『死の棘』島尾敏雄 ― 2017-01-26
2017-01-26 當山日出夫
島尾敏雄.『死の棘』(新潮文庫).新潮社.1981(2003改版)(原著 新潮社.1977)
http://www.shinchosha.co.jp/book/116403/
読んでみた。いうまでもないことであるが、この作品、現代日本文学を代表する作品の一つといっていいだろう。だが、「読んでいない本」であった。それを読んでみようとおもったのは、
梯久美子.『狂うひと-「死の棘」の妻・島尾ミホ-』.新潮社.2016
http://www.shinchosha.co.jp/book/477402/
を読んでみたいと思ったからである。こちらの方を読むよりもまず、『死の棘』を読んでおかないといけないと思って読んだ。
元来、私は、あまり「私小説」というものを好まない。近代日本文学において、「私小説」が重要な位置を占めることは認識しているつもりではいる。しかし、自分の好みとして、あまり読んでこなかった。『死の棘』という作品、島尾敏雄という作家の名は、吉本隆明の著作で目にしたと憶えている。だが、「私小説」というものを、特に忌避していたということはないのだが、なんとなく手にしないままで過ごしてきてしまった。
今回、『死の棘』を読んでみて……意外なほどにあっけなくというか、すんなりとというか、ほぼ一気に、600ページほどの本を読んでしまった。
全体にわたって、ストーリーらしいストーリーはない。夫(トシオ)と、妻(ミホ)の話しが大部分をしめる。それに、子供たちがちょっと登場する。事件らしい事件もない。後半になって、ミホの入院とか、家庭での暴力沙汰事件とかがあるが、そのような出来事があっても、一貫して、トシオがミホを見る視点で、全編がつらぬかれている。
読んで「面白い」と感じる作品ではない。しかし、そこになにがしかの「文学的感動」とでもいうべきものを、見いだすことのできる作品である。それは、「狂気」を見つめる、夫(トシオ)のまなざしである。そして、読み始めたら、一気にこのストーリーらしいストーリーのない小説の世界のなかに引き込まれていってしまう。これを、「文学」というのだな、と思う。
これは、たぶん、私の年齢も関係していると思う。もう、登場人物(トシオとミホ)の年よりも、はるかに年をとってしまっている。だからだろう、登場人物を、ある程度の余裕をもって見ることができる。これが若い時だったら、ミホを見みつめるトシオをどう感じただろうか。ミホよりも、トシオの視線のあり方の方に、狂気を感じていたかもしれない。(この作品を読んでいて、最初の方では、狂っているのは、ミホではなく、むしろ、トシオの方ではないかと、感じさせるところがある。)
文章を読んで気になったところがいくつかある。時々、異常に長いセンテンスになっているところがある。文庫本で、半ページほどが、ひとつのセンテンスになっていたりする。あるいは、直接話法で語る部分と、間接話法で語る部分が、混雑している。このあたり、どうにも気になって読んでいたのだが、途中から気にならなくなった。この小説は、このような各種の文章の要素が混在して、それで、独自の文学的文章を形成しているのだな、と感じるようになった。
この小説の話しがどこまで「本当」のことであるかという詮索はさておき、この作品、「私小説」というジャンルの意識をとりはらってみても、十分に文学としてなりたっている、そのように感じて読んだ。
さて、次は、『狂うひと』を読むことにしよう。いや、その前に、『海辺の生と死』(島尾ミホ)を読んでおくことにする。
島尾敏雄.『死の棘』(新潮文庫).新潮社.1981(2003改版)(原著 新潮社.1977)
http://www.shinchosha.co.jp/book/116403/
読んでみた。いうまでもないことであるが、この作品、現代日本文学を代表する作品の一つといっていいだろう。だが、「読んでいない本」であった。それを読んでみようとおもったのは、
梯久美子.『狂うひと-「死の棘」の妻・島尾ミホ-』.新潮社.2016
http://www.shinchosha.co.jp/book/477402/
を読んでみたいと思ったからである。こちらの方を読むよりもまず、『死の棘』を読んでおかないといけないと思って読んだ。
元来、私は、あまり「私小説」というものを好まない。近代日本文学において、「私小説」が重要な位置を占めることは認識しているつもりではいる。しかし、自分の好みとして、あまり読んでこなかった。『死の棘』という作品、島尾敏雄という作家の名は、吉本隆明の著作で目にしたと憶えている。だが、「私小説」というものを、特に忌避していたということはないのだが、なんとなく手にしないままで過ごしてきてしまった。
今回、『死の棘』を読んでみて……意外なほどにあっけなくというか、すんなりとというか、ほぼ一気に、600ページほどの本を読んでしまった。
全体にわたって、ストーリーらしいストーリーはない。夫(トシオ)と、妻(ミホ)の話しが大部分をしめる。それに、子供たちがちょっと登場する。事件らしい事件もない。後半になって、ミホの入院とか、家庭での暴力沙汰事件とかがあるが、そのような出来事があっても、一貫して、トシオがミホを見る視点で、全編がつらぬかれている。
読んで「面白い」と感じる作品ではない。しかし、そこになにがしかの「文学的感動」とでもいうべきものを、見いだすことのできる作品である。それは、「狂気」を見つめる、夫(トシオ)のまなざしである。そして、読み始めたら、一気にこのストーリーらしいストーリーのない小説の世界のなかに引き込まれていってしまう。これを、「文学」というのだな、と思う。
これは、たぶん、私の年齢も関係していると思う。もう、登場人物(トシオとミホ)の年よりも、はるかに年をとってしまっている。だからだろう、登場人物を、ある程度の余裕をもって見ることができる。これが若い時だったら、ミホを見みつめるトシオをどう感じただろうか。ミホよりも、トシオの視線のあり方の方に、狂気を感じていたかもしれない。(この作品を読んでいて、最初の方では、狂っているのは、ミホではなく、むしろ、トシオの方ではないかと、感じさせるところがある。)
文章を読んで気になったところがいくつかある。時々、異常に長いセンテンスになっているところがある。文庫本で、半ページほどが、ひとつのセンテンスになっていたりする。あるいは、直接話法で語る部分と、間接話法で語る部分が、混雑している。このあたり、どうにも気になって読んでいたのだが、途中から気にならなくなった。この小説は、このような各種の文章の要素が混在して、それで、独自の文学的文章を形成しているのだな、と感じるようになった。
この小説の話しがどこまで「本当」のことであるかという詮索はさておき、この作品、「私小説」というジャンルの意識をとりはらってみても、十分に文学としてなりたっている、そのように感じて読んだ。
さて、次は、『狂うひと』を読むことにしよう。いや、その前に、『海辺の生と死』(島尾ミホ)を読んでおくことにする。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/26/8333549/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。