映像の世紀バタフライエフェクト「ビートルズとロックの革命」2024-01-05

2024年1月5日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト ビートルズとロックの革命

私は、一九五五年(昭和三〇)の生まれなので、ビートルズをリアルタイムで聴いたぎりぎりの世代ということになる。日本での来日公演のときは、テレビで見ていた。だが、その音楽に革命性を感じるには、まだ幼かったと思い出す。これが、少し上の年代になれば、ビートルズに大きな影響を受けた人びとということになる。

内容としては、ビートルズの活躍した一九六〇年代からの、若者の文化、強いて言えばカウンターカルチャーを、ビートルズの活動やそれに対する社会の反応を交えながら描いていた。見方によるのだろうが、ビートルズが革命を起こしたというよりも、時代の流れのなかにいて、その動きの中心に位置することになったと考えるべきだろうか。少なくとも、世界が大きく変わるきっかけになった存在であることは確かである。

「映像の世紀」のシリーズということもあるのだろうが、冷戦時代の東側諸国のことが多くあつかわれていた。ビートルズをどう受容するかという歴史が、まさに冷戦崩壊へとつながっていくことになる。番組では出てきていなかったのだが、中国などではどうだったのだろうかということが気になる。資料は残っていないのだろうか。といって、今の中国が、そうおいそれと情報開示して過去の資料を提供してくれるとは思えないが。

スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツが、ともにビートルズを聴いていたというのは、興味深い。世の中に個人で使うことのできるパーソナル・コンピュータが登場したころ……日本ではPC-9801のころになるが……それは、ある意味でカウンターカルチャーの象徴でもあった。それがいつのまにか、スマートフォンの時代になり、AIの時代を迎えて、大きく変容している。

音楽についていうならば、その後の日本のミュージシャンの多くは、ビートルズの影響をなにがしか受けていることになる。この意味では、ビートルズの登場以降の時代を生きてきたことになる。

2023年12月31日記

歴史探偵「光る君へコラボスペシャル」2024-01-06

2024年1月6日 當山日出夫

歴史探偵 光る君へコラボスペシャル

この番組、NHKの大阪の制作なのだが、どうもいまいちということが時々ある。決して間違っているというのではないが、常識的に知っていることの範囲を出ないというか、あるいは、同じことを伝えるとしても、もうちょっと方法はないのか。

この回は、『光る君へ』の放送を前にしての特別企画である。内容としては、平安時代の貴族の暮らしについて、紫式部について、藤原道長について、まあ、普通に『源氏物語』など読んでいる、国文学研究の周辺にいる人間なら、知っていることである。特に目新しい新知識というものはなかった。

番組で登場していたのは、国際日本文研究センターのデータベース。今、平安時代の古記録については、他に東京大学史料編纂所のデータベースも利用する。(今、歴史学を勉強しようとするなら、これらのオンラインのデータベースを使いこなさないと、なんにもできないという時代になっている。)

書については、平安時代の古筆そのままの再現はむずかしいだろう。何よりも、現代の人間は変体仮名が読めない。これは、それらしい雰囲気をどう出すかということになる。『源氏物語』には、手紙を書くとき相手と内容によって書きぶりを変えるということもあったかなとも思うが、どうなるだろうか。

なかで、行成の行動のことが出てきていたが、さらに問題になることとしては、牛車に乗って、具体的にどのルートで行き来していたのか、ということがある。

また平安時代を語るのに、王朝貴族の視点だけからは難しいところもある。このあたりのことについては、『光る君へ』でどのように描かれることになるだろうか。

2024年1月3日記

「市民が見た戦乱のガザ 12月」2024-01-06

2024年1月6日 當山日出夫

BSスペシャル 市民が見た戦乱のガザ 12月

憎悪の連鎖がもたらすものは、普通の市民の悲劇である。

今回のパレスチナでの戦争については、ハマスの攻撃、人質の略取ということがあるにはちがいない。だが、イスラエルが報復するとしても、限度を超えているとしかいいようがない。

これが、ハマスの戦闘員とイスラエル軍との戦闘に限られるなら、まだましかという気もする。だからといって、戦闘がいいとは思わないが。しかし、一般の市民が犠牲になることがあってはならない。

