『出発は遂に訪れず』島尾敏雄2017-02-27

2017-02-27 當山日出夫

島尾敏雄.『出発は遂に訪れず』(新潮文庫).新潮社.1973 (新潮社.1964)

このところ、島尾敏雄の本など読んでいる。『狂うひと』(梯久美子)を読もうと思ってのことである。

やまもも書斎記 2017年1月26日
『死の棘』島尾敏雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/26/8333549

やまもも書斎記 2017年2月12日
『魚雷艇学生』島尾敏雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/12/8358121

それから、その妻(島尾ミホ)の本。

やまもも書斎記 2017年2月10日
『海辺の生と死』島尾ミホ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/10/8356483

この作品「出発は遂に訪れず」は、『死の棘』とならんで、島尾敏雄の代表作といってよい。太平洋戦争末期の、特攻隊(震洋)の隊長としての経験をつづっている。

短編集である。「島の果て」(昭和21年)からはじまって、「出発は遂に訪れず」(昭和37年)までをおさめる。解説にしたがうならば、これらの作品は、題材やテーマにより、多岐にわたる。特攻という戦争体験をあつかったものもあれば、『死の棘』に通じる、妻や子供のことを描いたものもある。あるいは、自分自身を漂泊者、亡命者のごとくみなした紀行文的な作品もふくむ。島尾敏雄の文学の種々の側面を、この短編集に読み取ることができよう。そして、それらは、おそらくは、『死の棘』に結実していくものとしてある、といってもよい。

ただ、上記の妻・島尾ミホの書いた『海辺の生と死』とあわせて読むならば、冒頭におかれた最初の作品「島の果て」、そして、最後の作品「出発は遂に訪れず」が、興味深い。

太平洋戦争末期の奄美大島、そこに配属された特攻隊(震洋)の隊長(作者)と、島の娘との出会い……それを、男(作者)の側から描いたものが、本書であるとするならば、女(後に妻となる)の側から描いたものが、『海辺の生と死』に所収の「その夜」ということになる。

私の場合、たまたま、島尾敏雄の作品の方から先に読むことになった。これが、逆だったら、どんな印象をいだくことになったろうか。ともあれ、特攻をひかえた兵士のもとに、死を覚悟して、夜しのんで会いにいく女の姿は、どちらの側から描いても凄絶である。そして、その描写は、それぞれ微妙にちがっている。これは、男性の立場と、女性の立場の違いもあるし、同じことを題材に描いていながら、昭和21年に書いたものと、昭和37年に書いたものの違いもある。

これについて、「事実」がどうであったかを詮索するのは、文学を読むということからは無意味なことなのだろうと思う。どの作品も、その作品の書かれた視点からみれば、「真実」を描いているものである。

整理してのべるならば、この『出発は遂に訪れず』という短編集は、二つの観点から読むことができよう。

第一は、最終的に『死の棘』に結実していくことになる、いろんな要素をふくんだ短編小説群として、読む。

第二は、妻・島尾ミホの書いた作品と対照させて、それを後の夫の立場から見た作品として、読む。

この二つの観点から、この短編集を読み解くことができようか。

感想めいたものをしるすならば、島尾敏雄の眼は、どこか冷めたところがある。それに対して、島尾ミホの文章は、情熱的である。このような視点のちがいが、後の『死の棘』にどう描き出されるのか、そう考えて見ることもできよう。

ともあれ、現代日本文学のすぐれた作品として、これらの作品があるということを、堪能すればそれでいいのだと思う。