『豊臣兄弟!』「秀長の国」 ― 2026-09-28

2026年9月28日 當山日出夫

『豊臣兄弟!』「秀長の国」

いくら美味しくないおにぎりであっても、食べかけのまま残すというのは、どうかなと思う。食べ物を粗末にしてはならないという、日本人の醇風美俗に反する、ことになる(あえて言えばであるが)。これも、お百姓さんが丹精込めて作ったお米なのである。こういう脚本や演出は、とても悪い。

この回では、おもに二つのことを描いていたことになる。一つは、蜂須賀正勝のことであり、秀長の大和郡山築城と興福寺のことである。

歴史として、一番興味深いのは、秀吉の所領分配。誰に、どこの土地を与えるかということである。畿内を豊臣の家臣で固める、ということがナレーションでは言っていたことであり、おそらくは、これが、豊臣政権のあり方の基本的な姿を作ったということかと思う。ここは、現代の歴史学として、豊臣政権の権力の構造というべきところを、説明的になっても、言っておいた方がよかったかと思われる。豊臣政権が長続きしなかったということが、たぶん、この段階に原因を求めることができるのだろう。

大和の国を秀長がおさめることになる。これは、歴史的にそうだし、NHKの奈良局では、去年から、一生懸命に『豊臣兄弟!』を宣伝してきている。郡山城は何度もテレビに映っている。それで、もう、映りすぎたのでやめにしたのか、最後の紀行では、石垣の中のお地蔵さんを映していなかった。

ここで気になることは、いくつかある。

秀吉、秀長は、百姓出身ということであるが、それは、単に出自がそうであるということだけのことだった。具体的なこの時代の百姓の生活……これは、決して米作だけに限らず、商工業をふくんだものとして……が、これまでにほとんど描かれてきていない。戦国時代の武将として、百姓のことをどう思っていたのか、まったく出てきていなかった。だが、ここで、急に、秀長がお米を見て、これは田んぼにたくさんの稲を植えすぎているせいである、年貢が適切ではない、と言う。いきなり、こういう秀長になっても、とまどうだけである。

まず、百姓といっても、この時代の大和の地の農地が、米作ばかりであったということはないだろう。どうしても、百姓=農民=稲作、というスレテオタイプから、抜け出ていない。ここのところは、歴史学から見れば、非常に問題のあるところかと思うが、大河ドラマで、百姓と出てくると、きまってこうである。(大河ドラマの作り手は、よっぽど、網野善彦とかが嫌いなのだろうか。)

大和の地は、寺社勢力の強いところで、治めるのが容易ではない。だから、秀長が担当することになった。これはこうなのだろうが、しかし、これまでに、大和の寺社勢力について、ドラマの中で、ほとんど描かれてきていない。松永弾正は往生していたが、寺社とどういう関係であったのか、出てきてはいなかったと思う。このドラマで、秀長と大和の国のことを、あつかうことになることは、分かっていたはずなのに、肝心のところをスルーしてきたことになる。

その寺社勢力を興福寺だけに代表させるのは、ドラマとしては分かりやすいのだが、しかし、この時代の歴史を背景にしたドラマとして見ると、いかにも、安っぽい作り方をしたという印象になる。興福寺以外の多くの寺社のことは、最後の紀行のところで、ちょっと出てきていただけである。それも、むしろ、秀長が寺社を保護したということであった。

そもそも、この時代の、土地の所有権、年貢の徴収権、ということについて、少しぐらい説明があって、その上で、検地ということになっていいと思うのだが、いきなり検地になっていた。それも、年貢を減免する方向での検地だった。これは、実際には、どうだったのだろうかと思うところである。

お米が美味しくないことを言うために、秀長の娘の末が、おにぎりを作って城の普請をしているところに持ってくる、というのは、どうだろうか。お殿様の娘が、こういうことをするだろうか。

美味しいお米を求めて、村の農家に行って買おうとする。これも、この時代の、お米の生産と流通ということを考えると、どうだろうかと思うところである。

この回から、秀長の大和の国ことを描こうということは分かるのだが、それはそれで、これまでの回で、しかるべき伏線があってしかるべきなのだが、全然、そういう作り方になっていない。ドラマ全体の構想と、各回の脚本担当の連携の不足ということかなと思う。

