「東海道“五十七次”の旅▼第二夜 京都競馬場と石清水八幡宮へ」 ― 2024-11-04
2024年11月4日 當山日出夫
ブラタモリ 東海道“五十七次”の旅▼第二夜 京都競馬場と石清水八幡宮へ
淀には中学高校のときに何回か行ったことがある。これは、学校から家に帰るとき、京阪電車で中書島で乗り換えなければならないのを、乗り過ごしてしまって次の淀の駅まで行ってしまった、ということである。実際、前回の伏見宿というと、最寄り駅は京阪の丹波橋、伏見桃山、中書島、というあたりになる。淀は、その次である。
淀競馬場は名前は知っているだけである。実際に行ったことはない。そもそも競馬には何の関心もない人間である。だが、その競馬場の中に池があって、それがかつての巨椋池の名残であるということは、始めてしった。巨椋池の名残のような部分は、かつては京阪の電車から見ることが出来たと憶えているのだが、はたしてどうだったろうか。今から半世紀ほどまえのことになる。
石清水八幡宮というと、国文学を勉強した人間がまず思い浮かべるのは、『徒然草』である。その時代にもしケーブルカーがあったなら、と思ってしまう。
八幡宮は武門の神様だから、武家からの信仰をあつめたことは当然かなと思う。
やはり、京都の南の方、伏見や淀のあたりから、宇治にかけては、京都を守るにせよ攻めるにせよ、戦略上の重要な位置をしめる。源平の昔、宇治川の合戦があり、明治になるまえに鳥羽伏見の戦いがあったというのは、偶然ではないかと思っている。
東海道五七次というのは、京都を通過せずに戦略的に重要な交通ルートを確保して、かつ、京都に対して威圧的にもなり得る、そのような意味があったのではないかと、考えることになるのだが、はたしてどうだろうか。
2024年11月4日記
ブラタモリ 東海道“五十七次”の旅▼第二夜 京都競馬場と石清水八幡宮へ
淀には中学高校のときに何回か行ったことがある。これは、学校から家に帰るとき、京阪電車で中書島で乗り換えなければならないのを、乗り過ごしてしまって次の淀の駅まで行ってしまった、ということである。実際、前回の伏見宿というと、最寄り駅は京阪の丹波橋、伏見桃山、中書島、というあたりになる。淀は、その次である。
淀競馬場は名前は知っているだけである。実際に行ったことはない。そもそも競馬には何の関心もない人間である。だが、その競馬場の中に池があって、それがかつての巨椋池の名残であるということは、始めてしった。巨椋池の名残のような部分は、かつては京阪の電車から見ることが出来たと憶えているのだが、はたしてどうだったろうか。今から半世紀ほどまえのことになる。
石清水八幡宮というと、国文学を勉強した人間がまず思い浮かべるのは、『徒然草』である。その時代にもしケーブルカーがあったなら、と思ってしまう。
八幡宮は武門の神様だから、武家からの信仰をあつめたことは当然かなと思う。
やはり、京都の南の方、伏見や淀のあたりから、宇治にかけては、京都を守るにせよ攻めるにせよ、戦略上の重要な位置をしめる。源平の昔、宇治川の合戦があり、明治になるまえに鳥羽伏見の戦いがあったというのは、偶然ではないかと思っている。
東海道五七次というのは、京都を通過せずに戦略的に重要な交通ルートを確保して、かつ、京都に対して威圧的にもなり得る、そのような意味があったのではないかと、考えることになるのだが、はたしてどうだろうか。
2024年11月4日記
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