『カムカムエヴリバディ』「1983ー1984」「1984ー1992」 ― 2025-03-23
2025年3月23日 當山日出夫
『カムカムエヴリバディ』「1983ー1984」「1984ー1992」
この週で描いていたのは、映画村でのあれこれ。
『棗黍之丞 隠れ里の決闘』を再映画化することになる。主演は、二代目モモケンである。敵役の左近をオーディションで選ぶ。かつて、初代のモモケン主演のときには、虚無蔵が演じた。映画としては失敗作であったことになるが、殺陣のシーンはよかったという評価である。そのオーディションに、文四郎と、さらに虚無蔵が参加するという。
映画村での、いろんなできごとを、主にひなたの視点で描いている。
この時代、1980年代になれば、日本の映画産業は斜陽化していたころであり、特に、時代劇は困難な時代になっていたころである。せいぜい、テレビ用ドラマの撮影ぐらいだったろうか。かといって、日本で完全に時代劇映画が途絶えてしまったということではないはずであるが。
初代モモケンと虚無蔵、それから、二代目モモケン、これらの人びとの、いろんな思惑が交錯する展開だった。時代劇の衰退の流れを肌で感じている映画人だからこそ、かつての栄光を夢みるところもあり、一方で、時代劇のなかでしか生きていけないという役者としての自分の生き方を自覚するということでもあり、それぞれの登場人物の時代劇への思いが、行き交う流れになっていた。
それに、もうこの時代になってというべきだが、時代劇俳優を目指している文四郎が加わり、そして、もう落ち目としかいいようのない美咲すみれも出てくる。
ドラマの作り方としては、オーディションのシーンがよかった。虚無蔵と文四郎、それに、二代目モモケンでの殺陣になるのだが、現代の条映でのそれと、かつての映画のシーンが交錯する映像になっている。
オーディションが終わった後、モモケンが虚無蔵に対して、自分はスターですよ、大部屋俳優になんか声をかけませんよ……と言っていた。自分は時代劇のスターである自負と同時に、もう時代劇の時代ではなくなっている、また、それを背負っているのが自分であることを自覚しているからこその、台詞というべきだろう。
美咲すみれもいい。下手な役者の役をやるというのは、かなり難しいと思うのだが、実に見事に落ち目の女優である。蕎麦屋で、ひなた相手に飲んだくれているすみれのぐい飲みに、大女優、と書いてあるのは、最初に見たときに気がついて、なかなか細かな演出だなと思ったのを憶えている。
それから、大月の回転焼きの店で、やってきた文四郎のために、ひなたが回転焼きを焼くシーンがよかった。特に台詞があるというわけではなく、ただ回転焼きを焼くのを、その手順にしたがって写しているのだが、その映像のなかに、文四郎のために回転焼きを焼く練習を重ねてきたひなたの思いが、感じられる演出になっていた。
お茶の稽古のシーン。時間の経過を示すために、床の間の掛け軸が変えてあった。喫茶去とあったものが、次になると、和敬清寂になっていた。どちらも、茶席にふさわしいといえよう。
算太が再登場していた。映画を見て、モモケンに算太が、おいしいあんこのおまじないを言っていた。商店街の回転焼きの大月の前にやってきた算太は、るいの声をきいて姿を消してしまった。ドラマを見ている側では、かつての岡山でのことを思い出すのだが、しかし、ひなたは自分の家族の過去を知らないでいる。
2025年3月21日記
『カムカムエヴリバディ』「1983ー1984」「1984ー1992」
この週で描いていたのは、映画村でのあれこれ。
『棗黍之丞 隠れ里の決闘』を再映画化することになる。主演は、二代目モモケンである。敵役の左近をオーディションで選ぶ。かつて、初代のモモケン主演のときには、虚無蔵が演じた。映画としては失敗作であったことになるが、殺陣のシーンはよかったという評価である。そのオーディションに、文四郎と、さらに虚無蔵が参加するという。
映画村での、いろんなできごとを、主にひなたの視点で描いている。