2026年9月28日記

『太平記』「新政」 ― 2026-09-28

2026年9月28日 當山日出夫

『太平記』「新政」

いわゆる建武の新政である。結局これは失敗して、最終的に、足利高氏(尊氏)が生き残って、室町幕府を作ったということでいいかとは思う。

ドラマとして面白く作ってあるのは、藤夜叉である。京の二条の橋の下でウナギを売っている。宮沢りえの白拍子はとてもよかったが(だから、高氏が惚れることになった)、庶民的な恰好でウナギを売っている姿も、またいい。

ここで、子どもの不知哉丸が一緒で、足利直義と出会うというのは、フィクションとしても、歴史ドラマの面白さである。

後醍醐天皇のこと、大塔宮のこと、新田義貞のこと、これからの混乱の立役者がそろったという感じである。大塔宮も、なかなかの策士である。

また、足利高氏のもとにいる高師直が、いかにもうさんくさい。だが、情報に通じている。この高師直の存在があって、これからの高氏があるといってもいいかもしれない。

脚本が上手いと思ったのは、一色馬之介の京でのシーン。侍たちに追われる女性を助ける。これぐらいのことは、よくある時代劇の設定なのだが、侍たちが逃げ去った後、女性は、商売の邪魔をしやがってと悪態をつく……こういう流れになるのは、とても面白い。京の都の人間は、一筋縄ではいかなという印象である。

2026年9月28日記

木村多江の、いまさらですが「私はいつだって仕合わせ 〜連続テレビ小説「ブラッサム」宇野千代からのメッセージ」 ― 2026-09-28

2026年9月26日 當山日出夫

木村多江の、いまさらですが「私はいつだって仕合わせ 〜連続テレビ小説「ブラッサム」宇野千代からのメッセージ」

この番組は、ちょっと偏った主張(といっておくが)で作ってあることが多い。『おはん』を読んで、この作品に、虐げられた女性の恨みを読みとるとして、それを、市川崑監督の映画『おはん』の吉永小百合のことばを持ってきてまで、言う必要があるだろうか。素直に、小説を読んで、どう感じるか、を語ればいいだけのことである。『おはん』に、女性としてのうらみつらみを読むならば、二人の女性それぞれにあることだし、また、男の身勝手ではあっても、その時代の中でそのようにしか生きられなかったことをどう思うことになるのか、考えることもできる。宇野千代は、ただ男が悪い、といって満足するような現代の出来の悪いフェミニストまがいではないはずである。

番組の中で、宇野千代をベストセラー作家と言っていた。一番有名なのは、『おはん』だろうか。それから、『生きて行く私』である。自伝である『生きて行く私』をきちんと読んでいるなら、とてもこういう内容の番組にはならない、と私には思える。

例えば、岩国で小学校の代用教員をしていたとき、住んでいた家に、夜になって見知らぬ男性がやってきて強姦された(夜這いというべきか)のだが、実にあっけらかんと書いてある。宇野千代のこういう感性は、今の正しい性倫理観からすると、とんでもないことになる。こんなことはドラマでは描かないとしても、宇野千代自身をあつかった番組でなら、言ってもいいことだと思える。だが、こういことには触れないというのは、いかにも欺瞞的である。

恋多き女といえば、きこえはいいが、この時代の価値観だったら、節操のない、ふしだらな女ということになる。この時代は、まだ、姦通罪というのがあった時代である。この意味では、宇野千代だけを見るのではなく、関係した男性たち……尾崎士郎であり、東郷青児であり、北原武夫であり……の女性観や価値観にふれておくべきだろう。東郷青児などは、よく言って、自由奔放、悪く言えばいくらでも悪く言える。

近代において、自立した女性であり、自由に生きた女性であるとはいえるのだが、かなり特殊な家庭に育ち、また、大正から昭和の文学者などは、ろくでもない連中ばかりだった(現代的な市民的なモラルからすると)ことも、言っておくべきかとも思える。

2026年9月25日記

『風、薫る』「道標」 ― 2026-09-27

2026年9月27日 當山日出夫

『風、薫る』「道標」

終わった。総合的に判断して、私は、このドラマはつまらなかった。モデルとした大関和が悪かったとは思わない。しかし、明治のトレインドナースの物語として見ていると、どうにも納得のいかない不自然なところが多くあったし、何よりも、ドラマとして面白くなかった。

