世界のドキュメンタリー「シャドー・スカラーズ 誰が論文を書いているのか」 ― 2026-04-16
2026年4月16日 當山日出夫
世界のドキュメンタリー「シャドー・スカラーズ 誰が論文を書いているのか」
2024年、イギリス。
前編・後編と録画しておいて続けて見た。見ながら思ったことを、書いておくことにする。
イギリスの制作ということだからか、ブレア首相の、「Education, Education and Education」と演説で言ったシーンを、久しぶりに見た。(これがどう実現するかということはあるが、理念としては、私は正しいことだと私も思っている。)
2024年の制作なので、今(2026)だったら、AIの利用ということで、状況はもっと違ったものになっているかと思う。
論点としては、二つのことがからまっている。
一つには、大学教育において、論文代筆ということの問題点。
もう一つは、ケニアの優秀な頭脳が、世界的な格差の中で搾取されている問題。
この二つは、別々に考えた方がいいかと思う。特に、AIを利用することになると、人間のかかわる領域が変わってくることもある。論文代筆も失業するか、あるいは、AI翻訳の利用によって、英語圏以外にビジネスの範囲を広げていくことになるのか。
大学教育における論文代筆の問題は、大学の教育に何をもとめるのかという社会の側との関係で考えることになる。日本でも、卒業論文代筆ということが問題になることがあるが、それが、大学教育の根幹をゆるがしているということにはいたっていない。
一般的に、日本では、どの大学を出たか、つまりは、どの大学の入学試験を受かったか、ということで選別することが大きな割合をしめる。たとえば、東京大学卒ということは、東京大学の入学試験を受かったということが、評価されている。
ビジネスの領域などで活躍する人が、自分の大学生のころをふりかえって、多く言うことが、学生のときは勉強しなかった……これが、定番の台詞になっている。このごろでは、大学生のときに何を勉強したかということが、就職のときに意味をもつようになってきている傾向はあるかとも思うが、主に、実学、というべき分野のことについてである。
アメリカやイギリスなどでの大学教育で、何をどのように教えているのか、大学を卒業することに、社会がどういうことを求めているのか、また、教育の方法や成績評価のシステム、これらのことがあって、論文代筆ということになるかと思う。
そして、英語圏であるならば、その中での需要と供給がある、ともいえる。ケニアのような国があって、そこに、そこそこ優秀な(アメリカの平凡な学生よりもすぐれた、というべきだろうが)学生がいることが、上手く利用されていることになる。その背景には、ケニアの経済事情もある。
論文代筆が成りたつのは、技術的には、論文をコンピュータで書くようになって、オンラインでの文章のやりとり、また、お金の決済が可能になってという、時代の変化があってのことになる。
AIの時代になって、これからどうなるだろうか。
人間の手になる論文代筆は、ビジネス(?)として生き残れるだろうか。いや、AIを使った論文を問題視するということ自体が、もう時代遅れであるといってもいいかもしれない。論文執筆にAIを使うのが当たり前である、問題は、それをどう使うかである、という時代になっているというべきだろうか。
おそらく、大学での成績評価については、教室での手書きの答案による試験か、あるいは、口頭試問か、ということが重視される方向になっていくかもしれない。
番組の中で、大口の顧客(?)としては、アメリカとイギリスがまず出てきていて、それから、中国も名前があがっていた。中国から、海外の論文代筆サイトにアクセスすることが可能ということなのだろうか。中国のインターネット事情は、かなり窮屈なものだという印象を持っているのだが、意外と抜け道があるのかもしれない。
日本がお客さんとして名前が出てきていなかったのは、日本では、アメリカやイギリスのような形で、レポートや論文が課題として出されて成績評価につながり、また、就職にもつながる、ということがないからかとも思う。
私が、これまで、大学生に教えてきた経験からすると、日本の大学では、このレベルの学生なら、このレベルの内容の、このレベルの文章だろう、ということが、おおむね予測できるので、それを超えてずば抜けたレポートなどがあると、怪しいと疑うことになる。私の教えている学生が、こんなに頭のいいはずがない、ということになるが。
