「安楽死という選択がある国で」 ― 2025-10-11
2025年10月11日 當山日出夫
「安楽死という選択がある国で」
録画しておいたのをようやく見た。
安楽死について思うことは、以前に書いたこととそう大きく変わるわけではない。
再掲載しておく。
===================
やまもも書斎記 2025年10月4日
NHKスペシャル「未完のバトン・最終回 “最期”の希望 長寿社会の果てに」
2025年10月4日 當山日出夫
NHKスペシャル 未完のバトン・最終回 “最期”の希望 長寿社会の果てに
見ながら思ったことを、思いつくままに書いておく。
安楽死を認めるかどうかということをふくめて、こういう種類の問い……人間の死生観にかかわり、歴史と文化の問題でもある……に、正解があって、人間は理性的に考えることによって、最終的には、その正解に到達しうるものである、また、その正解は、人類に共通する普遍的なものである、ということがあるとすると、これは、あまりに傲慢な思想というべきではないだろうか。
また、これは、医学ということだけの問題ではない。だが、少なくとも今の日本だと、こういう問題を、医学の問題に限定的に考えすぎてはいないか。法律の問題であることは無論のこと、その根底にある、社会としてのもろもろの文化や歴史があってのことである。また、個人によって、価値観は異なる。
個人によって価値観が異なり、また、医師によっても価値観が異なる。この問題について、主観的ではない客観的な正しさの基準というものがあるはずだと設定して考えることは、はたして妥当だろうか。主観的な判断だから揺れうごくことがある。しかし、それは、まちがっているということでは、必ずしもない。そのときの判断に、運命をまかせるということでは、なぜいけないのだろうか。
その当事者、まず病気の本人であり、担当の医師であり、また、その周囲の人びと(家族など)が、納得するポイントがあれば、それでいいのかもしれないし、それが、社会全体として許容できるものであれば、それはその時点の判断として尊重されていいだろう。
時代が変われば、また、考え方も変わってくる……昔の人びとの死生観が、今の人間に理解できないところがあるとしても、それはしかたがないことだし、また、現代の死生観が、遠い未来の人間から見れば、理解できないものであったとしても、それはそういうものである。
このような問題を考えるとき、普遍的な唯一絶対の正しさがあるのであって、それ以外は絶対に認められない、と硬直した発想になることが、一番の問題だろう。
番組の中では使っていなかったことばが、多様性、である。価値観の多様性というならば、それには、死生観の多様性もふくむべきことになる。日本に日本の、欧米には欧米の(細かく見れば、カトリックなりの、プロテスタントなりの)、イスラムにはまたそれなりの、その他の文化には、それぞれの、多様な死生観があっていいし、こういうことこそ、価値観の多様性ということで、まず認められなければならないことのはずである。
自分らしくある、希望をもって……ということが、どうも、あまり深く考えずに一人歩きしている。人間というものは、そんなに自由にものを考えることができるものではない。人間の自由意志とは何かという問題でもある。また、希望がなければ生きていてはいけないのか、では、希望とはなんであるのか、あまり考えることなく、使っているようである。
人間の尊厳と、自由意志と、社会の秩序、これらを総合して考えるべきことだろう。
番組の中で、神とか、宗教とか、文化とか、こういうことにまったくふれていなかったのは、意図的にそう作ったからだと思うが、この先の議論は、このようなことについて、徹底的に深く考えざるをえなくなるはずである。
QOLが尊重されるべきだということにはなるのだが、では、何が価値のあることなのか、その本人以外が判断することが出来るのか。その判断は、個人の生いたちから始まって、文化や歴史の中で形成されてきた価値観ということになるとすれば、はたして、人間に普遍的なものとして想定しうるものなのだろうか。
仮に、死を選ぶ権利が人間にはあるとするとして、その判断力がすべての人に等しくそなわっていると考えるべきだろうか。(強いていえばということになるが)精神的に問題のある人であっても、同じように尊重されるべきということになるのだろうか。生きる権利は、すべての人に同じようにということは考えやすいことだが、死ぬ権利がすべての人に同じように、と考えることは可能だろうか。もし、これが等しくないとするならば、それは、新たな差別を生むことになるだろう。