NHKが、このドラマの制作を発表したとき、その説明の中に、「トレンドナース」とあって、いったい何のことだろうと思ったのを憶えている。考えてみると、「看護婦」ということばの使用を避けて、しかし、「看護師」ともいえないので、「トレインドナース」とつかったとおぼしい。

だが、ドラマが始まって進行していくと、大山捨松は「トレインドナース」と言っていたが、それが、途中から急に「看護婦」と言い出して、ずっとそのままだった。なぜ、「トレインドナース」が日本語で「看護婦」になって、それが定着したのか、何の説明もなかった。その一方で、「看病婦」ということばは使っていた。このあたりの用語の選び方は、ドラマの本筋とかかわることだと思うのだが、いかにもちぐはぐした印象となった。

「トレインドナース」が「看護婦」になるということは、「看護婦」が女性の仕事として定着していったということになるはずで、ここのところこそ、このドラマで、もっともきちんと描かなければならなかったはずのところである。

この観点からすると、ドラマの最終回の最後の現代の病院のシーン。男性の医師と、女性の看護師という設定になっていた。ここは、医師は女性であり、看護師も男性がいて女性と対等の仕事をしていると、描くべきところだったと、私には、思えてならない。

看護とは何かということについて、「観察」が重要であり、看護は仕事であって奉仕ではない、というバーンズ先生の教えが、りんと直美が「いまそこにあるもの」ということに考えるようになった……というドラマになるのだが、思いかえしてみて、このことが、説得力あるように描かれていたとは感じられない。ドラマの最終の地点で、「いまそこにあるもの」が、そうだなと納得できるように計画して作ってあったとは、どうしても感じとれない。

那須で生まれて、子ども(環)を連れて東京に出てきて、トレインドナースになる話しであるとして、瑞穂屋卯三郎が出てきて、いきなり「社会」と言うのは、どうだろうか。明治になって、たしかに社会ということが意識されるようになったことは確かだろうし、これが悪いとは思わない。だが、那須の村の娘であって、それが、東京に出てすぐに社会という概念を受け入れるだろうか。(常識的には、世間、世の中、ということかなと思うが。)

家族の描き方も異常である。父親は最初の週で死んでしまう。これはいいとしても、父親の信右衛門の言った「学ぶとは~~」の意味ありげな科白が、その後、一~二回ぐらいは出てきていたが、話しが進むと、信右衛門のことがまったく登場しなくなった。出てくるのは、コレラのときに看病できなかった事例としてということだった。これなら、別に、コレラで死ぬのが信右衛門である必然性はなかった。明治維新の前に武士を捨てた、いわば開明的な思想の持ち主だったと考えられる信右衛門は、いったいどんな人物だったのか。その父から、りんは何を受け継いでいるのか、まったくでてこない。

このドラマは、父親の存在を否定している。かろうじて、直美の夫が出てくるのだが、父、という存在では描かれていない。しかし、母、は出てくる。りんの母の美津であり、りんも環の母である。また、直美の産みの母である文も大きくとりあげられていた。

だが、ここで、母と娘の世代の違いによる葛藤とか、考え方の違いとか、こういうことにはなっていない。江戸時代の家老の妻であった美津と、明治になって看護婦として働くことになったりんとの間に、さまざまな葛藤があってもいいと思うのだが、まったく出て来ない。

りんの家庭もかなり変である。りんと直美が、環の二人のお母さんになっているが、しかし、父親はいない。変則的である。このことを、環が悩んだりするという設定にはなっていない。環は、父のことをどう思っていたのだろうか。(ただ、明治の初めのころの家庭や家の事情は、現代とはちがうので、現代的な価値観だけで考えることは問題がある。だが、ドラマとしては、ここのところは、きちんと描いておくべきところだと思える。)

直美が強く母(文)のことを思っているのに対して、環が父のことをまったく思わず、また、りんも父の信右衛門のことを忘れてしまったかのようである。この父と母の非対称性が、ドラマの中で説得力のあることとして描かれ、意味のあることになっていなかった。

看護婦の物語なのだが、この時代の、医学や医療、医学教育ということについて、ほとんど出てきていない。せいぜい、帝都大学病院のことがあったぐらいである。派出看護婦の仕事は、大きな病院はもちろん、町医者などとの連携が必要だと思うのだが、こういうことが、ほとんど出てきていない。