ケニアの大学生が、世界の経済の構造の中で搾取される存在になっているということは、これは、今すぐにはどうすることもできないかもしれない。ケニア出身でも、ずば抜けた才能があって、かつ、運がよければ、そこから抜け出すことはできるだろうが。(「Satoshi Nakanoto」が実はケニアの大学生だったということでも、おどろくべきことではないかもしれない。)
文章というものは、描き手の特徴を残すものであり、計量的な分析で、特定することができる。このことを応用すれば、その学生の書いたことが確実であるサンプルをあらかじめ提出しておいて、レポートや論文などについて、本当にその学生が書いたものかどうか、AIに判定させる……こういうことも、ありえないことではないだろう。
論文代筆サービスのサイトの利用の履歴を残してしまうということは、その後の人生において、リスクを背負うことになる、という認識は持っておいた方がいいということになる。
2026年4月11日記
BSスペシャル「モサド ポケベル爆発事件の全貌」 ― 2026-04-16
2026年4月16日 當山日出夫
モサド ポケベル爆発事件の全貌
この番組の内容程度のことなら、モサドの活動としてあつかってもいい、という判断なのかなと思って見ていた。このことの背景には、絶対に語られることのない、極秘の工作活動が、たくさんあるにちがいない。
ポケベルの爆破事件のときのことは、記憶している。まず思ったのは、今の時代にポケベルを使っているというのは、どういうことなのかと不審に感じたものである。携帯電話とちがって盗聴されにくい、というメリットあるというのは、そういうものかと思う。ヒズボラもそうだが、軍事的な組織で使うならば、盗聴されないこと、耐久性があること(防水、防塵など)、バッテリーが長持ちすること、というようなことになる。(この意味では、現代の一般のスマートフォンは、とても軍事的には使えないといっていいだろうか。)
ポケベル爆破作戦が、非常に周到に準備されたものであることは分かる。まきこまれた(名前をつかわれた)台湾の企業とか、日本の企業は、迷惑ということになる。
使われたポケベルの、製品としての信頼性の高さということは、確かにあっただろう。ここは、さすが台湾というべきだろうか。(それでも、疑われそうになったので、調査を妨害して(担当者を殺して)、作戦の実行を早めたというのは、軍事的には妥当な判断であったというべきだろう。冷酷な考え方になるかとは思うが。)
軍事の点から見れば、ポケベル爆破作戦は、成功したということになるだろう。ヒズボラ戦闘員にターゲットを絞ることになるし、殺さずに負傷させることがメインであるので、イスラエルの存在感をレバノンの人びとに印象づけることができる。(だが、それでも、ヒズボラ戦闘員以外の人で、巻き添えの被害にあった人がいることは確かであるが。)
番組の意図としては、モサドとイスラエルの意図や能力ということに焦点をあてて作ったかという印象なのだが、見ていて感じるのは、イスラエルが、まわりを敵国に囲まれていて、その生存をかけているということは、認めなければならない。
ユダヤ人は皆殺しにすべきであり、イスラエルという国家は世界から消滅すべきである、とかたくなに思っているヒズボラやハマスのような、武装組織に囲まれていて、なんとか国家として生きのびていくには、それなりの覚悟としたたかさが必要だろう。
今の時代の流れとしては、反シオニズム、という方向になっている。イスラエルという国家の存在そのものを否定するのが、正しい、という風潮かなと見ている。
だが、これは、新たな憎悪の連鎖を生むだけで、あまり平和的で建設的であるとは思えない。(だからといって、イスラエルのやっていることが、すべて正当化されるとは思わないが。)
最後まで見て、名前が出てきていたのが、小谷賢。だが、おそらく、絶対にこういうところには名前を出さない、ということで仕事をしている、日本のインテリジェンス関係の専門家は多くいるにちがいないと思う。
2026年4月10日記
クラシックTV「山寺宏一は、ピアノだ!」 ― 2026-04-15
2026年4月15日 當山日出夫
クラシックTV「山寺宏一は、ピアノだ!」
これは、面白かった。おそらく、この番組を見た人のかなりは、「ビストロボイス」も見ていただろうと思うのだが、山寺宏一の魅力を、ピアノという楽器の特性とともに、うまく紹介していたと感じる。
