「安楽死という選択がある国で」 ― 2025-10-11
2025年10月11日 當山日出夫
「安楽死という選択がある国で」
録画しておいたのをようやく見た。
安楽死について思うことは、以前に書いたこととそう大きく変わるわけではない。
再掲載しておく。
===================
やまもも書斎記 2025年10月4日
NHKスペシャル「未完のバトン・最終回 “最期”の希望 長寿社会の果てに」
2025年10月4日 當山日出夫
NHKスペシャル 未完のバトン・最終回 “最期”の希望 長寿社会の果てに
見ながら思ったことを、思いつくままに書いておく。
安楽死を認めるかどうかということをふくめて、こういう種類の問い……人間の死生観にかかわり、歴史と文化の問題でもある……に、正解があって、人間は理性的に考えることによって、最終的には、その正解に到達しうるものである、また、その正解は、人類に共通する普遍的なものである、ということがあるとすると、これは、あまりに傲慢な思想というべきではないだろうか。
また、これは、医学ということだけの問題ではない。だが、少なくとも今の日本だと、こういう問題を、医学の問題に限定的に考えすぎてはいないか。法律の問題であることは無論のこと、その根底にある、社会としてのもろもろの文化や歴史があってのことである。また、個人によって、価値観は異なる。
個人によって価値観が異なり、また、医師によっても価値観が異なる。この問題について、主観的ではない客観的な正しさの基準というものがあるはずだと設定して考えることは、はたして妥当だろうか。主観的な判断だから揺れうごくことがある。しかし、それは、まちがっているということでは、必ずしもない。そのときの判断に、運命をまかせるということでは、なぜいけないのだろうか。
その当事者、まず病気の本人であり、担当の医師であり、また、その周囲の人びと(家族など)が、納得するポイントがあれば、それでいいのかもしれないし、それが、社会全体として許容できるものであれば、それはその時点の判断として尊重されていいだろう。
時代が変われば、また、考え方も変わってくる……昔の人びとの死生観が、今の人間に理解できないところがあるとしても、それはしかたがないことだし、また、現代の死生観が、遠い未来の人間から見れば、理解できないものであったとしても、それはそういうものである。
このような問題を考えるとき、普遍的な唯一絶対の正しさがあるのであって、それ以外は絶対に認められない、と硬直した発想になることが、一番の問題だろう。
番組の中では使っていなかったことばが、多様性、である。価値観の多様性というならば、それには、死生観の多様性もふくむべきことになる。日本に日本の、欧米には欧米の(細かく見れば、カトリックなりの、プロテスタントなりの)、イスラムにはまたそれなりの、その他の文化には、それぞれの、多様な死生観があっていいし、こういうことこそ、価値観の多様性ということで、まず認められなければならないことのはずである。
自分らしくある、希望をもって……ということが、どうも、あまり深く考えずに一人歩きしている。人間というものは、そんなに自由にものを考えることができるものではない。人間の自由意志とは何かという問題でもある。また、希望がなければ生きていてはいけないのか、では、希望とはなんであるのか、あまり考えることなく、使っているようである。
人間の尊厳と、自由意志と、社会の秩序、これらを総合して考えるべきことだろう。
番組の中で、神とか、宗教とか、文化とか、こういうことにまったくふれていなかったのは、意図的にそう作ったからだと思うが、この先の議論は、このようなことについて、徹底的に深く考えざるをえなくなるはずである。
QOLが尊重されるべきだということにはなるのだが、では、何が価値のあることなのか、その本人以外が判断することが出来るのか。その判断は、個人の生いたちから始まって、文化や歴史の中で形成されてきた価値観ということになるとすれば、はたして、人間に普遍的なものとして想定しうるものなのだろうか。
仮に、死を選ぶ権利が人間にはあるとするとして、その判断力がすべての人に等しくそなわっていると考えるべきだろうか。(強いていえばということになるが)精神的に問題のある人であっても、同じように尊重されるべきということになるのだろうか。生きる権利は、すべての人に同じようにということは考えやすいことだが、死ぬ権利がすべての人に同じように、と考えることは可能だろうか。もし、これが等しくないとするならば、それは、新たな差別を生むことになるだろう。