りんと直美が、バーンズ先生に習ったとき、先生は、看護は仕事であり、奉仕ではない、ときっぱりと言っていた。また、ナイチンゲールの本では、看護にとって、一番大切なものは、観察であると、これも強く出てきていた。しかし、その後のりんと直美の仕事ぶりや、看護婦の養成でのことを見ると、ナイチンゲールから、バーンズ先生を通じて、りんと直美が学んだことが、次の世代の看護婦にどう受け継がれていくか、ということが断ち切られてしまっている。

たとえば、バーンズ先生が非常に実践的に教えていたベッドメイキングのことなど、りんと直美が、自分が先生となったときにどう教えることになるか、非常に興味深いことなのだが、まったく出てきていなかった。

朝ドラは、現に病気の人も見ているだろうし、おそらく、病院の待合室のテレビで、昼の再放送など見ていてもおかしくない。だから、あまりリアルに病気のこととか描かないということはあっていいだろう。だが、それにしても、りんや直美たちの看護婦としての服装が、あまりにきれいすぎる。しわひとつない。血痕がついているとかはなくてもいいが、もうちょっと実際に仕事をしている働いている人間の雰囲気が出せないのかとは、見ながら思っていた。

看護婦や医師にとって必要な資質はいろいろとあるだろう。観察力もその一つにちがいない。しかし、りんが担当する患者の死に出会って動揺して、仕事ができなくなるというのは、どうだろうか。こういうときに冷静でいられる、さらには、そういうことがあってもケロッとしていられる、そういう感覚も必要だろう。だが、こういうところまで描くのは難しいことだったとは思う。全体としては、医療や看護のことを、朝ドラであつかうには、準備不足、考えが足りなかった、という印象をどうしても持つ。

看護は、奉仕なのか、仕事なのか、あるいは、キリスト教の教会のような慈善事業なのか……仕事としなければ、看護婦が女性の職業にならなかったはずだが、ここのところがまったく描けていなかった。

世代間の葛藤や対立もなかった。信右衛門や美津、卯三郎などの世代、それから、りんや直美やシマケンのような世代、環の世代、どう違ってきているのか、まったく出てきていない。また、りんと直美が仲がいいとしても、派出看護のビジネスの方針をめぐって、看護婦の養成をめぐって、意見の違いなどあってもよかったのだが、これも出てきていない。

使った音楽とか、医学のこととか、時代考証のギリギリで作ってある。不可能ではないが、かなりの無理を感じる。シマケンのような煩悶文学青年も、かなり無理をした人物造形かと思える。勝海舟は何のための登場だったのか、意味が分からない。

その他、いろいろあるが、思い出してみても、ここは良かったというシーンが思いうかばない。駄作であったというしかない。(朝の時間に、『ひまわり』の再放送、昼には『ひよっこ』の再放送と重なってしまったことも、『風、薫る』の不運だったといえるかもしれないが。描いている人間観や、背景となる時代についての感覚がまったく違う。)

2026年9月26日記

『ひまわり』「第十二章 旅は道連れ世は情け?」(9月21日~9月26日) ― 2026-09-27

2026年9月27日 當山日出夫

『ひまわり』「第十二章 旅は道連れ世は情け?」(9月21日~9月26日)

この週は、三つの家族と親子の物語、ということになるだろうか。

のぞみが担当することになった案件は、離婚した夫婦の子ども取り合い。これが、なんだかこじれそうである。父親も母親も、子どもを手放そうとしない。かろうじて、面会できる可能性があるということで、調停の話し合いまで持って行ったところである。家庭裁判所の問題は、多くは、法律的な是非論、法の正義、ということよりも、当事者どうしの納得いくことが何であるのか、ということになる。こういうところを描いているのは、法曹の世界をあつかったドラマとしては、異色といっていいかもしれない。

南田の家では、あづさが赤松と付き合っているということを、みんなの知るところとなる。これを、のぞみや達也やむしろ歓迎するのだが(強いて拒否はしない)、うららと薰乃はゆるさない。こういうところは、世代による感覚の違いということもある。家族だからといって、同じ価値観であるということにはなっていない。

桂子(達也の産みの母)の家では、達也の父親が、赤松という検事ではなかったということが、ばれてしまう。達也が桂子と会っていて、桂子が達也にお金(200万円)を渡そうとするが、達也はうけとらない。桂子の家を訪ねていって、今の夫と会うことになる。桂子がウソをついていたことが、分かってしまう。

