政府代表ニ交付スヘキ任命書並ニ使用者代表及労働者代表ニ交付スヘキ指命書中ニハ従来「ヽヽヽ日本国政府ハ何某ヲ日本国政府代表 労働者代表 使用者代表ニ任命ス云々」トアル処本年度諸代表ニ交付スヘキ任命書指命書ニハ右「日本国」ナル国号ヲ外務省ニ於テ条約文御批准文御信任状等ニ使用ノ国号「大日本帝国」ト一致セシムル方可ナリト思考スルモ外務省側ノ意見参考迄ニ承知シ度キ旨申越来リタルニ付右可然御決定ノ上主管ヨリ内閣川島書記官ニ御回答相煩度シ 尚川島書記官ハ日本国政府ヲ大日本帝国政府トスルハ別ニ差支ナカルベキモ労働者代表使用者代表ノ場合ニハ何某ヲ日本国

この文書の日付は4月13日。政府がそう決めて発表したのはその後、と理解していいだろうか。半藤一利の書いていることを、公文書で証明しようとするならば、上記の文書をしめすことになる。そして、これが、一般の国民に知らされたのは何時のことになるのか……これは、当時の新聞などを見ることになるだろう。

追記 2016-10-06
このつづきは、
昭和11年の「大日本帝国」の史料について
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/06/8215858

近代における「天皇」の呼称2016-10-02

2016-10-02 當山日出夫

近代になってから、天皇はなんとよばれていたのか。「大日本帝国憲法」(明治22年)には、「天皇」とことばがつかってあるから、その頃からに決まっている。このように思うこともできる。

ところが、明治には、「皇帝」のことばもつかっている。たとえば、

日清戦争の講和条約。
ここでは、「大日本国皇帝陛下」と「皇帝」のことばがつかってある。

国立公文書館 アジア歴史資料センター デジタルアーカイブ
アジ歴トピックス 日清戦争
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000016162

これが、日露戦争のポーツマス条約になると「日本国皇帝陛下」になっている。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000020556

さて、昭和11年に「大日本帝国」と決まったことに関連して、同じ時期の他の資料をみると、「天皇」に決まったことがわかる。防衛省の資料にある。

我国国号及元首御称呼に関する件
レファレンスコード C01005962200
陸軍省-大日記甲輯-S11-1-14

一第一二八四号 4月23日 条一機密合第一五〇三号 昭和11年4月20日 外務次官 堀内謙介 陸軍次官 梅津美治郎殿 我国国号及元首御稱呼ニ関スル件 今般当省ニ於テハ国際条約等ニ記載セラルル我国国号及我国元首ノ御稱呼ニ関シ左記ノ通決定シ之ヲ夫々「大日本帝国」及「天皇」ト統一スルコトトセルニ付此段申進ス 記 一、国号 (イ)条約ノ前文 (ロ)条約ノ末尾ニ於ケル署名者ノ「タイトル」ノ如ク嚴格ナル形式ヲ用フヘキ箇所ニ於テハ憲法第一条ノ通之ヲ「大日本帝国」トシ 二、御稱呼ハ凡ユル場合ニ從来ノ「皇帝」ニ代フルニ「天皇」ヲ以テス 三、左記ノ文書其ノ他御信任状奉呈ノ際ニ於ケル言上書等之ニ準スヘキ文書ニ於テモ亦同様トス

これをみると、軍の文書類において、「天皇」にきまったのも、同じく昭和11年4月のことであったことがわかる。近代における天皇の呼称というのも、意外と新しい面があることになる。

ともあれ、デジタルアーカイブでこんなことが、簡単に調べられるようになったというのは、便利な世の中になったものだと思う。

なお、グーグルで、昨日書いたことを検索してみると、次の論文がヒットした。

長谷川伸.「昭和初期国号及び元首の称号統一に関する一考察」.『法政史学』44.1992
URI
http://hdl.handle.net/10114/10419