見ていて、一番重要だなと感じたところは、山寺宏一が声優の仕事しての完成は、その存在が消えることである、という意味のことを言っていたことである。このアニメやドラマの、この声は、誰がやっているのか、声優は誰か、ということを意識させるようではいけない。その役の俳優、登場人物が、演じているそのままを表現しなければならない。これはそうだろうと思って見たところである。
これについて、清塚信也が、クラシックは再現芸術だと言っていた。モーツアルトやベートーベンが、生きていたら、そのように演奏しただろうというふうに演奏するのが、正しい、ということになる。
これには、異論もあるにちがいない。
古い楽器を使って、その当時の演奏法で演奏すること……古楽……の再現に価値があるのか、あるいは、昔の音楽家が目指したものが何であるかを追求するのがいいのか、その時代の楽器の性能の限界ということもある。チェンバロで出せる音と、現代のピアノで出せる音は違う。これは、議論の尽きることのないテーマであるにちがいない。
それよりも、現代の音楽は、クラシックでもそうだが、演奏家の個性を重視するようになっている。私は、ショパンをこう理解しているので、こう演奏しました、ということで、個性を競うような方向に向かっている。このことがいいのかどうかという問題もあるだろう。はたして、バッハは、自分の個性を出そうとして曲を作っていたのか、というようなことは思ってみてもいいかもしれない。
個性的でなければならない、自分は自分らしくあらねばならない、それはそうだとしても、これが脅迫観念として人を、あるいは、アーティストを、圧迫することは、どうなのだろうか。
声優の仕事でも、クラシックの演奏でも、その人物が消えて、役だけ、音楽だけが残る、ということが、一つの理想の形であるという価値観があってもいいとは思っている。
なお、こういう考え方は、夏目漱石の『三四郞』で与次郎が、落語家について、うんちくを語っている部分で、同じようなことを言っている。
2026年4月10日記
3か月でマスターする数学「(1)○と△のファンタジー!「円周角の性質」」 ― 2026-04-15
2026年4月15日 當山日出夫
3か月でマスターする数学「(1)○と△のファンタジー!「円周角の性質」」
再放送を見ている。見ながら、我ながら感覚が鈍ったなあ……と嘆くことになった。
中学生、高校生のころは、数学で幾何の問題は、大好きだった。別に自慢するわけではないが、問題を見た次の瞬間には答えが分かって、答案を書くのが面倒だったという印象で記憶しているぐらいである。そのかわり、代数の問題は、そんなに好きではなかった。
番組の中で出てきた問題でも、今から半世紀以上さかのぼって、中学生か高校生ぐらいだったら、すぐにひらめいた問題だったのになあ、と思いながら見ていた。
今の私として興味があるの……おそらく、昔の人間が、幾何とか図形とかということを考え出したとき、あつかうことのできたのは、直線、円、三角形、四角形、ということぐらいだったではないかと、想像してみる。これぐらいの概念があれば、縄文時代や弥生時代の、(復原した)家屋を作ることができるかと思う。
円周角というのは、円と直線と三角形、これだけのことである。
曲尺が出てきていたが、大工さんは、これを使ってもっといろんなことができるはずである。また、これは、手を動かすということと、図形についての理解とが、一緒になったことなので、とても面白いことだと思う。
2026年4月11日記
サイエンスZERO「生命とは何か?40億年の謎に挑む」 ― 2026-04-15
2026-04-15 當山日出夫
サイエンスZERO「生命とは何か?40億年の謎に挑む」
生命とは何かということについては、いろんなアプローチができるかと思うが、この番組らしい作り方だった。
生命と非生命とを、どうやって区別するか。
単細胞の細菌をつかって、そのDNAを操作して、どれだけのDNAがあれば、生命として生きていることになるのか、確かめるために、人工的に作ってみる。科学の方法としては、こういうことも考えることになるのだろう。
その結果としては、
膜がある 自他を区別する境界がある
自己複製能力がある 次世代に子孫(?)を残せる
代謝能力がある 生きていくためにはエネルギーが必要ということ
ということだった。たぶん、そういうことだろうなあ、と納得できることではある。さらに思うこととしては、その生命(あるいは生命体というべきか)が、自律しているということを、言ってもいいだろうか。
生命の基本、始原を、RNAにもとめるというのは、今の生物学では、そうなのかなと思う。(できれば、RNAとはどういうものか、説明してほしかった。)
