昔話法廷「滋賀・「天女の羽衣」裁判」 ― 2026-08-27
2026年8月27日 當山日出夫
昔話法廷「滋賀・「天女の羽衣」裁判」
現代風のいいかたになおすと……結婚して仕事のキャリアを奪われたと感じた女性が、離婚してやりなおしたいと思ったとして、その意志は、どこまで尊重されるべきか。これは、幸福追求の権利として、基本的人権の一部として、存在することであるとしても、それが、他者(この場合は家族ということになるが)の、同じ権利と対立することがあった場合、どのように制限されることがあるのか、あるいは、あってはならないのか、ということになるだろうか。それと、離婚した後の親権の問題。ざっと以上のようなことになるだろうか。
他には、結婚に際して、羽衣を奪って隠したということ……虚偽があったことを、どう判断するか、ということもあるかもしれない。
私の思う、一番の論点は、幸福追求の権利の行使が、もし、他者の同じ権利と衝突することがあった場合、いかに対応すべきか、ということかと思って見ていた。一般的には、公共の福祉に反しないかぎり、という条件がある……この枠で考えることになるだろう。
だが、現代の世の中だと、個人の幸福追求の権利、その自由意志、これは、何人も妨げてはならないものである。自分の幸福追求、自由意志の実現こそが、至上にとうといものであって、絶対に我慢することはあってはならない。そんなのはいやだ。こういう考え方が、大きくなりつつある。
ここで公共の福祉といったのだ、具体的には、家族であったり(この場合は、子どもだったり、夫だったり)である。これも場合によると、地域の共同体であったり、何かの組織であったり、場合によっては、国家というようなこともある。そこまではいかなくても、思想信条の自由をめぐる対立ということもありうる。こういう対立がおこったとき、何を優先するか、誰がどう我慢することが妥当なのか、社会的な合意を形成することは、きわめて難しい。また、その社会的合意といっても、時代とともに、人びとの意識は変わってくるものである。私は、公共の福祉ということは、まず自分の身の回りの手のとどくところからはじまると考えている。そして、それが、社会全体の安定と秩序とつながるものである。ただ、その組み立てには慎重でなければならないが。単純に、修身斉家治国平天下ということではない。
天女にしてみれば、自分の仕事でのキャリア形成が最優先であって、そのためには家族のために我慢するということは、絶対に許容されるべきことではない、ということになる。
もし、天女が天界に帰ったとしても、その後、自分の希望どおりの仕事ができるという保証があるあるわけではない。そうなりたいと、かつて、思っていただけである。その可能性にすぎないことと、今、現実に目の前にいる家族のこととを、天秤にかけることは、妥当なのだろうか。
自立した個人の自由意志の尊重ということは、逆に、伝統的な社会規範(これは、リベラリズムから強く批判されるものであるが)が、暗黙裏に機能して、人間の意識や行動を抑制するということがあってのことだと思っている。それが、二一世紀になって、たががはずれたというか、非常に先鋭化してきている。その一方で、個人の自由な意志よりも尊いもの……それは、唯一絶対の神であったり、人びとを統治する独裁的な政権であったり……が、現実のものとなっている。さらにやっかいないことには、リベラル・デモクラシーよりも、独裁政権による統治の方が、場合によると多くの人びとが豊かで安定して暮らせるということもある(いや、そんな国家は崩壊するという立場もあるが、今のところそうなってはいない。)非常に難しい局面にあることはたしかだろう。
まあ、私としては、ここは、穂高先生のいうことが妥当かなと感じるところではあるが。
2026年8月25日記
ブラタモリ「甲子園▼夢の甲子園・誕生の秘密とは?あいみょんロケに初参加!」 ― 2026-08-27
2026年8月27日 當山日出夫
ブラタモリ「甲子園▼夢の甲子園・誕生の秘密とは?あいみょんロケに初参加!」
甲子園球場が、甲子の年に出来たということは知っているのだが、ただ、それだけである。
総合的には、阪神が、その電車の沿線をどのように開発していったのか、阪急や国鉄(JR)の沿線はどうだったのか、ということを総合的に考えることになるだろう。また、阪神が、難波(ミナミ)につながり、阪急と国鉄が梅田(キタ)に繋がったということで、大阪の都市のあり方とも関係するはずである。
