BS世界のドキュメンタリー「印象派の夜明け 〜新しい表現への挑戦〜」2025-08-30

2025年8月30日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「印象派の夜明け 〜新しい表現への挑戦〜」

2024年、フランスの制作。

西洋美術史については、教科書的な知識しかもちあわせていない。19世紀のフランスの印象派の画家たちが、どんなふうだったか、ということを手際よくまとめてあったという印象である。(絵の映像と、再現ドラマを組み合わせるというのは、これも一つの番組の作り方だとは思う。)

思うこととしては、「風景」が美術の対象である、風景の中に美を見出す、こういうことが出来るようになったのは、近代になってからのこと、といっていいのだろう。美術史における「風景」については、たくさん論じられてきているところだとは思っている。

そして、人間の内面……個性といってもいいかもしれないが……を描くということも、また近代になって、自覚的に、芸術においてなされるようになってきたことになる。

美術のみならず、音楽や、文学、その他の芸術のいろんな分野とともに、まさに近代を象徴するのが、美術における印象派であったといっていいのだろう。

番組のなかで、「階級」ということばを使っていたが、フランスで作り、時代が19世紀のことだから、このことばを使うのは当然なのだろう。日本だと、あまり、使わないようにしているかと思うが。そして、言うまでもないことだから言っていなかったのだろうが、印象派の画家たちは、当時の社会の階級としては、どれぐらいの位置にいたのだろうか。そして、その生計は、どうなっていたのだろうか。

見ていて思ったことであるが、印象派の絵は、その後の写真の表現に影響を与えていることが分かる。こういうことは、美術史や写真史においては、常識的なことなのだろうと思うが。

フランスで印象派が生まれたころが、日本で明治維新がおこって近代社会に変わっていく時代だったことになる。この時代の精神……という大きな流れのなかで、芸術とか文学とかの近代(西欧のみならず日本においても)を、考えることになるのだろう。

2025年8月18日記

アナザーストーリーズ「桑田と清原 KK伝説〜甲子園が熱狂した夏〜」2025-08-30

2025年8月30日 當山日出夫

アナザーストーリーズ 桑田と清原 KK伝説〜甲子園が熱狂した夏〜

録画してあったのをようやく見た。

高校野球にはほとんど関心がないのだが、それでも、桑田と清原のこと、PL学園のことは、記憶にある。ただ、そのころニュースになったということぐらいで、具体的にどんな選手であたかということは、ほとんど覚えていない。

今から40年前の高校野球のことになるのだが、今から思い返せば、番組の中で対戦相手だったチームとして出てきた、取手二高のような普通の公立高校で楽しんで野球をやっている、ということがあった……このことが、印象に残ることになる。現在のような、勝利至上主義で、全国から有望な子どもを集めてきて、寮生活で「きたえあげる」というようなことでなければ、いわゆる甲子園強豪校にはなれない。

こういうのは、すこし、いや、おおいにおかしいと思うように、世の中の考え方が変わってきているだろう。野球部での寮生活を送ってきたということを分かった上で、就職で採用するという企業もあったかと想像してみるのだが、これからは変わっていくかもしれない。

この番組のなかで、現在のPL学園の状況や、また、野球部のことについて、まったく言及がなかったのは、いたしかたないことなのか、それとも、もう多くの人が知っていることだから、ふれる必要がないと思ったのか。いずれにせよ、この番組の企画としては、タイミングが悪かった、というべきだろう。

2025年8月23日記

新日本風土記「夏の福島 浜通りの青春」2025-08-29

2025年8月29日 當山日出夫

新日本風土記 「夏の福島 浜通りの青春」

再放送である。最初は、2024年9月9日。

ローカルニュースを見ないと、その県内での地域の名称が分からないことが多い。福島県の浜通りという言い方は、地震の災害の後になって一般に知られるようになったかと思う。他には、福井県を、嶺北と嶺南に分けるようなことは、天気予報などでは使われる地域の名称ということになる。

