ETV特集「グッドモーニング オハイオ」 ― 2026-01-15
2026年1月15日 當山日出夫
ETV特集 グッドモーニング オハイオ
ラストベルトに住む人たち、特にその最底辺の人たちのことを取材していたことを評価すべきか。あるいは、トランプ支持の人たちは、武器を持つ暴力的な人たちで愚かであるという印象を強める番組になっていると見るべきか、評価はいろいろと考えることができる。
トランプ大統領を支持する人たちは、バカである……いわゆるリベラルを自称する人たちは、そう考える。(愛国心が愚か者のよりどころであるとしても、同様に、リベラリズムも自分で考えることをしない愚か者のよりどころである。)
MAGAということに希望を見出す人たちがアメリカの社会にいるという現実、そのようなラストベルトの、忘れられた人たち、見捨てられた人たちの、生活の感覚の実際ということは、より深く考えられなければならない。
番組では言っていなかったが、かつては、民主党がこのような地域の労働者の代表として意識されていた。しかし、急速にその指示を失っていった理由がある。いわれるところとしては、過激と感じられるアイデンティティー・ポリティックスの結果、ということになる。
ある立場や主張をするのはいいとしても、それを受け入れることのできない人たちが社会の中にはいるということを、忘れてはならない。これは、いわゆる左派についてもいえることだし、いわゆる右派についてもいえることである。
バンス副大統領は、たしかに、アメリカンドリームを達成したということになるが、しかし、重要なことは、誰でもが、このようになれるわけではないということである。そうなれなかった人たちについて、フェンタニルに溺れるしかない人であると、否定的に考えるのは、どうなのだろうか。こういう人たちは、バカだから、ホームレスになるしかないし、武器を手にして暴力的になる、という印象を残そうとしてあるように思えてならない。
シカゴで多様性を主張する人たちは、正しくて賢いが、オハイオでホームレスになってフェンタニルに頼る人たちは、愚かで暴力的になる……はたして、こう単純に考えることで、問題が解決する方向にむかうだろうか。
そして、重要なこととしては、社会から忘れられた人びと、見捨てられた人びと、ということは、決して、今のアメリカだけの問題ではない、ということである。自分たちは、社会から、国から、忘れられている、と感じる人たちは、どのような社会であっても、わずかかもしれないが存在するだろう。こういう人たちのことを忘れてはいけない。だが、こういう人たちが、ある程度以上の規模で存在するようになる。こういう傾向に、今の世界の多くの国で向かっているように思える。いわゆる格差の拡大、グローバリズム、(過度の)リベラリズム……こういうことが、どういう副作用をおよぼすことになるのか、熟慮すべきである。忘れられたと感じている人たちは、日本にも、韓国にも、中国にも、ロシアにも、ヨーロッパの諸国にも、その他の国々にも、いろんな形で出てくる。そして、そのような人たちが、SNSで簡単につながることも可能になってきている。
それを、陰謀論だ、あいつらはバカだからフェイクを信じるのだ、と切り捨てるだけでは、もうどうにもならないということを考えるべきだろう。
『ヒルビリー・エレジー』は日本語訳が出ているが、これは映していなかった。しばらく品切れだったのだが、トランプ大統領当選ということになって、復活した。
不法移民ということのあつかいについては、かなり偏っていた。法的に滞在期限が過ぎても居住している場合、不法に勝手に国境を越えて入国した場合、すくなくともこういうことを分ける必要がある。(近代的国家としては、出入国を管理することは、当然のことであるはずと思うが。そのルールの適用の問題はあるとしても。ルールを無視して自由に出入国できるようでは、とても近代的な国家とはいえない。)
意図的に省いたかと思うのが、ベネズエラからの移民。ハイチなど、破綻した国家に強制的に帰すことがいいのかどうか。ベネズエラの件については、どんなに破綻した国家であっても、その主権を尊重すべきということであるならば、その国民の出入国についても(これはまさに国家の主権にかかわる)、勝手にやっていいとはならないだろう。人道的な難民支援は別としても。