この時代、1980年代になれば、日本の映画産業は斜陽化していたころであり、特に、時代劇は困難な時代になっていたころである。せいぜい、テレビ用ドラマの撮影ぐらいだったろうか。かといって、日本で完全に時代劇映画が途絶えてしまったということではないはずであるが。
初代モモケンと虚無蔵、それから、二代目モモケン、これらの人びとの、いろんな思惑が交錯する展開だった。時代劇の衰退の流れを肌で感じている映画人だからこそ、かつての栄光を夢みるところもあり、一方で、時代劇のなかでしか生きていけないという役者としての自分の生き方を自覚するということでもあり、それぞれの登場人物の時代劇への思いが、行き交う流れになっていた。
それに、もうこの時代になってというべきだが、時代劇俳優を目指している文四郎が加わり、そして、もう落ち目としかいいようのない美咲すみれも出てくる。
ドラマの作り方としては、オーディションのシーンがよかった。虚無蔵と文四郎、それに、二代目モモケンでの殺陣になるのだが、現代の条映でのそれと、かつての映画のシーンが交錯する映像になっている。
オーディションが終わった後、モモケンが虚無蔵に対して、自分はスターですよ、大部屋俳優になんか声をかけませんよ……と言っていた。自分は時代劇のスターである自負と同時に、もう時代劇の時代ではなくなっている、また、それを背負っているのが自分であることを自覚しているからこその、台詞というべきだろう。
美咲すみれもいい。下手な役者の役をやるというのは、かなり難しいと思うのだが、実に見事に落ち目の女優である。蕎麦屋で、ひなた相手に飲んだくれているすみれのぐい飲みに、大女優、と書いてあるのは、最初に見たときに気がついて、なかなか細かな演出だなと思ったのを憶えている。
それから、大月の回転焼きの店で、やってきた文四郎のために、ひなたが回転焼きを焼くシーンがよかった。特に台詞があるというわけではなく、ただ回転焼きを焼くのを、その手順にしたがって写しているのだが、その映像のなかに、文四郎のために回転焼きを焼く練習を重ねてきたひなたの思いが、感じられる演出になっていた。
お茶の稽古のシーン。時間の経過を示すために、床の間の掛け軸が変えてあった。喫茶去とあったものが、次になると、和敬清寂になっていた。どちらも、茶席にふさわしいといえよう。
算太が再登場していた。映画を見て、モモケンに算太が、おいしいあんこのおまじないを言っていた。商店街の回転焼きの大月の前にやってきた算太は、るいの声をきいて姿を消してしまった。ドラマを見ている側では、かつての岡山でのことを思い出すのだが、しかし、ひなたは自分の家族の過去を知らないでいる。
2025年3月21日記
『カーネーション』「あなたの愛は生きています」 ― 2025-03-23
2025年3月23日 當山日出夫
『カーネーション』「あなたの愛は生きています」
ようやく終わった。見るのは、二回目か、三回目になるはずである。見ながら思ったことは、これまでに書いてきたのだが、あらためて振り返ってみる。
ドラマの脚本の良さについては、言われているとおりだと思う。
そして、映像としてみても、非常によくつくってあった。ほとんどは、岸和田の糸子の店と家でのことになるのだが、このセットの作り方として、窓から外の景色が見えるようにしてある。庭の木の葉が、風に揺れている。その外から、家の中にさしこむ光が、非常に効果的に使われている。画面の構図と明暗によって、奥行きのある映像として表現していたことになる。一日の時間の変化、季節の変化を、光で表現している。こういう作り方、撮影の方針というべきだろうか、これを、始めから最後まで一貫してつらぬいて作ってある。これは、このドラマをどのような映像として見せるか、という方針がきっちと定まっていて、途中でブレていないということでもある。