何事も、自分で文章を書いてみるものである。そして、それを検索してみる。すると、思いがけない論文に行き当たる(こともある)。

追記 2016-10-06
このつづきは、
昭和11年の「大日本帝国」の史料について
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/06/8215858

『夏目漱石の妻』第二回2016-10-03

2016-10-03 當山日出夫

土曜の晩に放送で、日曜に録画を見て書いているので、今日になった。

やまもも書斎記 2016年9月27日
『夏目漱石の妻』第一回
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/27/8203152

ネコが出てきたけど、名前はなかった。

ともかく感想としては、まだ「漱石」の名前は出てこないなあ、ということ。「金之助」でとおしている。『猫』を書いたときには、「漱石」の号を使っていたはずだから、最後のところで、「漱石」と出てくるかと思っていたが、そうはならなかった。

この回は、やはり、金之助の英国留学と「神経衰弱」だろう。それが、ある日ふとあらわれたネコのせいで、回復にむかうというあたりか。

どうでもいい感想を書いておけば、泥棒のシーン。『猫』に書いてあったように、ネコが目撃者として登場(?)すればいいのに、ということ。あとそれから、山の芋は出てこなかった。せっかくの泥棒なのである、山の芋も泥棒することにすればいいのにと思ってしまったのだが、これは、『猫』にたよりすぎか。

ところで、ロンドンにおける漱石の生活は相当にすさまじいものであったらしい。前回に書いた、

末延芳晴.『夏目金之助ロンドンに狂せり』.青土社.2016
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2930

とにかく読んでみた。この本の感想については、別に書きたいと思っているのだが、ドラマとして見たとき、漱石(金之助)のロンドン生活をまったく描かなかったのは、ただ、制作上の都合か、あるいは、あくまでも妻(鏡子)の目を通しての漱石、という視点にこだわったせいか。また、金之助でとおしているのも、妻の立場から見れば、漱石ではなく、金之助である、ということなのか。

次回は、『道草』あたりのことになるらしい。そして、第四回目で、修善寺の一件になるのかなと、予想している。

『真田丸』あれこれ「歳月」2016-10-04

2016-10-04 當山日出夫

テレビの話しがつづく。

NHK大河ドラマ『真田丸』。この前の日曜日(10月2日)の第39回「歳月」。この回は、豊臣も、徳川も、出てこなかった。これは意図的にそのように脚本を書いたと思う。(意図的でない脚本というものは、そもそも無いとおもうけど。)

描かれていたのは、高野山の九度山における、信繁の蟄居生活の有様。これは、次回以降、大坂の陣へむけての一時の息抜きのようなものであり、それへの伏線となるものでもあろう。

印象的だったのは、信繁が、子供(大助)と囲碁をするシーン。この囲碁で、信繁のなかに、まだ脈々とながれている父(昌幸)からうけついだ、武士としてのエトスを表現していると見た。相手に周りを囲まれたら負け、逆に、相手を囲んでしまったら勝ち、そこが自分の領土になる。その領土を増やしていくのが、勝負であると。

ここには、もはや、このドラマの初期に見られたような、信州・真田の里へのパトリオティズム(愛郷心)のようなものは微塵もない。あるのは、相手をもとめて勝負にうってでるという武士の心のみである。信繁が武士であることを貫こうとするならば、徳川を相手にして戦うしか、残された道はない。そして、そのような終わり方であった。

次回以降、大坂の陣で、戦闘シーンが多くでてくるにちがいない。では、なぜ戦うのか。その心情の根底にあるもの……エトス……は、何なのか。ここにきて、ただおのれが武士であること、そのことの確認のためにのみ、戦場へと赴くように思えてならない。

大坂の陣を前にして、なぜ信繁は戦うことになるのか、そのこころの背景を描いた回のように思ってみたのであった。

とはいえ、ルソンからきた娘……秀次の娘(たか)……この娘の登場は、かなりインパクトがあった。このような滑稽味のシーンがあってこそ、信繁の武士としての覚悟も固まるというものだと思っておくことにする。

