『虎に翼』「女の知恵は後へまわる?」2024-09-22

2024年9月22日 當山日出夫

『虎に翼』「女の知恵は後へまわる?」

この週もつまらないなあ、と思いながら見ていた。しかし、世の中には、このドラマを絶賛する声が多い。思いつくままに書いてみる。

このドラマは、歴史を描かない。これは意図的なのだろう。このドラマの始めのころは、歴史を描いていた。途中から方針が変わったということなのかと思う。

はじめのころのことを思い出してみる。最初の週、寅子が女学校のとき、進路について学校の先生に相談するシーンがあって、法律を学ぶことになって、学校を出るシーンが印象的であった。このとき、階段を降りる寅子の姿を、見送る先生の姿があった。昭和の初めのころ、東京女子高等師範学校の附属の女学校である。そこの教師をしているということは、その時代にあって、トップクラスのインテリ女性といっていいだろう。その先生が、心配そうな表情で寅子のことを見ていた。ここには、世代をこえて勉強にはげむことになる女性の姿があった。学ぶ女性の歴史を感じさせる場面だった。

同級生の花江は、在学中に相手を見つけて結婚すると言っていた。これが、その当時としては普通の生き方であったと、ドラマのなかで説明があった。

また、そのころの東京の街中の様子として、女中奉公でもしているのだろうか、不安げな表情でたたずむ少女の姿があった。

ラジオや新聞などで、世の中の動きを表していた。

このドラマは、最初のころは、歴史を描こうとしていたことが、読み取れる。

しかし、戦後になると、歴史的背景や世相の描写がほとんどなくなる。せいぜい、戦後まもなくころの街角の傷痍軍人の存在ぐらいである。(ただ、この傷痍軍人が「異国の丘」をハーモニカで演奏していたが、この歌が日本で広まるのはもうちょっと後のことになる。ここは、時代考証のミスだったところである。)

東京裁判のことも、サンフランシスコ条約のことも、朝鮮戦争のことも、まったく触れずにきていた。しかし、突然、七〇年安保闘争や水俣公害問題など、映像資料を出してきたりしていた。それまでの時代の流れが描いていないので、あまりにも唐突であった。

さらには、登場人物が、老けていない。メイクや演技でも、年をとったという印象をなるべく出さないようにしている。

なぜ、歴史を消そうとしているのだろうか。

おそらくは、あつかっている問題……性的マイノリティのこととか、働く女性の諸問題とか……について、その歴史的背景を意図的にぼかしているのだろうと、推測することになる。その当時の実際の社会の人びとの意見がどんなだったか、具体的な描写は避けているとしか思えない。

しかし、思想には歴史がある。これは、何度も書いてきたことである。フェミニズムにも、性的マイノリティのことも、歴史のあることである。どのような時代のもとに、どのような人びとの活動があって、どのように社会の考え方が変わってきたのか、これは最も重要なことである。だが、このドラマは、ここの歴史の部分を意図的に描こうとしていない。

主張したいことの歴史を描かないということは、まるで、宗教的な啓示であるかのようである。ここには、疑義をはさみこむ余地がない。正しいものとして、信じなさいという姿勢のみがあることになる。

はたしてこれでいいだろうか。

思想の歴史と言ったが、言いかえれば、声を上げてきた人たちの歴史ということになる。このドラマでは、声を上げることの意味ということを言いたいと理解するのだが、しかし、実際には、歴史の中で声を上げてきた人たちのことを黙殺している。描かれるのは、登場人物……それは、寅子をはじめとして、その同級生の女性たちということになるが……のことばかりである。それを、絶対に正しいものとして主張することになっている。

歴史を描くということは、過去の誤りを描くということでもある。いきなり、今の価値観が生まれてきたわけではない。多くの人びとの試行錯誤、そして、社会の反動もあって、いろんなふうに考えながら、ようやく現在の地点にたどりついたことになる。過去の歴史のなかには、今の価値観からすると、否定されるべきものもあるだろうが、それを踏まえて、今にいたっている。