自分のことは自分で決める、自己決定の尊重ということはたしかなのだが、しかし、その結果は自分でおわなければならない。いわゆる自己責任論になる。これはこれで、かなり負担でもある。人間が生きていくなかで、また、最期のときぐらいは、神様のサイコロに身を任せるということがあってもいいのかとも思う。もともと、その人が人間として生まれてきたこと自体が、神様のサイコロで決まったことのようなものかもしれないのである。
その他、いろいろとあるが、これぐらいにしておきたい。
2025年9月30日記
===================
カナダの場合、精神疾患がある場合には、安楽死は認められない、ということである。これは、本人の理性的判断と自由意志の尊重ということから、こうなっているのだと思う。これを言いかえるならば、理性的にまともな判断能力のない人間は、安楽死を選ぶ権利がない、ということになる。あからさまに書くならば、認知症であったり、精神に障害があったり、という場合、安楽死は認めないことになる。(私は、このように理解する。)
生きる権利がすべての人間に平等であるべきなら、同じように、死ぬ権利も平等でなければならない、とはならないことになる。ここの非対称性を、どう考えるかということが、大きな問題になるだろう。
番組の作り方として、社会保障や介護、医療のサービスのコストの問題があることをいいたいことは分かる。その負担……個人の負担であれ、また、社会全体としての負担であれ……コストのかかる障害者は、安楽死を選ぶ、社会的圧力が加わることになることの問題点、ということになる。
これは、軍隊が志願制であっても、実際に志願する兵士の多くが、社会的階級としては下層の階級にかたよることと、問題の性質としては似ている。個人の自由意志を尊重するということでありながら、実際の社会の中での運用は、社会階層の傾斜がある。
露骨にいえば、お金持ちは兵隊に志願したりしない。障害があっても、介護サービスのためにお金を使えるならば、安楽死を選ぶことはない(あるいは、少ない)ということになる。
こういう問題があることは確かだとしても、一方で、安楽死という制度があることで、無用とも思える終末期医療を回避したいという、患者本人の希望があることもたしかである。この選択肢があるということは、むしろ、QOLを自分自身の意志によって高めることにつながる。
こういう問題は、100年前なら存在しなかった。医療や介護について、技術や制度の充実がある程度達成できたからこそ、おこってきた問題ということになる。おそらく、100年前だったら、ALSなどであれば、生きながらえることがそもそもできなかった。この意味では、現代のサイエンスとテクノロジーの生み出した、あらたな生命倫理であることになる。脳死が人の死であるかどうか、というようなことや、凍結保存した精子や卵子による子どもの誕生、などの問題は、まさに現代の問題ということになる。
新しい問題であるとはいえ、考える根底には、その国の文化や歴史がふかく関係する。一律に、こうであるべきだ、ということは難しい。医学という分野は、基本的にすべての人間は同じであるということを大前提にしている。日本人でもカナダ人でも、生物としての人間は同じである。同じ病気には同じ薬が効く。だが、そこで生きている人間の生命や人生に対する考え方は、決して同じではない。いや、違うからこそ、文化ということの意味がある。これを、医学という特定の領域だけのこととして議論することは、不可能だろう。
きわめて新しい問題なのだが、それを考える文化的基盤(倫理、宗教、死生観など)は、数百年以上、千年以上の古いことから考えることになる、まず、このことを認識しておく必要がある。
日本においても、議論することは、決して避けてとおるべきではないが、すくなくとも、生命倫理についての価値観の多様性を認める、ということは必要なことであると、私は考える。
一般的にいうとならば、近代的な個人の自由意志と生命の尊重という近代の観念(それは日本が近代の中で構築してきたものだが)を、どこまで守れるか、あるいは逆に、つきくずせるか、という問題なのかもしれない。
2025年10月9日記
「安楽死という選択がある国で」
録画しておいたのをようやく見た。