日本の南進政策の理由2016-10-05

2016-10-05 當山日出夫

『荷風さんの昭和』から、つづける。

半藤一利.『荷風さんの昭和』(ちくま文庫).筑摩書房.2012 (原著、『荷風さんと「昭和」を歩く』.1994.プレジデント社 文藝春秋.『永井荷風と昭和』(文春文庫).2000.文藝春秋)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480429414/

やまもも書斎記 2016年9月26日
半藤一利『荷風さんの昭和』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/26/8201755

このブログでもふれた、戦前の南進政策について、「歴史探偵」は、つぎのように指摘している。

「アジアの諸国を植民地化していたフランス、オランダ、ポルトガルの本国がドイツ軍によって席巻された。いってみれば家主が破産したのである。アジア植民地の財産はだれの手に。ドイツにすべて領有されてはたまらない。日本も東南アジアには発言権があるはずであるゆえに、一刻も早く地歩をそこに固めなければならない。(中略)急速に「南方」が浮かび上がってきた。」(p.266)

とあるあたりは、さすがというべきであろう。それを歴史家の目で、史料の裏付けをとって論じているのが、加藤陽子の『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』といってもよい。

やまもも書斎記 2016年9月12日
加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/12/8182853

半藤一利の著書は、それを直接に歴史の史料としてつかうことは問題があるかもしれないが、昭和という時代を見る歴史家としての眼はたしかなものがあると思う。「歴史探偵」を自称しているからといって、軽く見てはいけない。

だが、気楽に読める本であるし、気楽に読めばいいのだとは思うが。しかし、歴史研究をこころざす人にとっては、様々なヒントを与えてくれる本だと思う。

昭和11年の「大日本帝国」の史料について2016-10-06

2016-10-04 當山日出夫

この件……日本の国の名称が「大日本帝国」に決まったこと……について、半藤一利の本を引用しておいた。

半藤一利.『荷風さんの昭和』(ちくま文庫).筑摩書房.2012 (原著、『荷風さんと「昭和」を歩く』.1994.プレジデント社 文藝春秋.『永井荷風と昭和』(文春文庫).2000.文藝春秋)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480429414/

やまもも書斎記 2016年9月30日
大日本帝国という言い方
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/30/8205432

また、つづけこのようなことも書いた。

やまもも書斎記 2016年10月1日
大日本帝国の「国号ニ関スル件」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/01/8206252

9月30日の文章で、『荷風さんの昭和』(ちくま文庫)から、引用しておいた。その少し前のところには次のようにある。

著者が府立一中の入学試験をうけたときのこととして、
「「我が国の統一的な国号をいいなさい。どこがきめたのですか。いつからですか。」/自慢ではないけれど、わたくしは堂々と胸を張って答えた。/「大日本帝国です。外務省が統一してそういうことにきめました。昭和十一年からです」」(p.171)

ここを再確認して、もう一度、アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブを検索してみた。今度は、キーワードを「国号」としてみた。昭和11年4月に限って検索すると、次の史料がヒットした。

件名標題 11 昭和11年4月
レファレンスコード B02031472900

条一機密合第五九一号 昭和十一年四月二十四日 外務大臣有田八郎 我国国号及地凶首御称呼ニ関スル件 本件ニ付テハ去ル三月二十日附条一機密合第三七八号往信ヲ以テ申進メタル処四月十八日ノ新聞紙上ニ宮内省外事課長謹話トシテ従来ノ御称呼タル「皇帝」ニ代リ「天皇」ト称シ奉ルヘキ旨ノ記事掲載セラレタリ、右ハ偶然ノ事実ヨリ宮内省側カ当省ト聯絡ナク単独ニ発表ノ已ムヲ得サルニ至リタルモノナルカ右ノ如キ発表アリタル以上当省トシテ国際条約等当省関係ノ事項ニ付此ノ上秘密ニ附シ置クハ妥当ナラサルノミナラス新聞中ニハ国号ノ書方ニ関シ誤リタル報道ヲ伝ヘタルモノモアリノタルニ付旁々同日当省ヨリモ左記ノ通公表シ十九日ノ新聞紙ニ掲

