『べらぼう』「その名は写楽」 ― 2025-11-24
2025年11月24日 當山日出夫
『べらぼう』「その名は写楽」
写楽は誰か……これは、日本美術史の最大の謎の一つであり、もっとも面白いものであるにちがいない。いくつか有力な説はあるようだが、これという決定的な説はまだないらしい。
写楽と、歌麿と、それから平賀源内の蘭画をつないで考えるというのも、一つのアイデアであることはたしかである。ドラマとしては、まあ、こんなふうであってもいいかなとは思うのだが、実証的な裏付けのあることではないので、そこが、やはり説得力に今ひとつかけるといううらみはある。
写楽は役者絵で世の中に出た。その写楽を描くためには、この時代の芝居(歌舞伎)とはどんなもので、その役者に対して、一般の人びとはどのような目で見ていたのか、ということがまず必要なのだが、このドラマは、これまでに、これにかかわることを、まったくといっていいぐらい描いてきていない。これは、意図的にそうだったのだろうか。
浮世絵の中に、人物の個性ということを表現するようになったのは、蔦重の時代の歌麿であり、写楽である、といっていいのだろう。ただの美人ではなく、どういう個性をもった女性なのか、ということを表現したい。ただ、役者の絵であるだけでなく、その役者の役柄と、役者の人物像を、重ねて表現したい。このような、後の時代になってから、再評価される重要なことがらが、実は、この同時代の人びとには、そう簡単に受け入れられるものではなかった、ということが、一番難しいところなのだろう。
だから、写楽は、姿を消し、歌麿もいなくなり、そして、その作品は、日本の社会の中では、紙くずとしてあつかわれた。結果、海外に大量に流出した。
写楽が、一時期、人気を博したとしても、それが、継続するものではなかったということを、これからどう描くことになるのだろうか。私としては、写楽が誰であったかということよりも、むしろ、この時代の人びとの受容のあり方の方に興味がある。
そもそも、美術をはじめ、文学などに、作者の個性を求めるということが、広く一般に受け入れられるようになったのは、明治以降のことである。明治になっても、普通の教育のなかでの絵画教育は、上手なお手本を模写することであって、自分の描きたいものを、自分の自由に描く、ということではなかった。同じようなことは、作文教育についてもいえることである。
人間の個性こそがとうといというのは、現代の価値観であるが、これが普通になったのは、人間の歴史の中で、ごく最近のことにすぎない。江戸時代の人びとは、歴史的な伝統の規範意識の中で生きていただろう。だが、その中で、そのときどきの時代の流行に敏感でもあった。しかし、それを、近代的個人の個性というとらえかたで考えることができるようになったのは、近代の明治以降、あるいは、昭和の戦後以降のことであると、いっていいかもしれない。
以上のようなことを思ってみるのだが、しかし、芸術家としての歌麿、出版プロデューサーとしての蔦重の物語としてみると、これは、面白く作ってある。いや、これだけでドラマにした方がいいと思うぐらいで、一橋治済のことなどは、なくてもいいかとも感じる。むしろ、芸術の世界を描くことについては、ノイズのように感じられてしかたがない。
2025/11/24記
『べらぼう』「その名は写楽」
写楽は誰か……これは、日本美術史の最大の謎の一つであり、もっとも面白いものであるにちがいない。いくつか有力な説はあるようだが、これという決定的な説はまだないらしい。
写楽と、歌麿と、それから平賀源内の蘭画をつないで考えるというのも、一つのアイデアであることはたしかである。ドラマとしては、まあ、こんなふうであってもいいかなとは思うのだが、実証的な裏付けのあることではないので、そこが、やはり説得力に今ひとつかけるといううらみはある。
写楽は役者絵で世の中に出た。その写楽を描くためには、この時代の芝居(歌舞伎)とはどんなもので、その役者に対して、一般の人びとはどのような目で見ていたのか、ということがまず必要なのだが、このドラマは、これまでに、これにかかわることを、まったくといっていいぐらい描いてきていない。これは、意図的にそうだったのだろうか。
