「古典は本当に必要なのか」私見(その二)2019-01-26

2019-01-26 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月18日
「古典は本当に必要なのか」私見
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/18/9026278

「古典」を現代語訳で読んではいけないのだろうか。そんな質問が当日あった。実は、これについては、答えるのがむずかしい。

「原文」主義をとるならば……「原文」で読んでこそ、そのニュアンスが理解されることもある。特に詩歌についてはそうである。また、現代日本語を母語としている人間にとって、「古典」を「原文」で読む、そのハードルが非常に低いということを自覚することもできる。千数百年以上にわたる日本語の歴史の連続性があってのことである。

実際、『万葉集』の歌のいくつかなどは、ほとんど注釈なしに現代日本語で理解できるものもある。(これは、原典の理解としては問題が無いということではないが。)

だが、「原文」ということについても、いろいろ問題が無いではない。

まず、「古典」の「原文」とは何か、ということがある。いわゆる「原文」とされるものは、現代の文字(活字)になおしたものである。仮名文には適宜漢字をあててある。句読点も付加してある。また、『万葉集』『古事記』のようなものは、漢字仮名交じりに書き下したものを使うことになる。もとの漢字だけの表記ではでてこない。また、無論のこと、変体仮名・くずし字などもでてこない。いわゆる現代における校注テキストである。

現代語訳で「古典」は教えられないのか、という趣旨の発言がいくつかあった。これについては、現に、河出書房新社の出している次のシリーズがある。

池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 全30巻
http://www.kawade.co.jp/nihon_bungaku_zenshu/

この全集を、今回のシンポジウムのテーマとの関連で見るならば、次のことが注目すべきことになる。

「古典」については、現代語訳でいれていることである。「原文」主義ではない。また、その訳のほとんどはこのシリーズのための新訳である。例外的なのが、『万葉集』が折口信夫の「口訳万葉集」をつかっていること。また『今昔物語』が福永武彦訳をつかっている。これらをのぞけば、他の作品は、現代の作家・文学者による新訳である。

この現代語訳の日本文学全集については、次の本でも肯定的にとらえている。

津野海太郎.『最後の読書』.新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/318533/

シンポジウムでの「古典」を現代語訳で教えていいのではないか、という指摘はもっともなことである。だが、現実の出版・書物の方では、それを既に先取りしているのである。「古典」は、現代にふさわしい新しい現代語訳で読めばよいのである。

このような意味において……確認するならば、現代日本語訳で「古典」を読む……河出の日本文学全集は、先見の明のある仕事をしているといえないだろうか。「古典は本当に必要なのか」という問題設定のあり方自体が、すでに陳腐化しているともいえる。

また、さらに付け加えるならば、この全集の第30巻『日本語のために』には、アイヌ語とその現代日本語訳、琉球語『おもろさうし』などが、収録してある。これは、「日本文学」が、狭義の「国語=日本語」の範囲にとどまらないことをしめしている。これも卓見というべきであろう。

かりに「古典」についての知識・理解が、中等教育(高校)で必須であるとしても、では、それは、「国語」という科目のなかで「古文」という枠を設定することによってしか教えることはできないものなのであろうか。「古典」教育における「原文」主義、また、「古典文法」、これらについては、現代の知見から再定義の必要があるように思う。

なお、最近出た本として、次の本がある。

河内昭浩(編).『新しい古典・言語文化の授業-コーパスを活用した実践と研究-』.朝倉書店.2019
http://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-51061-4/?fbclid=IwAR1NO3-znJ9Nk4WjgT5r-f_lC-n7lc_-lvWyo9rsPd9rEtPnREuPc0Khx00

「古典」が必要であるからといって、その教材・教授法が昔のままでいいというわけではない。従来の「国語」「古文」の枠のなかで教えるとしても、さらに改善の必要がある。また、他の教科、たとえば、「歴史」のような科目のなかで、「日本」のことをどう教えるのか、このような観点も「古典」の教育において必要になるにちがいない。

最後に書いておくならば、「古典」の教育が必要であるからといって、それが、偏狭なナショナリズム教育になってはいけないと思う。この観点からは、「古典」の教育は、「国語」という科目の中にとどめておくのが、無難であるのかもしれない。これは杞憂かもしれないが。

追記 2019年2月16日
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月16日
「古典は本当に必要なのか」私見(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/16/9036658

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