このようなことになるが、家族のことだからといって、簡単にわかり合えるものではないし、ウソをつくこともあるし、特に世代による考え方の違いということもある。簡単に家族だからわかり合える、理解できる、話しをすれば分かる、ということにはなっていない。考えてみれば、普通に家族とはこういうものなのであるが、朝の時間に、『風、薫る』と続けて見ているせいもあって、『ひまわり』の描いている人間観に共感するところが多い。

徹が赤松の事務所に行って、昼間から焼酎のロックを中年の二人が……あづさという一人の女性にかかわる二人の男……飲みながら、なんだかかんだと、くだらない話しをしている。まあ、世の中、生きていればいろいろとあるよなあ、と思って見たとことである。

2026年9月26日記

『ひよっこ』「響け若人のうた」「椰子の実たちの夢」 ― 2026-09-27

2026年9月27日 當山日出夫

『ひよっこ』「響け若人のうた」「椰子の実たちの夢」

ドラマの時代は、昭和40年である。この時代のことを描きながら、エンタテイメントとしてよくできているし、同時に、このころの社会のことも視野にはいっている。

ものの値段が具体的に出てくることが、ドラマとしては珍しいかもしれない。

みね子は、初めての給料をもらう。いろいろさしひかれて、手取りが6000円ほどである。この時代の、大卒公務員の三分の一以下である。地方から出てきた若い女性の労働者を安い賃金で働かせているといえばそれまでなのだが、しかし、悲壮感はない。過酷な労働条件で搾取されているみじめさを感じさせない。これはこれで、いいと思う。

奥茨城の家に仕送りをするので(5000円)、みね子の手元には、1000円しか残らない。みね子は、赤坂のすずふり亭を訪ねていくが、途中の電気店で、自分の工場で作っているラジオを見て誇りを感じる。だが、その値段は、9800円だった。とても、みね子の給料で買える値段ではない。

すずふり亭で、みね子は、一番安いビーフコロッケ(60円)を注文する。このときの描写も、微笑ましい感じである。貧乏な労働者であるみね子と分かるのだが、それと分かっていて、無理なことを言わない、すず子や高子たちがとてもいい。

このドラマでいいところの一つは、すずふり亭の厨房で、実際に料理を作っている雰囲気をきちんと出していることである。手を動かして料理を作っている。また、赤坂の裏庭でも、ヒデたちは、手を動かしてジャガイモの皮をむいている。

向島電機のラジオの工場といい、実際に役者さんが手を動かしているところを、画面で見せているのが、非常にいい。

警察官の綿引が、みね子の父親(実)を見かけたという目撃情報をつたえにやってくる。そこで、みね子たちは、奥茨城の時子の家に電話をかけて、時子の母親から谷田部の家に伝えてもらうことにする。このあたりのことは、まだ、電話が普及する前の時代の感覚をうまく表現している。(この時代の長距離電話は、かなり高額だったはずである。電話が一人に一台になり、通話時間など気にする必要がなくなった現代では、失われてしまったことでもある。)

この時代、まだ、高度経済成長期のころで、まだまだみんな貧乏なところはあるけれど、明日はきっと良くなるという希望が持てた時代でもあった。この明日への希望こそが、現代の日本が失ってしまったものであると、今になって、この時代のことを振り返ると思うことになる。

澄子の故郷のことが出てきていた。父親は再婚して、家には帰る場所がない。ただ、ばあちゃんがいるが、便りもない。乙女寮の同室の仲間たちには、故郷から荷物や手紙がとどくが、澄子のところには、葉書も来ない。非常にみじめな境遇というべきなのだが、故郷でのばあちゃんとの思い出話が、笑い話にもなっている。こういうところは、脚本のうまさだと感じるところである。

奥茨城の谷田部の家で、母親の美代子が、ミシンのところで裁縫をしていて、立ち上がってこっちに来るとき、右手にしていた指ぬきをはずしてミシンの上に置いていた。ちょっとした動作なのだが、これだけで、実際に針仕事をしていたことの雰囲気がよく演出されている。