一般市民の視点から、ガザ、ヨルダン川西岸で、何が起こっているのか記録したものとして価値がある。そして、それは、見るものの想像力に訴えるものがある。

余計なことかもしれないが、同じようにイスラエルの市民は何を感じているのか、これも気になるところである。私の立場としては、将来的にはパレスチナにおける平和的共存という方向にしか解決の道はないのだろうと思っているが、はたしてこれからどうなるだろうか。

2024年1月3日記

『ブギウギ』「戦争とうた」2024-01-07

2024年1月7日 當山日出夫

『ブギウギ』第14週「戦争とうた」

この週は、木曜と金曜の二回だけ。しかし、印象にのこることが多くあった。

NHKの朝ドラに、「李香蘭」がその名前で登場するとは思わなかった。たしかに、歴史のうえでは、その時代における日本と中国との間にあって、なにかしら象徴的な存在であったことはたしかである。しかし、その氏素性の正体まではドラマでは出てこないだろうが、さてどうなるだろうか。

「夜来香」の曲が、「李香蘭」の歌唱で放送されるということは、はっきりいって驚くところがあったのだが、これも、時代が変わってきたということなのかとも思う。

茨田りつ子は、鹿児島の海軍基地の慰問で歌う。「別れのブルース」である。特攻の基地である。海軍の基地があったとすると鹿屋だろうか。現在、ここには鹿屋航空基地史料館がる。また、知覧には陸軍の基地もあった。知覧特攻平和館がある。昭和二〇年のころとはいえ、軍の内部であからさまに特攻ということばをつかっていたかどうか、ちょっと気になるところではある。

福来スズ子は、富山で歌う。「大空の弟」である。ここでは、夫が戦死した女性のことが印象に残る。スズ子たちが泊まった旅館の仲居として働いている。戦争に負けることになったら、夫の戦死は犬死にであると語っていた。おそらく、このような思いを抱いていた人びとが、多くいたのだろう。(ただ、現代の歴史観では、戦場で戦死した兵士もまた侵略に加担したとして断罪する言説もあるのだが。私としては、このような歴史観には賛成できない。)

さて、次週、戦争は終わるようだ。玉音放送のシーンはあるのだろうか。楽しみに見ることにしよう。

2024年1月6日記

ザ・プロファイラー「書き尽くせぬ思い「源氏物語」作者 紫式部」2024-01-07

2024年1月7日 當山日出夫

ザ・プロファイラー 書き尽くせぬ思い「源氏物語」作者 紫式部

これも『光る君へ』関連番組の一つ。同じ映像の使い回しが多いのに気づくが、まあこれはいたしかたのないことであろう。

気になったこととしては、「紫式部」を「式部」と言うのはおかしい。少なくとも、国文学に素養のある人間なら、このような言い方はしない。昔風にいえば、「紫女」と言うこともできる。「清少納言」は「清女」である。ちなみに、ATOKでは、両方とも変換辞書に入っている。ただ、大塚ひかりは、かならず「紫式部」と言っていた。

それから、「清少納言」は、「清・少納言」である。番組を見ていると、「清・少納言」「清少・納言」、二つの言い方が混じっていた。

特に目新しい情報はないのだが、こんなものかとも思う。ともあれ、紫式部については、分かっていることが少なすぎるというのが実際のところだろう。だからこそ、ドラマとしては、自由に作る余地があるということにはなるが。

『源氏物語』についての解説は、現代としてはこうなろうかと思うが、ちょっともの足りない気もする。出てきていたのは、六条御息所、空蝉、夕顔、浮舟、など。しかし、最重要な登場人物であるの紫上に言及していない。葵上も出てきていなかった。

たしかに『源氏物語』は一〇〇〇年以上にわたって読み継がれてきた作品である。しかし、その受容のプロセスは、紆余曲折がある。これまで見た『光る君へ』関連の番組では、本居宣長について言及しているものがなかった。『源氏物語』が現代のように読めるようになったのは、江戸時代の本居宣長の仕事によるところが大きい。それから、北村季吟の『湖月抄』も重要である。また、平安時代に『源氏物語』の熱烈な読者であった、菅原孝標女『更級日記』についても触れておくべきかとも思う。