自分のことは自分で決める、自己決定の尊重ということはたしかなのだが、しかし、その結果は自分でおわなければならない。いわゆる自己責任論になる。これはこれで、かなり負担でもある。人間が生きていくなかで、また、最期のときぐらいは、神様のサイコロに身を任せるということがあってもいいのかとも思う。もともと、その人が人間として生まれてきたこと自体が、神様のサイコロで決まったことのようなものかもしれないのである。
その他、いろいろとあるが、これぐらいにしておきたい。
2025年9月30日記
===================
カナダの場合、精神疾患がある場合には、安楽死は認められない、ということである。これは、本人の理性的判断と自由意志の尊重ということから、こうなっているのだと思う。これを言いかえるならば、理性的にまともな判断能力のない人間は、安楽死を選ぶ権利がない、ということになる。あからさまに書くならば、認知症であったり、精神に障害があったり、という場合、安楽死は認めないことになる。(私は、このように理解する。)
生きる権利がすべての人間に平等であるべきなら、同じように、死ぬ権利も平等でなければならない、とはならないことになる。ここの非対称性を、どう考えるかということが、大きな問題になるだろう。
番組の作り方として、社会保障や介護、医療のサービスのコストの問題があることをいいたいことは分かる。その負担……個人の負担であれ、また、社会全体としての負担であれ……コストのかかる障害者は、安楽死を選ぶ、社会的圧力が加わることになることの問題点、ということになる。
これは、軍隊が志願制であっても、実際に志願する兵士の多くが、社会的階級としては下層の階級にかたよることと、問題の性質としては似ている。個人の自由意志を尊重するということでありながら、実際の社会の中での運用は、社会階層の傾斜がある。
露骨にいえば、お金持ちは兵隊に志願したりしない。障害があっても、介護サービスのためにお金を使えるならば、安楽死を選ぶことはない(あるいは、少ない)ということになる。
こういう問題があることは確かだとしても、一方で、安楽死という制度があることで、無用とも思える終末期医療を回避したいという、患者本人の希望があることもたしかである。この選択肢があるということは、むしろ、QOLを自分自身の意志によって高めることにつながる。
こういう問題は、100年前なら存在しなかった。医療や介護について、技術や制度の充実がある程度達成できたからこそ、おこってきた問題ということになる。おそらく、100年前だったら、ALSなどであれば、生きながらえることがそもそもできなかった。この意味では、現代のサイエンスとテクノロジーの生み出した、あらたな生命倫理であることになる。脳死が人の死であるかどうか、というようなことや、凍結保存した精子や卵子による子どもの誕生、などの問題は、まさに現代の問題ということになる。
新しい問題であるとはいえ、考える根底には、その国の文化や歴史がふかく関係する。一律に、こうであるべきだ、ということは難しい。医学という分野は、基本的にすべての人間は同じであるということを大前提にしている。日本人でもカナダ人でも、生物としての人間は同じである。同じ病気には同じ薬が効く。だが、そこで生きている人間の生命や人生に対する考え方は、決して同じではない。いや、違うからこそ、文化ということの意味がある。これを、医学という特定の領域だけのこととして議論することは、不可能だろう。
きわめて新しい問題なのだが、それを考える文化的基盤(倫理、宗教、死生観など)は、数百年以上、千年以上の古いことから考えることになる、まず、このことを認識しておく必要がある。
日本においても、議論することは、決して避けてとおるべきではないが、すくなくとも、生命倫理についての価値観の多様性を認める、ということは必要なことであると、私は考える。
一般的にいうとならば、近代的な個人の自由意志と生命の尊重という近代の観念(それは日本が近代の中で構築してきたものだが)を、どこまで守れるか、あるいは逆に、つきくずせるか、という問題なのかもしれない。
2025年10月9日記
「安楽死という選択がある国で」
録画しておいたのをようやく見た。