また、岸和田の小原の呉服店、オハラ洋装店、この店や家のなかに映っているものの数が多い。単純なことだが、これは、非常に重要なことだと思っている。ちょっとした小道具を、いかにも、その時代の、その店や家庭らしい雰囲気で用意するというのは、なかなか大変だろう。それだけ、制作スタッフが小道具などの製作に頑張っているということである。この画面に映っているものの数が多いということは、これまでに、つまらないと感じたドラマでは、画面がスカスカであったということでもある。
最後の岸和田の店の二階でのパーティーとだんじり見物のシーンでも、この回のためだけに、テーブルの料理や食器など、いかにもそれらしく、そして、豪勢に見えるように準備してあった。こういうところの制作の手間暇を惜しまないところが、いいドラマの基礎になっている。
そして、何よりも、主人公の糸子が、職人として仕事をする場面を、きちんと描いていたことである。洋裁の仕事としては、基本的にミシンをあつかうことになるのだが、このドラマでは、糸子がミシンをかける描写が、何度となく映っていた。それが、別にくどいとか、毎回同じでマンネリだとか、感じさせない。その時々の、糸子の感情をこめて、ミシンをあつかう描写になっていた。
オハラ洋裁店でも、多くの人が働いていた。その仕事ぶりが、それらしく描写してった。(実際には、外に工房があってもいいかもしれないと思うのだが、ここは、あえて店のなかで多くの働く人として、映していたことになる。)
こういう職人が働いて、手を動かしている場面を、きちんと描いてあることが、このドラマを、より説得力のあるものしている、大きな要因だろうと思う。
糸子のものの考え方や感覚については、あるいは、かならずしも賛同できないという人もいるかもしれない。しかし、こういう人間が、その時代に生きてきて、そのように思い感じてきた、その生活の感覚は、しっかりと伝わってくるものであったし、その糸子の生活感覚は、ドラマ全体をとおして一貫したものとなっている。人物の造形がしっかりしていて、統一性がとれているということになる。
人間とはこういうもの、世の中で生きていくというのはこういうこと、これを、説得力のある脚本と演出で描きだしたドラマであり、成功した見事な事例といっていいことになる。歴代の朝ドラのなかで、最高傑作と評価されるだけの価値のあるドラマである。
2025年3月22日記
『カーネーション』「あなたの愛は生きています」
ようやく終わった。見るのは、二回目か、三回目になるはずである。見ながら思ったことは、これまでに書いてきたのだが、あらためて振り返ってみる。
ドラマの脚本の良さについては、言われているとおりだと思う。
そして、映像としてみても、非常によくつくってあった。ほとんどは、岸和田の糸子の店と家でのことになるのだが、このセットの作り方として、窓から外の景色が見えるようにしてある。庭の木の葉が、風に揺れている。その外から、家の中にさしこむ光が、非常に効果的に使われている。画面の構図と明暗によって、奥行きのある映像として表現していたことになる。一日の時間の変化、季節の変化を、光で表現している。こういう作り方、撮影の方針というべきだろうか、これを、始めから最後まで一貫してつらぬいて作ってある。これは、このドラマをどのような映像として見せるか、という方針がきっちと定まっていて、途中でブレていないということでもある。
また、岸和田の小原の呉服店、オハラ洋装店、この店や家のなかに映っているものの数が多い。単純なことだが、これは、非常に重要なことだと思っている。ちょっとした小道具を、いかにも、その時代の、その店や家庭らしい雰囲気で用意するというのは、なかなか大変だろう。それだけ、制作スタッフが小道具などの製作に頑張っているということである。この画面に映っているものの数が多いということは、これまでに、つまらないと感じたドラマでは、画面がスカスカであったということでもある。
最後の岸和田の店の二階でのパーティーとだんじり見物のシーンでも、この回のためだけに、テーブルの料理や食器など、いかにもそれらしく、そして、豪勢に見えるように準備してあった。こういうところの制作の手間暇を惜しまないところが、いいドラマの基礎になっている。