NHKの作る番組ということもあるのだが、福島の浜通りに住む人びとについて、未来を感じさせるような取材や編集になっていることは、確かなことだろうと思って見ていたことになる。原子力発電所の事故で、帰宅できない、居住できない、とされた地域において、人の生活がなりたつようになるためには、どうすればいいか……はっきりいって、ごまかしてあるとしか思えない。どう考えても、もともと住んでいた人たちが、元の家にもどって、以前と同じような生活をいとなむことができる……というようなことは、(私の思うこととしては)どうしても無理だろう。かといって、では具体的な未来の地域の構想を提案するということも、難しいかと思う。どのような計画であれ、現実的なプランを考えるとすると、おそらく、もうこの地域には、人は住むなということか、と猛烈な反発が生まれることは確実だろう。

しかし、将来のこととして、数十年にわたって放棄された農地でもとのように農業ができるようにということは、現実的とは思えない。そのころには、日本における人口も減少はどんどんすすんでいく(これは、世界的な現象であり、日本だけが例外的に人口減少しているわけではない。ただ、スピードは速い。韓国など、日本よりも、さらに速い。)その数十年先の、日本における、人口の問題と、生活のスタイルがどうなっているのか、ということを考えることになるはずである。(道路や水道や電気など、また、教育や医療や福祉などのサービスが十分でない地域に、無理に人間に住め、ということはできない。)

八月の盆の行事として、ジャンガラ踊りがあり、特に初盆の家では、盛大にお祀りする、ということは、この地域の風習であるのだが、こういうのは残っていってほしいと思う。

中央競馬のジョッキーになるのが、非常に難関であるということは、知らなかった。厩務員の仕事ができるなら、馬と一緒にすごす時間があって、これはこれで、いい選択肢だろうと思う。

ダンスで身を立てたいと思う若い女性ならば、東京に出て行きたいと思うことは、当然のことだろう。これを、無理に地元にとどまってくださいとも、いうことはできない。

漁船を新調するというのは、かなりお金のかかることかと思うが、はたして、日本の近海での漁業がこれからどうなっていくのか、かなり気になるところではある。もう今では、秋刀魚もあまり目にしないようになってしまったし、イカナゴも絶望的な状況にあるかと思う。

2025年8月26日記

よみがえる新日本紀行「蔵ずまいの町〜福島県喜多方市〜」2025-08-29

2025年8月29日 當山日出夫

よみがえる新日本紀行 「蔵ずまいの町〜福島県喜多方市〜」

再放送である。2022年6月25日。オリジナルは、1975(昭和50)年七月7日。

喜多方というと名前は知っているぐらいのところである。

番組の冒頭で、よろづ屋、と出てきていて、もう今ではこんなことばは使わないだろうなあ、と思って見た。今の若い人には、通用しないにちがいない。(現代では、それが、大きなホームセンターとかドラッグストアとかに変わってきてと思うことになる。)

蔵を持つことが、喜多方の街に住む人にとっては、社会的なステータスのシンボルであった、ということは、そうなんだろうなあと思って見たことになる。なかで、出てきた男性が、ようやく自分で蔵を建てることができて、社会の中流の階級になった、ということを感慨深げに語っていたのが印象的である。

蔵座敷で、法事も営めば、あるいは、お茶会もする。取材のときに雨が降っていて、帰るお客さんに傘を渡していたが、それは古めかしい番傘で、その家の名前が大書してあった。こんな光景は、もう今では絶えてしまったものにちがいないと思える。家の名前を書いた番傘をそなえておくなどということは、この時代の、この地方には、まだ残っていたことになる。

さりげないシーンだったが、喜多方の街で、朝になって商店の前の戸を開けるところが映っていた。これも、今では、なくなってしまった光景といえるだろう。現在では、金属製のシャッターに変わっているはずである。