安楽死について思うことは、以前に書いたこととそう大きく変わるわけではない。
再掲載しておく。
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やまもも書斎記 2025年10月4日
NHKスペシャル「未完のバトン・最終回 “最期”の希望 長寿社会の果てに」
2025年10月4日 當山日出夫
NHKスペシャル 未完のバトン・最終回 “最期”の希望 長寿社会の果てに
見ながら思ったことを、思いつくままに書いておく。
安楽死を認めるかどうかということをふくめて、こういう種類の問い……人間の死生観にかかわり、歴史と文化の問題でもある……に、正解があって、人間は理性的に考えることによって、最終的には、その正解に到達しうるものである、また、その正解は、人類に共通する普遍的なものである、ということがあるとすると、これは、あまりに傲慢な思想というべきではないだろうか。
また、これは、医学ということだけの問題ではない。だが、少なくとも今の日本だと、こういう問題を、医学の問題に限定的に考えすぎてはいないか。法律の問題であることは無論のこと、その根底にある、社会としてのもろもろの文化や歴史があってのことである。また、個人によって、価値観は異なる。
個人によって価値観が異なり、また、医師によっても価値観が異なる。この問題について、主観的ではない客観的な正しさの基準というものがあるはずだと設定して考えることは、はたして妥当だろうか。主観的な判断だから揺れうごくことがある。しかし、それは、まちがっているということでは、必ずしもない。そのときの判断に、運命をまかせるということでは、なぜいけないのだろうか。
その当事者、まず病気の本人であり、担当の医師であり、また、その周囲の人びと(家族など)が、納得するポイントがあれば、それでいいのかもしれないし、それが、社会全体として許容できるものであれば、それはその時点の判断として尊重されていいだろう。
時代が変われば、また、考え方も変わってくる……昔の人びとの死生観が、今の人間に理解できないところがあるとしても、それはしかたがないことだし、また、現代の死生観が、遠い未来の人間から見れば、理解できないものであったとしても、それはそういうものである。
このような問題を考えるとき、普遍的な唯一絶対の正しさがあるのであって、それ以外は絶対に認められない、と硬直した発想になることが、一番の問題だろう。
番組の中では使っていなかったことばが、多様性、である。価値観の多様性というならば、それには、死生観の多様性もふくむべきことになる。日本に日本の、欧米には欧米の(細かく見れば、カトリックなりの、プロテスタントなりの)、イスラムにはまたそれなりの、その他の文化には、それぞれの、多様な死生観があっていいし、こういうことこそ、価値観の多様性ということで、まず認められなければならないことのはずである。
自分らしくある、希望をもって……ということが、どうも、あまり深く考えずに一人歩きしている。人間というものは、そんなに自由にものを考えることができるものではない。人間の自由意志とは何かという問題でもある。また、希望がなければ生きていてはいけないのか、では、希望とはなんであるのか、あまり考えることなく、使っているようである。
人間の尊厳と、自由意志と、社会の秩序、これらを総合して考えるべきことだろう。
番組の中で、神とか、宗教とか、文化とか、こういうことにまったくふれていなかったのは、意図的にそう作ったからだと思うが、この先の議論は、このようなことについて、徹底的に深く考えざるをえなくなるはずである。
QOLが尊重されるべきだということにはなるのだが、では、何が価値のあることなのか、その本人以外が判断することが出来るのか。その判断は、個人の生いたちから始まって、文化や歴史の中で形成されてきた価値観ということになるとすれば、はたして、人間に普遍的なものとして想定しうるものなのだろうか。
仮に、死を選ぶ権利が人間にはあるとするとして、その判断力がすべての人に等しくそなわっていると考えるべきだろうか。(強いていえばということになるが)精神的に問題のある人であっても、同じように尊重されるべきということになるのだろうか。生きる権利は、すべての人に同じようにということは考えやすいことだが、死ぬ権利がすべての人に同じように、と考えることは可能だろうか。もし、これが等しくないとするならば、それは、新たな差別を生むことになるだろう。
