今年読みたい本のことなど2017-01-01

2017-01-01 當山日出夫

謹賀新年

このブログを、去年の五月に再開した。本を読んで、そして、それを文章にする生活をおくりたいと思うようになったからである。

もう、私は年齢としては、還暦をすぎた。そして、今では、それから一年以上すぎている。決して若くはない。しかし、だからといって、まだ年をとって衰えたというのは、早いかと思う。たしかに、目は老眼になってきて、小さい文字の本を読むのがつらくなってきている。眼鏡をはずさないと読書できない。だが、まだ、本は読めるし、こうして、パソコンに向かって文章をつづることもできる。

「読んでいない本」がたくさんある。これからは、これまで名前は知っていても「読んでいない本」のいくつかでも、読んでおきたいと思う。古今東西の古典、名著、名作。

ひろい意味での「文学」……文学・歴史・哲学といった本を読んでおきたい。人文学の基礎的書物である。

かつて、このブログを始めたとき、人文情報学、デジタル・ヒューマニティーズということを考えていた。これを推進する立場に今も私はかわりはない。デジタルの世界が、どんどんこれからの人文学の世界を変えていくだろう。そのことは、自分なりに十分承知しているつもりでいる。

いや、だからこそというべきか、人文学の人文学たるゆえん……本を読むこと、文章を書くこと、それから、人と語ること……これらのことに時間をつかっていきたいと思うようになってきている。このことをわすれて、人文情報学というものはないだろうと思う。

今年(2017)、読んでおきたいと思っている本(シリーズ)としては、まず、『定本漱石全集』がある。夏目漱石の作品は、若い頃、高校生のころからしたしんできた。数年おきに、その代表的な小説作品は読み返すようにしている。2016年は、漱石没後100年。2017年は、漱石生誕150年になる。岩波書店がまたあらたに『定本漱石全集』を刊行する。前の版ももっているのだが、この新しい漱石全集で、漱石の作品を、もう一度、自分なりに確認しながら読んでみたい。
https://www.iwanami.co.jp/news/?action=detail&news_no=17359

それから、去年(2016)に完結した『井筒俊彦全集』(慶應義塾大学出版会)。私が大学生になったとき、井筒俊彦は、すでに慶應を去った後だった。だが、鈴木孝夫、池田弥三郎などの諸先生を通じて、その面影を感じたものである。直接、その謦咳に接したのは、岩波ホールでの講演会の時であった。このようなすぐれた知性がこの世に存在するのか、と感銘をうけた覚えがある。『井筒俊彦全集』はそろえて買ってある。また、その生前に出た単行本もほとんど持っている。これらの本を、今の自分でどれだけ理解できるかどうかわからないが、読んでみたい。
http://www.keio-up.co.jp/kup/izutsu/cw.html

みすず書房が、『中井久夫集』(全11巻)を刊行する。これも、読んでみたい。
http://www.msz.co.jp/topics/08571-08581/

その他、『歴史学の名著30』(山内昌之)『政治学の名著30』(佐々木毅)(ちくま新書)などのブックガイドを参照しながら、そのいくつかでも、読んでおきたい。これら、ひろい意味での「文学」に属する本……古典的名著……を読みたい。私の学生のころに出た、中央公論の「世界の名著」、これは、古本で非常に安く買えるようになっている。あるいは、なかには、新しい新訳が文庫本などで刊行されているものもある。

ともあれ、読書ということで生活をおくりたい、これが新年にあたっての抱負である。

なお、蛇足でつけくわえれば、私は、若いときからミステリ好きである。いや、ここは古風に探偵小説といいたい。良質なミステリ、探偵小説、を読んでいきたいとも思っている。

『政治学の名著30』佐々木毅2017-01-02

2017-01-02 當山日出夫

佐々木毅.『政治学の名著30』(ちくま新書).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063557/

ちくま新書には、『~~の名著30』というタイトルの本がいくつかある。そのうちの一つ。『歴史学の名著30』については、すでにふれた。

やまもも書斎記 2016年12月23日
山内昌之『歴史学の名著30』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/23/8286305