蔵が、漆器を作るのによく、味噌を作るのによく、また、音楽を演奏するのにもいい。だが、その維持にはコストがかかる。オリジナルの番組の映像でも、蔵の表の漆喰がはがれたままになっている蔵がたくさんあった。

現在では、メンテナンスはできるのだろうが、新しく建てるのは、その職人さんが残っているのだろうか。

2025年8月27日記

知恵泉「シーボルト スレスレすぎる情報収集術」2025-08-29

2025年8月29日 當山日出夫

知恵泉 シーボルト スレスレすぎる情報収集術

シーボルトについては、これまでも何度もテレビ番組でとりあげられてきている。どういう見方で考えるか、というところが見どころか、ということになる。

そもそもシーボルトが日本にやってきた目的が、情報収集……諜報活動というといいすぎかもしれないが……であったということが、まずある。しかし、それならば、それまでの、オランダ商館の人たちは、何をしていたのだろうか。長崎の出島を通じて、日本が西洋の情勢について、タイムラグやかたよりはあっても、かなりの情報を得ていたとは言われている。とすれば、同時に、オランダとしても、日本についての情報収集があったはずなのだが、その実態はどんなものだったのだろうか。インドネシア地域を殖民地とするなかで、日本との交易や、東アジア地域に情報収集はどんなだったのだろうか。オランダの立場から見た解説があってもよかったかと思う。

シーボルトのコレクションの一部については、日本で展覧会があって見たことはあるのだが、何よりも驚くのは、江戸時代の普通の人びとの日常生活の道具類が、ほとんどそのままの形でたくさん残っていることである。どういう理由で、こういうものが、シーボルトのもとに集まったのか、これは是非とも知りたいところである。これらは、当時の日本の人びとにとって、あまりにも日常的すぎて価値があるとは認識しづらいものであったにちがいないと想像する。それらを集めた方法とかは、どんなものだったのだろうか。

これは、シーボルトが、当時の日本での弟子たちにご褒美としてドクターの称号を与えるということでものや情報を集めた、ということよりも、私にとっては、日本の日常生活の品々を集めた経緯の方が気になるということになる。

シーボルト事件については、教科書的な知識しかもっていないが、地図というのが、この時代において、(現代でもそうだが)重要な軍事情報であることは、もっと一般に認識されていいと思う。北方からはロシアが日本をねらっており、イギリスが極東にちかづいてきているなかで、オランダとしての国家戦略はどうだったのかということも考えることになる。

映っていたシーボルトの残した植物標本だが、映っていた範囲での判断になるが、植物の根から採取したものではなかった。これは、今なら、根の部分まで採取して標本にするところだろう。また、なかに、TYPE、と表示してあるものがあったが、これはタイプ標本ということなのだろうか。

欧米やロシアの帝国主義の時代であり、この時代は、同時に博物学という学問があった時代でもある。今でもまったくなくなったということではないが、未知の世界への興味関心と国家の野心と、不可分の時代であったともいえよう。

番組の中で言っていたこと、全能感に溺れてはいけない……それはそのとおりである。私の思うこととしては、学問……人文学の世界でも……瞬間的には、この分野のこの研究テーマ、この文献についての調査、ということでは、トップに立つことは、そんなに難しいことではない。それよりも難しいのは、研究の先頭集団の中に位置し続けることである、と、もうリタイアした身として思うことである。

2025年8月27日記

映像の世紀バタフライエフェクト「シリーズ昭和百年(1) 戦時下の宰相たち」2025-08-28

2025年8月28日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト シリーズ昭和百年(1) 戦時下の宰相たち

最後まで見て、クレジットに出てくる名前を見ると、まあ、こういう作り方になるのだろうなあ、と納得がいく。

保阪正康 佐藤卓己 井上寿一

無論、昭和の歴史、メディア史についての専門家であることはいうまでもない。この回を見て感じたこととして、満州事変以降、日本国民を戦争へと熱狂的にかりたて、対米戦争も辞さずという強行路線を主張したのが、マスコミ(新聞)であり、それを、国民も支持したこと……こういう視点をとりこんであるのは、佐藤卓己の研究を活かしてということと、理解できる。