自分のことは自分で決める、自己決定の尊重ということはたしかなのだが、しかし、その結果は自分でおわなければならない。いわゆる自己責任論になる。これはこれで、かなり負担でもある。人間が生きていくなかで、また、最期のときぐらいは、神様のサイコロに身を任せるということがあってもいいのかとも思う。もともと、その人が人間として生まれてきたこと自体が、神様のサイコロで決まったことのようなものかもしれないのである。
その他、いろいろとあるが、これぐらいにしておきたい。
2025年9月30日記
===================
カナダの場合、精神疾患がある場合には、安楽死は認められない、ということである。これは、本人の理性的判断と自由意志の尊重ということから、こうなっているのだと思う。これを言いかえるならば、理性的にまともな判断能力のない人間は、安楽死を選ぶ権利がない、ということになる。あからさまに書くならば、認知症であったり、精神に障害があったり、という場合、安楽死は認めないことになる。(私は、このように理解する。)
生きる権利がすべての人間に平等であるべきなら、同じように、死ぬ権利も平等でなければならない、とはならないことになる。ここの非対称性を、どう考えるかということが、大きな問題になるだろう。
番組の作り方として、社会保障や介護、医療のサービスのコストの問題があることをいいたいことは分かる。その負担……個人の負担であれ、また、社会全体としての負担であれ……コストのかかる障害者は、安楽死を選ぶ、社会的圧力が加わることになることの問題点、ということになる。
これは、軍隊が志願制であっても、実際に志願する兵士の多くが、社会的階級としては下層の階級にかたよることと、問題の性質としては似ている。個人の自由意志を尊重するということでありながら、実際の社会の中での運用は、社会階層の傾斜がある。
露骨にいえば、お金持ちは兵隊に志願したりしない。障害があっても、介護サービスのためにお金を使えるならば、安楽死を選ぶことはない(あるいは、少ない)ということになる。
こういう問題があることは確かだとしても、一方で、安楽死という制度があることで、無用とも思える終末期医療を回避したいという、患者本人の希望があることもたしかである。この選択肢があるということは、むしろ、QOLを自分自身の意志によって高めることにつながる。
こういう問題は、100年前なら存在しなかった。医療や介護について、技術や制度の充実がある程度達成できたからこそ、おこってきた問題ということになる。おそらく、100年前だったら、ALSなどであれば、生きながらえることがそもそもできなかった。この意味では、現代のサイエンスとテクノロジーの生み出した、あらたな生命倫理であることになる。脳死が人の死であるかどうか、というようなことや、凍結保存した精子や卵子による子どもの誕生、などの問題は、まさに現代の問題ということになる。
新しい問題であるとはいえ、考える根底には、その国の文化や歴史がふかく関係する。一律に、こうであるべきだ、ということは難しい。医学という分野は、基本的にすべての人間は同じであるということを大前提にしている。日本人でもカナダ人でも、生物としての人間は同じである。同じ病気には同じ薬が効く。だが、そこで生きている人間の生命や人生に対する考え方は、決して同じではない。いや、違うからこそ、文化ということの意味がある。これを、医学という特定の領域だけのこととして議論することは、不可能だろう。
きわめて新しい問題なのだが、それを考える文化的基盤(倫理、宗教、死生観など)は、数百年以上、千年以上の古いことから考えることになる、まず、このことを認識しておく必要がある。
日本においても、議論することは、決して避けてとおるべきではないが、すくなくとも、生命倫理についての価値観の多様性を認める、ということは必要なことであると、私は考える。
一般的にいうとならば、近代的な個人の自由意志と生命の尊重という近代の観念(それは日本が近代の中で構築してきたものだが)を、どこまで守れるか、あるいは逆に、つきくずせるか、という問題なのかもしれない。
2025年10月9日記
3か月でマスターする古代文明「(2)メソポタミア 都市は“最終手段”だった?」 ― 2025-10-11
2025年10月11日 當山日出夫
3か月でマスターする古代文明 (2)メソポタミア 都市は“最終手段”だった?