『歴史学~~』の方は、今では売っていないようだが、こちら『政治学~~』の方は、今もあるようだ。(こういう違いはどかからきているのか。著者の意向によるものなのだろうか。単に売れ方の違いなのか。)

古典的名著というべき本のブックガイドである。

「Ⅰ 政治の意味」では、
プラトン 『ゴルギアス』
マキアヴェッリ 『君主論』
ヴェーバー 『職業としての政治』

「Ⅷ 歴史の衝撃の中で」では、
福沢諭吉 『文明論之概略』
孫文 『三民主義』
ハイエク 『隷従への道』
アレント 『全体主義の起源』
丸山眞男 『(増補版)現代政治の思想と行動』

政治学についての本であるが、これは、私流に解釈すれば、ひろい意味での「文学」の範疇にはいるものと理解している。「ことば」によって、いかにして、その「思想」をつたえるか……これは、「文学」ということで理解する。狭い意味での小説とか詩歌とかだけが、「文学」であるのではないという立場で考えている。

このなかには、読んだことのある本もあれば、名前だけの本もある。これから、本を読んでいくガイドとして手元において眺めている。

その「まえがき」につぎのようにある。「政治学」の本を集めてあることの意義についてである。ちょっと長くなるが引用する。

 その際に大事なことは、政治についてどう考えるかが政治の現実を構成する要因である、という無視できない現実に思いを致すことである。これらの名著が単なる知的アクセサリーの域を遙かに超えて、まさに現実を支え、さらには新しい政治的な現実を生み出した原動力であったことを忘れてはならない。
(中略)
その意味で政治学の名著はシリアスに受けとめられなければならない。そしてシリアスなものをシリアスに受けとめる習慣をなくすことはやがて大きな災いの素になるであろう。

以上 p.13

このような筆者の意図に即してみるならば、バークの『フランス革命についての考察』などは、ただ保守主義の古典としてではなく、現に、アクチュアルに今の政治のあり方を考える立場から、吟味されて読まれなくてはならない、ということになる。丸山眞男の本など、まさに戦後政治の背景によりそって存在するといってもよかもしれない。そして、これからもそのように読まれねばならないであろう。

ところで、私は、自分自身のことを、これまで非政治的人間だと思って生きてきた。だが、この世の中で生きているという限りにおいて、まったく非政治的であるということは不可能であるということも、なんとなく実感するようになってきている。近代という時代、現代という社会のなかで生きているうえで、何を考えていくべきか、これから本を読みながら、自分なりに時間をつかいたいと思っている。今、自分が生きている、近代、現代、ポストモダンの時代とはいったい何であるのか、である。

『涙香迷宮』竹本健治2017-01-03

2017-01-03 當山日出夫

竹本健治.『涙香迷宮』.講談社.2016
http://kodansha-novels.jp/1603/takemotokenji/

昨年(2016)の、ミステリ(国内)ベストの作品である。
・このミステリーがすごい2017 第1位
・ミステリが読みたい 第2位
・週刊文春ミステリーベスト10 第3位
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/6834

私個人の感想としては、たしかに、ことしのベスト10に入る作品であるとは思うが、1位かどうかは、微妙な感じ、といったところか。

碁盤にうつぶした死体からスタートする。そして、黒岩涙香についての蘊蓄が語られる(これは、これとして、非常に面白い)。「いろは歌」の謎。いわゆる「いろは歌」ではなく、新作の「いろは歌」の数々登場。謎の館。「いろは歌」の暗号。連珠。そして、嵐の山荘(これはもうミステリの定番である)。そこでおこる殺人事件。最後には、暗号の解明と、それにまつわる犯行動機。

ただ難点をいえば・・・謎の解明(犯人が誰か)が「論理」によっていない。ストーリーの運びとしては、自然な流れになっているのだが、「挑戦状」が出てくるような作りにはなっていない。これが、論理的に犯人をあてられるような作りになっていれば、という気がしないではない。

これが、論理的に犯人を絞り込めるようになっていれば、文句なしの1位であると、私は思う。とはいえ、十分に、現代ミステリの極致、その醍醐味を楽しめる作品である。特に、暗号ミステリとしては、凝りに凝ったつくりになっている。