『光る君へ』関連番組を見ていて気づくことの一つとして、登場する研究者の背景に書棚があって、『古事類苑』が見られることである。古典文学、歴史学の研究者なら、自分の書斎に『古事類苑』を持っていてもおかしくない。これも、近年ではデジタル化されて、オンラインで見ることのできる文献になりつつある。だが、なんとなく『古事類苑』のページをめくってすごすというのも、研究者としての楽しみの一つにはちがいない。(私も、学生のときに買ったワンセットが書庫にある。)

2024年1月5日記

ETV特集「森崎和江 終わりのない旅」2024-01-07

2024年1月7日 當山日出夫

ETV特集 森崎和江 終わりのない旅

録画してあったのを年末になって見た。

『からゆきさん』が刊行になったのは、高校生のころだったろうか。これを実際に読んだのは、大学生になってから文庫本になったものを読んだかと憶えている。

番組では語っていなかったことで気になるのは、森崎和江は、どのような経緯で左翼的な思想を身につけていったのか、ということである。まあ、時代の雰囲気としては、左翼思想は流行の考え方であったろうから、どこかで影響を受けているということなのかとも思う。

語られていた範囲では、その思想は、反近代ということであり、反権力、反国家、反男性……というようになる。とはいえ、今日のフェミニズムということでもないと感じる。

単一の共同体の幻想性ということであるが、だが、それで近代を超えるということにつながるかどうかは、私には判断できない。日本の近代を否定的に見る視点はいいとしても、だからといって江戸時代の人びとの暮らしに戻ることもできない。近代を超えるとなると、近代的な国家のシステムに対抗する新たな共同体の形成ということになるのかとも思うが、これもまた幻想にはちがない。

番組の趣旨とはずれるかもしれないが、朝鮮や台湾で生まれた、いわゆる日本人は多くいる。その人びとは、それぞれにどのような思いで、その後の人生をすごすことになったのか、このあたりのことは、改めて研究の必要があるだろう。このなかには、日本で生まれた朝鮮人とか、中国、台湾の人びとなどもふくめて考えなければならないだろう。

朝鮮で生まれ育ったことを原罪としてとらえる感性は、貴重なものかもしれないが、これをつきつめていくならば、近代に生まれた人間は、全員がなにがしかの原罪をせおっていることになる。また、朝鮮の人びとは、植民地支配の被害者であるが故に、無垢ということになるのか、このあたりのことがなんとなくひっかかる。

森崎和江が旅のはてにもとめたアイデンティティもまた幻想であろう。人間というものは、なにがしか幻想のなかにしか生きられないものであるとするならば、これもまた一つの人間観、人間のあり方だと思う。

2023年12月31日記

英雄たちの選択 スペシャル 「紫式部 千年の孤独 〜源氏物語の真実〜」2024-01-07

2024年1月7日 當山日出夫

英雄たちの選択 スペシャル 紫式部 千年の孤独 〜源氏物語の真実〜

一月六日の夜の放送。翌日(七日)の午前中に見た。たいていなら、ブログにアップロードするのは、さらに翌日ということになるのだが、今回は特別に今日のうちに掲載しておく。今日(七日)から、『光る君へ』がスタートであるので、それを見る前にと思って。

『光る君へ』関連番組はたいてい見ているつもりである。この「英雄たちの選択」で目新しかったこととしては、次のようになる。

まず、『源氏物語』の大島本が映っていたこと。今、普通に『源氏物語』を読むとき、現代の校注本で読むことになるが、その底本は、基本的に定家本系統を使っている。そのなかで、もっとも多く使われるのが大島本である。

次に、『源氏物語』の成立論に少し言及していたこと。『源氏物語』がどの順番で書かれたかは、いまだに多くの議論があると思っている。「桐壺」の最初から書き始めたのか、それとも、先行するいくつかの物語があったのか。ここでは、「帚木」からの三帖を最初に書き始めたという立場であった。これは、ある意味で理解できる。『源氏物語』を実際に読むと、「桐壺」の始まりと、「帚木」のいわゆる雨夜の品定めの始まりと、違和感を感じることになる。