そして、何よりも、主人公の糸子が、職人として仕事をする場面を、きちんと描いていたことである。洋裁の仕事としては、基本的にミシンをあつかうことになるのだが、このドラマでは、糸子がミシンをかける描写が、何度となく映っていた。それが、別にくどいとか、毎回同じでマンネリだとか、感じさせない。その時々の、糸子の感情をこめて、ミシンをあつかう描写になっていた。
オハラ洋裁店でも、多くの人が働いていた。その仕事ぶりが、それらしく描写してった。(実際には、外に工房があってもいいかもしれないと思うのだが、ここは、あえて店のなかで多くの働く人として、映していたことになる。)
こういう職人が働いて、手を動かしている場面を、きちんと描いてあることが、このドラマを、より説得力のあるものしている、大きな要因だろうと思う。
糸子のものの考え方や感覚については、あるいは、かならずしも賛同できないという人もいるかもしれない。しかし、こういう人間が、その時代に生きてきて、そのように思い感じてきた、その生活の感覚は、しっかりと伝わってくるものであったし、その糸子の生活感覚は、ドラマ全体をとおして一貫したものとなっている。人物の造形がしっかりしていて、統一性がとれているということになる。
人間とはこういうもの、世の中で生きていくというのはこういうこと、これを、説得力のある脚本と演出で描きだしたドラマであり、成功した見事な事例といっていいことになる。歴代の朝ドラのなかで、最高傑作と評価されるだけの価値のあるドラマである。
2025年3月22日記
『おむすび』「家族って何なん?」 ― 2025-03-23
2025年3月23日 當山日出夫
『おむすび』「家族って何なん?」
このドラマについては、賛否が分かれている。非常に好意的に見ている人もいれば、否定的に見ている人もいる。好意的な意見のなかには、前に放送した『虎に翼』にくらべて~~というものが目につくのだが、これは、『虎に翼』が極端にひどすぎたから、比較すればよく見えるというだけのことであって、『おむすび』が特段にすぐれて良いとは思えない。
以下、否定的に見る立場から、思うことを書いてみる。
病院に入院している未成年の女の子に、ベッドの前に管理栄養士が立って、「たべり」と言って、はたして食べる気になるものなのだろうか。私の感覚としては、食事のトレーを置いて、カーテンを閉めてそっと出ていく(これは看護師の役目だろうと思うが)。そのときに、どういうことばをかけるか、あるいは、無言であるか、このあたりが脚本と演出の腕の見せどころだと思う。
これを、何回も、「たべり」「たべり」と繰り返したたみかけるように言うのは、どう考えてみてもマイナスの作用しかないように思えてならない。入院している詩は、家族とうまくいかず、逃げ出して、一人でなんとか雨露をしのいできた、しばらくの間は水しか飲んでいなかった、このような少女に対して、どのように対処するかとなると、まずは、栄養分の補給であり、同時に、心理的なカウンセリングだろう。その次の段階で、なんとかものが食べられるようになった段階で、メニューをどうするかというところで、管理栄養士の仕事ということになると思っている。だが、これも、あくまでも裏方としての仕事であって、直接、病室にやってきて、「たべり」というのが仕事ではない、と私は思うのだが、どうだろうか。
病室を抜け出して逃亡しようとしている詩を、花が偶然に見つけるのだが、ここもおかしい。普通なら、病院の廊下にうずくまっている人を見つけたら、すぐに病院の誰かを呼ぶだろう。それを、詩にたのまれるままに、こっそりと荷物置きの部屋にかくれてしまって、逃亡を手助けしようとういのは、どう考えてもおかしい。困った人を助けるのが米田家の呪い、ということなのかもしれないが、どう考えても花は、人助けをしていることにはならない。(結果的には、詩は、逃亡することなく入院を続けることになったが。)