安楽死について思うことは、以前に書いたこととそう大きく変わるわけではない。
再掲載しておく。
===================
やまもも書斎記 2025年10月4日
NHKスペシャル「未完のバトン・最終回 “最期”の希望 長寿社会の果てに」
2025年10月4日 當山日出夫
NHKスペシャル 未完のバトン・最終回 “最期”の希望 長寿社会の果てに
見ながら思ったことを、思いつくままに書いておく。
安楽死を認めるかどうかということをふくめて、こういう種類の問い……人間の死生観にかかわり、歴史と文化の問題でもある……に、正解があって、人間は理性的に考えることによって、最終的には、その正解に到達しうるものである、また、その正解は、人類に共通する普遍的なものである、ということがあるとすると、これは、あまりに傲慢な思想というべきではないだろうか。
また、これは、医学ということだけの問題ではない。だが、少なくとも今の日本だと、こういう問題を、医学の問題に限定的に考えすぎてはいないか。法律の問題であることは無論のこと、その根底にある、社会としてのもろもろの文化や歴史があってのことである。また、個人によって、価値観は異なる。
個人によって価値観が異なり、また、医師によっても価値観が異なる。この問題について、主観的ではない客観的な正しさの基準というものがあるはずだと設定して考えることは、はたして妥当だろうか。主観的な判断だから揺れうごくことがある。しかし、それは、まちがっているということでは、必ずしもない。そのときの判断に、運命をまかせるということでは、なぜいけないのだろうか。
その当事者、まず病気の本人であり、担当の医師であり、また、その周囲の人びと(家族など)が、納得するポイントがあれば、それでいいのかもしれないし、それが、社会全体として許容できるものであれば、それはその時点の判断として尊重されていいだろう。
時代が変われば、また、考え方も変わってくる……昔の人びとの死生観が、今の人間に理解できないところがあるとしても、それはしかたがないことだし、また、現代の死生観が、遠い未来の人間から見れば、理解できないものであったとしても、それはそういうものである。
このような問題を考えるとき、普遍的な唯一絶対の正しさがあるのであって、それ以外は絶対に認められない、と硬直した発想になることが、一番の問題だろう。
番組の中では使っていなかったことばが、多様性、である。価値観の多様性というならば、それには、死生観の多様性もふくむべきことになる。日本に日本の、欧米には欧米の(細かく見れば、カトリックなりの、プロテスタントなりの)、イスラムにはまたそれなりの、その他の文化には、それぞれの、多様な死生観があっていいし、こういうことこそ、価値観の多様性ということで、まず認められなければならないことのはずである。
自分らしくある、希望をもって……ということが、どうも、あまり深く考えずに一人歩きしている。人間というものは、そんなに自由にものを考えることができるものではない。人間の自由意志とは何かという問題でもある。また、希望がなければ生きていてはいけないのか、では、希望とはなんであるのか、あまり考えることなく、使っているようである。
人間の尊厳と、自由意志と、社会の秩序、これらを総合して考えるべきことだろう。
番組の中で、神とか、宗教とか、文化とか、こういうことにまったくふれていなかったのは、意図的にそう作ったからだと思うが、この先の議論は、このようなことについて、徹底的に深く考えざるをえなくなるはずである。
QOLが尊重されるべきだということにはなるのだが、では、何が価値のあることなのか、その本人以外が判断することが出来るのか。その判断は、個人の生いたちから始まって、文化や歴史の中で形成されてきた価値観ということになるとすれば、はたして、人間に普遍的なものとして想定しうるものなのだろうか。
仮に、死を選ぶ権利が人間にはあるとするとして、その判断力がすべての人に等しくそなわっていると考えるべきだろうか。(強いていえばということになるが)精神的に問題のある人であっても、同じように尊重されるべきということになるのだろうか。生きる権利は、すべての人に同じようにということは考えやすいことだが、死ぬ権利がすべての人に同じように、と考えることは可能だろうか。もし、これが等しくないとするならば、それは、新たな差別を生むことになるだろう。