だが、いわゆる源氏物語三段階成立説には触れるところがなかった。これは、古く武田宗俊によってとなえられ、その後、大野晋が同様のことを論じた。さらには、村上征勝によってコンピュータを用いた計量分析も行われている。

以上の二点が、他の『光る君へ』関連番組と比較して、気づいたところである。

気になるのは、『源氏物語』の人物のモデルとして、定子、彰子を考えていることである。さて、これはどうだろうか。

『源氏物語』を論じるとき、「純愛」ということばを使っているあたり、ちょっとどうかなという気もする。まあ、確かに現代の我々の価値観、恋愛感からして、「純愛」という側面がないではない。平安時代の恋を論じるとき、かつては「いろごのみ」ということばが使われたものであるが、近年では使わなくなっているかと思う。少なくとも、平安時代の貴族において、現代の我々の恋愛感、結婚観、家族間を投影して見ることには、慎重であるべきかと思う。

だが、一方、現代の目で読んで、「純愛」の物語として読めることもたしかなことであって、これは文学というものの普遍性ということになるだろう。

その時代の人びとのものの考え方に即して読むということと、現代にも通じる文学的普遍性を感じることと、この両方への目配りが必要ということになる。これは、特に『源氏物語』に限ったことではなく、文学のみならず芸術全般についていえることである。

この番組では、「紫式部」のことを「式部」と言っていた。これはどうかと思う。ただ、山本淳子だけは必ず「紫式部」と言っていたが。

2024年1月7日記

『光る君へ』「約束の月」2024-01-08

2024年1月8日 當山日出夫

『光る君へ』第1回「約束の月」

いきなりの苦言になるが、平安貴族にとって、死のけがれはもっとも忌むべきもののひとつであったはず。公卿階層の貴族が、自ら刀を手にして人を殺すなど、ありえない設定だと思う。そういう暴力的行為を担当することになったのが、後の武士ということだと思っている。

まひろの家でも、母の遺体を安置していたが、これもどうだろうか。

『源氏物語』を読むと、死の汚れに触れた人間を訪問しても、床に座ることをしていない。立ったままで話しをしている。

史実にもとづいたドラマとはいえ、このあたりの脚本はあまり納得できるものではない。ドラマであるから歴史のとおりである必要はない。だが、死のけがれというようなことは、重要な生活感覚であるから、ないがしろにすべきではないと考える。

まひろと三郎の出会いが、逃げた小鳥(ヤマガラ)を追いかけることがきっかけになっていた。これは、明らかに紫上と光源氏の出会いのシーンをなぞったものである。「雀の子をいぬきがにがしつる」『若紫』。昔、高校生のころ、古典の教科書に出ていたのを今でも憶えている。紫式部と藤原道長の関係は、あたかも紫上と光源氏の関係、という意図なのであろう。

出てきた漢籍が、『蒙求』『史記』というあたりは、妥当なところだろうか。

安倍晴明について、「はるあきら」と読ませているのは、異論はない。しかし、女性について、「~子」を訓読で読ませるのはどうだろうか。だからといって、今の通常の習慣のように音読で「~し」とするのがいいというわけではない。このあたり、人名をどう読んでいたかは、史料、資料のないことがらに属する。このドラマの方針も、また一つのあり方ではある。(史料がないから想像でおぎなった部分と、史実として分かっている部分は、分けておくべきだろう。このドラマを見た人たちが、平安時代について後々に何をイメージするかということにつながる。)

それにしても、まひろの家が貧乏すぎる気もするが、はたしてどうであったろうか。除目にはずれたときの様子は、まさに「すさまじきもの」であったが。

ドラマの空想ではあるのだが、興味深かったのは散楽のシーン。古代の芸能がどんなものであった、特に庶民のレベルではほとんど史料、資料がない分野になる。かろうじて残っているうちで、有名なものとしては『新猿楽記』がある。これを思想大系本で読んだのは、学生のころだった。

これが、宮中での舞楽や音楽の演奏であれば、専門的な考証が可能である。

平安京も、このころでは、主に南西部のあたりは荒廃していたと思っているのだが、これはどのように描かれることになるだろうか。また、鴨川の河原は、子どもとはいえ、貴族階層の人間が簡単に訪れる場所だったのだろうというあたりも気にかかる。