この文書の所蔵は、外務省外交史料館。A-5-3-0-14_001

これを読むと、宮内省が勝手にそれまでの「皇帝」にかわって「天皇」とすることを、新聞に発表した。それで、外務省としてもそれにあわせることにした、と読める。画像データの部分を読んでみると、「天皇」の呼称と同時に「大日本帝国」を用いることにした旨も書いてある。

このことから、いくつかのことが読み取れよう。

第一に、宮内省と外務省が、連絡してのことではなかったらしいということ。どうやら縦割り行政のなかで、勝手に決められてしまったので、それに他の省もしたがったということらしい。

第二に、戦前は、「天皇」「大日本帝国」だと思っていたのだが、「皇帝」が宮内省などでは一般的に使われていたらしいこと。

第三に、これは、もとにもどって半藤一利の文章から読み取れることだが、この件については、当時の中学の入試問題にもなるような知識であったということ。

以上、いくつかの興味深い歴史がみてとれると思う。

戦前は、「大日本帝国」であり「天皇」であったというのは、どうやら、戦後になってからかの思い込みのようなものであるのかもしれない。もちろん、名称の問題と、天皇制のあり方の問題は別に考えなければならないが。

このことは、昭和11年のこと。今から、80年ほど前のことになる。こんなことが、もう「歴史」のかなたのことになっている。この意味では「歴史探偵」として、半藤一利が、このことを文章に残しておいてくれたことは貴重なことだと思っていいだろう。

半藤一利『荷風さんの戦後』2016-10-07

2016-10-07 當山日出夫

半藤一利.『荷風さんの戦後』(ちくま文庫).筑摩書房.2009 (原著は、筑摩書房.2006)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480814784/

この本、『荷風さんの昭和』(ちくま文庫)の続編になる。

やまもも書斎記 2016年9月
半藤一利『荷風さんの昭和』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/26/8201755

『荷風さんの昭和』では、荷風の『断腸亭日乗』を読むことによって、昭和(戦前)の荷風を、そして日本を描いた歴史探偵の作品であった。これは、その戦後編である。はっきりいって、こちらの方はあまり面白くなかった。いや、これは、比較すればということであって、充分に面白い本なのであるが、先の『荷風さんの昭和』に比べればということになる。

それは、なぜだろう……私の思うに、戦後の荷風の『断腸亭日乗』を読むことによっては、もはや、日本の国や社会や人びと(民草)のあり方にせまることができなくなっているせいかと思う。戦前の荷風が、日本にありながら「亡命者」として生活していたとするならば、戦後の荷風は「風狂の徒」である。

「荷風はスパッと万事を放棄することで戦前戦後に区切りをつけ、以後のおのれは無一物の風狂の徒たらんと決意したように思われる。」(p.162)

その晩年は、千葉の市川に住んで、毎日のように浅草に通う日々を送っていた。そこからは、時代・世相・社会に対する、シニカルな批判の眼はもはやなくなっていたというべきだろう。

それを象徴するのは、たぶん、「全集」の刊行。昭和23年から『荷風全集』が刊行になっている。

「さらに特筆すべきは昭和二十年までの『断腸亭日乗』が、きちんと荷風の手が加えられて、初めて日の目をみることになったのである。」(p.170)

このことを勘案して見るならば、麻布の偏奇館がやけて、終戦をむかえた後の荷風にとって、『断腸亭日乗』を「完全版」で刊行することができれば、もうあとは余生というべきものであったのかもしれない。

そのせいだろう、いくら「歴史探偵=半藤一利」の眼をもってしても、その後の『断腸亭日乗』から昭和の戦後という時代を見ることができなくなっている。このことには、筆者(半藤一利)も自覚的である。

「いわんや、『日乗』を読むことの大きな楽しみでもある時勢慷慨や人間批評がほとんど影をひそめてしまう。」(p.183)

