『細雪』谷崎潤一郎(その六)2017-02-06

2017-02-06 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年2月5日
『細雪』谷崎潤一郎(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/05/8350837

さきに角川文庫版の内田樹の解説をひいて、この作品は、失ってしまったものへの哀惜の念の小説であると書いておいた。そのことを、再度、確認する。このように書いてある。

「「存在するもの」は、それを所有している人と所有しない人をはっきりと差別化する。だが、「存在しないもの」は「かつてそれを所有していたが、失った」という人と、「ついに所有することができなかった」という人を〈喪失感においては差別しない〉谷崎潤一郎の世界性はそこにあるのだと私は思う。」 〈 〉内 原文傍点。 (p.300)

このことに私も異論はない。だが、そのうえで、あえて次のように考えてみることも無意味ではないだろう。それは、谷崎は、それを所有していた人の視点にたって、この小説を書いている、ということである。

ここで、私に思い浮かぶのは、石原千秋の次の本である。

石原千秋.『漱石と三人の読者』(講談社現代新書).講談社.2004
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061497436

この本における漱石論への賛否は別にしても、この本でしめされたような考え方……つまり、作者は、どのような読者を想定して、その小説を書いたのか、ということは、考えられるべきである。このことを、谷崎潤一郎『細雪』について考えて見ると、どうであろうか。

第一に思い浮かぶのは、それを所有していた人、である。もはや戦争によって失われてしまった、美的生活……芦屋の「中流」の生活……それを、実体験として知っている人が、まず思い浮かぶ。数少ないであろうが、このような人たちが実際にいたことは確かなことである。でなければ、『細雪』のような小説は成立しない。

第二には、大正時代から古くからの谷崎の読者たち、であろうか。谷崎潤一郎がそれまでに描いた、あるいは、『細雪』で描き出そうとした世界に、なにがしか共感するものをもっている人たちということになる。これも、いくぶんかは、それを所有していた人たちであろう。具体的には、作中で頻繁に登場する歌舞伎座での公演。それに足をはこぶような人たち、といってもよい。あるいは、「六代目(菊五郎)」の舞台を知っているような人ともいえようか。

第三には、最初、この小説が発表された「中央公論」(戦時中)、「女性公論」(戦後)、その読者であるような人たち。このような人たちは、全国にいるであろう。この人たちも、戦争によって、なにがしかの喪失感を感じずにはいられなかった人たちということになる。

石原千秋にならって『細雪』が、どのような読者に向けて書かれたものかを、想像してみると、だいたい以上のようになるかと思っている。この分析が妥当かどうかは別にしても、ある作家、作品が、どのような「読者」を想定して書かれたものであるか、考えてみることは無意味ではない。いや、むしろ、歴史的に、その作品を位置づけようとするならば、積極的にもっと考えられなければならないことでもあろう。

このような視点にたって考えるとき、谷崎潤一郎は、それを所有していた経験をもつ人を、読者のなかに想定していたと考えるのが、妥当であろうと思う。もちろん、それに限定されるのではなく、その外側に、さらに広範な雑誌の読者を考えることになる。だが、そのコアになる部分に、戦前の阪神間(芦屋)の「中流」家庭の経験をもつ人たちを考えていたはずである。

それをふまえたうえで、それを失ってしまったものとして、普遍的な価値観のもとに読める小説に書き上げたのは、いうまでもなく、谷崎潤一郎の小説家としての手腕にほかならない。一般的、普遍的な価値観にまで高めることができたからこそ、『細雪』は、その喪失の経験をもたない読者にも、受け入れられる作品として読まれるのである。

これまで、一週間、『細雪』について、あれこれと考えてみた。この他にも、書くべきことはある。たぶん、この小説は、その阪神間(芦屋)の「中流」家庭についての、〈情報小説〉でもある。それは、漱石の『三四郎』が、東京帝国大学の事情を、「朝日新聞」の読者に知らしめるため、という作品として読めるということの類似においてである。このようなことについても、いろいろ考えることはあるのだが、ひとまず『細雪』については、しばらく休みにしておきたい。次は「全集」版で読んでみてからということになるだろうか。