野球にはまったく興味ないし、甲子園で高校野球をやっていて、たまたまテレビをつけて放送していれば、なんとなく見ていることがある、という生活である。
ここに球場を作ろうという動きは、おそらくは、東京でのことと関連しているはずだが、なぜ、高校野球(スタートした時点では、中学校(旧制)のだったが)が、ここでやることになったのか、気になる。(朝日新聞社の関係かなと思ったりするのだが。)
阪神パークのことは、名前は記憶しているが、行ったことはない。
同じようなことは、阪急もやっていて、宝塚ファミリーランドが、昔あったが、これも今はもうなくなっている。近鉄のあやめ池遊園地もなくなった。ドリームランドもなくなった。残っているといったら、ひらパー、ぐらいだろうか。子どもを連れて行く遊園地としては、高いお金をはらってUSJに行くか、でなければ、手近なところで、生駒山山上、というぐらいか。
甲子園ホテルの建物を持っているのが、今では、武庫川女子大学とあったが、この大学も、共学化が決まっている。さて、いつまで、ここを維持管理することができるだろうか、ちょっと心配ではある。
個別のエピソードは興味深いのだが、総合的には、関西圏における私鉄の発達と、郊外の住宅地やレジャー施設の歴史、それと、大阪を中心として、京都や神戸の街の歴史、人びとの生活や産業の歴史、こういうことで考えなければならないことだろう。
2026年8月23日記
日曜美術館「鉄道のくにを撮る 写真家 広田尚敬」 ― 2026-08-27
2026年8月27日 當山日出夫
日曜美術館「鉄道のくにを撮る 写真家 広田尚敬」
鉄道写真の歴史ということだけを取り出して考えてみるよりも、風景写真の歴史の中でも考えることになるだろう。また、人物写真、スナップ写真の歴史とも、かかわる。
私は、鉄道の写真は撮らない。
理由は、二つある。
一つには、待つのが嫌いだからである。日本の鉄道だから、時刻どおりに運行されているとはいっても、写真を撮るためには、早くその場所に行って、待たなければならない。番組では言っていなかったが、鉄道写真の分野では、先に三脚をおいて待っていた人に優先権がある。これも、最近では、どうなっているか知らないが。
もう一つは、SLが嫌いだからである。たしかに郷愁を感じることはある。だが、実際に蒸気機関車の牽引する列車に乗ったことがあると(山陰線になるが、これは、かなり遅くまで蒸気機関車が走っていた路線である)、トンネルに入るたびに窓を閉めなければならない。これが、夏だったら、暑いしたまったものではない。蒸気機関車には、はっきりいっていい思い出がない。
さらにもう一つは、最近の、撮り鉄の仲間と思われたくない。あんな連中と並んで待っているのは嫌だ、ということもある。
まあ、待つのが嫌いということでは、鳥の写真を撮らないということにも、繋がっているのだが。
写真が記録から表現になっていったということを考えるならば、初期の鉄道写真がカタログ的な写し方であったのは、そういうことになる。これが、何かを表現しようというものに変わっていったのは、写真の世界の大きな変革の流れがあってのことになるだろう。
鉄道写真は、今でも熱心なファンがいる。似たようなこととしては、飛行機写真がある。大阪空港とか、成田空港とか、飛行機写真でいっぱいである。また、ブルーインパルスをおっかけている人もいる。ひとそれぞれで写真を撮って楽しむ、そして、それで何かを表現することがあっていい。
番組で映っていなかったのが、地下鉄の写真。東京の地下鉄も、撮り方によっては、魅力的だと思うのだが、さて、どうなのだろうか。
全体を見て感じることは、やはり感性が、都会的なものだなということである。地方に住むローカルな視点というのとは、ちょっと違っている感じがする。
2026年8月24日記
3か月でマスターする世界史「帝国の解体 ティムールとルネサンスへ」 ― 2026-08-27
2026年8月27日 當山日出夫
3か月でマスターする世界史「帝国の解体 ティムールとルネサンスへ」
ユーラシア大陸の歴史を総体として、遊牧民中心に考えるなら、番組のなかで言っているようになるのだろうと思う。これに異論があるというわけではない。