2026年9月26日記

未解決事件「File.19 「北関東連続幼女誘拐・殺人事件」」 ― 2026-09-26

2026年9月26日 當山日出夫

未解決事件「File.19 「北関東連続幼女誘拐・殺人事件」」

この番組の内容について、DNA鑑定の技術の信頼性の問題があり、おそらくは冤罪ということがあり、過去のいくつかの事件については、根本的な捜査過程や裁判の見直し、ということにつながる……こういうことについては、すでに、多く言われている。

未解決事件のシリーズとして、この前の回が、 「上智大生殺害放火事件」だったのは、かなり意識してこういう順番で放送したことになると思える。

「上智大学生殺害放火事件」については、時効の撤廃という法律の問題と、DNA鑑定の信頼性ということが、論点としてあったと、私の見て思ったところである。

やまもも書斎記 2026年9月18日
未解決事件「上智大生殺害放火事件」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2026/09/18/9877241

DNA鑑定の精度が上がれば、それで、事件があったときに、人物を特定しやすくなる。犯人の特定は無論のこと、被害者の特定もできる。精度の向上はいいことのようだが、はたして、こういうことを手放しで喜んでいいのだろうか。

この場合は、人物の特定ということで、指紋と同じようなものである。しかし、一方で、DNAは、現代社会においては、個人が個人である最後のよりどころとして意識されることが強くなってきている。遺伝子的な親子関係ということが、育ての親ということよりも、以前よりはるかに強く重要なものと考えるようになってきている。

このような社会の意識の変化、人間観の変化、といってしまえばそれまでである。

上智大学生事件について書いたときにも述べたように、また、ハクスリーの『すばらしい新世界』(これは、たまたま、「100分de名著」で今月の本である)のことなど考えあわせると、行き着く先には、人間のDNAデータの管理ということがある。それが、国家によるものなのか、あるいは、別の組織によるものなのか、議論はあるだろう。また、人間が、自分のDNAの全データを解析して、それを、自分のものとして持つ、場合によっては、公表する、ということも、可能になってきている。

犯罪捜査、冤罪、という視点で見ることもできるが、これからの時代に、人間がDNAにどうかかわっていくことになるのか、という大きな転換点に来てしまっていることは確かなことだと思う。

2026年9月24日記

BSスペシャル「禁じられる物語 〜アメリカ 愛国教育をめぐる攻防〜」 ― 2026-09-26

2026年9月26日 當山日出夫

BSスペシャル「禁じられる物語 〜アメリカ 愛国教育をめぐる攻防〜」

かなり考えて作ってあったと感じる。両論併記ということではないが、それぞれの言い分があり、すれ違うことによる問題点を考えることにつながっている。

ポイントとしては、冒頭に出ててきたこのことばだろう……「多様性を強調すると分断が始まります。だからアメリカの建国理念を学んで愛国心で私たちは一つにならないと。」

全体の基調としては、図書館の蔵書を制限する保守派に対して、いろんな本をおくように主張するリベラル派という構図で作ってある。だから、いわゆる(自称)リベラル左派にしてみれば、アメリカで起こっている危機的状況であり、これが、日本であったら大変なことになる、という警鐘として見ることができる。

しかし、視点を変えれば、いくら保守派が頑固そうに見えても、手続き的には図書館の本を決めることに瑕疵があるとは思えない。公聴会を開いて、市民の意見を公平にきいている。

まあ、図書館の本や、教育の内容を決める委員会のメンバーが、共和党が多数ということはあるにしても、ただ、数のちからで押し切っているということにはなっていない。

むしろ、強行に自分の政治的意見を主張しようとして、公聴会の趣旨にそぐわない発言をしようとする、リベラル左派と思われる人物の方が、民主的にことをすすめるルールを逸脱しているように思える。

まさに、多様性の主張が分断を生んでいるということの現場を見る、という気になる。

私見としては……人間の考え方や価値観は多様であり、多様性は尊重されるべきなのだが、しかし、人間は全知全能の神ではないので、あらゆる多様性を許容することは不可能である。そこには、おのずから、時代と文化と歴史の制約がある。だから、もとめるべきは、多様性の多様性ということであり、そして、異なる多様性相互の風通しを良くすること、これぐらいである。一種類の多様性しか認めずに、それを強要するのは、暴力に他ならない。