自分のことは自分で決める、自己決定の尊重ということはたしかなのだが、しかし、その結果は自分でおわなければならない。いわゆる自己責任論になる。これはこれで、かなり負担でもある。人間が生きていくなかで、また、最期のときぐらいは、神様のサイコロに身を任せるということがあってもいいのかとも思う。もともと、その人が人間として生まれてきたこと自体が、神様のサイコロで決まったことのようなものかもしれないのである。
その他、いろいろとあるが、これぐらいにしておきたい。
2025年9月30日記
===================
カナダの場合、精神疾患がある場合には、安楽死は認められない、ということである。これは、本人の理性的判断と自由意志の尊重ということから、こうなっているのだと思う。これを言いかえるならば、理性的にまともな判断能力のない人間は、安楽死を選ぶ権利がない、ということになる。あからさまに書くならば、認知症であったり、精神に障害があったり、という場合、安楽死は認めないことになる。(私は、このように理解する。)
生きる権利がすべての人間に平等であるべきなら、同じように、死ぬ権利も平等でなければならない、とはならないことになる。ここの非対称性を、どう考えるかということが、大きな問題になるだろう。
番組の作り方として、社会保障や介護、医療のサービスのコストの問題があることをいいたいことは分かる。その負担……個人の負担であれ、また、社会全体としての負担であれ……コストのかかる障害者は、安楽死を選ぶ、社会的圧力が加わることになることの問題点、ということになる。
これは、軍隊が志願制であっても、実際に志願する兵士の多くが、社会的階級としては下層の階級にかたよることと、問題の性質としては似ている。個人の自由意志を尊重するということでありながら、実際の社会の中での運用は、社会階層の傾斜がある。
露骨にいえば、お金持ちは兵隊に志願したりしない。障害があっても、介護サービスのためにお金を使えるならば、安楽死を選ぶことはない(あるいは、少ない)ということになる。
こういう問題があることは確かだとしても、一方で、安楽死という制度があることで、無用とも思える終末期医療を回避したいという、患者本人の希望があることもたしかである。この選択肢があるということは、むしろ、QOLを自分自身の意志によって高めることにつながる。
こういう問題は、100年前なら存在しなかった。医療や介護について、技術や制度の充実がある程度達成できたからこそ、おこってきた問題ということになる。おそらく、100年前だったら、ALSなどであれば、生きながらえることがそもそもできなかった。この意味では、現代のサイエンスとテクノロジーの生み出した、あらたな生命倫理であることになる。脳死が人の死であるかどうか、というようなことや、凍結保存した精子や卵子による子どもの誕生、などの問題は、まさに現代の問題ということになる。
新しい問題であるとはいえ、考える根底には、その国の文化や歴史がふかく関係する。一律に、こうであるべきだ、ということは難しい。医学という分野は、基本的にすべての人間は同じであるということを大前提にしている。日本人でもカナダ人でも、生物としての人間は同じである。同じ病気には同じ薬が効く。だが、そこで生きている人間の生命や人生に対する考え方は、決して同じではない。いや、違うからこそ、文化ということの意味がある。これを、医学という特定の領域だけのこととして議論することは、不可能だろう。
きわめて新しい問題なのだが、それを考える文化的基盤(倫理、宗教、死生観など)は、数百年以上、千年以上の古いことから考えることになる、まず、このことを認識しておく必要がある。
日本においても、議論することは、決して避けてとおるべきではないが、すくなくとも、生命倫理についての価値観の多様性を認める、ということは必要なことであると、私は考える。
一般的にいうとならば、近代的な個人の自由意志と生命の尊重という近代の観念(それは日本が近代の中で構築してきたものだが)を、どこまで守れるか、あるいは逆に、つきくずせるか、という問題なのかもしれない。
2025年10月9日記
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2025/10/11/9808738/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。