よっぽど現代文明、近代の都市文明、というのが嫌いなんだろうなあ、ということが伝わってくる。
そもそも、古代の都市がどうやってできたのかという学問的な議論と、現代の世界の都市(さらにはその基盤となっている国家)や産業がどのようなものであるのか、どんな問題点をかかえているのか、という議論は、次元のことなる別のことであると、私には思える。現代社会の都市のことを議論するなら、おおざっぱに考えても、産業革命以降の近代的な都市のあり方を論ずることになる。それと、はるか古代の、農耕や牧畜などを基盤とした都市とを、そのまま比較しても、あまり意味はない。その古代の都市の、より古い成立過程が分かったからといって、それが、現代の都市の問題とどうつながるのか、そのポイントについて納得のいく理由がなければならない。ただ、より古いものが本質的である、といういことではなかろう。
証拠となる遺跡や遺物、特に人骨などが出土しているので、ごまかしようがないことになるが、古代の人間は、そんなに平和に仲よく共存してきたというわけではない。かなり大規模な殺戮ということもあった。その原因が何であったかは、現在ではわからないことだろうが。(このことも、DNA解析のデータが蓄積されていけば、どんな人びとが、どんな人びとを、殺してきたのか/仲よくしてきたのか、という歴史がある程度描けるようになるだろう。)
農耕がはじまり、大規模な灌漑が必要になる。人が集まり、集団で働き、集まる。都市が生まれることによって、権威、権力というものが出来てきて、それが、社会の階層化につながり、貧富の差が生まれる。このあたりの説明は、非常にありきたりである。見ていて、このあたりの解説は、がっかりしたところである。ありきたりの説明に結果的になるとしても、なぜそうなるのかを緻密に考えることがその背景にあってこそ、学問である。
人類の歴史の最大の謎の一つは、言語の成立と、宗教の成立、集団の意識の成立、というあたりのことになるはずである。ここのところにまったくふれないというのは、どうかなと思う。謎であるならば謎であって、だが、その大きなステップが歴史上あったことは確かであり……ということぐらいはふまえた議論でないと、アカデミックとはいえないはずである。
古代文明について語ることで、現代文明を批判するというのは、一つのものの考え方であるが、文明と同時に、文化とは人間にとってどういうものなのか、深く考えるところにいざなう、こういう方向で考えることがいいのかと、私は思う。だからといって、観念的な汎歴史的な国家論を論じるべきとは思わないが。
なお、私の関心でもっとも興味深かったのは、古代のメソポタミアの彫刻(レリーフ)で、男性が描かれていて裸だったことである。女性は、いないようだった。これを、文化史的にどう解釈することになるのだろか、ということである。
現代の文明を、モノカルチャーといっていいかどうか。たしかに、食肉、穀物などは、単一化がすすんではいる。だが、これは、近代と前近代という流れの中でも考えるべきことだし、さらには、世界の多様な民族の歴史と食文化、という視点も必要だろう。近代の西欧の生活スタイルが世界的に一般化していることはたしかだろうが、ここのところの議論は慎重であるべきと思う。(とても、民博の館長が軽々に言っていいこととは思えない。)
2025年10月10日記
3か月でマスターする古代文明 (2)メソポタミア 都市は“最終手段”だった?