だが、そうはいっても、最終的には、悪いのはやっぱり軍部であり、軍人は愚かである、という歴史観……東京裁判史観ともいえるし、司馬遼太郎史観ともいえる……が軸になっている。

見ようによっては、NHKの自己弁護、弁解ともとれる。新聞(朝日も毎日も、その他も)はとにかく売るために戦意高揚記事を書き立てたが、日本放送協会(NHK)は、政府・軍の命令にしたがっただけである、ということにしてあった。形の上では、それが事実であるとしても、いかにも言い訳がましい。そういえば、NHKは、この「映像の世紀」シリーズでもそうだが、その後の戦後のGHQのもとでどうであったかということについては、極力触れないようにしているらしい。「真相はこうだ」ぐらいは、どこかであつかうことがあってもいいと思うのだが。

最後に、伊丹万作のことばが引用してあった。これは、暗に、GHQによる占領政策への批判とも受けとれるが、番組内でそこまでの言及はなかった。(GHQのもとで成立した、平和主義の日本を、いまさら否定することは、かなり難しいだろう。それが、たとえ(今でいう)マインド・コントロールとして、国民をだましたものであったとしても。)

この伊丹万作のことばで、知っている人は思い出すであろうこととしては、小林秀雄のことばがある。これを番組で引用することは、今の時代としては無理だろうとは思うが。

ところで、「近衛は弱いね」という昭和天皇のことばを憶えている人はどれぐらいいるだろうか。近衛文麿が自殺したときのことである。武田泰淳の『政治家の文章』(岩波新書)の中に出てくる。これは、私の若いころ、学生のころは、広く読まれた本だったと憶えている。

菊池寛が、公職追放になったとき、自分のことを、リベラルと言っていたが、これはこの時代のことばとして普通である。いや、しばらく前までは、リベラルということばは、どちらかといえば保守的な立場の人に対する評価のことばであった。保守派リベラル、というのはごく普通に使われていた。それが、いまでは、非常に変化したというか、かなりかたよった政治的な意味でつかわれるようになってきている。

ちなみに、私などは、自分のことを、保守的、(本来の意味での)リベラルな価値観をたっとぶ人間であり、守るべき価値観としては、戦後民主主義の「虚妄」である……と、思っているのだが、もうこういう言い方をしても、このことばの出典を知らない人が多いだろう。それよりも、このようなことを言えば、今の時代だと、極右あつかいされかねない。とんでもない時代になったものだと思うのであるが。

林芙美子のことや、エンタツのことなど、いろいろと思うことはある。戦時下における人びとの行動を、今の価値基準でさばくようなことは、私のこのみではない。

一つ気になったこととしては、肉弾三勇士が出てきていたが、これが、第一次上海事変(昭和7年)のことであったことは、語っておくべきだったと思う。

2025年8月27日記

地球ドラマチック「なぞの雪男“イエティ”を追え!」2025-08-28

2025年8月28日 當山日出夫

地球ドラマチック なぞの雪男“イエティ”を追え!

テレビの番組表を見ていて、たまたま「雪男」という文字が目にとまったので、録画しておいて見た。

そういえば、最近、ヒマラヤの雪男という話しを聞かなくなった。私の子どものころ、若いころまで、ニュースなどで、雪男、イエティ、ということばはかなり目にしたと憶えている。

もし存在するとしたら、ということで、科学的に考えられる仮説をいくつか提示してあった。これは、作り方として、良心的な作り方だったと感じるところである。

まず、興味深かったのは、その足跡が実は人間のものだとしても、ヒマラヤに住む人びとは、裸足でいるので、足が変形している場合がある。そういう足なら、普通とは違った足跡があってもおかしくない、という説明だった。