金成隆一の『ルポ トランプ王国』『ルポ トランプ王国2』(岩波新書)とか、『記者、ラストベルトに住む トランプ王国、冷めぬ熱狂』(朝日新聞出版)、ホックシールド『壁の向こうの住人たち』、こういう本のことについても触れておくべきだったかとも思う。ラストベルトの人びとのことは、かなり以前から大きな課題であったことになる。
トランプ政権の移民政策については、すでに移民としてアメリカで居住している人であっても、賛成している……極端に言いかえれば、すでに居住できていることの既得権益を失いたくない……という人もいるはずだが、こういうことは出てきていない。トランプ支持者は、暴力的で無能、それに対して、反トランプ支持者は平和的で民主的である……もう、こんなステレオタイプの発想で、アメリカを考える時代はとっくにおわっているはずだが、しかし、NHKでは通用する理屈になっているようである。
2026年1月13日記
ETV特集 グッドモーニング オハイオ
ラストベルトに住む人たち、特にその最底辺の人たちのことを取材していたことを評価すべきか。あるいは、トランプ支持の人たちは、武器を持つ暴力的な人たちで愚かであるという印象を強める番組になっていると見るべきか、評価はいろいろと考えることができる。
トランプ大統領を支持する人たちは、バカである……いわゆるリベラルを自称する人たちは、そう考える。(愛国心が愚か者のよりどころであるとしても、同様に、リベラリズムも自分で考えることをしない愚か者のよりどころである。)
MAGAということに希望を見出す人たちがアメリカの社会にいるという現実、そのようなラストベルトの、忘れられた人たち、見捨てられた人たちの、生活の感覚の実際ということは、より深く考えられなければならない。
番組では言っていなかったが、かつては、民主党がこのような地域の労働者の代表として意識されていた。しかし、急速にその指示を失っていった理由がある。いわれるところとしては、過激と感じられるアイデンティティー・ポリティックスの結果、ということになる。
ある立場や主張をするのはいいとしても、それを受け入れることのできない人たちが社会の中にはいるということを、忘れてはならない。これは、いわゆる左派についてもいえることだし、いわゆる右派についてもいえることである。
バンス副大統領は、たしかに、アメリカンドリームを達成したということになるが、しかし、重要なことは、誰でもが、このようになれるわけではないということである。そうなれなかった人たちについて、フェンタニルに溺れるしかない人であると、否定的に考えるのは、どうなのだろうか。こういう人たちは、バカだから、ホームレスになるしかないし、武器を手にして暴力的になる、という印象を残そうとしてあるように思えてならない。
シカゴで多様性を主張する人たちは、正しくて賢いが、オハイオでホームレスになってフェンタニルに頼る人たちは、愚かで暴力的になる……はたして、こう単純に考えることで、問題が解決する方向にむかうだろうか。
そして、重要なこととしては、社会から忘れられた人びと、見捨てられた人びと、ということは、決して、今のアメリカだけの問題ではない、ということである。自分たちは、社会から、国から、忘れられている、と感じる人たちは、どのような社会であっても、わずかかもしれないが存在するだろう。こういう人たちのことを忘れてはいけない。だが、こういう人たちが、ある程度以上の規模で存在するようになる。こういう傾向に、今の世界の多くの国で向かっているように思える。いわゆる格差の拡大、グローバリズム、(過度の)リベラリズム……こういうことが、どういう副作用をおよぼすことになるのか、熟慮すべきである。忘れられたと感じている人たちは、日本にも、韓国にも、中国にも、ロシアにも、ヨーロッパの諸国にも、その他の国々にも、いろんな形で出てくる。そして、そのような人たちが、SNSで簡単につながることも可能になってきている。
それを、陰謀論だ、あいつらはバカだからフェイクを信じるのだ、と切り捨てるだけでは、もうどうにもならないということを考えるべきだろう。
『ヒルビリー・エレジー』は日本語訳が出ているが、これは映していなかった。しばらく品切れだったのだが、トランプ大統領当選ということになって、復活した。
