『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』2019-10-11

2019-10-11 當山日出夫(とうやまひでお)

古典は本当に必要なのか

勝又基.『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』.文学通信.2019
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-16-6.html

https://bungaku-report.com/blog/2019/09/post-601.html

この本は出てすぐに読んだのだが……読んで思ったことなど書こうと思いながら、時間がたっている。それは、この本に書かれていることについては、すでに私が書いたこと以上のことは、もう言う必要がないと思われたからである。

やまもも書斎記 2019年1月18日
「古典は本当に必要なのか」私見
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/18/9026278

やまもも書斎記 2019年1月26日
「古典は本当に必要なのか」私見(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/26/9029000

やまもも書斎記 2019年2月16日
「古典は本当に必要なのか」私見(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/16/9036658

これらの文章で私が考えてみたことに、はっきり言って、この本は答えてくれていない。いやむしろ、これは避けるべきであろうとした問題点に陥っているとさえ言える。それは、上記の「私見(その三)」の末尾に書いたことである。繰り返しになるが、再度書いてみる。

次のことを書いた。

=====

最後に付け加えて書いておきたいことがある。「古典は本当に必要なのか」をめぐっては、様々にWEB上で議論がある。それらを見て思うことがある。次のことは語ってはいけないことだと、自分自身への自省として思っていることである。

それは、
・高校の時のルサンチマンを語らない
・自分の今の専門への愛を語らない
この二つのことがらである。

このことをふまえたうえで、何故、古典は必要なのか、あるいは、必要でないのか。また、他の教科・教材についてはどうなのか、議論されるべきだと思うのである。

=====

これをふまえて、さてどうだろうか。この本は、陥穽におちいってはいないだろうか。

いくら今の自分の専門……江戸時代の文芸であろうと……への愛を語ったところで、それが、古典不要論に対する反論としては、意味を持つものではありえない。

そして、それからいろいろ考えて、今思うことは、「教養」というものがもっている「暗黙知」の問題である。実際に社会に出てつかう実用的な必要のある人はあまりいないかもしれないが、しかし、この程度のことは、社会人として一般的に知っておくべきこと……それを「教養」と言ってみるが……これは、時代や社会によってかわる。また、それは、「暗黙知」でもある。

おそらく「教養」には、実際に役にたつ知識や技能という側面と、「暗黙知」として、その社会の構成員である人びとに共有されるべき知識、この二つの側面がある。

たとえば英語(なかんずく英会話)やプレゼンテーション技能などは、さしずめ前者であろうし、広義に考えれば数学などは後者にはいるだろう。無論、大学以上の専門においては、数学は実用的に必須という領域がある(工学部など)。

だが、その一方で、いわゆる理系の大学の学部などで必要であるというだけではないという側面もある。文系の勉強をするにも数学への理解は必要になってくる。「教養」としての数学である。この意味で、「古典」は後者に属する。

「暗黙知」……言いかえるならば、あえてそれを表に出して議論しようとするならば、わけがわからなくなり雲散霧消してしまうしかないものである。しかし、ある時代や社会においては、人びとに共有される当然のこととして、確固として普通に思っていること、ということになる。

古典否定派の言うこと、たとえば、有限の高校生の授業時間の中で、何を優先的に教えるべきか……このことを正面から問われたときには、「古典」必要派としては、実用性という観点からは、もはや沈黙するしかないように思える。

ところで、これも繰り返しになるが、「古典」というものが近代になってから再発明、再発見されてきたものであるという側面を、きちんとふまえて議論しなければならない。「古典」が必要であるというならば、そのようなものとしての「古典」の性格をわかったうえで、これからの「古典」の教育の是非、必要・不必要が論じられるべきである。

たとえば、今の元号「令和」の出典は『万葉集』である。これは、『万葉集』が「国書」であり「古典」であるから、そこに典拠をもとめた……これは、元号を決めた側の理屈である。日本の国・政府の立場である。これに対して、いや、そうではないと言うこともできよう。元号がそこからとられたことによって、『万葉集』が「古典」として、再定義、再生産されていくのである、と。

このような批判的視点こそ、これからの時代において必要なものであると私は思う。そのためには、最低限の「古典」の素養は、「教養」として身につけておくべきものである。むろん、そこでの知識は、ちょっと専門的な勉強をすれば、すぐに消し飛んでしまうようなものかもしれない。だが、そうではあっても、それを知っていることを当然の前提、基礎として、それに対する批判的知見というものが成り立ちうる。(さらにいえば、このような批判的視点を持ちうるのが、真の「教養」というべきものであろう。)

『万葉集』が「古典」になったのは、近代になってからであり、また、元号の出典として「古典」として再定義されているものである……このような批判的視点を確保するためには、まず『万葉集』が「古典」として教育の場に出てこなければならない。このような、非常に屈折した意味においてであるが、「古典」は教育において必要であると考える。

「古典」をめぐる議論は、「教養」における二つの点……「実用」という側面と、それから、「暗黙知」という側面と、この二つのこと両方を視野にいれた議論として……そして、それを区分して……展開されるべきものであると考えるのである。

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