『失われた時を求めて』岩波文庫(9)2018-11-22

2018-11-22 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(9)

プルースト.吉川一義(訳).『失われた時を求めて 9』ソドムとゴモラⅡ(岩波文庫).岩波書店.2015
https://www.iwanami.co.jp/book/b270835.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年11月19日
『失われた時を求めて』岩波文庫(8)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/19/9000570

この巻で印象にのこったのは次の三点。

第一は、ヴェルデュラン夫人主催の晩餐会。

この作品で、これまでに登場してきた、サロンの描写などをうけてここもある。

はっきりいって、地口・駄洒落の説明を注釈で読んでも、あまり意味がわからない。だが、それが、わからないなりにも、ことばのやりとりのゲームに興じる上流階級の人びとのこころのうごきに、思わずよみふけってしまうところがある。これを文学というのだろう。

第二は、シャルリュス男爵の同性愛。

モレルに恋するのだが、そのこころのうちの描写を読んでいると、何かしら滑稽な感じがしてならない。テーマとしては、深刻なテーマであるし、シャルリュス男爵自身、いたって大真面目であるかのようである。だが、娼館での出来事など、喜劇的ですらある。

第三は、アルベルチーヌの同性愛。

現代の価値観からすれば、さして背徳的ということはないことなのだが、この小説の書かれた二〇世紀初頭のフランスにおいては、スキャンダラスなことにちがいない。アルベルチーヌに恋する「私」は、彼女の性癖をめぐって煩悶する。それが、なにかしら滑稽な感じで読める。無論、私は、生真面目に考えているのである。

以上の三点が、印象に残るところである。

これら、その事案の当事者がいたって生真面目、大真面目であればあるほど、今日の観点から見て、何かしら滑稽さを感じさせる。それは、この小説が書かれた時点における、作者の視点のおきかたが、時代から突出して普遍性を獲得するところにいたっているせいであろう。

そして、さらに付け加えておくならば、「幻影」ということが。この巻で、「幻影」をめぐって思考するところがある(365ページ以下)。おそらくプルーストのこの作品を読み解く、キーになる箇所にちがいない。

そう思って読むならば、「私」のアルベルチーヌへの恋においても、「幻影」が常につきまとっている。

また、この巻を読んで強く印象に残るのが鉄道。鉄道で移動、あるいは、同じ車両に乗り合わせる偶然が生み出すいろんなドラマ。まさに、鉄道の小説と言ってもいいかもしれない。

やっと九巻まで読んだ。この巻の最後で、「私」はアルベルチーヌへの思いをかためる。この思いがどのようになるのか、続きを楽しみに読むことにしよう。

追記 2018-11-24
この続きは、
やまもも書斎記 2018年11月24日
『失われた時を求めて』岩波文庫(10)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/24/9002585

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/22/9001753/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。