蛇足をいささか。

私の記憶では、私のわかいころのこと(学生のころ)、週刊朝日が、「パロディ」を募集していたなかに、新作いろは歌もあったような気がするのだが、どうだったろうか。

それから、明治になってから作られた新作いろは歌「とりなくこゑす」の作、これは、たしか中学か高校の時に、ならって知っている。これは、いまはどうなんだろう。今の学生は知っているだろうか。

『いろはうた』(小松英雄)を、読み返してみたくなった。この本は出たときに買って読んで、どこかにあるはず。探してきて、再読してみよう。(日本語史の知識の整理ということにもなるし。)

『天子蒙塵』(第一巻)浅田次郎2017-01-04

2017-01-04 當山日出夫

浅田次郎.『天子蒙塵』(第一巻).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062201940

この作品には、著者(浅田次郎)がインタビューにこたえる特設HPがある。
http://news.kodansha.co.jp/20161027_b01

これは、『蒼穹の昴』シリーズの、第五作目ということになる。第一巻を読んだ限りの印象であるが、このシリーズ、だんだんつまらなくなってきている気がする、正直なところ。

作品としてもっとも完成度が高いのは、『珍妃の井戸』だと、私は思う。謎の死をとげた珍妃、その真相をめぐる連作短編。一作ごとに、真相に近づいていく。しかし、その最後に明らかになった真相とは・・・と、最後まで読者をひきつける小説としてのうまさ、構成力は、これはたいしたものだと思ったものである。(読んだのは、もうかなり前になるので、印象で憶えているだけだが。)

『天子蒙塵』、この第一巻は、「かたり」でなりたっている。かたっているのは、清朝最後の皇帝である溥儀の妃(側室)・文繍。日本人の新聞記者相手に、自分の半生、特に、溥儀との関係、そして、離婚にいたる経緯をかたる。時代的背景としては、張作霖の死から、満州国建国ぐらいまで。

この作品、はたして、溥儀を描こうとしているのだろうか。満州国について語ることになるのか。(まだ、第二巻を読んでいないので、なんともいえないが。)

辛亥革命の後の中国。そのなかで、なお清朝復辟を願う遺臣たち。溥儀とその妃たち。この物語(第一巻)は、いわゆる側室の立場にあった文繍が、離婚するまでを描いている。だが、そこに、たしかに、時代的背景として、当時の日本、中国、そして、溥儀がでてくるのだが、私の読んだ印象としては、どうも、いまひとつその輪郭が明瞭ではない。「かたり」の背景に、かすんでいる。

上記の、『天子蒙塵』の特設HPを読むかぎり、この作品は、満州国、それから、張学良、さらには、西安事件を描くことになるらしい。第二巻以降に期待して読むことにする。

しかし、なぜ、このシリーズ、最初の『蒼穹の昴』では架空の人物(梁文秀)を主人公にしていたのに、作品が新しくなるにしたがって、歴史的事実に近いところに視点を設定するようになっているのだろう。小説としては、架空の人物を設定することによって、自在に、歴史のなかをかけめぐる方が面白い。

たぶん、それは、近現代の日本と中国との関係を、いくら小説とはいえ、架空の人物の視点では描けないという、著者の判断があったのかもしれない。(かりに、文繍と溥儀の離婚ということを描くにしても、その文繍自身にかたらせずに、そばにつかえていた誰かの視点をかりることも可能であったろうにと思うが。)

ともあれ、第二巻以降、満州国という歴史上の出来事を、小説として、どのように描くのか、溥儀という人物がどのように描き出されるのか、これが気になっているところである。

なお、現代に日本で、満州国を小説で描いたといえば、『満州国演義』全九巻がある。船戸与一。
http://www.shinchosha.co.jp/bunko/blog/2015/08/14.html

私は、この作品は、単行本で出たとき、完結してから、そろえて一気に読んだものである。その後、著者(船戸与一)の死を経てから、文庫本になっている。

現代日本において、満州国を舞台にした小説となれば、この『満州国演義』を意識しないはずはないと思う。このあたりも、気になるところである。

『「ひとり」の哲学』山折哲雄2017-01-05

2017-01-05 當山日出夫

山折哲雄.『「ひとり」の哲学』(新潮選書).新潮社.2016
http://www.shinchosha.co.jp/book/603793/

この本、Amazonの評価がまっぷたつに分かれている。高く評価するひとと、まったく評価しないひとと。で、このように評価の分かれる本は、案外面白かったりするものなので、読んでみることにした。