ドラマの、現在の時点では、一九七〇年代ということになるが、このころだと、女性の問題としては、性の解放ということが言われていた時代であったはずである。一条さゆりが、そのシンボルでもあった。だが、これは、今の価値観からすると、否定的に見ることになるだろう。女性の性の商品化ということで、断罪されることになるかと思う。

声を上げることの意味を語りながら、過去に声を上げてきた人たちのことを無視するドラマというのは、いったい何をいいたいことになるのだろう。短絡的な理解になるかもしれないが、このドラマを作っている人たちの主張だけが正しくて、それに賛同するものにかぎって、声を上げていい、とでも言っているようにしか考えられない。多様性といいながら、自分の気に入らない主張は、その多様性のなかにふくめない、まさに、今の社会の風潮にしたがっていることになる。

多様性というならば、それぞれの多様性の背景にある歴史をふりかえり、そして、将来の人たちが、どのような価値観をもって生きることになるのか、それを想像することでもある。過去をかえりみず、また、未来への想像もないような多様性は、人間を束縛する以外のなにものでもない、と私は思う。

だから、ドラマの主張が気に入る人たちには絶賛されるが、ことなる価値観をいだく人たちは疎外されることになる。これが、意図的に作っていることなのかどうかはわからないが、見ていると、まさに現代社会の縮図を見ることができると言っていいだろうか。

ところで、このドラマに出てこないことが他にもある。対話、熟議、情理をつくす、ということである。とにかく、このドラマでは、すぐに大声でどなる。寅子もそうだが、夫(内縁の関係だが)の航一もそうである。最高裁長官の桂場のもとに報告をあげる仕事であるはずだが、一方的に自分の意見を大声で言っただけである。まあ、どなってもいいようなものかもしれないが、このとき、なぜ、自分はそのように考えるのか、その理由を諄々と語る、というふうではなかった。

自分と異なる意見に対して、なぜ自分はそう考えるのか、逆に、相手はなぜそのように考えないのか、たちどまって考えるところにしか、生産的な対話や熟議は生まれない。

このドラマでは、自分の意見を、情理をつくして述べる、という場面がほとんどなかった。思い出せば、母親のはるが、竹もとの店内で、桂場に対して、「おだんまんなさい」と一喝したときも、そうであった。(この意味では、寅子の言動は母親譲りかもしれないと思えてくるが。)

猪爪家の家族会議もそうである。あつまって意見を述べるが、個々人バラバラに主張するだけで、そこには、熟議という雰囲気は乏しいものであった。直明の同居問題のときは、結局、多数決で花江を封じ込めたかたちになっていた。少年問題についての場合も、それぞれ意見があって、ではどうするかと、さらに思考を深めるという方向にはなっていなかった。

弁護士の仕事でも、また、裁判官の仕事でも、仲間との熟議は必要なはずである。特に、裁判官の仕事は、合議制をとっている。裁判官同士で、どのように意見をたたかわせて、最終的な結論にいたったのか、その議論の過程を、これまでのこのドラマは、描いてきていない。

思い出せば、自分の意見を情理をつくして述べるということを感じるのは、穂高先生ぐらいかもしれない。寅子は、穂高イズムと言っていたが、この肝心のところは、継承していないとしか思えない。

弁護士としても、裁判官としても、寅子は、情理をつくす、という場面がない。その判決や裁定にいたるまでの、こころのうちの葛藤ということ、そして、それをどのように相手に伝えるか、腐心するということがまったくなかったと思える。もちろん、このときには、人間の心情にうったえると同時に、法律家として筋のとおった議論ができなければならない。

明律大学の女子部の時の法廷劇で、そのシナリオが、実際にあった事件を改変したものであったと、よねが憤慨していたことがあった。このときは、そういうものかなと思って見ていたのだが、その後、ドラマのなかでいくつかの事件が登場するようになって、このときのよねの科白は、まさにドラマの作者に跳ね返ってきていると感じる。原爆裁判、尊属殺人、確かに実際の事件通りとはいかないだろうが、ドラマの作者の都合のいいように書きかえられているという印象をどうしても持ってしまう。