ただ、見ていて説明不足かなと感じるところはどうしてもある。30分の番組であるから、そう何もかも語ることはできないということは分かるとしても、もうちょっと説明があってもいいかなと感じることがある。
その一つは、ギリシャ・ローマの文化が、どのようにして、西欧近代につながっていくのかという流れである。一般に、西欧中心の歴史としては、ルネサンスを契機としてということになるだろう。
これについて、ギリシャの哲学は、その後、アラブのイスラムの世界に継承されて、それがヨーロッパに再度もたらされて……という流れを考えるのが、今は、普通かなと思っている。この場合、イスラムの世界の文化も、大きくは、モンゴルのユーラシア全体にわたる帝国の統治の元にあったものであり、ギリシャ哲学を歴史的に保持して発展させたのは、モンゴルということでいいのだろうか。
であるならば、ギリシャの哲学が、東の方に伝わっていかなかったということが結果としていえると思うのだが、これは、何故なのだろうか。キリスト教も、ユーラシア大陸の交易ルートを通じて、東の方まで伝わっていった(そこで、定着して広まるということはなかったが。)ギリシャやローマの思想や文化が、東の方にどう伝わったか/伝わらなかったか、ここのところは、どう考えることになるのだろうか。
これも逆に考えると、モンゴルの大帝国がユーラシア大陸を東西横断的に支配したとして、東の方の、儒教の教えなどが、西のオリエントやヨーロッパの地域に伝わったのか/伝わらなかったのか、どう考えることになるのだろうか。
こういう場合、伝わったということが確認できることについては、交易のルートの役割を見ることになる。しかし、伝わらなかったものについては、それぞれに、その地域の文化の独自性を尊重した、寛容な統治であったから、という説明になる。これでいいのだろうか。なんだか、都合がよすぎるように思える。
それから、昔だったら、もっとも手軽な労働力は奴隷だったはずと思っているのだが、この番組では、これまでに奴隷ということばをつかっていなかったと思う。戦争してその地域を支配して、そこの人びとを奴隷にして使うということは、なかったのか、あったのか、あるいは、史料として確認できないということなのか。
寛容な統治ということばを、あまりにも簡単に使いすぎているように感じられる。謀反をおこさないかぎりにおいて、特に弾圧はしない……ということであるなら、これは、別に寛容とはいわないと思えるのだが。(反抗するような連中は、みなごろしにしたということだったはずであるから。)
2026年8月24日記
昔話法廷「赤ずきん」裁判 ― 2026-08-26
2026年8月26日 當山日出夫
昔話法廷「赤ずきん」裁判
このシリーズは、裁判員という制度があって、その視点から考える、このことに意味があるように作ってある。これが、単なる法廷の傍聴者の視点だったら、ちょっと違ったものになるだろう。
「赤ずきん」のポイントは、心神喪失、ということ。
近代的な法律の大きな前提として、人間は自由意志があり、その意志に基づいた行動の結果に対して責任を負う、ということがあるはずである。ただ、結果のみを見て、罪の軽重をはかるということはしてはいけない。
これも、近代的な人間観である。
とはいっても、そもそも人間にとっての自由意志とは何であるか、そんなものが本当にあるのか、ということは、哲学的にも、また、脳科学などの観点からも、疑問はあり、いろいろと議論のあるところではある。
だからといって、結果だけから罪を罰してよい、結果責任がすべて……ということになるのは、どうなのだろうか。
今の時代の風潮としては、どんな結果だったのか、それをこそ重視すべきである、という流れに変わってきているように思える。殺意があろうとなかろうと、その時の精神状態がまともであったかどうかとかは関係なく、結果としておこったこと……この場合であれば、人(いや、オオカミというべきか)が死んだことがあって、その責任を問うべきである、刑罰を科すべきである、という考え方が一般には強くなってきている。
これがはたして、いい傾向なのかどうか、法律の専門家とか、近代の思想史や哲学の専門家は、どう考えているのだろうか。
2026年8月24日記
よみがえる新日本紀行「盆・花火の里〜福島県・浅川町〜」 ― 2026-08-26
2026年8月26日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行「盆・花火の里〜福島県・浅川町〜」