これはそうなのだろうと思うが、それよりも、ヒマラヤのようなとても寒いところで、人間がどうして裸足でいるのだろうか、ということに驚いた。靴とか足に履くのは、その必要があってということもあるだろうが、非常に文化にかかわる問題なのだろう。

南アメリカの最南端に住む先住民族の人びとは、とても寒い環境なのだが、暖かい衣服を身につけるという生活様式ではなかったと憶えている。実際は、どうなのだろう。衣服とか靴とか、生活環境によって必要とするようになっていく部分もあるが、文化的にそれを身につけるかどうか、ということも大きく影響すると考えるべきだろう。

日本でも、昔は、裸足で歩くということが、そう特異なことではなかった。残っている絵巻などの絵画資料でも、裸足の人たちがいる。あるいは、あしなか、という半分だけの草履が使われていた。私が子どものころ、小学校の運動会では、児童生徒によっては、速く走るために裸足になる例が、珍しくはなかった。(私は、そうしたことはないが。)松本清張の『天城越え』を読むと、山道を歩く女郎の女性は、草履をぬいで裸足で歩いている。これは、最近、NHKが生田絵梨花主演で何度目かのドラマ化している。このミステリでは、裸足で歩いた足跡が、手がかりの一つになっている。

クマかもしれないし、生き残りのネアンデルタール人かもしれないし、あるいは、心理的な錯覚や、幻想であるのかもしれない。ヒマラヤの高山地域で多くの証言があるということは、高山病が影響した幻覚と考えるのが、最も妥当であるかと思う。そして、人間は、幻覚を見るとしても、それをどういうものとして意味づけるかとなると、文化的な環境の影響を受ける。

ネッシーもいないことが証明されたみたいだし、日本でも、ツチノコがひょっとするといるかもしれないと期待したのだが、雪男ぐらいは、最後まで生き残ってほしいと思うのである。

2025年8月26日記

NHKスペシャル「絶海に眠る巨大洞窟 〜南大東島・驚異の水中世界〜」2025-08-28

2025年8月28日 當山日出夫

NHKスペシャル 絶海に眠る巨大洞窟 〜南大東島・驚異の水中世界〜

きれいだなあと思うし、よくこういうのが見つかったものだとも、思うのだが、あまり感動するということはなかった。これは、おそらく、探検や撮影の現場の苦労ということを、極力出さないという番組の作り方だったせいかと思う。水中洞窟が見つかった歴史的な経緯や、探検にあたっての具体的なノウハウという部分があると、私としては、こちらの方が興味がある。

それにしても、こういう島に人が住んでいるということも、ある意味で驚きである。南大東島というと、台風のニュースで目にするぐらいである。この島の歴史に人が住んできた歴史というのは、どんなものなのだろうか。考古学的な遺跡、先史時代の遺跡というのは、あるのだろうか。今のようなサトウキビ栽培は、いつごろからはじまったのだろうか。琉球王国の時代は、どんなだったのだろうか。

それから、番組のなかでちょっとだけ言っていたことなのだが、この島の地下には淡水がある。水中洞窟の水は、海水なのだろうか、淡水なのだろうか。雨水が空から降ってきてたまった水だろうと思うのだが、それだけで、あんなにたくさんの水がたまるということなのだろうか。島の外から流れ込むであろう海水と、まざらないでいる理由は、どう説明できるのだろう。

私は、水中の鍾乳洞の映像よりも、この島の水のことについて、知りたいと思う。

2025年8月26日記

ブラタモリ「加賀百万石と東大▼奇跡の赤門&大名庭園!前田家が残した“宝”」2025-08-27

2025年8月27日 當山日出夫

ブラタモリ 加賀百万石と東大▼奇跡の赤門&大名庭園!前田家が残した“宝”