生命が複製を作って増えていくときに、コピーミスが起こる。つまりは、ちょっと違ったものができる。これが積み重なると、進化ということになるという理解でいいだろうか。出来たいくつかの種類の生命が、役割がちがって、共存関係をもつようになるというのは、面白い。これが、偶然の結果としてこうなったということでいいのだろうか。こうなる過程で、生きのびられずに消えたものもあるのだろうか。
LUCAという原始的な生命の存在しえた環境として、熱水噴出口を想定するするのは妥当かと思うが、このようなLUCAだけが生きのびたということの説明は、はたしてどうだろうか。他にもいろんな可能性が考えるられるかもしれない。
2026年4月11日記
所さん!事件ですよ「謎の相続ビジネスが急増!? 令和の相続事件簿」 ― 2026-04-15
2026年4月15日 當山日出夫
所さん!事件ですよ「謎の相続ビジネスが急増!? 令和の相続事件簿」
この番組は、そう深くテーマを掘り下げるということはないが、時として、現代社会の重要な問題点にふれることがある。なので、ときどき見ることにしている。
相続税は、富の再分配のためのものである……これは、社会的な常識だと思うが、これから、社会の経済格差が全世界的に拡大していくということが言われているときに、どうあるべきか、考えることは必要だろう。
都市部の土地を、駐車場かコインランドリーにすることで、相続税対策になる。こういうこともあるのかと思うが、都市としての機能の維持という観点からはどうなのだろうか。コインランドリーの需要というのは、生活スタイルによっても変わってくるかと思う。洗濯機を持たないという人も増えてくるかもしれない。まあ、家の建物があって、空き家のまま放置されるということよりは、いいかもしれない。
沖縄の軍用地が、相続税対策になるということは始めて知った。これはこれでいいとしても、沖縄のアメリカ軍の土地が、将来において、日本に返還されることがあったとして、その土地の有効な利活用のためには、どう考えてもマイナスでしかない。
一坪地主、ということばは今ではもう聴かなくなったかとも思うが、結果的に、(あえていえば)公益にかなうことであるといっていいのだろうか。
その土地の権利者が明確である間はまだいいとしても、非常に数多くの人間が権利を持ってしまっているというような、地方の土地や建物の場合、どうにかならないものかと思わざるをえない。番組に出てきたような、昔の建物というだけならいいが、昔からの村落の統廃合をふくむ再開発事業のような場合、大きな障害になるかと思われる。
こういうことは、今のうちに何とかしなければならないし、それには、行政の方がきちんと対応していくべきだろう。ただ、私有財産の処分だから、それにはタッチできないということでは、未来に負担を残すだけになると思える。
遺産の相続人がいない場合、国庫にいくことになる。それはいやだ、という人が、遺産をどこかに寄付するということは、このごろになって、広く知られるようになってきたことかと思う。このとりくみに、日本財団などが、かかわっているのは、悪いことではないと思う。
2026年4月9日記
『太平記』「芽生え」 ― 2026-04-14
2026年4月14日 當山日出夫
『太平記』「芽生え」
日曜日の昼に、『太平記』の再放送と『豊臣兄弟!』を続けて見ると、はっきり言って、『太平記』の方が、ドラマとして断然できがいい。クオリティが違う。あるいは、描いている人間観というか、時代と人間についての感覚というか、こんなにも違うものなのかと感じる。
歴史の中で、どのような時代に生まれるかは運命である。だが、その運命をひきうけつつも、時代の流れの中で、どう生きるのか、その回りにはどんな人たちがいるのか、そして、その中で人間とはどういうものなのか……こういうことの、全体の描き方の深さと広さが違う。
当時の鎌倉時代末期における政治の権力の中で、足利氏として生きのびるにはどうするべきなのか、高氏の生きている時代のことであるが、さてどう生きるかは、難しい。
そして、これは吉川英治の原作としての特徴になるだろうが、社会的階層、身分において、多様性がある(今風のことばいえば、であるが。)謎の山伏であったり、旅芸人の一座であったり、社会の身分秩序の枠の外にいる人物が、非常にうまく配置されている。
1991年のドラマであるが、古風なことばでいえば、ビルドゥングスロマン(教養小説)の雰囲気を多く持っている。そういえば、昔の、大河ドラマや、朝ドラは、なにがしか教養小説的であった。