不法移民ということのあつかいについては、かなり偏っていた。法的に滞在期限が過ぎても居住している場合、不法に勝手に国境を越えて入国した場合、すくなくともこういうことを分ける必要がある。(近代的国家としては、出入国を管理することは、当然のことであるはずと思うが。そのルールの適用の問題はあるとしても。ルールを無視して自由に出入国できるようでは、とても近代的な国家とはいえない。)
意図的に省いたかと思うのが、ベネズエラからの移民。ハイチなど、破綻した国家に強制的に帰すことがいいのかどうか。ベネズエラの件については、どんなに破綻した国家であっても、その主権を尊重すべきということであるならば、その国民の出入国についても(これはまさに国家の主権にかかわる)、勝手にやっていいとはならないだろう。人道的な難民支援は別としても。
金成隆一の『ルポ トランプ王国』『ルポ トランプ王国2』(岩波新書)とか、『記者、ラストベルトに住む トランプ王国、冷めぬ熱狂』(朝日新聞出版)、ホックシールド『壁の向こうの住人たち』、こういう本のことについても触れておくべきだったかとも思う。ラストベルトの人びとのことは、かなり以前から大きな課題であったことになる。
トランプ政権の移民政策については、すでに移民としてアメリカで居住している人であっても、賛成している……極端に言いかえれば、すでに居住できていることの既得権益を失いたくない……という人もいるはずだが、こういうことは出てきていない。トランプ支持者は、暴力的で無能、それに対して、反トランプ支持者は平和的で民主的である……もう、こんなステレオタイプの発想で、アメリカを考える時代はとっくにおわっているはずだが、しかし、NHKでは通用する理屈になっているようである。
2026年1月13日記
チューザイ in the World「オーストラリア シドニー」 ― 2026-01-15
2026年1月15日 當山日出夫
チューザイ in the World オーストラリア シドニー
少し前に、マレーシアだったかの現地駐在員のことでやっていたのだが、どうやらレギュラー番組になったらしい……で、いいのだろうか。ただ、この番組のタイトルだと、「X」のハッシュタグがなんだか分かりにくい。
オーストラリアのシドニー編である。登場しているのは、ラーメン屋さんの一風堂と三菱地所。オーストラリアのことというよりも、シドニーの街のこととして見た方がいいのかな、というところがいくつかある。
世界で物価が違う……日本が安くなっている……のだが、ラーメン一杯で、2000円は、やっぱり高いと感じる。日本だと、1000円を超えるとしても、どれぐらいまでか、というところだろうか。
食文化の違いではあるだろうが、ラーメンにタコ焼きがついてくるというのは、日本ではない。
現地でのお昼ご飯に、ステーキが400グラムというのは、かなり多い。400グラムだったら、日本の普通の家庭であれば、二人でも多いぐらいかもしれない。
労働の慣行も異なる。週に38時間労働で、金曜日には早く仕事から帰ってしまう、という。これで、日本の倍の最低賃金というのだから、いわゆる生産性が高いということにはなるのだろう。
金曜日の晩にお客さんに来てもらうために、いわゆるほろ酔いセット(ラーメンと餃子とビール)で呼び込もうというのだが、そもそも、オーストラリアの人たちの、お酒をどう飲むのか……家で、外のお店でか、時間として何時か……ということもあるので、日本流のほろ酔いセットで大丈夫なのかなと思うのだが、番組の中では、なんとかうまくいったらしい。
ラーメン屋さんで働いている人も、出身は、ネパールだったり、韓国だったり、フィリピンだったりと、多彩である。こういうあたりは、ラーメン屋さんの従業員という労働者の階層は、外国からの労働者の仕事、ということなのかもしれないとは思う。
三菱地所が、外国に出かけていって、ディベロッパーの仕事をしているということは、知らなかった。まあ、今の時代だったら、オーストラリアとしては、中国を警戒しているだろうから、中国資本での不動産業は難しいのかもしれないが、こういうことは、どうなっているのだろうか。