靴屋の渡辺の登場も唐突で、意味不明である。職人は、どこでも仕事ができる、と言っていたのだが、はたしてそうだろうか。靴職人なら、革などをあつかう。その地方で、どのような材料が手に入るのか、また、気候風土、温度や湿度はどうなのか、微妙に違うはずである。その土地の風土にあった仕事が出来るのが、職人というものだろうと思う。
まあ、たしかに、旅から旅へと放浪する職人というイメージもある。包丁一本さらしにまいて~~という世界もある。これが、靴職人にもあてはまるだろうか。そもそも、靴職人という仕事が、どこに行っても仕事があるような職種とは思えないのだが。まだ、理容師の方が、どこでも仕事ができそうである。
何回も書いたことだが、渡辺が自分の手を動かして靴を作っているというシーンが、これまでに無かった。職人であることを描くならば、何よりも手を動かして仕事をしている場面を、きちんと描いておく、この小さな描写の積み重ねが大事だと思うのだが、これが、まったく欠落している。
愛子と佳代のことも、どうかなと思う。たしかに、旧来の嫁と姑という関係では、今の家族の人間関係を描くことはできない、ということは分かる。だが、だからといって、いきなり実の母と娘のように、というのも不自然である。
何よりも、さしせまった問題としては、年老いた佳代の生活のことがある。一人でできる農作業は限りがあるだろうし、もちろん、日常生活のことや、介護の問題もある。これらの問題をまるで無かったかのようにスルーしてしまって、母と娘の和解の美談のように描いてしまうことには、どうにも違和感がある。
かといって、リアルな高齢者の農業の仕事とか、介護の問題とかを、描くことも難しいかもしれない。実際には、糸島の老人介護施設にはいって、そこを、愛子と聖人が、定期的に訪問する、というぐらいが、現実にありうる姿だろうと思う。だが、こういうリアルを、朝ドラでどう描くかは、また別問題ではあるにちがない。
子ども食堂を商店街の中に作るという。そして、そこを発展させて、地域のコミュニティセンターにしようという。これは、どうだろうか。そもそも、子ども食堂というのは、商店街のなかの人目につくようなところに作るとは、思えない。ちょっと一本脇にそれたところで、あまり人目にはつかないが、しかし、入る気になれば自由に入れる、という立地にするのではないかと思うが、どうなのだろうか。それを、コミュニティセンターにして、地域のいろんな人びとがあつまり、また、行政もかかわるようなところになってしまうとすると、子ども食堂の本来の意義が失われてしまうことになりかねない。
このあたりのこととか、詩のこととか考えてみると、このドラマでは、社会から疎外されたような人びとにどう接するべきなのか(現実的にまずどうすることが妥当なのか)、その根本的なところで、理解が乏しいと思うことになる。
2025年3月22日記
『おむすび』「家族って何なん?」
このドラマについては、賛否が分かれている。非常に好意的に見ている人もいれば、否定的に見ている人もいる。好意的な意見のなかには、前に放送した『虎に翼』にくらべて~~というものが目につくのだが、これは、『虎に翼』が極端にひどすぎたから、比較すればよく見えるというだけのことであって、『おむすび』が特段にすぐれて良いとは思えない。
以下、否定的に見る立場から、思うことを書いてみる。
病院に入院している未成年の女の子に、ベッドの前に管理栄養士が立って、「たべり」と言って、はたして食べる気になるものなのだろうか。私の感覚としては、食事のトレーを置いて、カーテンを閉めてそっと出ていく(これは看護師の役目だろうと思うが)。そのときに、どういうことばをかけるか、あるいは、無言であるか、このあたりが脚本と演出の腕の見せどころだと思う。