緒形拳が、非常にいい。貫禄である。また、宮沢りえが若々しくてとてもいい。
『豊臣兄弟!』と比べて、決定的に違っているのは、『太平記』には「大人」が出てきていることである。「大人」の世界があって、それを前にして、少年・少女、青年たちがいる。高氏であり、藤夜叉である。
2026年4月13日記
100分de名著「ウィトゲンシュタイン“論理哲学論考”“哲学探究” (1)言語の限界はどこにある?」 ― 2026-04-14
2026年4月14日 當山日出夫
100分de名著「ウィトゲンシュタイン“論理哲学論考”“哲学探究” (1)言語の限界はどこにある?」
私の学生のころ、一部の学生の間では、ウィトゲンシュタインは、とても人気があった。だが、そのころは、あまり読もうとは思わなかった。(それよりも、折口信夫や柳田国男などを読んでいた。慶應の国文科の学生としては、そういうことだった。)
この番組を見るようになってかなりたつが、だんだんと見方が変わってきたのを自分で感じる。啓蒙的で、分かりやすい解説、という趣旨での番組だということは理解しているのだが、どういう本をとりあげて、どういうことを語るのか、ということもあるのだが、それを、どんな人がどう語るのか、ということを見ているのが面白くなってきている。
特に哲学関係の書物については、語りかたが難しい。その哲学者の書いたことを、分かりやすく解説する、ということが一般的なのだが、それに加えて、その考え方が哲学の世界ではどういう意味があることなのか、それについて他の哲学者はどう言っているのか、さらに、自分(この番組の講師である人)はどう考えているのか、こういうことを、きっちりと分けて語るということもある。こういう立場では、最近だと、ヤスパース『哲学入門』の戸谷洋二が、そうだった。
このウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の第一回を見ると、古田徹也は、自分の意見を基本的に言っていない。あくまでもウィトゲンシュタインが書いたこと、考えたことを、分かりやすく解説するとどういうことなのか、という路線を堅持している。これはこれで、ものすごく難しいことなのだが、見事である。
これまでのこの番組では、あつかっている本や作家をダシにして、ただ自分の言いたいことを話す人も結構たくさんいた。私は、こういうのは、あまり好きではない。
ウィトゲンシュタインであるが、言語とは何であるか、という観点からするならば、その言語観自体が、きわめてオーソドックスなものかと思えるが、これは、言語学と哲学との間で、どのように考えることになるのだろうか。(若かったならば、生成文法からはどうか、認知言語学からはどうか、というようなことを考えてみることになったと思うが、もう、そんな面倒なことはいやになったので、ただ、ぼんやりとテレビを見ているだけにしたい。)
2026年4月11日記
英雄たちの選択「円谷英二 時代がつくった“特撮の神様”」 ― 2026-04-14
2026年4月14日 當山日出夫
英雄たちの選択「円谷英二 時代がつくった“特撮の神様”」
番組の内容とははずれるが、思ったことを書いておく。
この番組の企画・構成にあたって、考えてのことだろうが、金城哲夫や実相寺昭雄の名前がまったく出てきていなかった。しかし、私が、ウルトラマンやウルトラセブンについて何かを思うとき、金城哲夫や実相寺昭雄を考えることにどうしてもつながる。もちろん、子どものとき、ちょうど、テレビのウルトラのシリーズが放送していたとき……それは、「ウルトラQ」からだったのをリアルタイムのこととして記憶しているが……金城哲夫とか実相寺昭雄の名前を意識して見ていたということではない。大学生ぐらいになってから、日本のサブカルチャーや映画史を論じたものを読んで、名前を覚えたということである。おそらく、多くの人がそうだろうと思う。
佐藤健志の『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』は、とても面白い本と思って読んだものである。
映画の『ゴジラ』の企画について説明する場面で、テレビの画面のイラストでは、映画会社(東宝)の机の上の本には、(「ゴジラ」ではなく)「G」と書いてあった。かなり、この番組を作った人も、凝って作ったことが分かる。