再放送である。最初は、2021年。オリジナルは、昭和54年(1979年)。
昭和54年というと、私が、東京で大学生だったときのことになる。このころ、自分と同世代の若者たち(男性)が、福島で、こんな生活をしていたのかと思うと、いろいろと思うことがある。(この時代だと、まだ大学のキャンパスには、70年安保の余韻が残っていたのだが、福島の青年たちには、そんなことは関知することではなかったかのだろう。都会に出て行った人は別にして。)
花火のことも興味深いが、それよりも、青年団の組織が強固なものとして、この時代にはあったことが、今となっては重要かもしれない。青年団に加われるのは、家の長男だけという。今の価値観からすれば、ものすごく前近代的・封建的遺制というべきことになるが、しかし、番組の中で登場していた若者たちは、その中で、むしろ生き生きとしているようにも見える。
長男は家を継ぐために地元に残らなければならず、次男や女性は、逆に、都会に出て行くことになる……このような生活のならわしが、あった。
青年団のリーダーを「中老」と呼称するなど、とても古めかしい。
上下関係は厳しく、ひらの団員は、酒のつまみも豆腐だけである。(だが、これも、美味しい豆腐なら、これで十分だと思うところもあるが。)
煙草をすうのに、フィルター付きの紙巻き煙草(ハイライトぐらいかなと思うが)を、キセルで吸っていた。こういうならわしが、昔はあったなあ、となんとなくなつかしく思い出す。
街の中で歌を歌っていた。「カントリー・ロード」である。ちょうどこのころに流行った歌である。私も、東京の下宿で、ラジオから流れるのを聞いていた。故郷へかえる素朴な内容の歌詞である。(だが、解釈のしようによっては、プロテストソングでもある。)
冒頭で、子どもが産まれて、みんなで集まって宴会をする。それを、家の庭にシートを敷いて、野外でおこなう。そこに花火の出前がやってくる。
花火を打ち上げるのに、筒の中に火薬をいれて、マッチで火をつけて放り込んでいた。今は、とても、こんなあぶないことはしないだろう。(現代なら、コンピュータ制御になっているかと思うが。)
土手にムシロを強いて、街の人たちが集まって花火を見る。もう今では、こんなのどかな光景はなくなってしまった。花火を見ようとすると、高いお金をはらって有料の観覧席のチケットを手に入れて、という時代になってしまった。
現代の部分で、お土産に作っていた、魔除け花火。これに古文書を貼ると言っていたが、これは、実物の古文書なのだろうか。この街だったら、ちょっと古い家なら、蔵の中に昔の古文書などがあっても不思議ではないと思うが。
2026年8月20日記
ウチのどうぶつえん「ゆらゆら、ザブン!」 ― 2026-08-26
2026年8月26日 當山日出夫
ウチのどうぶつえん「ゆらゆら、ザブン!」
池田山の動物園のウォンバットのことは、何かで知っていたことだが、日本ではほとんどここだけということは知らなかった。穴を掘るのが得意である。穴が途中で崩落(?)しないように、土の種類なども考えてあるのだろう。
ウォンバットのいる周囲を人間が歩いて見るのではなく、逆に、ウォンバットのいる中を人間が入って見る、こういう構造にかえるということは、意味のあることだと感じる。
秋田のトナカイ。たいていの動物は泳げる。(では、なぜ、人間は訓練しないと泳げなくて、溺れて死んだりするのだろうか、これはこれで、逆に、興味深いことである。)動物園で、放し飼い(放牧)というのは珍しいだろう。もうちょっとトナカイ用のエリアが広ければ、全員を放牧できるのかもしれないが。
この動物園のトナカイは、自然の草木も食べるようだが、見ていると、飼育員さんの持っている餌の方に引きよせられている。やっぱり、こちらの方が美味しいのだろうか。
須磨の水族館。新しくなったのは知っているが、まだ行ったことはない。(だいたい、このごろ、どこの水族館もとても値段が高くなってしまって、気楽に行くという感じではなくなってしまってきている。)
アマモは、魚の飼育のためもあるが、植物としてみて面白い。植物の進化として、このように水中で、根をおろして、光合成して、花をつけて、実をつける、こういう進化が、どういうことでおこったのだろうか。このような植物の進化と、魚などの関係は、どうなっているのだろうか。地上の植物だと、昆虫などとの関係が重要ということになるが、海の中に昆虫がいるということではないだろう。