タイトルに「哲学」とある……だが、「ひとり」をあつかった、体系的・論理的な哲学的考察をもとめると、がっかりすることになる。この本は、決してそのような内容ではない。むしろ、「ひとり」ということばに触発されて、いろいろと思いをめぐらせた随想とでも読めば、それなりに納得できるところもある。どちらの側面をもとめて読むかで、評価がわかれるかな、と思う。

親鸞・道元・日蓮・一遍といった人物……その生きた時代、鎌倉時代を、著者は基軸時代ととらえている……これらの人物の足跡をめぐる旅と随想と思えばいいであろうか。そして、そこからつむぎだされる「ひとり」。

ところで、(今ではもうあまり読まれないかと思うが)唐木順三という人がいた。その著作に『無用者の系譜』という本がある。今では絶版。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480010230/

私は、この本は高校生の時に読んだと憶えている。日本文化、文学、思想の歴史を通じて、自らを「無用者」とみなした人たちについて、考察をめぐらせている。

たぶん、私の印象としては、著者(山折哲雄)は、自らを現代社会における「無用者」としてとらえようとしているのではないか、そのように思ってしまった。この本(『「ひとり」の哲学』)の中には、唐木順三についての言及はなかったように読んだ。だが、読後感、特に、その「あとがきに代えて」を読むと、自分自身の生き方として、現代の無用者であろうと思い定めているように感じられてならない。

このような視点にたって、この本を読むならば、それはそれなりに納得できるところがある。(しかし、前述したように、「哲学」と銘打っているからといって、論理的な体系性のある思想をもとめてはならない。)

唐木順三の『無用者の系譜』を読んだ経験のある人にとっては、読んでみてもいい本だと思う。

『「ひとり」の哲学』山折哲雄(その二)2017-01-06

2017-01-06 當山日出夫

昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2017年1月5日
『「ひとり」の哲学』山折哲雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/05/8303134

読んでいて、私が付箋をつけた箇所について、いささか。

「法然や親鸞、道元や日蓮の〈思想の本質〉が、今日の日本においては少数の〈知的エリート〉をのぞいて、ほとんど何の影響ものこしてはいないということだ。なるほどその後、法然や親鸞を開祖とする教団は社会的な一大勢力を形成し、同じように曹洞宗教団や日蓮宗教団も広範な民衆のあいだに教線をひろげていった。しかしそれは、けっして開祖たちの思想そのものを起動力にして発展していったものではない。開祖たちの信仰の灯を唯一の導きとして拡大していったわけでもなかった。/大教団として発展が可能になったのは、ひとえに先祖供養を中心とする土着の民間宗教がそれを支えたからである。」(p.175) ※〈 〉内、原文傍点。

これは、そのとおり。日本の仏教史の常識的な知識といっていいかもしれない。

ただ、一般的には、教科書的な知識として、これらの教団・宗派の開祖の登場と同時に、社会的影響力をもつ大きな教団が形成されたと理解されているのかとも思う。この意味においては、ここのところを、もう少し掘り下げて論じておいてほしかった気がする。先祖供養と日本仏教の関係は、非常に重要な課題である。(たぶん、このあたりの記述のものたりなさが、この本の評価を下げる要因になっているのかとも思ったりする。)

また、特に、親鸞や日蓮の、近代日本仏教における理解というのは、近代仏教史を考えるうえで、はずすことはできないであろう。

島薗進・中島岳志.『愛国と信仰の構造-全体主義はよみがえるのか-』 (集英社新書) .集英社.2016
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0822-a/

そういえば、この本については、ちょっとだけ言及しながら、その後、書いていなかった。

やまもも書斎記 2016年6月9日
安丸良夫『神々の明治維新』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/09/8107799

それから、現代における、道元の理解、特に、『正法眼蔵』の理解については、昨日も書いたが、唐木順三の仕事がある。山折哲雄が、唐木順三の本を知らないでいたとは思えないので、やはりこの本は「無用者」として書いた本かという気がしてくる。