不動産物件にしても、日本にくらべて、ものすごく高い。だが、これは、三菱地所としては、もうかるビジネスになっているということなのだろう。
住宅不足であるという。オーストラリアという国も、世界のその他の国と同じように、人口減少傾向にあるはずだが、都市部に人口が集中して、かつ、富裕層向けの物件は、これから需要があるということかと思う。
お金持ちを相手には、それなりのビジネスの感覚が必要であるということは、いつの時代でも、どの国でもあることだろう。しかし、オーストラリアのお金持ちには、日本の茶室のような質素と見えるところにお金をかける、ということはあるのだろうか。国によって、どういうところにお金をかけるかということは、異なってくるかと思う。
オーストラリア、というか、シドニーの街といった方がいいのか……子どもを育てるのには、フレンドリーな街ではあるが、しかし、ものすごくお金のかかることでもある。おそらくは、古くからの白人層においては、かなりの少子化ということになるのかとも、想像する。だから、外国からの労働者を受け入れる。結果として、いわゆる多文化社会ということになる。少なくとも、今のところ、それで大きな社会問題になるということはない、らしい。
医療制度も国によって違う。かかりつけ医の制度であるというのは、英国式かなと思うが、医療の平等性ということでは、これからどうなっていくのだろうか。健康診断が無いというのは、国によって、健康や医療への考え方の違いということなのだろう。(日本だと、病気の早期発見、早期治療、ということが、社会的に定着していることであるが。)
都市の近くに自然がある……これは、シドニーの街がそうなっているということなのか、その他のオーストラリアの街もそうなのか、特に内陸部ではどうなのか、ということも気になるところである。
2026年1月13日記
チューザイ in the World オーストラリア シドニー
少し前に、マレーシアだったかの現地駐在員のことでやっていたのだが、どうやらレギュラー番組になったらしい……で、いいのだろうか。ただ、この番組のタイトルだと、「X」のハッシュタグがなんだか分かりにくい。
オーストラリアのシドニー編である。登場しているのは、ラーメン屋さんの一風堂と三菱地所。オーストラリアのことというよりも、シドニーの街のこととして見た方がいいのかな、というところがいくつかある。
世界で物価が違う……日本が安くなっている……のだが、ラーメン一杯で、2000円は、やっぱり高いと感じる。日本だと、1000円を超えるとしても、どれぐらいまでか、というところだろうか。
食文化の違いではあるだろうが、ラーメンにタコ焼きがついてくるというのは、日本ではない。
現地でのお昼ご飯に、ステーキが400グラムというのは、かなり多い。400グラムだったら、日本の普通の家庭であれば、二人でも多いぐらいかもしれない。
労働の慣行も異なる。週に38時間労働で、金曜日には早く仕事から帰ってしまう、という。これで、日本の倍の最低賃金というのだから、いわゆる生産性が高いということにはなるのだろう。
金曜日の晩にお客さんに来てもらうために、いわゆるほろ酔いセット(ラーメンと餃子とビール)で呼び込もうというのだが、そもそも、オーストラリアの人たちの、お酒をどう飲むのか……家で、外のお店でか、時間として何時か……ということもあるので、日本流のほろ酔いセットで大丈夫なのかなと思うのだが、番組の中では、なんとかうまくいったらしい。
ラーメン屋さんで働いている人も、出身は、ネパールだったり、韓国だったり、フィリピンだったりと、多彩である。こういうあたりは、ラーメン屋さんの従業員という労働者の階層は、外国からの労働者の仕事、ということなのかもしれないとは思う。
三菱地所が、外国に出かけていって、ディベロッパーの仕事をしているということは、知らなかった。まあ、今の時代だったら、オーストラリアとしては、中国を警戒しているだろうから、中国資本での不動産業は難しいのかもしれないが、こういうことは、どうなっているのだろうか。
不動産物件にしても、日本にくらべて、ものすごく高い。だが、これは、三菱地所としては、もうかるビジネスになっているということなのだろう。
