ザ・ベストテレビ「#つなぐひと ~わたし、義肢装具士になりました~」2025-11-26

2025年11月26日 當山日出夫

ザ・ベストテレビ #つなぐひと ~わたし、義肢装具士になりました~

今年も、ザ・ベストテレビは、録画しておいて、次の日の昼間ぐらいに見ることにしている。

見ながら思ったことはいろいろとある。

まず、何よりも、義肢を装着することが、選択肢の一つである、ということを、どのように患者さんに知ってもらうか、それがどんなものなのか理解してもらうか、ということの問題があるだろう。ここは、義肢装具士が登場する以前の、病院での治療やリハビリについての説明ということなのかと思うが、ここの部分で、病院側がどのような対応をしているか、ということが、大きく関係するだろう。

番組の後の話で、義肢を選ばない患者さんも多いということだったが、(松葉杖だったり、車椅子だったり)、こういう選択もあるなかで、義肢ということの選択の、メリット・デメリットが、総合的にどう説明されて、どう判断されることになるのか、このあたりの事情が分かると、興味深い。

義肢を使っている人は、どれぐらいいるのだろうか。そのことを、特に、他人に見せるということでは普通はないので、意外と多いのかもしれない。義肢を使うことが、普通の人間の生き方の一つとして認識されることが、まずは重要なのだろう。(また、それを選ばないことも、尊重されるべきだと思うし。)

義肢装具士の仕事で、一番重要なのは、患者さんとのコミュニケーションということかと思うし、それから、人間の動作(歩くことなど)についての観察力だろう。その人なりの、もっとも自然な動きとは何なのかを判断することがもとめられるはずである。教科書通りの正しい歩き方をするということではないだろう。

もちろん、ものを作ることが好きでなければならない。

ちょっと気になったこととして、作業のときに、曲尺を使っていたが、曲尺というのは、大工さんが使う以外に、いったいどれぐらいの分野で実際に使われているのだろうか。これは、使い方によっては、非常に便利なものだと思う。

番組の趣旨とは関係ないかと思うが、登場していた会社に行くには、自動車に乗っていくしかない。義肢をつかっていて、運転できる自動車というのは、メーカも作っているのだが、これが実際にどういうものなのか、注文してすぐ手に入るものなのか、というようなことも気になる。さらには、最近の自動車は、ナビもその性能の一部である。そのタッチパネルの操作について、義手などの場合、どうなるのだろうか。自動車のメーカがどう考えて対応していることなのか、知りたいところである。

余計なことかと思うが、こういう仕事は、AIに絶対にとって代わられることのない職業ということにもなるだろう。(設計や、歩き方の分析に使うことはあるかもしれないが。)

2025年11月26日記

ETV特集「駅が語れば」2025-11-26

2025年11月26日 當山日出夫

ETV特集 駅が語れば

たまたま、宗谷線の最北端の無人駅ということで、この駅のことがとりあげられているのだが、出てきた話は、特にこの駅でなければならない、という必然性を感じるものではない。日本のローカル線の地方の駅であれば、でてきたような話しは、いくらでもあるにちがいない。非常に個別的である事例を取材しているのだが、その背景に、昭和の時代の日本の地方の歴史の一端を見るような気持ちになる。

印象に残ることとしては、国鉄民営化のときのことがある。私は、国鉄の時代があって、今のJR各社になった経緯を、一人の利用者として見てきたことになる。JRになってから、感じたことは、駅員や駅の売店の対応が、それまでとくらべて格段によくなった、ということは、はっきりと記憶している。それまで、国鉄の駅員というのは、無愛想のかたまりのようであった。まあ、鉄道なのだから、愛想のよしあしではなく、安全運行、定時運行を、きちんとやってくれればいいのだが、しかし、かつての「順法闘争」ということを憶えている世代としては、国鉄民営化の議論が始まるまえに、もっとやっておくべきことがあったのではないかと、という気がしてならない。

国鉄の時代のことを回顧すると、どうしても鉄道員の仕事の誇りというようなことに目が向きがちである。だが、無愛想のかたまりのようだった国鉄の職員に、多くの利用者がどんな感情を持っていたか、ふりかえることがあってもいいだろう。

もちろん、浅田次郎の「鉄道員(ぽっぽや)」のような作品はとてもいいと思うのだけれども。

2025年11月16日記

『夫婦善哉』「死んでも治らんあほな女が死んでも遂げたいあほな夢」2025-11-26

2025年11月26日 當山日出夫

夫婦善哉 死んでも治らんあほな女が死んでも遂げたいあほな夢

第三回である。

この作品の原作、織田作之助の小説(岩波文庫版)は読んでいるのだが、この作品については、原作よりもドラマの方が格段にいいと感じる。

この回でいいなあと思ってみていたのが、おきんさん(麻生祐未)、それから妹の藤子(田畑智子)。麻生祐未は、そう科白が多いというわけではない。しかし、カフェーのカウンターで座っているだけで、その魅力を感じさせる。

脚本はたくみだと思うが、ただ、父親の死ぬところで、やってきた柳吉に対して、藤子の婿の桐介が、かなり説明的な科白を語る。勘当された柳吉のこと、維康の店のこと、家族のこと、見ていてたしかにそうなのだろうと思うが、このくだりはちょと説明的でくどいかなと感じたところである。だからといって、黙って死んでいく父親をとりかこむ家族たちということだけで、ドラマを成りたたせるのは、かなりハイレベルなことになる。こうなると、見ている方が、この人物の気持ちはこうなのだろうと、いろいろと考えなければならないが、見ていて負担が大きくなるだろうか。このあたり、見るものの想像力にまかせる部分と、登場人物の気持ちを説明的に語る科白と、バランスをとるのは難しい。

演出でうまいなと感じるのは、煙草。実際に柳吉は煙草を吸っている。その一連の動作……箱から煙草を出して火をつけて、吸い込んで、烟をはきだす……が、ドラマの中で、実に様になっている。そのときの柳吉の気持ちを表現するものになっている。そして、映像としては、煙草の煙の使い方がうまい。

維康の座敷で、煙草に火を付けてマッチを、火鉢の中に捨てるのだが、火鉢が画面に大きく映しこんである。もう今では、火鉢なども、日常生活で見なくなってしまったものだが、こういう仕草が日常的だった時代があったことを、思ってみることになる。

蝶子と柳吉はカフェーをひらく。この時代、カフェーといっても、飲食店で女性がいて、ありていにいえば、売春業よりすこしましな程度のクラスである。林芙美子の『放浪記』など読むと、昭和のはじめのころ、女性が社会の中で身を落として、最後に行き着くところが、カフェーの女給である。これより下になると、娼婦しか残されていない。(もう今では、女給ということばも使ってはいけないことばになっているのか、この文章をATOKで書いているのだが、変換してくれない。)

2025年11月25日記