浮世絵の中に、人物の個性ということを表現するようになったのは、蔦重の時代の歌麿であり、写楽である、といっていいのだろう。ただの美人ではなく、どういう個性をもった女性なのか、ということを表現したい。ただ、役者の絵であるだけでなく、その役者の役柄と、役者の人物像を、重ねて表現したい。このような、後の時代になってから、再評価される重要なことがらが、実は、この同時代の人びとには、そう簡単に受け入れられるものではなかった、ということが、一番難しいところなのだろう。
だから、写楽は、姿を消し、歌麿もいなくなり、そして、その作品は、日本の社会の中では、紙くずとしてあつかわれた。結果、海外に大量に流出した。
写楽が、一時期、人気を博したとしても、それが、継続するものではなかったということを、これからどう描くことになるのだろうか。私としては、写楽が誰であったかということよりも、むしろ、この時代の人びとの受容のあり方の方に興味がある。
そもそも、美術をはじめ、文学などに、作者の個性を求めるということが、広く一般に受け入れられるようになったのは、明治以降のことである。明治になっても、普通の教育のなかでの絵画教育は、上手なお手本を模写することであって、自分の描きたいものを、自分の自由に描く、ということではなかった。同じようなことは、作文教育についてもいえることである。
人間の個性こそがとうといというのは、現代の価値観であるが、これが普通になったのは、人間の歴史の中で、ごく最近のことにすぎない。江戸時代の人びとは、歴史的な伝統の規範意識の中で生きていただろう。だが、その中で、そのときどきの時代の流行に敏感でもあった。しかし、それを、近代的個人の個性というとらえかたで考えることができるようになったのは、近代の明治以降、あるいは、昭和の戦後以降のことであると、いっていいかもしれない。
以上のようなことを思ってみるのだが、しかし、芸術家としての歌麿、出版プロデューサーとしての蔦重の物語としてみると、これは、面白く作ってある。いや、これだけでドラマにした方がいいと思うぐらいで、一橋治済のことなどは、なくてもいいかとも感じる。むしろ、芸術の世界を描くことについては、ノイズのように感じられてしかたがない。
2025/11/24記
『新日本風土記』「南紀・白浜 海山のあいだに」 ― 2025-11-24
2025年11月24日 當山日出夫
新日本風土記 「南紀・白浜 海山のあいだに」
白浜には、何度か行っている。最近では、三年ほど前に行っただろうか。このときには、パンダがまだいた。ただ、私としては、パンダが目的というわけではなかった。
行きたかったのは、南方熊楠記念館と、京都大学の水族館。
南方熊楠については、その事跡の概要は知っていることだったが、実際に使った道具類や衣服などを見ると、こういう人だったのかと感慨深いものがある。とにかく、普通の常識でははかることのできないスケールの大きな人物だったことはたしかである。(粘菌については、はっきりいって、今ひとつよく分からないでいるのだが。)
ただ、あまり言われないことなのだが、熊楠が大英図書館で日本の書籍の整理の仕事にかかわっていたのだが、その仕事はあまりきちんとしたものではなかったようである。これは、書誌学が専門の私の大学の先輩が言っていたことである。
番組では、熊楠のことは出てきていなかったが、私にとっては、紀州は熊楠の生まれたところであり、活躍の基盤となったところである。
南方熊楠記念館の屋上からまわりの景色を展望できるのだが、この景色はすばらしかった。
京都大学の水族館は、熊楠の記念館にほぼ隣接するようなところにある。普通の水族館と違って、基本が研究施設であるので、その展示の方法が、徹底的に学術的な分類にしたがっている。見ていて楽しいという展示ではないが、こういう見せ方もあるということで、これはこれで面白い。
アドベンチャーワールドは、パンダがいなくても十分に魅力的なところだと思う。パンダがいなくなったらいなくなったで、いろんな動物たちと接することのできる施設として、活動してほしいと思っている。
和歌山からは、多くの移民が海外に出ている。代表的なのは、アメリカ村、だろう。アメリカ村といっても、行き先はカナダであるが。
オーストラリアに行った男性が、潜水のヘルメットを工夫したという話しは、とても興味深い。この発明・改良について、具体的にどんなものだったのか、昔の潜水技術はどんなものだったのか、もうすこし説明があるとよかった。
昔は紀州藩の領地だったと思うのだが、紀州藩としては、どのような産業で藩を維持していたのだろうか、ということも気になる。現在の和歌山県から三重県のあたりは、穀倉地帯ということではないかと思うが、どうだったのだろうか。