住宅不足であるという。オーストラリアという国も、世界のその他の国と同じように、人口減少傾向にあるはずだが、都市部に人口が集中して、かつ、富裕層向けの物件は、これから需要があるということかと思う。
お金持ちを相手には、それなりのビジネスの感覚が必要であるということは、いつの時代でも、どの国でもあることだろう。しかし、オーストラリアのお金持ちには、日本の茶室のような質素と見えるところにお金をかける、ということはあるのだろうか。国によって、どういうところにお金をかけるかということは、異なってくるかと思う。
オーストラリア、というか、シドニーの街といった方がいいのか……子どもを育てるのには、フレンドリーな街ではあるが、しかし、ものすごくお金のかかることでもある。おそらくは、古くからの白人層においては、かなりの少子化ということになるのかとも、想像する。だから、外国からの労働者を受け入れる。結果として、いわゆる多文化社会ということになる。少なくとも、今のところ、それで大きな社会問題になるということはない、らしい。
医療制度も国によって違う。かかりつけ医の制度であるというのは、英国式かなと思うが、医療の平等性ということでは、これからどうなっていくのだろうか。健康診断が無いというのは、国によって、健康や医療への考え方の違いということなのだろう。(日本だと、病気の早期発見、早期治療、ということが、社会的に定着していることであるが。)
都市の近くに自然がある……これは、シドニーの街がそうなっているということなのか、その他のオーストラリアの街もそうなのか、特に内陸部ではどうなのか、ということも気になるところである。
2026年1月13日記
はなしちゃお! 〜性と生の学問〜「裸×社会心理学」「女性器×生物学」 ― 2026-01-15
2026年1月15日 當山日出夫
はなしちゃお! 〜性と生の学問〜「裸×社会心理学」「女性器×生物学」
日本賞の受賞作ということで、再放送になったのを録画しておいて見た。
「裸×社会心理学」については、私の知る限りで、そう目新しいことが語られていたということはない。きわめて常識的な知識である。
私の子どものころの感覚としては、母親が人前で着物をはだけて赤ちゃんに授乳するなど、ごく普通のことだった。それが、現代では、異常なまでにといいたくなるぐらい、女性が肌を見せることが良くないこととされるようになってきている。その一方で、非常に肌の露出の多いファッションも、一部では、ある。どうも不可解という感じである。
要するに、裸が性的なものというのは、文化的な約束事である、ということである。何に性的なものを感じるかは、時代や地域や文化によって、たくさんのバリエーションがある、いわゆる多様性といってもいい、があることである。
ただ、いわゆるリベラルを自称する(私にいわせれば、それは詐称であるが)人たちは、こういう多様性は、絶対に許容しようとしない。自分の気に入った多様性のみが、理想的な多様性ということで、一方的に押しつけようとしている。
「女性器×生物学」については、女性器の生物学的な研究が、近年まで本格的にはおこなわてきていなかった、というのは、これはこれで面白い。
ボノボの「ほかほか」は、わりと知られていることかと思っている。
裸もそうだし、女性器も、そうなのだが、性的と感じるということだけで、忌避感を示す人がいる。性的=悪、という単純図式で考えがちである。
だが、ここは、さらにさかのぼって、なぜ、それを悪と感じるのか、嫌悪感をいだくのか、その理由を考えることだと思う。それには、生物の進化、人類の進化、文化の多様性(本来の意味での)が、重要なことになる。また、なぜ、性とか生や死ついてのことでは、タブーとなることがあるのか、(そのあり方は、文化的多様性があるとして)、その理由を考えることが必用だろう。性について、あけっぴろげに語ることも大事であるが、その一方で、それをタブー視することがあるのは何故なのか、その感覚は、絶対にいけないことなのか、ということも、同時に考えてみなければならないと、私は思うのである。
特に性に限ったことではなく、生や死や、そして現代ならば差別ということも、社会にあってタブー視する/しない/してはいけない……感覚や価値観が錯綜している。まずは、このあたりのことを冷静に考えることが、まさに多様性の尊重のためには、必要なことである。