むしろ、戦後編のこの本の面白いところは、晩年の荷風の生活のいろんなエピソードだろう。筆者(半藤一利)は、文藝春秋の記者であったとき、荷風の最期の場面にたちあっている。その記事を文藝春秋に書いたのは、外ならぬ半藤一利その人であったことから、この本はスタートする。

以後、なんどか、生前の荷風に筆者はあっている。その時の思い出など、そのようなものとして読むと、これはこれで非常に面白い読み物になっている。ただ、前述のように、それを通して、歴史探偵として戦後日本の姿が見えてくる、というわけではないのだが。

国旗を掲揚できるようになった日2016-10-08

2016-10-08 當山日出夫

半藤一利の『荷風さんの戦後』から、つづける。

やまもも書斎記 2016年10月7日
半藤一利『荷風さんの戦後』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/07/8216795

このなかで、「歴史探偵」の記述として、興味深く思ったこと。それは、国旗の掲揚についてである。

「そしてこの前日(=昭和22年5月3日の憲法施行の前日)に、あまり知られていない面白いことがあった。マッカーサーが日本政府に手紙を寄越して、明三日以後、国会、最高裁判所、首相官邸および皇居に国旗をかかげることを無制限に許可するといってきたという。それまで日の丸を掲げてよいかどうか、GHQにたずねてから決めることになっていたのである。ちなみに、無制限に日本領土内で日の丸を掲げてよいと拡大されたのは、昭和二十四年一月一日からなのである。」(pp.111-112)

現代の日本で国旗の掲揚については、様々な意見があることは承知している。しかし、その国旗の掲揚ということが、どのような歴史をもっているかは、もっと知られていいことだと思う。

かつて、日本が連合国(要するに、戦争に勝った側)の支配下にあったとき、国旗は自由に掲揚できるものではなかった。戦争に国が負けるということ、あるいは、戦争に勝つということは、その国の国旗を掲げることをも制限することにつながる。このことは、知られておいてよい知識だと思う。

だからといって、現代の日本で、国旗の掲揚を強制することには、私は批判的である。しかし、国旗を掲げることのもつシンボリックな意味というものを理解したうえで、それに対する賛否を自ら問いかけるべきであろう。

国旗というものは、それを掲揚することにも、また、それを禁止することにも、意味のあるものなのである。

国旗と平和記念日2016-10-09

2016-10-09 當山日出夫

つづきである。

やまもも書斎記 2016年10月
国旗を掲揚できるようになった日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/08/8217674

ここでも、アジア歴史資料センターを検索してみたが、それに該当する史料は見いだせないようである。

昭和23年から24年の範囲で、「国旗」をキーワードにして検索すると、次の史料がヒットする。

国旗掲揚について
レファンレンスコード A13111214400

閣甲第四四号 起案 昭和二十四年三月一日 決定 昭和二十四年三月二日 施行 昭和二十四年三月二日 案 (一) 昭和二十四年三月二日 内閣官房長官 各省大臣宛(各通) (法務総裁を含む) 国旗掲揚について 標記の件に関し、一月十二日附内閣閣甲第九号をもつて通知したが、右通知の追書の部分は、別添一月二十五日附極東海軍司令指令CNFE/S七〇-二号によつて左記のとおり改めたから、命によつて通知します。 記 なお、右に「国内において」とあるが、この場合沿岸三厘以内の港内においては、船舶(ランチ等を含む)は、碇泊中、航海中のいずれの場合にも国旗を掲揚することができるから申添える。(昭和二十四年二月二十三日運輸省告示第七十四号参照)