海に生きる人びとは、海でつながっている。白浜のあたりの人びとも、大阪や瀬戸内海、あるいは、紀伊半島をまわって江戸までの航路の中で生きてきたということもあるだろう。
白浜は、かつては、大阪圏からの行楽地であった。東京から熱海や箱根のような感じだろうか。当然、温泉街の芸者も多くいたことになり、そこでの楽しみをもとめて、男性客がたくさんやって来たはずである。(昭和33年より昔の話しである。)井上二郎アナウンサーが、「はなまち」と読んでいたが、私は、「花街」は「かがい」と読みたい。
近畿大学がマグロなどの養殖にとりくんでいることは有名である。ただ、マグロの養殖も、ビジネスとして成りたつかどうかは、いろいろと問題があるようだが。ハモの養殖のこころみはどうなるだろうか。京都や大坂の夏の食べ物である。
白浜の町を自動車で走ると感じるが、海岸沿いの温泉街をはずれると、どうってことない田舎の風景である。白浜駅もあるが、とても駅前の繁華街があるというようなところではない。
番組の中で、二回ぐらい、昔は貧乏だった、と言っていた。私は、こういうことばをなんとか実感を持って理解できる世代かなと思っている。昔の、貧乏だったころの日本の地方の、農村、漁村、山村……こういうところの生活の感覚は、無くなってしまっていいものだが、しかし、その一方で、どこかで残しておきたいという気もしている。
もう一回ぐらいは白浜に行ってみたいと思う。さて、どうなるだろうか。
2025年11月23日記
新日本風土記 「南紀・白浜 海山のあいだに」
白浜には、何度か行っている。最近では、三年ほど前に行っただろうか。このときには、パンダがまだいた。ただ、私としては、パンダが目的というわけではなかった。
行きたかったのは、南方熊楠記念館と、京都大学の水族館。
南方熊楠については、その事跡の概要は知っていることだったが、実際に使った道具類や衣服などを見ると、こういう人だったのかと感慨深いものがある。とにかく、普通の常識でははかることのできないスケールの大きな人物だったことはたしかである。(粘菌については、はっきりいって、今ひとつよく分からないでいるのだが。)
ただ、あまり言われないことなのだが、熊楠が大英図書館で日本の書籍の整理の仕事にかかわっていたのだが、その仕事はあまりきちんとしたものではなかったようである。これは、書誌学が専門の私の大学の先輩が言っていたことである。
番組では、熊楠のことは出てきていなかったが、私にとっては、紀州は熊楠の生まれたところであり、活躍の基盤となったところである。
南方熊楠記念館の屋上からまわりの景色を展望できるのだが、この景色はすばらしかった。
京都大学の水族館は、熊楠の記念館にほぼ隣接するようなところにある。普通の水族館と違って、基本が研究施設であるので、その展示の方法が、徹底的に学術的な分類にしたがっている。見ていて楽しいという展示ではないが、こういう見せ方もあるということで、これはこれで面白い。
アドベンチャーワールドは、パンダがいなくても十分に魅力的なところだと思う。パンダがいなくなったらいなくなったで、いろんな動物たちと接することのできる施設として、活動してほしいと思っている。
和歌山からは、多くの移民が海外に出ている。代表的なのは、アメリカ村、だろう。アメリカ村といっても、行き先はカナダであるが。
オーストラリアに行った男性が、潜水のヘルメットを工夫したという話しは、とても興味深い。この発明・改良について、具体的にどんなものだったのか、昔の潜水技術はどんなものだったのか、もうすこし説明があるとよかった。
昔は紀州藩の領地だったと思うのだが、紀州藩としては、どのような産業で藩を維持していたのだろうか、ということも気になる。現在の和歌山県から三重県のあたりは、穀倉地帯ということではないかと思うが、どうだったのだろうか。
海に生きる人びとは、海でつながっている。白浜のあたりの人びとも、大阪や瀬戸内海、あるいは、紀伊半島をまわって江戸までの航路の中で生きてきたということもあるだろう。
白浜は、かつては、大阪圏からの行楽地であった。東京から熱海や箱根のような感じだろうか。当然、温泉街の芸者も多くいたことになり、そこでの楽しみをもとめて、男性客がたくさんやって来たはずである。(昭和33年より昔の話しである。)井上二郎アナウンサーが、「はなまち」と読んでいたが、私は、「花街」は「かがい」と読みたい。