法律にしたがった理論的展開、ということが、戦後になってからなくなっている。戦前のエピソードでは、法律ではこうなる、という部分がかなりあった。だが、戦後になってからは、法律に従って思考するということが、まったくといっていいほど出てこない。これは、法曹ドラマを作る気がないとしかいいようがない。

登場する法律家は、特に戦後になってからそうなのだが、法律家としてのプロ意識を感じない。戦後になってからの部分で、法律家としてのプロ意識を感じさせるのは、原爆裁判で国側の代理人ぐらいしか思いつかない。あるいは、桂場にそういう雰囲気はあるものの、司法の独立というわりには、実際に法律にしたがって思考するという場面は出てきていない。航一や汐見、それから轟やよねについても、法律に従って思考するというところを感じない。逆に、よねなどは、法律はクソであるとまで言っていた。とても法律のプロとしての矜恃など感じることができない。(余計なことかと思うが、『オードリー』を見ていると、映画人としてのプロ意識、矜恃というものを強く感じる。監督のみならず、大部屋俳優、切られ役、キャメラマン、プロデューサーなど、映画にかかわる人間の仕事への誇りが感じられる。椿屋についても、その女将という仕事のプロ意識がはっきりとあった。しかし、『虎に翼』では、法曹の専門家としての矜恃、プロ意識というものが、まったく感じられない。)

簡単に司法試験に受かりすぎるような気もするが、どうだろうか。汐見香子/崔香淑も簡単に合格してしまった。涼子も合格した。明律大学で法律を学んだのは、戦前のことである。それから、かなりブランクがあって、そう簡単に合格できるものとは思えないのだが、どうなのだろう。無論、そのようなブランクがあって合格することがあってもいいのだが、それならそれなりに、猛勉強するシーンがあってもいいだろう。ドラマのなかでは、ろくに勉強もせずに簡単に合格してしまっているように見える。一九七〇年ごろの司法試験は、普通の学生でも、数年以上の浪人はあたりまえであったと思うが、どうだったろうか。

この週の最後の、寅子と桂場の場面は、かなり無理があったと思う。普通なら、家裁の寅子が、最高裁長官に直談判するようなことはありえないと思うのだが、それを、航一が鼻血を出して倒れて、そこに寅子が呼ばれた……という、非常に無理な状況を作らないといけなかったことになる。

このとき、寅子は、一周回って法律を学ぶまえの学生にもどったよう……という意味のことを言っていたが、非常に白々しい。このような科白を言うには、それまで、法律家として、いろんな仕事をしてきたからこそ言えるはずである。しかし、このドラマは、その寅子の法律にかかわる仕事を極力描かないようにしてきたとしか思えない。裁判所で、寅子は、いったいどんな仕事をしてきたのだろうか。何を考えてきたのだろうか。具体的な描写の積み重ねがないのである。ドラマの科白に重みを与えるのは、その背景にある人物描写の積み重ねである。名言を陳列してもドラマにはならない。

「はて」というのは大事だが、そのときに、その理由を説明できなければならない。

これまで、このドラマのなかで納得できる「はて」は、ドラマのはじめのころ、大学の授業をふと耳にして、女性は無能力者とされることについてであった。うちのお母さんは、お父さんより偉い、という意味の理由(になるかどうかはともかく)言っていた。それから、戦後、同じ試験を受けているにもかかわらず女性が裁判官になれないのはおかしいと言ったときである。だが、これ以外の「はて」については、納得できる理由があったろうか。ただ、「はて」と言っただけだったようにしか憶えていない。

理由の説明できない「はて」では、純度の高い正論として人にうったえるところはないと思う。まあ、純度はひくくても言うことが大切ということもあるだろうが。

その時代における「はて」を、法律のことばで語れてこそ法律のプロであると私は思う。寅子は、ついに法律のプロになることなく終わってしまうことになるのかもしれない。

その他、美佐江、美雪についても、思うところはあるが、これぐらいにしておきたい。

2024年9月21日記