気になることはいくつもあるのだが、現代の価値観で見るドラマとしては、よく出来ていると思う。

どうでもいいことだが、伊藤敏恵アナウンサーの声でナレーションがはいると、映像の世紀の雰囲気になってしまう。

さて、次回から吉高由里子の登場になるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2024年1月7日記

NHKスペシャル「2024私たちの選択 -AI×専門家による“6つの未来”-」2024-01-08

2024年1月8日 當山日出夫

NHKスペシャル 2024私たちの選択 -AI×専門家による“6つの未来”-

元日の夜に放送の予定であったものが、能登半島の地震の影響で四日の夜の放送になったものである。

はっきり言ってあまり得るところのない内容であった。だが、強いていえば、当たり前のことを実行する、そのができるかどうか、ということになる。

それを実行する場合、一番重要なのが、国民的な議論と、政府への信頼感である。これが決定的に欠如しているのが、今の日本である。

政府、与党への信頼感は、おそらく最低のレベルにある。国民的議論を形成しようとしても、熟議とはほどとおい非難の応酬になりがちである。対話というよりも、自己の主張の正しさをふりかざすだけの場合が多い。これは、左翼も、右翼もそうである。

たまたまそうなったのであるが、元日の地震について、被災地支援のために政府がどれほどのことをするか、まずこれが試金石になることは確実である。ここで確かな支援の姿を政府が国民に対して見せることができなければ、おそらく政府への信頼感は回復しない。

気になったことがいくつかある。

世界の状況に変化がない、ということを前提にしての議論である。これから、中国がどうなるか、韓国がどうなるか、ということは、日本の行く末にとってきわめて重要なことがらであるが、一切ふれられることはなかった。不確定要因が多すぎるから考えることができない、ということなのかもしれないが、しかし、ここは一言は言っておくべきだろう。

歴史人口学によれば、社会の近代化がすすみ、女性の学歴があがれば、出生率はさがる。これは、どうしようもないことである。これが分かっていながら、なぜ対策がなされなかったのか、ここのところについての言及がなかった。これも、このことについては、自民党政権なかんずく安倍政権の無策ということに触れざるをえないから、黙っていたのかと思う。

日本は、実質的に移民を受け入れるという方向にむかわざるをえないとするならば、これも考えておくべき要素のひとつになる。

これからの社会の鍵は、DXであるという。これはそうだろう。だが、政府がデジタル政府の重要課題としている、マイナンバーカードの普及が進まないのは、何故であるのか、ここのあたりから考える必要がある。(私見としては、制度設計から見なおさないと無理だと思う。だが、それを実行する、過ちを認めるということが、今の政府にはできない。)

凋落していく日本を象徴することになるのが、将来からふり返れば、東京オリンピックの強行開催であり、来年の大阪万博となるだろう。もうこのようなイベントをやったところで、国家の発展にはつながらないということに気づくべきだったし、気づいたら、途中で路線変更すべきであった。どうしてそれができなかったのか、これが日本の政治の実態ということになろうか。

2024年1月5日記

ドキュメント72時間「別府 “貸間”の人生物語」2024-01-09

2024年1月9日 當山日出夫

ドキュメント72時間 別府 “貸間”の人生物語

もう今では、湯治場ということばも使わなくなってしまったかと思う。少し前までは、自炊が基本の湯治場が、各地の温泉にあったかと思うがどうなのだろうか。このあたり、近世から近代にかけて温泉史ということになだろう。

別府でも最盛期には六〇軒ほどの、貸間があったという。それが今ではかなり減っている。これも時代の流れなのだろう。

いろいろな人のいろいろな人生があるものである。

旅好きの人が目についた。世界中、日本中を旅して回っている人。私など、基本的に居職の生活で、あまり旅に出ることもない。家を離れるとどうも疲れるようになってきた。

印象的だったのは、九九歳になる男性。貸間に長年住み着いてしまっているという。すこぶる元気である。このような人生を送る人もいるのかと感慨深く思って見ていた。(ただ、住民票とか医療保険とかはどうなっているのかということはちょっと気になるところではあるのだが。)

2024年1月6日記