東京大学(本郷)には、しばらく行っていない。以前は、秋の訓点語学会が東京大学ということになっているので、行っていた。それも、COVID-19パンデミック以来、行っていない。(学会費は払っている。これは、若い人たちのための寄付のようなものである。)

地下鉄で本郷三丁目を降りて東京大学に行くと、どうしても赤門が最初に目につく。ここから入って、構内の案内板を見て、目的地に行くということが常だった。別にこれが最短ルートということではないはずだが。

門が閉まっている状態の赤門というと、むしろ、この状態の方が珍しいというべきである。

三四郞池は分かる。学会の開催とか、懇親会が、山上会館であるのが恒例だったので、どうしても三四郞池の側をとおることになる。実際に見ると、かなり大きな池である。

この池がどうして出来たかというと、前田家の屋敷のあったところが、台地の上で、かつ、段丘のところだったので、水が湧き出していて池があった。これは、そうなのだろうと思う。

ところで、東京大学(本郷キャンパス)の立地であるが、台地の上とはいっても、端の方で、下町のエリアに近い。例えば、森鷗外の『雁』など読むと、この周辺の地理を理解することになる。あるいは夏目漱石の『三四郞』を読んでもいい。

大学の立地条件として、いろいろあるだろう。ただ広いだけでなく、学生が生活する地域が確保できること(全寮制でないかぎり)、教員や職員などが通えること、東京において、時の政府組織と連絡のとれる距離であること(これは、東京大学のなりたちを考えると重要なことだろう)、それから、水が確保できることが、あったはずである。

おそらく東京大学というのは、現代においても、東京都内で、最大規模クラスの水と電気の消費者であると思う。明治のはじめなら電気はさほどでもなかったかもしれないが、水は必須だっただろう。特に、医学、工学、という分野においては、水を大量につかったはずである。では、東京大学が本郷にできたころ、水の供給はどうなっていたのだろうか、気になるところである。

番組の中では言っていなかったが、東京大学から湯島あたりは近い。若い男の学生たち(学生は男性だけだった)にとって、「遊ぶ」場所も、近くにあったということになりそうである。

東京大学と前田侯爵家との関係は、かなり深い。本郷だけではなく、駒場にも前田家の邸宅があった。今も残っている。東京における大名屋敷、それから、近代になってからの華族の邸宅、これらを総合的に見る、江戸時代から近代にかけての東京についての研究は、どれぐらいあるのだろうか。

本郷キャンパスの中では、考古学の発掘調査も行われているはずで、江戸時代の大名屋敷の生活が分かったりするのだが、こういうことは、この回の放送では出てきていなかった。

明治のころの東京大学の中は、今よりももっと静謐な感じがしたのだろう。番組のなかで、『三四郞』のなかから野々宮宗八のことばが引用してあった。寺田寅彦がモデルとされる。少なくとも、大学のキャンパスというのは、その中に入ると、外の世界とは異なる価値観があり、時間の流れがある、ということを実感するところでなければならないと思っている。しかし、最近では、新しく都市部に作る大学のキャンパスは、周囲の都市と連続していることを強調するような設計になっていることが多い。大学というもの対する、世の中の見方が変わってきているということである。

2025年8月24日記

BS世界のドキュメンタリー「ヒトラーの本棚 ナチズムの源を読み解く」2025-08-27

2025年8月27日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「ヒトラーの本棚 ナチズムの源を読み解く」

2023、ドイツの制作。

これは面白かった。

大きな流れとして、ヒトラーだけを特別の悪人として敵視していればいいという時代が終わりつつある、ということを感じる。(今でも、気に入らない政治家がいれば……安倍晋三でも参政党でも……すぐにヒトラーになぞらえるむきがある。特に、日本における、いわゆるリベラルといわれる人たちがそうである。)

ヒトラーがきわだっているのは、その思想ではなく、その合理性・組織性、ということで、大規模に思うことをやってのけた、ということになるだろう。(こういう言い方を気にくわないと思う人もいるだろうが。)