近畿大学がマグロなどの養殖にとりくんでいることは有名である。ただ、マグロの養殖も、ビジネスとして成りたつかどうかは、いろいろと問題があるようだが。ハモの養殖のこころみはどうなるだろうか。京都や大坂の夏の食べ物である。
白浜の町を自動車で走ると感じるが、海岸沿いの温泉街をはずれると、どうってことない田舎の風景である。白浜駅もあるが、とても駅前の繁華街があるというようなところではない。
番組の中で、二回ぐらい、昔は貧乏だった、と言っていた。私は、こういうことばをなんとか実感を持って理解できる世代かなと思っている。昔の、貧乏だったころの日本の地方の、農村、漁村、山村……こういうところの生活の感覚は、無くなってしまっていいものだが、しかし、その一方で、どこかで残しておきたいという気もしている。
もう一回ぐらいは白浜に行ってみたいと思う。さて、どうなるだろうか。
2025年11月23日記
『八重の桜』「帰ってきた男」 ― 2025-11-24
2025年11月24日 當山日出夫
『八重の桜』「帰ってきた男」
明治のはじめ、キリスト教が政府によって認められるまでの間、江戸時代をひきついで、過激な弾圧がおこなわれたことは、歴史のなかであったことである。ただ、このドラマでは、こういうところは描いていない。
明治の日本になって、キリスト教の学校がたくさんできた。同志社もその一つである。その設立の経緯については、いろいろと研究のあることである。
明治の人びとにとって、キリスト教の教え……唯一絶対の一神教……ということは、いったいどのように理解されたのだろうか。社会の階層や地域別に、いろんなことがあったのだろう。
この時代の聖書がどんなものであったか、どのような書物でキリスト教の布教がおこなわれたのか、このあたりのことについては、まだ未解明の部分があるかと思っている。(番組の中では言っていなかったが、中国で使われた漢文の聖書が日本語で読まれたということもあり、これは、東アジア全体を見わたす必要がある。)
京都のミッションスクールというと、最近の話題だと、ノートルダム女子大がなくなる。また、小学校・中学校・高等学校が、洛星を運営する学校法人に急襲されるということがある。さて、同志社女子大学は、これからどうなるだろうかと、思う。京都で生き残れる女子大学というと、同志社女子大学と京都女子大学ぐらいかなとは思うのだけれど。
山川健次郎が出てきていた。東京帝国大学総長など、明治の高等教育を牽引した人物である。明治になって、旧会津藩の人びと、また、旧幕臣の人びとが、どのように生きてきたということも、考えてみたいことである。
2025年11月24日記
『八重の桜』「帰ってきた男」
明治のはじめ、キリスト教が政府によって認められるまでの間、江戸時代をひきついで、過激な弾圧がおこなわれたことは、歴史のなかであったことである。ただ、このドラマでは、こういうところは描いていない。
明治の日本になって、キリスト教の学校がたくさんできた。同志社もその一つである。その設立の経緯については、いろいろと研究のあることである。
明治の人びとにとって、キリスト教の教え……唯一絶対の一神教……ということは、いったいどのように理解されたのだろうか。社会の階層や地域別に、いろんなことがあったのだろう。
この時代の聖書がどんなものであったか、どのような書物でキリスト教の布教がおこなわれたのか、このあたりのことについては、まだ未解明の部分があるかと思っている。(番組の中では言っていなかったが、中国で使われた漢文の聖書が日本語で読まれたということもあり、これは、東アジア全体を見わたす必要がある。)
京都のミッションスクールというと、最近の話題だと、ノートルダム女子大がなくなる。また、小学校・中学校・高等学校が、洛星を運営する学校法人に急襲されるということがある。さて、同志社女子大学は、これからどうなるだろうかと、思う。京都で生き残れる女子大学というと、同志社女子大学と京都女子大学ぐらいかなとは思うのだけれど。
山川健次郎が出てきていた。東京帝国大学総長など、明治の高等教育を牽引した人物である。明治になって、旧会津藩の人びと、また、旧幕臣の人びとが、どのように生きてきたということも、考えてみたいことである。
2025年11月24日記
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