『アンナ・カレーニナ』トルストイ(新潮文庫)2017-01-07

2017-01-07 當山日出夫

トルストイ、木村浩(訳).『アンナ・カレーニナ』(上・中・下)(新潮文庫).新潮社.1972(2012改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/206001/
http://www.shinchosha.co.jp/book/206002/
http://www.shinchosha.co.jp/book/206003/

去年の夏休みに、『戦争と平和』を読んだ。

やまもも書斎記 2016年9月9日
トルストイ『戦争と平和』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/09/8175825

この本も再読である。自分の冬休みの宿題として読んでみた。これも、新しい本で読んだ。改版されて、活字がきれいになって大きくなっている。読みやすい。

この作品についても、世界文学の名作として、いまさら私が何ほどのことを付け加えて書くこともないだろうと思うが、今、思っていることをいささか。

昨年末(2016)、NHKのBSで、「映像の世紀プレミアム」を再放送していた。朝、『ごちそうさん』(再放送)が終わって、テレビをそのままにしていたら始まったので、見てしまった。二日にわたって、戦争と芸術、戦争と科学、がテーマであった。以前に放送した「映像の世紀」(新・旧)をあわせて再編集したもののようである。

30日、芸術をあつかった回であったと憶えている。トルストイが登場していた。ナレーションでは、トルストイのことばとして、芸術とは……と語っていた。(漫然と見ていて、その内容は記憶していないのだが。)

その時、テレビを見ながら感じたことは、トルストイというのは芸術家なんだな、ということ。これは、当たり前すぎることのようかもしれないが、意外と現代では、盲点になっている発想かもしれないと思った。

芸術といって、美術や音楽は思い浮かべる。だが、文学がはいるだろうか。私の印象では、近年、この傾向は希薄になっているように感じる。文学、文学者、として思うかべるのは、主に小説、小説家、であろう。そして、小説と親和性の高いのは、芸術家、であるよりも、思想家、であるように思われる。

これは、私の思い込みかもしれないが、今日の文学は、芸術よりも思想に近い。

たとえば、昔出ていた本、中央公論社の「日本の名著」シリーズ。このなかに、夏目漱石、森鴎外の巻がある。つまり、文学としてあつかっているのではなく、思想をとりあげている。日本の近代に対する批判的まなざしという点からして、漱石の文明批評などは、思想としてとりあげるにふさわしいとは思う。また、このようにもいえようか、ノーベル文学賞の小説家である大江健三郎を、芸術家というのがふさわしいだろうか。

素朴な印象として、小説というのは、文学であり、それは、芸術であったのだな、と、テレビをみてふと思ったのである。現代の日本では、小説は、エンターテインメントであり、そして、思想である。

そして、この『アンナ・カレーニナ』である。現在での読後感をといわれれば、芸術としての小説、その完成されたかたち、とでもいえようか。

年をとってきたせいであろうが、小説を読んでも、ただストーリーを追っていればよい、というのではもったいない、という気がしてきている。その文章のことばの表現をかみしめながら、ページをめくっていく。そのような読み方がしたくなってきている。

ただ、ストーリーを追うだけという、若い時の読み方とは、ちがった印象がある。読後感として、ありきたりであるが、芸術としての小説を読んだという気になった。無論、この小説、および、トルストイについて、その世界観、人生観、宗教観といったものを取り出して論じることはできるであろう。だが、何よりも、読後感として残る、芸術的感動としかいいようのない感覚、それが、翻訳を通じてであれ、味わいうるということは貴重なことであると思う。

芸術的感動……芸術としての小説を感じる感性……これこそ、人文学の基底をささえる感覚として重要なのではないかと思う。これは、アンナ・カレーニナのテキストのデジタル版があるとかという以前の、人間と文学とのかかわりにおいてである。

『アンナ・カレーニナ』トルストイ(新潮文庫)(その二)2017-01-08

2017-01-08 當山日出夫

やまもも書斎記 2017年1月7日
『アンナ・カレーニナ』トルストイ(新潮文庫)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/07/8307206