番組のなかで、触れていたことで重要なことは、残っているヒトラーの映像の多くは、検閲済みのものだということである。現代のわれわれの感覚からは、絶叫するヒトラーの演説に歓喜の声で答える市民の姿は、異様なものとして映ることになるが、しかし、この時代にあっては、きわめて計算しつくされた演出によって作られたものである……こういう認識で見ることが必要だろう。それを、多くの場合、プロパガンダ、としてヒトラーの悪魔の発明のように言うのは、おかしい。プロパガンダというならば、リップマンの『世論』ぐらいまではさかのぼって議論した方がいい。1922年にアメリカで刊行された書物である。(私は専門知識はないが)おそらくメディア史の常識であろう。

白人の優越主義、反ユダヤ主義、こういうものの考え方には、歴史がある。白人の優越ということについては、番組では、マディソン・グラントの本をとりあげて、これがヒトラーに影響を与えた、ということであった。これも、さらに考えてみるならば、その背景にあるヨーロッパにおける思想史ということを論じる必要がある。いきなり、マディソン・グラントが登場してきたということではないはずである。反ユダヤ主義は、古代まで、ユダヤ人の歴史にまでさかのぼって考えるべきことになるだろう。

そして、日本から見れば、黄禍論ということは、考えてみるべきことになる。現代からは、批判的に見ることになるが、その時代にあっては、欧米では普通に語られたことであったことも、事実である。(いろいろと見方はあると思うが、黄禍論によるアメリカの日本移民排斥、世界恐慌、農村の疲弊、これらの打開策として、どういう選択肢が日本にありえたのか、ということも考える必用があると思っている。それは、結果的には、中国大陸への侵略として、今日からは否定的に見ることになるのだが。)

少しだけ出てきていたが、中国人の労働者(苦力)のことがある。このことについて、少なくとも日本ではあまり言及されることがない。苦力について、現代の中国や台湾などで、どのように認識されているのだろうか、これは改めて考えるべきことだと思っている。

グレート・リプレイスメントは、短期間的に見れば、脅威である。これを、欧米の白人の側から見れば、特にそうである。だが、非常に長い時間の流れで見れば、ホモ・サピエンスがアフリカから出て、地球上に居住地をひろげ、文明・文化をきづいていく過程においては、はるかに壮大で複雑なリプレイスメントがいっぱいあっただろうことは、容易に想像できる。ヨーロッパの地域に限っても、はるか昔から、独占的に白人の居住地であったということはないはずである。

多文化共生こそが望ましい……ということにはなるのだろうが、その実現はかなり困難であるということも現実である。一般的にいえばであるが、平等の理念をかかげることは理想主義として正しいのだが、では、具体的にどのような状態になればそれで平等が達成されたといえるのか、ということになると、とても難しい。ある人びと(それは現在の社会においては、マイノリティであるとして)が満足する状態になったとしても、それが、他の人びとの不満を引き起こすことが絶対に無い、とはいいきれない。はてしなく、新たなマイノリティを探し続けなければならないことになる。だからといって、不満の声をあげることが無意味だとは思わない。少なくとも、平等の理想を実現するというのは、どういうことなのかについて、現実に即した冷静な議論が長期的に(あえていえば永遠に)必用である、ということだと思っている。その永遠に耐えるのが、人間の知性である。

それを性急に実現しようとすると、リベラルによるファシズムになる。ファシズムは右翼だけのものではない。リベラリズムは、リベラリスト独裁によってしか実現できず、それは新たな抑圧を生む。だが、これは、リベラリズムの理想がまちがっているということではない。主義とはそういうものだ、ということである。

ともあれ、ヒトラーの思想は、突然生まれたものでもないし、また、現代においても消え去ったものでもない。おそらく、その考え方の基底にあるものは、人類の歴史とともにある。

2025年8月22日記