よっぽど現代文明、近代の都市文明、というのが嫌いなんだろうなあ、ということが伝わってくる。
そもそも、古代の都市がどうやってできたのかという学問的な議論と、現代の世界の都市(さらにはその基盤となっている国家)や産業がどのようなものであるのか、どんな問題点をかかえているのか、という議論は、次元のことなる別のことであると、私には思える。現代社会の都市のことを議論するなら、おおざっぱに考えても、産業革命以降の近代的な都市のあり方を論ずることになる。それと、はるか古代の、農耕や牧畜などを基盤とした都市とを、そのまま比較しても、あまり意味はない。その古代の都市の、より古い成立過程が分かったからといって、それが、現代の都市の問題とどうつながるのか、そのポイントについて納得のいく理由がなければならない。ただ、より古いものが本質的である、といういことではなかろう。
証拠となる遺跡や遺物、特に人骨などが出土しているので、ごまかしようがないことになるが、古代の人間は、そんなに平和に仲よく共存してきたというわけではない。かなり大規模な殺戮ということもあった。その原因が何であったかは、現在ではわからないことだろうが。(このことも、DNA解析のデータが蓄積されていけば、どんな人びとが、どんな人びとを、殺してきたのか/仲よくしてきたのか、という歴史がある程度描けるようになるだろう。)
農耕がはじまり、大規模な灌漑が必要になる。人が集まり、集団で働き、集まる。都市が生まれることによって、権威、権力というものが出来てきて、それが、社会の階層化につながり、貧富の差が生まれる。このあたりの説明は、非常にありきたりである。見ていて、このあたりの解説は、がっかりしたところである。ありきたりの説明に結果的になるとしても、なぜそうなるのかを緻密に考えることがその背景にあってこそ、学問である。
人類の歴史の最大の謎の一つは、言語の成立と、宗教の成立、集団の意識の成立、というあたりのことになるはずである。ここのところにまったくふれないというのは、どうかなと思う。謎であるならば謎であって、だが、その大きなステップが歴史上あったことは確かであり……ということぐらいはふまえた議論でないと、アカデミックとはいえないはずである。
古代文明について語ることで、現代文明を批判するというのは、一つのものの考え方であるが、文明と同時に、文化とは人間にとってどういうものなのか、深く考えるところにいざなう、こういう方向で考えることがいいのかと、私は思う。だからといって、観念的な汎歴史的な国家論を論じるべきとは思わないが。
なお、私の関心でもっとも興味深かったのは、古代のメソポタミアの彫刻(レリーフ)で、男性が描かれていて裸だったことである。女性は、いないようだった。これを、文化史的にどう解釈することになるのだろか、ということである。
現代の文明を、モノカルチャーといっていいかどうか。たしかに、食肉、穀物などは、単一化がすすんではいる。だが、これは、近代と前近代という流れの中でも考えるべきことだし、さらには、世界の多様な民族の歴史と食文化、という視点も必要だろう。近代の西欧の生活スタイルが世界的に一般化していることはたしかだろうが、ここのところの議論は慎重であるべきと思う。(とても、民博の館長が軽々に言っていいこととは思えない。)
2025年10月10日記
100分de名著「ブラム・ストーカー“ドラキュラ” (1)「ドラキュラ」の誕生」 ― 2025-10-11
2025年10月11日 當山日出夫
100分de名著 ブラム・ストーカー“ドラキュラ” (1)「ドラキュラ」の誕生
『ドラキュラ』は読んだことがないのだが、第一回を見て思うこととしては、文学を語るにしては、随分と強引だな、ということである。
作者が、アングロ・アイリッシュ、つまり、イギリス系でアイルランドの住人、ということは、たしかにそうなのだろうが、だからといって、それをすぐにアイデンティティということで言ってしまうのは、文学を語るときには、あまりにも短絡的である。
アイデンティティということばは、一定年齢以下の人にとっては、ごく普通に使うことばであり、日常的な用語になっている。しかし、このことばが広く使われ始めたのは、日本では、1970年代以降のことである。その時代の、最先端の社会心理学用語だったといっていいだろうか。「現代のエスプリ」でもアイデンティティという特集があったぐらいである。それぐらい、新規性の感じられることばであり、概念だった。
とても便利な概念なので、よく使う。だからこそ、学問的な用語として使う場合には、かなり注意すべきことである。アイデンティティということばをつかえば、どんな人間にでも、なにがしかの論点を見つけ出すことができる。決して、マイノリティだけに使うことのできることばではなくなっている。