やはり、この作品そのものについての私の感想めいたものをいささか書いておきたい。

たぶん、独断と偏見で思って見ても、この作品は、世界の文学……それも小説というジャンルに限ってみるならば……そのベストに位置する作品であるといってよいだろう。近代、19世紀の文学、ロシア文学の傑作というにふさわしいと思う。

昨日の記事で、私は、この作品を芸術であると書いた。この冬休み、久々にこの作品を再読して……その日は、しばらく他の本を手にとる気がしなかった。それほどに、ヒロイン(アンナ)の最後のシーンと、それにいたる心のなかの描写は、圧倒的な感動をもってせまってくるものがあった。この本の読後感は、芸術的感動というべきものであった。

主人公は、アンナであるが、この作品には、幾組かの男女が登場する。
アンナを中心として、ヴロンスキー、そして、夫のカレーニン。
オブロンスキーとドリイ
リョービンとキチイ

文庫本にして、2000ページを超えるような大作でありながら、基本的な登場人物は、上記の男女でしめられている。男と女、夫婦、その間の感情の機微、これが、あらゆる角度から微細に描かれる。そして、それが、ありきたりなものとして読者を飽きさせるということがない。

たぶん、これは、若い時に読んだのでは、ただ、物語のストーリーを追っていっただけでは、分からないことだった。

文学を読むには、読者のもっている経験とか体験とか、人生観とかというものの積み重ねが必要である。ただ、文学的な想像力と感性だけでは、及ばないところがあるとおもうようになった。それは、年をとったから分かるというものでもない。その年齢に応じた読み方ができるということである。

以前、北原白秋について書いたとき、もはや若い時のような感動は味わえないという意味のことを書いた。年をとってしまえば、若い時のような素直な感性は、失われてしまってしまっている(まあ、私の場合は、としてもよいが。)

このことについては、昨年のブログで、何度かふれたことがある。

逆に、ある程度、年をとって経験を積んでからでないと分からないこともあるだろうと思うようにもなってきた。(まあ、半分は、年をとってしまったことの負け惜しみのような気分もあってのことであるが。)

文学青年など、今の時代には、絶滅危惧種かもしれない。しかし、このような時代にあっても、なお、文学というものが人に読まれる価値があるとするならば、それは、若い時のみならず、それなりに年をとってからでも、読むに値するからでなければならないと思う。何も、文学は、若い者の特権ではない……と、もう若くない私は、思う次第である。

『アンナ・カレーニナ』について、率直な感想を言えば、最終章のリョービンの部分、ここに、作者・トルストイの人生観、世界観、宗教観が凝縮して語られていることは理解できるのであるが、それまでのアンナの描写からすると、何かしら、違和感を感じないでもない。これも、ここのところを先に分かって十分に理解して、再読、再々読してみれば、納得できるものかであろう。この作品、少し時間がたってから、再々読、再々々読、と読んでみたいものである。

そして、感じることは、この作品は、トルストイの宗教観なしには成立しない作品である。しかし、そのトルストイの考えに賛同する/しないに関係なく、近代小説として完璧とでもいうべき作品になっている。その宗教観を超えて、芸術としてなりたっている小説である。

と、ここまで書いて、この作品についての感想めいたものは、書けないのであると感じたのである。それには、作者・トルストイの宗教観・人生観を、じっくりと吟味するだけの用意がこちらにできてから、ということになるのだろうと思っている。つまり、永久に超えることのできな壁のようなものとしてある。この意味においても、この作品は芸術である。

文学を芸術として鑑賞するすることができる、これが読書の喜びでなくてなんであろうか。

NHK「ブラタモリ」浦安と『新・青べか物語』島戸一臣2017-01-09

2017-01-09 當山日出夫

NHKの「ブラタモリ」、2017年1月8日の放送は、浦安が舞台であった。浦安には、何度か行ったことがある。ディズニーランドに行くためである。(この私でも、ここに行ったことはある。とはいえ、かなり昔のことになる。まだ東京に住んでいたころのはなし。)

ここで、書いておきたいのは、ディズニーランドのことではない。この番組を見ていて、私の脳裏に去来したある本についてである。

島戸一臣.『新・青べか物語』.朝日新聞社.1990
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002072631-00