ここで重要だと思うことは、人間が男性に生まれるか女性に生まれるか選択できないのと同様に、どのような性的指向や性的規範をもつかも選択できない、少なくとも、かなり困難なことである、という認識である。性的規範が、社会構築的なものであることは、それが人間の文化である以上は、そういうものなのだが、どういう性的規範の時代や社会の中で生まれて育つかを、自分で選択することはできない。
自分の自由意志で選ぶことができないこと、男性であるか、女性であるか、肌の色がどうであるか、ということで、差別があってはならない。であるのと同様に、どのような性的指向であるか……異性が好きか、同性が好きか、どちらでもないか、その他いろいろ……こういうことは自分の自由な意志で選ぶことのできないものである。だからこそ、同性愛は、病気でもないし、犯罪でもない。性的規範が、社会構築的であるとして、そのような社会で育った感覚を、改めることは困難である。それが人間にとっての文化である。
多文化の尊重ということならば、現在の性的規範的……それは、今の日本では西欧規準かもしれないが……その、絶対的な正しさを主張してはならないし、異なる性的規範のもとに生きている人がいることは、尊重されなければならない。こういう視点にたってこそ、本当の意味でのリベラルであり、人権の尊重というべきである。
2026年1月2日記
はなしちゃお! 〜性と生の学問〜「裸×社会心理学」「女性器×生物学」
日本賞の受賞作ということで、再放送になったのを録画しておいて見た。
「裸×社会心理学」については、私の知る限りで、そう目新しいことが語られていたということはない。きわめて常識的な知識である。
私の子どものころの感覚としては、母親が人前で着物をはだけて赤ちゃんに授乳するなど、ごく普通のことだった。それが、現代では、異常なまでにといいたくなるぐらい、女性が肌を見せることが良くないこととされるようになってきている。その一方で、非常に肌の露出の多いファッションも、一部では、ある。どうも不可解という感じである。
要するに、裸が性的なものというのは、文化的な約束事である、ということである。何に性的なものを感じるかは、時代や地域や文化によって、たくさんのバリエーションがある、いわゆる多様性といってもいい、があることである。
ただ、いわゆるリベラルを自称する(私にいわせれば、それは詐称であるが)人たちは、こういう多様性は、絶対に許容しようとしない。自分の気に入った多様性のみが、理想的な多様性ということで、一方的に押しつけようとしている。
「女性器×生物学」については、女性器の生物学的な研究が、近年まで本格的にはおこなわてきていなかった、というのは、これはこれで面白い。
ボノボの「ほかほか」は、わりと知られていることかと思っている。
裸もそうだし、女性器も、そうなのだが、性的と感じるということだけで、忌避感を示す人がいる。性的=悪、という単純図式で考えがちである。
だが、ここは、さらにさかのぼって、なぜ、それを悪と感じるのか、嫌悪感をいだくのか、その理由を考えることだと思う。それには、生物の進化、人類の進化、文化の多様性(本来の意味での)が、重要なことになる。また、なぜ、性とか生や死ついてのことでは、タブーとなることがあるのか、(そのあり方は、文化的多様性があるとして)、その理由を考えることが必用だろう。性について、あけっぴろげに語ることも大事であるが、その一方で、それをタブー視することがあるのは何故なのか、その感覚は、絶対にいけないことなのか、ということも、同時に考えてみなければならないと、私は思うのである。
特に性に限ったことではなく、生や死や、そして現代ならば差別ということも、社会にあってタブー視する/しない/してはいけない……感覚や価値観が錯綜している。まずは、このあたりのことを冷静に考えることが、まさに多様性の尊重のためには、必要なことである。
ここで重要だと思うことは、人間が男性に生まれるか女性に生まれるか選択できないのと同様に、どのような性的指向や性的規範をもつかも選択できない、少なくとも、かなり困難なことである、という認識である。性的規範が、社会構築的なものであることは、それが人間の文化である以上は、そういうものなのだが、どういう性的規範の時代や社会の中で生まれて育つかを、自分で選択することはできない。