性の多様性については、小学生の段階で、これを教えることは、慎重であるべきだろう。まずは、その社会の規範(それは、時代や地域によって異なる)を教えることであり、もう少し大きくなってから、(高校生ぐらい以降だろうか)、世界の人間にはいろんな性的な多様性があるこを教える、ということでいいだろう。そして、何より、性的な多様性は、自分の意志で選ぶことのできないものである。自分の意志で選ぶことのできないことで、社会的に不利益をこうむることがあってはならない。これが、リベラリズムの基本の考え方である。

自分の性的指向や性自認は、自分自身の自由な意志で決めることができる、それは、個人の自由として認められねばならない、という考え方については、私は、同意しない。

それに、今の時代、学校の図書館の本や、教科書に書いてあることで、子どもが知識を得るということではない。他に、たくさんのメディアがある。ただ、子どものSNS利用の制限ということはあるかと思う。また、AIと教育の問題もある。だが、子どもであれ、大人であれ、インターネットで自由に知識を得ることができるという時代になっていることの現実を踏まえた議論がこれからは必要になる。

世の中の流れ全体を見わたした議論でないと、たとえば、差別のない本屋、ということが、建設的でない議論にしかならない。

2026年9月21日記

クラシックTV「教えて!作曲ってナニ?」 ― 2026-09-26

2026年9月26日 當山日出夫

クラシックTV「教えて!作曲ってナニ?」

音楽、その中でも、作曲ということになると、まったく知識がない。せいぜい、著名な作曲家として、ベートーベンとか古関裕而とか、名前を知っている程度である。

まあ、こういうのは、芸術の神様が微笑んでくれる特別な人、ということに思うことにしている。

現代だと、作曲するのに、PC一台あれば出来る。AIを使って当たり前。もう、こういう時代だなとは、感じるところである。昔ながらのように(?)、ピアノを使っているという人もいるいるだろうし、頭の中で音楽と楽譜をイメージできるという人もいるだろう。

コンピュータを使う、AIを使うことのメリットは、たしかにある。これも、考え方によるが、人間の演奏では出せない音楽を作ることも可能になる。かつて、シンセサイザーが使われはじめたころ、演奏といわずに、作った、という言い方をしていたのを憶えている。

芸術とAI、ことばとAI、こういうことは、とてもややこしい議論があるのだが、もう、このての議論につきあっていくのは、面倒になってきた。AIについての議論は、今では、3か月もすると陳腐化してしまう。

2026年9月23日記

ETV特集「カイル博士と棚田の集落」 ― 2026-09-26

2026年9月26日 當山日出夫

ETV特集「カイル博士と棚田の集落」

再放送である。最初の放送のときも見ている。いろいろと思うところはあるのだが、考えがまとまらない。

二つの矛楯することをふくんでいる。

一つには、山間部の棚田の稲作が、循環型の農業で、これを維持していくことは、非常に意味のあることである……という、きわめて現代的なメッセージである。

二つには、限界集落の現実。現時点で平均年齢が70歳ぐらいということは、あと10年すれば、おそらく人口は半減する。絶対に、今のままの農業を維持できない。

だからといって、都会から多くの人が移住してきて、この村落を守るということになるかというと、そうはならない。見学に来る人はいても、住み着く人は、カイル博士のような、きわめて例外的な人ということになる。

番組では言っていなかったことだが、今でも、この村の生活を維持するためには、道路があり、自動車が通れて、電気があって、電話もあって、ということが前提になっている。農作業に行くにも、軽トラックがないと無理である。草刈りをするのには、エンジンの草刈り機を使わないといけない。昔ながらに、鎌で手で刈るということは無理である。さらには、クマ、イノシシ、シカ、ということもある。もし、シカの猟ができなくなれば、増えすぎて、これも地域の生態系に大きな変化をおよぼす。

では、これからどうすべきか、ということになると、誰にも妙案があるというわけではない。こんなところぐらいしか、考えつかない。

それから重要なこととしては、こういう棚田の米作を維持しようとするなら、このような作り方をしたお米であることに、特別の価値があって(その品種ではなく)、普通の田んぼで作るお米よりも、かなりの高額になっても、それを選んで買うという消費者が必要になる。たとえ、あまり美味しいとはいえなくても、作り方や作っている人の生活に価値がある、こう思えるようになるだろうか。

かつては、普通の田舎の生活だったことが、現代では、ことさら意図しなければ維持できないし、お金(お米のお金であり、場合によっては税金もふくめて)がかかるものになっている、ということである。

2026年9月23日記