事件の涙「桐島聡 “仮面”の逃亡劇」 ― 2025-03-01
2025年3月1日 當山日出夫
事件の涙 桐島聡 “仮面”の逃亡劇
見て(録画であるが)思うことはいろいろあるが、まず感じたのは、今の時代にあんなボロの木造アパートがあって、住んでいる人がいるのか……という、率直な驚きである。(台所、トイレは共同だろうし、風呂はついていないようである。)
東アジア反日武装戦線、三菱重工爆破事件のことは、記憶している。この時代、連合赤軍事件のことが終わり、世の中が平穏な感じがあった時代、と言っていいかもしれない。しかし、一方で、革命こそ正義である、という感覚が若者の間から、まったくなくなったということではない。私が、大学生になったころ、まだ、キャンパスのなかには、その残滓のようなものはあった。三田のキャンパスでも、ヘルメットをかぶって集団でデモをする(ごく少人数だったが)学生が、まだ残っていた時代でもある。
東アジア反日武装戦線の主張したこと、日本の大企業による、世界のなかの弱者である後進国へ、経済的に殖民地侵略を企てている、今の日本人は、その恩恵で生きている共犯者である……まあ、このような論理になるのだが、このような考え方は、この時代、多くの人にとって、完全に否定することはできなかったことでもあると、今になって思い返すことになる。この感覚は、現代でもまったく消えたということではない。かつての第三世界が、今では、グローバルサウスに言いかえられていることになる。(だからといって、その起こした事件を肯定することではないが。)
今の時代であっても、偽名のまま生活するということは、決して不可能ではないだろう。いわゆる、日雇い労働者、下層の労働者、というべき人たちのなかには、自分の正体を隠して生きて行かざるをえない人も、いくらかはいると思う。また、そのような人であっても、なんとか生きていけるところが、世の中にはある。(私の考えとしては、世の中には、こういうところもあっていいと思っている。あまりにも潔癖にクリーンにしてしまうだけが、人間の生きる世の中のあり方ではない。同時に、そういう状態から抜け出したいと思ったときのための、支援の窓口は用意してあるべきであるが。)
桐島聡の場合、最期まで、仮の名前のままで生きていくことは、出来なかったということになる。あるいは、桐島聡の名前を棄てきれなかったとも、いえるかもしれない。まったくの想像でいえば、全国に指名手配されている「桐島聡」は実は自分なのだ、と自負するところがあったのかもしれない。これも、今となっては、完全に闇の中である。
死ぬ最期に、食べたいものはと聞かれて、アイスが食べたい、ガリガリ君が食べたいと言ったそうなのだが、おそらく、日々の仕事のなかでたまにコンビニなどで買って食べるガリガリ君が御馳走だったのかもしれない……と思うことになる。
人間の生き方として、こういう生き方もあるのか……というのが、感じるところである。
2025年2月25日記
事件の涙 桐島聡 “仮面”の逃亡劇
見て(録画であるが)思うことはいろいろあるが、まず感じたのは、今の時代にあんなボロの木造アパートがあって、住んでいる人がいるのか……という、率直な驚きである。(台所、トイレは共同だろうし、風呂はついていないようである。)
東アジア反日武装戦線、三菱重工爆破事件のことは、記憶している。この時代、連合赤軍事件のことが終わり、世の中が平穏な感じがあった時代、と言っていいかもしれない。しかし、一方で、革命こそ正義である、という感覚が若者の間から、まったくなくなったということではない。私が、大学生になったころ、まだ、キャンパスのなかには、その残滓のようなものはあった。三田のキャンパスでも、ヘルメットをかぶって集団でデモをする(ごく少人数だったが)学生が、まだ残っていた時代でもある。
東アジア反日武装戦線の主張したこと、日本の大企業による、世界のなかの弱者である後進国へ、経済的に殖民地侵略を企てている、今の日本人は、その恩恵で生きている共犯者である……まあ、このような論理になるのだが、このような考え方は、この時代、多くの人にとって、完全に否定することはできなかったことでもあると、今になって思い返すことになる。この感覚は、現代でもまったく消えたということではない。かつての第三世界が、今では、グローバルサウスに言いかえられていることになる。(だからといって、その起こした事件を肯定することではないが。)
今の時代であっても、偽名のまま生活するということは、決して不可能ではないだろう。いわゆる、日雇い労働者、下層の労働者、というべき人たちのなかには、自分の正体を隠して生きて行かざるをえない人も、いくらかはいると思う。また、そのような人であっても、なんとか生きていけるところが、世の中にはある。(私の考えとしては、世の中には、こういうところもあっていいと思っている。あまりにも潔癖にクリーンにしてしまうだけが、人間の生きる世の中のあり方ではない。同時に、そういう状態から抜け出したいと思ったときのための、支援の窓口は用意してあるべきであるが。)
桐島聡の場合、最期まで、仮の名前のままで生きていくことは、出来なかったということになる。あるいは、桐島聡の名前を棄てきれなかったとも、いえるかもしれない。まったくの想像でいえば、全国に指名手配されている「桐島聡」は実は自分なのだ、と自負するところがあったのかもしれない。これも、今となっては、完全に闇の中である。
死ぬ最期に、食べたいものはと聞かれて、アイスが食べたい、ガリガリ君が食べたいと言ったそうなのだが、おそらく、日々の仕事のなかでたまにコンビニなどで買って食べるガリガリ君が御馳走だったのかもしれない……と思うことになる。
人間の生き方として、こういう生き方もあるのか……というのが、感じるところである。
2025年2月25日記
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