性的マイノリティだから、こうだっただろうということも、安易に使いすぎる。~~である人は、~~だろう、~~であるべきだ、~~ではないはずだ、などと思うことは、これこそまさしく差別と偏見の温床である。~~には、人間の属性のいろんなことが入りうる。
番組の始めで、ネガティヴ・ケイパビリティについて言っているのだから、こういうところでは、拙速な断定的な言い方や憶測は極力避けるべきである。
それから、英語帝国主義を言うのに、19世紀の大英帝国の時代のことと、今のアメリカのトランプ大統領のことを、ならべて語るのは、あまりにも乱暴である。19世紀のイギリスの小説だから英語になっているのであって、これが、ロシアの小説だったらフランス語として出てきていてもおかしくない。それと現代の、世界の中での英語のことは、また、次元の異なる問題である。
『ドラキュラ』の時代のリンガフランカとしての英語、ということをいいたいのならば、その時代のヨーロッパの政治的文化的な状況をまずは説明しておかなければならない。
演劇にかかわっていたから、視覚的な描写にすぐれている……こういうことは、文学研究者が軽々に言っていいことではない。これで文学研究者と名乗れるとするならば、あまりにも幼稚すぎる。
問題意識が先走りすぎていて、文学とか言語とかについて、基本的なことから考えなおして、もうすこし緻密な議論がいろいろとあることをふまえて、語るべきだっただろう。この番組だからといって、一般向けに分かりやすく語ることと、雑に語ることは、同じではない。
2025年10月8日記
100分de名著 ブラム・ストーカー“ドラキュラ” (1)「ドラキュラ」の誕生
『ドラキュラ』は読んだことがないのだが、第一回を見て思うこととしては、文学を語るにしては、随分と強引だな、ということである。
作者が、アングロ・アイリッシュ、つまり、イギリス系でアイルランドの住人、ということは、たしかにそうなのだろうが、だからといって、それをすぐにアイデンティティということで言ってしまうのは、文学を語るときには、あまりにも短絡的である。
アイデンティティということばは、一定年齢以下の人にとっては、ごく普通に使うことばであり、日常的な用語になっている。しかし、このことばが広く使われ始めたのは、日本では、1970年代以降のことである。その時代の、最先端の社会心理学用語だったといっていいだろうか。「現代のエスプリ」でもアイデンティティという特集があったぐらいである。それぐらい、新規性の感じられることばであり、概念だった。
とても便利な概念なので、よく使う。だからこそ、学問的な用語として使う場合には、かなり注意すべきことである。アイデンティティということばをつかえば、どんな人間にでも、なにがしかの論点を見つけ出すことができる。決して、マイノリティだけに使うことのできることばではなくなっている。
性的マイノリティだから、こうだっただろうということも、安易に使いすぎる。~~である人は、~~だろう、~~であるべきだ、~~ではないはずだ、などと思うことは、これこそまさしく差別と偏見の温床である。~~には、人間の属性のいろんなことが入りうる。
番組の始めで、ネガティヴ・ケイパビリティについて言っているのだから、こういうところでは、拙速な断定的な言い方や憶測は極力避けるべきである。
それから、英語帝国主義を言うのに、19世紀の大英帝国の時代のことと、今のアメリカのトランプ大統領のことを、ならべて語るのは、あまりにも乱暴である。19世紀のイギリスの小説だから英語になっているのであって、これが、ロシアの小説だったらフランス語として出てきていてもおかしくない。それと現代の、世界の中での英語のことは、また、次元の異なる問題である。
『ドラキュラ』の時代のリンガフランカとしての英語、ということをいいたいのならば、その時代のヨーロッパの政治的文化的な状況をまずは説明しておかなければならない。
演劇にかかわっていたから、視覚的な描写にすぐれている……こういうことは、文学研究者が軽々に言っていいことではない。これで文学研究者と名乗れるとするならば、あまりにも幼稚すぎる。
問題意識が先走りすぎていて、文学とか言語とかについて、基本的なことから考えなおして、もうすこし緻密な議論がいろいろとあることをふまえて、語るべきだっただろう。この番組だからといって、一般向けに分かりやすく語ることと、雑に語ることは、同じではない。
2025年10月8日記
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