※この本、もう朝日新聞社のHPには掲載されていないようなので、国立国会図書館「サーチ」の結果をしめしておくことにする。

このブログ「やまもも書斎記」をつくっているのは、ASAHIネットにおいてであるが、これは、昔、パソコン通信の会社であった。朝日新聞社系列。そのアサヒネットをたちあげた、最初の社長が、島戸一臣であった。(たしか社長であっていると思うが。)

ここで、気になって見てみると、ASAHIネットに今でも残っている。ただ、会員でないと見られないようであるが。

まだ、パソコン通信のアサヒネットの時代、その島戸一臣が、自ら、ネットに書き込んだ文章をもとにして本にしたのが、『新・青べか物語』。この本、まだ、私は、どこかに持っているはずである。

NHKの「ブラタモリ」でも紹介していたように、浦安の街は、戦後の高度経済成長期に埋めたてられるまでは、東京湾に面した、浅瀬のひろがる漁師町であった。その漁師町ですごした、少年時代のことを回想した作品。たしか、葦の原で遊んだことも書いてあったかと思う。

番組の中、言及はなかったが、画面のなかには「青べか物語」「山本周五郎」の文字が、店の看板として映っていた。『新・青べか物語』は、山本周五郎の作品『青べか物語』をふまえて書いている。

山本周五郎.『青べか物語』(新潮文庫).新潮社.1964 (作品の成立は、1960)
http://www.shinchosha.co.jp/book/113403/

ともあれ、テレビを見ながら、『青ベか物語』(山本周五郎)を思い出した人もいたにちがいない。しかし、その一方で『新・青べか物語』(島戸一臣)のことを思った人も少しぐらいはいたかと思う。私は、その一人である。

浦安という街は、私にとって『新・青べか物語』の思い出とともにある土地である。

『おんな城主直虎』あれこれ「井伊谷の少女」2017-01-10

2017-01-10 當山日出夫

『おんな城主直虎』2017年1月8日、第1回「井伊谷の少女」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story01/

今年も続けて、大河ドラマを見ることにした(とりあえずである。いつまで続くことになるかわからないが。)

第一回を見た限り、かなり面白そうである。気付いた点をいくつか。

第一に、脚本がわかりやすい。井伊家については、人物関係が、かなりややこしい。番組HPの系図を見てもすぐには分からない。それをとりあえず、世代の違い(子供たち三人とその親)、敵(今のところは今川になるか)と味方(井伊の家の方)、ということで、かなり整理して描いてある。単純にしすぎるのもどうかと思うが、わかりやすいことはいいことである。

わかりやすいといえば、第一回では、随所に回想シーンが挿入されていた。過去の場面をふりかえるところが、何カ所かにあって、そこで、その時のことを確認しながら、先に話しがすすむというふうになっていた。このちょっとした工夫で、随分とこの物語は、わかりやすいものになっていた。

第二に、これをもう第一回で描いてしまっては、と思ったところ。ヒロインが、水に飛び込む。それから、高いところにのぼる。洞窟を探検する。これら、ドラマにおいては、イニシエーションとして表象される要素を、ふんだんに盛り込んであった。

まあ、このドラマは、イニシエーションの連続ということになるらしい。一度出家して、それから、さらに還俗して、城主になる……という流れのようだから、その時々のイニシエーションを、どのように表象するかというのは、興味深いところではある。

以上の二点が、第一回を見ての主な感想である。

ただ、すこし付け加えるなら、今川の館での場面。謀反のうたがいということで、殺されたようだ(亀の父親)。見ていると、どうも屋敷の中で殺してしまったような描写であったが、どうなんだろう、その当時においても、「血のけがれ」という意識はあっただろうから、謀反人をその屋敷の中で処刑するようなことはなかったのではなかろうか。このあたりのことが、ちょっと気になった。

さらに書けば、第一回として、その終わり方、次回への続け方は、これはうまいと思った。亀が生きていることは、だいたい承知しているのだが、最後のシーンで、子供のときにうまく逃げおおせたかどうか、やはり気になる。ここを、うまくつかって次回につなげていた。

そして、さらにさらに蛇足を書けば、あの猫。次回も出てくるのだろうか。

ともかく、次週の第二回も見ることにしよう。