2026年8月4日記
100カメ「東海道新幹線 世界屈指の高速鉄道に潜入!」 ― 2026-08-26
2026年8月26日 當山日出夫
100カメ「東海道新幹線 世界屈指の高速鉄道に潜入!」
ひさしぶりの100カメである。
新幹線には、以前は、年に何度も乗ることがあったが、ここ数年、まったく乗っていない。もう完全な世捨て人の生活である。
運転席のこと、車両の整備のこと、保線作業のこと、改札と切符販売のこと、どれも、とても面白かった。一番興味深かったのは、「あったじゃん」を翻訳してくれる翻訳アプリは、どんなふうに出力したのだろうか……ということである。
今の新幹線にかかわる仕事は、外国人観光客の増加ということもあって、いろいろと難しいところがあるだろうと思う。そうであっても、毎日、秒単位の精度で走り続けていて、事故が無い(乗っている乗客の)ということは、すばらしいというしかない。
始めの方で、ちらっと小さい画面で映っていたのだが、新幹線に乗務する人たちが、時計を出してお互いに確認していたシーン。これは、いったいどういうことだったのか、とっても気になった。
新幹線にかぎらないが、飛行機などにおいても、時間の正確さというのは、何を使っているのだろうか。普通に考えれば、日本国内だったら、電波時計ということになるだろう。国際線の飛行機では、どういう時計を使っているのだろうか。世界中で使えるとなると、GPS時計かなと思ったりするのだが、どうなのだろうか。
JR各社、私鉄各社における、乗務員の時計の管理……という大げさになるが……は、いったいどうなっているのだろうか。こういうことは、鉄道マニアの人なら知っていることかとも思うが。
昔の機械式時計の時代だったら、一日に数秒の誤差があるのが普通だった。それが、クォーツの登場によって、劇的に変わった。普通の腕時計で、月の誤差が10秒程度だし、ちょっといいのを買えば、年の誤差が10秒ほどになる。
クォーツ時計になって、時計としての精度は格段に良くなったが、一方で、電池切れの心配ということが発生することになる。これも、現代だと、ソーラー電波時計というのがあるので、内部のムーブメントの故障以外は、心配しなくてもよくなったが。
私が、はじめてクォーツの腕時計を買ったのは、学生のときだった。それまで、中学になって買ってもらった、機械式腕時計を使っていた。これは、一日に、2分ぐらいの誤差の出るものだったので、朝の7時にラジオの時報で時計を合わせて下宿を出て大学に行って、夜になると、誤差を補正して時間を見なければならないということだった。それでも、実用的には十分だったが。
その腕時計も故障したのをきっかけに、クォーツに買い換えた。そのころには、ずぶんと安い製品が出回っていた。このころ、電池の寿命が短くて、一年ちょっとぐらいだった。自分の誕生日に合わせて電池を交換するようにしていたので、これはこれで、電池切れの心配はあまりなかった。
それが、新しくなると、電池の寿命が長くなったので、交換のタイミングが、本当に電池切れになってからということになった。性能がよくなって、かえって不便になったことの一つである。
SEIKOの鉄道時計は、JRでは、今でも使っているのだろうか。学生のときに買ったのを今でも持っている。
鉄道の近代史は、時間と時計の近代史になるだろう。(世捨て人としては、もう、こういうことを、本格的に考えてみようとは思わなくなったが。)
2026年8月19日記
スペシャル時代劇「銭形平次」 ― 2026-08-25
2026年8月25日 當山日出夫
スペシャル時代劇「銭形平次」
これは傑作といっていいだろう。
時代劇にはケレン味があっていい。だが、その加減がむずかしい。これは、それがうまくいったということになる。
「銭形平次」というと、私の世代であれば、どうしても、大川橋蔵と八千草薫を思い出す。子どものころに見ていた。
また、原作の野村胡堂の小説も、いくつかは読んでいる。これは、昔の大衆文学としての時代小説ということになる。いわゆる、純文学と大衆文学が、はっきりと別れていた時代の、大衆文学である。
過去の時代劇映画やドラマの作品を、リメークするということなのだが、これまでの「眠狂四郎」「丹下左膳」とくらべると、「銭形平次」はよくできていたと感じる。「眠狂四郎」はニヒルな雰囲気と円月殺法の映像表現がいまいちだったし、「丹下左膳」は主人公の無頼漢ぶりが今の時代には無理なキャラクターかと感じた。