これを見ると、昭和24年になって(まだ、この時点では、日本は独立していない)、国旗の掲揚が一般に認められるようになったことがうかがい知れる。

ところで、昭和22年にかぎって検索してみたら、次の史料が出てきた。

平和記念日制定に関する請願
レファレンスコード A13110847200

衆乙三七九 昭和二十二年六月二十日閣議決定 昭和二十二年六月十九日 別紙の「平和記念日制定に関する請願」を審査したところ、この請願の趣旨は、「政府は、終戦記念日たる八月十五日を平和記念日とし、この日全国民をして国旗を掲揚して戦争の惨禍を追想し、犠牲者に対する追悼の念を新にすると共に、心から平和を愛好する精神を涵養せしめで平和日本の建設に資せられたい。」というのである。 この請願について、研究したところ、この請願の趣旨には、尤もなところが少くない。毎年八月十五日において国民が戦争の災禍を追想し、平和日本建設の決意を新にすることは適当であると思われる。が、今直に八月十五日を以て平和記念日と決定することについては、十分研究しなければならない。

つまり、昭和22年の段階で、8月15日を「平和記念日」とすること、そして、その日には、「国旗」を掲揚して、戦争の犠牲者を追悼するとともに、平和を祈念する日としたいという趣旨のことが記されている。

「八月十五日の神話」とはいうけれど、昭和22年の時点で、8月15日を終戦を記念する日という発言があることが、興味深い。つまり、9月2日ではないということ。それほど、8月15日の玉音放送のあった日のできごとというのは、日本国民に強い印象のある日なのであった、ということを改めて感じる次第である。

蛇足でいえば、日本が、ポツダム宣言受諾を表明したのは、8月14日。戦艦ミズーリにおいて降伏文書に調印したのは、9月2日。これらの日のことを忘れないでおくこともまた必要なことだと思っている。

『夏目漱石の妻』第三回2016-10-10

2016-10-10 當山日出夫

土曜日の放送を録画して、日曜日に見て、そして感想を書いてとなると、どうしても、ブログへの掲載は、今日になる。

やまもも書斎記 2016年10月3日
『夏目漱石の妻』第二回
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/03/8208735

やまもも書斎記 2016年9月27日
『夏目漱石の妻』第一回
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/27/8203152

やはり、というべきか、まだ、ネコに名前はなかった。

第三回の中心は、漱石の作品でいえば、『道草』と『坑夫』になる。(これを書いていて……ATOKは「こうふ」から「坑夫」を変換してくれなかった。もう死語なのか。)

ところで、気になっているのが、「語り」が、房子(鏡子のいとこ)という設定。私は、漱石研究の本などあまり読まない方だが、一般的に『坑夫』という作品は、それほど論じられることはないようだし、しかも、漱石周辺の人物として、房子が大きく登場するということもないように思っている。(ただ私が不勉強なせいかもしれないが。)

ただ、ちょっと見てみると……『坑夫』という作品、文庫本で出ているのは新潮文庫だけのようだ。岩波文庫では出ていない。この『坑夫』の一件、房子との関係、これがどうなっていくのかが、次回につながっていくのだろうと思う。

このドラマ、基本の視点は、妻である鏡子にある。そのせいか、前回でも、漱石の英国留学のことは、簡単にすませてしまっている。ほとんど描かれることはなかった。ただ、行って帰ってきた、という描写であった。しかし、漱石研究の立場からするならば、漱石のロンドンでの体験は、きわめて深刻で意味のあるものにちがいない。それをあえて、スルーしてしまうのは、それなりに意図のあってのことだと思う。

それから、気になっていることは、この作品には、「太平の逸民」「高等遊民」の類が登場しないことがある。これは、かなり意識してのことなんだろうなあ、と思って見ている。これらは、あくまでも、漱石の作品のなかでのことであって、現実の漱石の生活は、とてもそんなものではなかったということなのであろう。漱石は、そのような生き方を、一つの人間のあり方の類型としてはいただろうし、それにあこがれるような面もあったのかもしれないとは思うのだが。

先年、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)をドラマ化したとき、その放送でも、漱石は登場いしていたが、どちらかというと「太平の逸民」「高等遊民」的な描きかたであったのを思い出す。

たぶん、次回は、修善寺の大患になるのだろうし、「則天去私」をどう描くか、このあたりが気になるところである。