これを、何回も、「たべり」「たべり」と繰り返したたみかけるように言うのは、どう考えてみてもマイナスの作用しかないように思えてならない。入院している詩は、家族とうまくいかず、逃げ出して、一人でなんとか雨露をしのいできた、しばらくの間は水しか飲んでいなかった、このような少女に対して、どのように対処するかとなると、まずは、栄養分の補給であり、同時に、心理的なカウンセリングだろう。その次の段階で、なんとかものが食べられるようになった段階で、メニューをどうするかというところで、管理栄養士の仕事ということになると思っている。だが、これも、あくまでも裏方としての仕事であって、直接、病室にやってきて、「たべり」というのが仕事ではない、と私は思うのだが、どうだろうか。
病室を抜け出して逃亡しようとしている詩を、花が偶然に見つけるのだが、ここもおかしい。普通なら、病院の廊下にうずくまっている人を見つけたら、すぐに病院の誰かを呼ぶだろう。それを、詩にたのまれるままに、こっそりと荷物置きの部屋にかくれてしまって、逃亡を手助けしようとういのは、どう考えてもおかしい。困った人を助けるのが米田家の呪い、ということなのかもしれないが、どう考えても花は、人助けをしていることにはならない。(結果的には、詩は、逃亡することなく入院を続けることになったが。)
靴屋の渡辺の登場も唐突で、意味不明である。職人は、どこでも仕事ができる、と言っていたのだが、はたしてそうだろうか。靴職人なら、革などをあつかう。その地方で、どのような材料が手に入るのか、また、気候風土、温度や湿度はどうなのか、微妙に違うはずである。その土地の風土にあった仕事が出来るのが、職人というものだろうと思う。
まあ、たしかに、旅から旅へと放浪する職人というイメージもある。包丁一本さらしにまいて~~という世界もある。これが、靴職人にもあてはまるだろうか。そもそも、靴職人という仕事が、どこに行っても仕事があるような職種とは思えないのだが。まだ、理容師の方が、どこでも仕事ができそうである。
何回も書いたことだが、渡辺が自分の手を動かして靴を作っているというシーンが、これまでに無かった。職人であることを描くならば、何よりも手を動かして仕事をしている場面を、きちんと描いておく、この小さな描写の積み重ねが大事だと思うのだが、これが、まったく欠落している。
愛子と佳代のことも、どうかなと思う。たしかに、旧来の嫁と姑という関係では、今の家族の人間関係を描くことはできない、ということは分かる。だが、だからといって、いきなり実の母と娘のように、というのも不自然である。
何よりも、さしせまった問題としては、年老いた佳代の生活のことがある。一人でできる農作業は限りがあるだろうし、もちろん、日常生活のことや、介護の問題もある。これらの問題をまるで無かったかのようにスルーしてしまって、母と娘の和解の美談のように描いてしまうことには、どうにも違和感がある。
かといって、リアルな高齢者の農業の仕事とか、介護の問題とかを、描くことも難しいかもしれない。実際には、糸島の老人介護施設にはいって、そこを、愛子と聖人が、定期的に訪問する、というぐらいが、現実にありうる姿だろうと思う。だが、こういうリアルを、朝ドラでどう描くかは、また別問題ではあるにちがない。
子ども食堂を商店街の中に作るという。そして、そこを発展させて、地域のコミュニティセンターにしようという。これは、どうだろうか。そもそも、子ども食堂というのは、商店街のなかの人目につくようなところに作るとは、思えない。ちょっと一本脇にそれたところで、あまり人目にはつかないが、しかし、入る気になれば自由に入れる、という立地にするのではないかと思うが、どうなのだろうか。それを、コミュニティセンターにして、地域のいろんな人びとがあつまり、また、行政もかかわるようなところになってしまうとすると、子ども食堂の本来の意義が失われてしまうことになりかねない。
このあたりのこととか、詩のこととか考えてみると、このドラマでは、社会から疎外されたような人びとにどう接するべきなのか(現実的にまずどうすることが妥当なのか)、その根本的なところで、理解が乏しいと思うことになる。
2025年3月22日記
最近のコメント