『光る君へ』「岐路」2024-05-06

2024年5月6日 當山日出夫

『光る君へ』第18回「岐路」

白楽天の『新楽府』が出てきていた。私としては、この作品について書き出せばきりがない。まあ、この時代、『新楽府』が平安貴族の間で流行していたことは確かであり、紫式部も読んでいたにちがいない、とだけは言っておきたい。また、これから、『秦中吟』は出てくるだろうか。

道兼も死んでしまった。こうなることは史実としては分かっていたことなのだが、まことにあっけない。諸行無常という気持ちになる。

冒頭で出てきた、宋との貿易。これは歴史的にそうなのだろう。いわゆる「唐物」である。(おそらくその中に、宋版の『白氏文集』あるいは『白氏長慶集』もあっただろう。)

酒の飲みっぷりという点では、まひろより寅子の方が上手である。

このドラマの平安貴族の描き方にも、そろそろ慣れてきた。『源氏物語』など読んでいる感覚からすると、貴族階級の女性はそんなに人前に顔を見せるものではないし、立ち上がってすたすたと歩くこともない、というイメージなのだが、このあたりは、現代風に作ってある。「ゐざる」とか「膝行」とかということは見られない。

まひろとききょうが並んで座って話しをする場面があったが、正座していた。私の感覚としては、どうしても違和感がある。

定子のもとに顔を出した清少納言(ききょう)は、いわゆる十二単であったが、これは後宮で中宮の前に出るから正装でということでいいだろうか。

それにしても一条天皇は聡明である。実際にはどうだったのだろうか。藤原氏の摂関政治の道具にされた天皇というぐらいに思っていたのだが、逆に、摂関政治というシステムを利用しようとしているように見える。いやそれよりも、周囲の女性たちの方がそれぞれにしたたかというべきか。

一条天皇と定子がならんで座っているシーンがあったのだが、これは当時の宮廷の生活としては、どうなのかと思う。表側ではなく、後宮においてなら、このような姿はあったということなのだろう。それにしても、一条帝と定子はなかむつまじい。

ところで、道兼が死ぬときに、浄土と言っていた。この時代、一〇世紀の終わりごろであれば、貴族階級の人びとの間に浄土という考えがひろまっていてもおかしくはない。それが具体化して、平等院鳳凰堂のようなものが作られるのは、もうちょっと後のことになるが。

出てこないと思って見ているのが、牛車である。貴族同士が牛車に乗り合わせて密談というようなことはあったかもしれないのだが、どうもそういうシーンは無いらしい。賀茂の祭り、葵祭のときの、車あらそいの場面などあるかと思って期待しているのだが、どうなるだろうか。葵祭は、今は、五月一五日である。

権力の座についた道長であるが、具体的にどのような政治をおこなおうとするのか、ここのところが今ひとつはっきりしないのが難点である。救恤ということはあるのだろうが、荘園のことなど、この時代の動きはどうなのだろうか。歴史学にうといので、よくわからないところである。

次週以降はどうなるだろうか。まひろは十二単を着るようだ。楽しみに見ることにしよう。

2024年5月5日記

「石油王VS勇敢な母親〜ゲッティ家誘拐事件〜」2024-05-06

2024年5月6日 當山日出夫

アナザー・ストーリーズ 石油王VS勇敢な母親〜ゲッティ家誘拐事件〜

録画して残してあったものだが、面白かった。

この事件のことは記憶していない。ちょうど私が高校生のころのことになる。日本では、どのように報じられたのだろうか。イタリアで起こった襟目的の誘拐事件、その当時としては、そう珍しいものではなかったのかもしれない。

現在、ゲッティの名前は、美術関係でよく目にする。いや、それでしか目にしないといってもいいかもしれない。テレビなど見ていても、画像データについては、ゲッティと表示されることが、非常に多くある。もはや、この存在なくしては、テレビの番組は作れないといってもいいかもしれない。ニュースを見ていても、アメリカのトランプ元大統領の画像に、ゲッティの表示がある。

興味深いことは、誘拐事件の顛末もあるが、ゲッティが遺産を美術館に残したことの意味であるのかもしれない。大富豪になったからといって、それで幸福になれるわけではない。世の中の人びとのために何ができるのか、考えるということもあったのだろう。

今、世界は富の一極集中、偏在と分断の時代になっている。富豪たちは、いったい何を考えているのだろうか。少なくとも半世紀前までは、金持ちの家族にろくなやつはいない、ということだったかと思うのだが、はたして今はどうだろうか。

2024年5月2日記