自分の自由意志で選ぶことができないこと、男性であるか、女性であるか、肌の色がどうであるか、ということで、差別があってはならない。であるのと同様に、どのような性的指向であるか……異性が好きか、同性が好きか、どちらでもないか、その他いろいろ……こういうことは自分の自由な意志で選ぶことのできないものである。だからこそ、同性愛は、病気でもないし、犯罪でもない。性的規範が、社会構築的であるとして、そのような社会で育った感覚を、改めることは困難である。それが人間にとっての文化である。
多文化の尊重ということならば、現在の性的規範的……それは、今の日本では西欧規準かもしれないが……その、絶対的な正しさを主張してはならないし、異なる性的規範のもとに生きている人がいることは、尊重されなければならない。こういう視点にたってこそ、本当の意味でのリベラルであり、人権の尊重というべきである。
2026年1月2日記
未解決事件「File.10 三億円事件」 ― 2026-01-15
2026年1月15日 當山日出夫
未解決事件 File.10 三億円事件
この事件のことは、はっきりと憶えている。私ぐらいの世代だと、三億円、というと、どうしてもこの事件のことを思い出す。(その後、竹藪から一億円が見つかったということもあったりするのだが。)
誰が死んだということでもないし、損をしたということでもない。ただ、犯人に間違われた人物がいて、不幸な死となったということはあるのだが。
犯人とされるモンタージュ写真は、あまりにも有名である。事件があって犯人の顔として思い浮かべるのは(つかまらなかった)、この三億円事件と、グリコ・森永事件のキツネ目の男ということになるだろう。
見ていて、この時代には、日本信託銀行という銀行があって、自動車としてセドリックがあった時代だったんだなあ……ということを、感じる。一万円札が聖徳太子であった時代でもある。
思うこととしては、初動捜査のミスということは、印象に残る。しかし、この時代、捜査本部にすべて資料が集まったとしても、その重要度の判断が、限られた人員では難しかっただろうという気もする。紙の資料をひたすら見ていくということになるから、これは人員があったとしても、どうしてもミスということは有りうることになるだろう。
これが現代だったら、どのような捜査になるだろうか。多くの証拠が残されているので、それを手がかりに、とは思う。だが、大量生産で大量販売されたものから、犯人をたどることは難しいかもしれない。
2026年1月13日記
未解決事件 File.10 三億円事件
この事件のことは、はっきりと憶えている。私ぐらいの世代だと、三億円、というと、どうしてもこの事件のことを思い出す。(その後、竹藪から一億円が見つかったということもあったりするのだが。)
誰が死んだということでもないし、損をしたということでもない。ただ、犯人に間違われた人物がいて、不幸な死となったということはあるのだが。
犯人とされるモンタージュ写真は、あまりにも有名である。事件があって犯人の顔として思い浮かべるのは(つかまらなかった)、この三億円事件と、グリコ・森永事件のキツネ目の男ということになるだろう。
見ていて、この時代には、日本信託銀行という銀行があって、自動車としてセドリックがあった時代だったんだなあ……ということを、感じる。一万円札が聖徳太子であった時代でもある。
思うこととしては、初動捜査のミスということは、印象に残る。しかし、この時代、捜査本部にすべて資料が集まったとしても、その重要度の判断が、限られた人員では難しかっただろうという気もする。紙の資料をひたすら見ていくということになるから、これは人員があったとしても、どうしてもミスということは有りうることになるだろう。
これが現代だったら、どのような捜査になるだろうか。多くの証拠が残されているので、それを手がかりに、とは思う。だが、大量生産で大量販売されたものから、犯人をたどることは難しいかもしれない。
2026年1月13日記
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