『光る君へ』「めぐりあい」2024-01-15

2024年1月15日 當山日出夫

『光る君へ』第2回「めぐりあい」

道兼のしたことが、ドラマの展開としては大きな伏線になっていくようだ。おそらくは、まひろの藤原家に対するいろいろな感情としてつながっていくことになるのかと思う。まあ、この意味では、当時の貴族社会にあっては、死のけがれは忌むべきものという通念よりも、ドラマの作り方の方を優先したということになる。

まひろは成人する。裳着である。確かにこれは重い。私は着た経験はないのだが、その着付けの実演ということは、何回か目にしている。女房装束……いわゆる十二単……は、重く、軽快に動き回ることはむずかしい。だから、『源氏物語』などに出てくる「ゐざる」ということになる。

はじまりのところで、裳着をすませれば婿を取れる、と言っていた。つまりは、婚姻史としては、招婿婚という形態で理解していることになる。平安時代の貴族は、招婿婚とするのは、ちょっと古いように思うがどうだろうか。このような考え方は、昔、高群逸枝がとなえたことであるはずだが。

代筆の仕事ということになっていたのだが、平安時代、歌の代作はごく日常的に行われていたというのが、たぶん日本文学の常識的な知識であろう。ただ、それが、どのような身分関係のなかで行われていたかとなると、いろいろと疑問がある。まひろが仕事をしているような、平安京の街中の人びと、それも庶民階層の人びとが、歌を読んだだろうか。このあたりは疑問視することもできるだろう。

が、ドラマの作り方としては、まひろは歌を作ったり、漢籍を読んだりするのが好きであるということは確かである。第1回で、鴨川の河原で、まひろは三郎に嘘の話をしていた。自分は、実は帝の子である、と。まあ、まひろという女性は、子供のころから、嘘つき、あるいは、創作力、想像力に秀でた才能を持っていたということになる。

代作した歌で夕顔がでてきていた。これは、『源氏物語』の「夕顔」を連想することになる。「夕顔」の帖では、この花は身分の低いものの家に咲くということになっている。まさにこの歌の代作を頼んだ男は、そう高貴な身分とも思えない。紙が用意できなくて木の板であったようだ。字が書けないので代筆をたのんだらしい。

歌が書かれたシーンを見ると、基本的に変体仮名を使わないようにしてある。このあたりは、現代の視聴者に配慮した作り方である。また、歌を書くのも紙とはかぎらない。陶器であったり、木の板であったり。このあたりは、墨書土器の出土とか、歌木簡の発見ということをふまえてのことだろう。

気になったこととしては、当時の女性はどういうふうに床に座ったか、ということがある。時代考証としては、立て膝で座るのが普通だと思うが、ドラマのなかでは、今日のような正座で座ることが多いようだ。この回では、まひろは、自分の家で書物を読むとき、歌の代作をするとき、立て膝で座っていた。私には、このような座り方の方が自然に思える。

また、歌の代作の仕事のシーンだが、絵師の家では金銭のやりとりは描かれていなかった。はたして、まひろは代作の対価として何を得ていたのだろうか。平安中期に、銭の流通はさほど広まってはいなかったと認識しているのだが、このあたりはどうなのだろうか。

盗賊が出て、検非違使も出てきていた(台詞のなかだけであるが)。ここはリアルに盗賊の跳梁跋扈した平安京になっていてもいいと思う。

太宰府を通して、高麗人がやってきているという。このあたりは、平安時代の外交・貿易の一端である。遣唐使を止めて国風文化になったというわけではない。

天皇の毒殺、とまではいかないにしても、退位をうながすためにただ薬をもるということだが、ドラマとしては面白い。権謀術数のうずまく宮廷、貴族社会というものを、これからこのドラマはどう描くことになるだろうか。

次週は、雨夜の品定めも出てくるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2024年1月14日記

BS世界のドキュメンタリー「SNSが作った“世論”#ジョニー・デップ裁判」2024-01-15

2024年1月15日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー SNSが作った“世論”#ジョニー・デップ裁判

フェミニズムも、あるいは、それへの反動としてのマスキュリニストも、ある意味では、男性、女性ということについて、あるステレオタイプを形づくって押しつけてくるということにおいては、同じように思える。といって、フェミニズムを否定するつもりはない。人間の歴史のなかで生まれた新たなものの考え方、価値観として尊重されねばならない。だが、ある種の女性のあり方、男性のあり方のイメージを形成することになっていることは確かなことだろうと思う。だからこそ、それの裏返しの反動も生まれる。

この番組の意図としては、今日のSNSのあり方と人びとの考え方である。Twitter(X)、YouTube、TikTok、といったSNSが世論を形成する大きな要因になっているということが重要である。

私は、Twitterは、二〇〇九年から使っているが、昔はのどかなものであった。二〇一一年の地震、津波の被害の時は、まだそれほど普及していなかったのだが、多くの情報があふれていた。それは、すこしでも情報を得たい、届けたいという、いわば人間の善意であった。しかし、二〇二四年の能登半島の地震の時、善意によるメッセージもある一方で、これを機会に政治的主張の場となり、また偽情報も氾濫している。かつてのような、居心地のいいネット空間のかけらも見られない。

新聞、テレビではなく、SNSが人びとの主な情報源となる時代を迎えて、あまりにも無防備すぎるという気がしてならない。だからといって、そこに公的な規制が介入すればよいというものでもない。第三者的な監視のシステムと注意喚起ぐらいしかできることはないかもしれない。

地道な努力しかないのかとも思う。自分とは異なる価値観の人にたいしての寛容さということである。ただ、この点については、右翼的な考えであるにせよ、左翼的な考えであるにせよ、両方に求められることであると私は思っている。

どのような立場にたつにせよ、正しさをふりかざして、意見のことなる相手に攻撃的になることは、私の好むところではない。

2024年1月10日記