円谷英二が、『ハワイ・マレー沖海戦』で名前が知られた。これは知られていることなのだが、この映画で「マレー沖」とあることの意味が、今は、忘れられているかもしれない。
マレー沖海戦では、イギリスの戦艦、プリンス・オブ・ウェールズを航空機爆撃だけで沈めたことで記憶されている。(このことがあるにもかかわらず、日本海軍が巨大戦艦にこだわったことになる。その結果は言うまでもない。)
太平洋戦争がはじまったのは、真珠湾攻撃からではない。それに先だって(時間的にはわずかだが)マレー半島上陸作戦から、スタートしている。日本としては、南方に進出する必要があった。そのために、同時に、真珠湾のアメリカ軍を奇襲した。アメリカと直接対決することが、主目的ではなかった。少なくとも、太平洋戦争開戦の意図、あるいは、大東亜共栄圏の目論見としては、東南アジア地域を勢力圏におくことだったはずである。(それは、アメリカの勢力の排除ということでは、アメリカとの対決になったが。)
開戦が12月8日となったのは、マレー半島への上陸作戦を決行するために、潮の干満を考えてのことだったはずである。軍事史的には、これが常識だと思っているが。
『新しき土』は、原節子の映画としても有名である。この映画の、映画史的な位置づけは、専門的にはどうなのだろうか、このところは気になっている。
円谷英二についてふりかえってみるならば、表現するとは楽しいことであり、表現したいことを自分のうちに持っているということは豊かなことなのである、といっていいだろうか。
2026年4月9日記
最古のDNAを探せ ― 2026-04-14
2026年4月14日 當山日出夫
最古のDNAを探せ
再放送である。最初は、2024年6月14日。
たまたま番組表を見ていて目にとまったので録画しておいた。
わりと面白かった。というか、科学番組としてそこそこきちんとしていた、というべきだろうか。
出てきていたのは、ヴィラースレフという人。正直にいって、名前を知らなかったので検索してみると、きちんとした研究者である(らしい)。番組に協力しているのは、更科功。古代生物、進化論、などについて、いくつか啓蒙的な本を書いている。
グリーンランドの土を調べることによって、200万年前の、北極圏の生物の様相が分かる、というのは、とても興味深い。
土の中に古い遺伝子が残るとして、非常に断片化しているので、特定の生物のものと見極めるのが難しい。それをショットガン方式で……私の理解したところでは、総当たり的な方法ということになるだろうか……調べてみると、非常にたくさんの動植物のDNAが見つかった。
番組では、あまり触れていなかったが、その年代の特定は、どうやって分かったのだろうか。まずは、サンプルを採った地質についてのことがあるだろうが、その他のことは、具体的にどうやって調べたのだろうか。ここのところは、本当に信頼できることなのか、重要なことだと思うが、番組の中であまり説明がなかったのはおしい。
なぜ、200万年もの間、DNAが保存されていたのかというと、電気をおびているからだということだが、DNA……ATGCからなる……が、電気をおびている理由の説明がほしかった。
この他のことは、古代生物学とか、古気候学とか、地質学とか、多様な分野の研究の総合として、200万年前の北極圏は、今よりずっと暖かく、植物が豊富で、動物もたくさんいたということになるようだ。
ラクダがいたというのは、面白い。ラクダは、沙漠で生きていくように進化したと思っていたが、背中のこぶに脂肪をたくわえられるのは、白夜のある北極圏で生き抜くために役だったということのようだ。(本当なのだろうか)。
番組の趣旨とは関係ないが、面白かったのは、研究チームに加わるか、どうしようかということが、博士号をめざす大学院生にとって、運命の分かれ目になるという、研究者の世界の現実を描いていたことである。結果的には、この研究チームは、あたり、ということになったが、すぐに結果が出たわけではないので、それまでに不運な目にあった若手の研究者がいたことになる。
地球温暖化と言われているのだが、もっとも大事なことは、人間が産業革命をおこさなくても、地球の環境は変化してきていることである。地球温暖化という場合には、もし人間の活動が無かったした場合、自然な変化として、現在の地球の環境はどうであるはずだと、精度の高い推定が可能になって、それと、現在のこととの比較でなければ、科学的には意味がないはずである。
2026年4月10日記
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