昔のイメージが色濃く残っている作品を、リメークするというのは、かなりの冒険かと思うが、過去のしがらみにとらわれず、独自色を上手く打ち出してあったと感じる。
もとが捕物帳なので、ミステリの要素がある。この場合、ドラマとして作るのに、一番難しいのが、犯人役の役者さんを誰にするかであり、どう演じるかである。この観点からも、非常にうまい人選だった。(どう考えても、お静の生田絵梨花は、犯人にはならないだろうから、となると、残るのはこの人となる。)
山田杏奈がとてもよい。魅力的である。舞台の姿は可愛い。ただ、ドラマの中での芸がいまいちである。いや、このドラマの場合、つばめちゃんはアイドルなのであって、芸を見せる芸人ではない……と割りきってみれば、これはこれで、上手く作ってある。
ミステリとして見た場合、証拠と証言から、理詰めで犯人を割り出すということもある。犯人はお前だ、というスタイルである。そうではなく、いろんな手がかりがちらばっていて、それらを総合して、最終的にカチッとはまって一つの結論がひらめく、こういうスタイルもある。古典的な探偵の一つのスタイルである。シャーロック・ホームズのいくつかの作品などが、これに該当するだろうか。証拠を理詰めで分析することと、総合的な直感力ということでは、リンカーン・ライムに近い雰囲気も感じさせる。
中で、あおばな、が出てきていた。これは、今でも、京都の友禅の下絵を描くのに使われているはずだが、栽培する農家が維持できるかどうか、という状況かということのはずだが、さて、現在はどうなっているだろうか。
この次は、机竜之介を期待したいところだが、どうなるだろうか。
2026年8月23日記
心おどる「あの人の本棚 (3)角幡唯介(探検家・作家)」 ― 2026-08-25
2026年8月25日 當山日出夫
心おどる「あの人の本棚 (3)角幡唯介(探検家・作家)」
この回はとても面白かった。本を読むというのは、こういうことなのだなあと強く感銘をうけるところがあった。
学生のときから、国語学・日本語学という分野にかかわってきている。どうしても、純然と本を読むということができない。どんな本を読んでいても、かならず、ことばの用例をさがしている……ということがある。今でもテレビを見ていても、登場人物の科白だったり、字幕で使われている文字であったり、画面に映っている背景の中の文字であったり、気になってしかたがない。これはもう、絶対に死ぬまでそうなのだろうということである。(まあ、言語の研究者とはそういうものだといってしまえば、そうなのであるが。)
知らない本がたくさん出てきていた。探検記という類の本は、これまで、あまり読むことがなかった。『世界最悪の旅』『西域八年の潜行』『東ヒマラヤ探検史』……こういう本も読んでみたくなった。
ドストエフスキーとかトルストイとか、読んでいる本である。だが、私の世代だと、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』ぐらいは、学生のころに、読んでいて当たり前というような雰囲気があって、読んだものであり、純然と読書のたのしみとして読むということが、なかなかできないともいえよう。
ハイデガーは、敬遠してきたというのが正直なところである。
探検に出て、吹雪に閉じ込められたりして、本を読むしかないというような状況で読む本というのは、また、通常の読書経験とは違ったものであるにちがいない。
探検するのにGPSを使わないというのは、まさに探検である。何でもスマートフォンで分かる、AIで人間が代行される、こんな時代になっているからこそ、人間の生身の感覚ということの大切さを感じることになる。
『西行花伝』(辻邦生)は、2~3回は読んでいる。辻邦生の作品は、高校生のころから好きで、なんどか読みかえしている。一番好きなのは、最初期の『廻廊にて』である。
イヌイットのように、明日どうするかは明日の天候で決まる、人間の意志でどうこうするものではない……こういう人間の生きる感覚は、現代の日本では、失われてしまったものにちがいない。
2026年8月20日記
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