3か月でマスターする古代文明「(10)マヤ 統一なき王国の謎」2025-12-08

2025年12月8日 當山日出夫

3か月でマスターする古代文明 (10)マヤ 統一なき王国の謎

古代文明だからといって、そこに必ずしも王の存在を考えることはない。王がいて、権力による支配があるから、巨大な建造物ができたり、王の墓があったりする。だが、そうではない古代文明もあった。

こういう話しであるとするならば、そうだろうなあと思うだけのことである。

しかし、巨大な建造物を作ったり、都市を作ったり、ということについては、そこで人びとが共同で仕事をするための共通の基盤があり、コミュニケーションができて、意志の統一ということが、なければ無理だろうと思う。それに、王、権力、武力、官僚機構、というようなものは、必ずしも絶対に必要ということではない……こういう理解でいいのだろうか。言いかえれば、王や官僚機構を必要としない、共同体の組織であり運営があった、となるのかもしれない。

権力(=国家)など無くても、人間は困ることはない、という近代的なアナーキズムを、過去に投影して考えてみることになるのかもしれないが、これは、かなり無理のある話しだろうと、私は思う。

また、非常に駆け足で語ったことになるので、近代にいたるまでのメソアメリカの先住民の歴史、そして、この地域での政治や統治の歴史やシステム、ということに踏み込んだ話しになっていなかったというのは、ちょっと残念な気がするところである。

黒曜石がナイフとして非常に優秀であるということは理解できる。それならば、ということで思うことになるのだが、鉄製の包丁が実用的に使えるためには、砥石などがなければならない。ただ、鉄器があるというだけでは、それがどのように使われたものなのか、分からないはずである。刀がさびていたとしても、敵を殴り倒すには十分だったかもしれない。だが、鉄製の包丁の切れ味を持続させるためには、昔の人はどうしていたのだろう。このことは、考古学の領域では、どのように考えられているのだろうか。

このことの延長としては、日本刀の切れ味を作るのは、砥石と研ぎの技術ということになるかとも思うのだが、こういう視点からの日本刀の歴史はあるのだろうか。

2025年12月6日記

新日本風土記「東海道 城下町の旅」2025-12-08

2025年12月8日 當山日出夫

新日本風土記 「東海道 城下町の旅」

再放送である。最初は、2024年10月。

江戸と京を結ぶ道として、東海道が思いうかぶ。だが、江戸時代、中山道も重要な街道であった。東海道には、川があっても橋がなかったりするし、船で渡るようになっているところもある。それにくらべれば、中山道の方は、このような障害はない。たとえば、幕末に和宮は、江戸にお嫁入り(?)するとき、中山道を通っている。このようなことは、『夜明け前』(島崎藤村)を読むと感じることができる。中山道は、江戸と上方をつなぐメインのルートでもあった。しかし、こういう番組を作ると、どうしても東海道ということに目が向くことになるのだろう。

知らないお城もあった。お城があれば、城下町があり、そこには、人びとの生活があったことになる。

出てきた中で興味ぶかいのは、手筒花火。これは、いろんな番組でとりあげられている。なんど見ても、こわくないのだろうかと思ってしまう。私などは、とても無理である。しかし、とてもかっこいい。

登場していたどのエピソードも、意図的にそのように選んだのだろうと思うが、昔から続いてきているものを、今の時代に受け継ぎ、さらにそれを次の代に残そうとしている……ということでは、一貫している。大きく時代の流れは変化してきているし、世相も、人びとの意識も変わってきていることはたしかなのだが、こういう価値観で、今の時代を生きている人たちがいる、ということもたしかなことである。

昔からあるもの、自分が生まれる前からあるものを、自分が引き継ぎ、次の世代に伝えていく……これは、ある意味では、人間の自由な生き方に制約を加えるものであり、端的にいえば、生き方において、我慢をもとめるものである。いわゆるリベラルな価値観からすれば、否定的に見なされるべきことになる。この風潮の中にあって、このような番組があってもいいことだと、私は思う。

2025年12月5日記

『ばけばけ』「トオリ、スガリ。」2025-12-07

2025年12月7日 當山日出夫

『ばけばけ』「トオリ、スガリ。」

松江の冬というのは、体験としては知らないのだが、日本海側の冬の季節であるので、大寒波がやってきて、とても寒かったのだろう。たしか、史実としても、セツはラフカディオ・ハーンの看病をしていたはずである。そのための女中だったかと憶えている。

松野の家の朝ごはんのシーンは、見ていて楽しい。それは、実際に食事を口にはこびながら、科白を言っている、芝居になっている、ということもある。ドラマで、食事のシーンはつきものなのだが、実際にものを食べながら科白を、そのタイミングきちんと言えるという役者さんは、今では少なくなってしまったのかもしれないと思う。

昔のドラマの再放送であるが、『阿修羅のごとく』を見ていて思ったことでもあるが、向田邦子が生きていたころは、食事のシーンで、本当に食べながら、科白をタイミングよく言って、芝居を成立させている。

借金取りがやってきて、集金してお札を数えているときに、時蕎麦、となっているのは、見ていて楽しくなる。こういう遊び心のある演出は、好きである。

ヘブン先生が風邪をひいてしまう。学校で倒れた。そんなに大事にはいたらなかったのだが、家で寝込むことになり、おトキが看病する。

中学校の生徒の小谷が、おトキのことを好きになってしまう。このとき、おサワに、おトキのどこに惚れたときかれて、顔、と答えていた。こういう言い方は、今の時代だと、ルッキズム、としてきわめて批判されることになりかねないのだが、ドラマの脚本としてはうまくかわしている。こういうと失礼なようだが、ヒロイン役の髙石あかりは、見た目に、きわだった美人ということではない。昔の言い方になるが、女優さんのようにきれい、という女優ではない。しかし、その表情は豊かである。おなみと話しをして、ええ顔をしている、ということだった。また、ヘブン先生のところで働くのは、楽しい、と言っていた。こういう表現が、非常にふさわしい。

おトキは小谷と清光院に行く。むかし、雨清水のおじさんと行ったところである。おトキは、幽霊やおばけが大好きであるが、小谷は、どうもそういう感性はもちあわせていないようである。

井戸のところで風が吹くシーンを見ると、これは、昔の雨清水のおじさんと一緒だったときのことをふまえたものになっていることが分かるし、脚本としても、松江でのことは、この週のことまでは考えて、最初から作ってあったことになる。

小道具として出てきた、お茶の壺も、以前に出てきたものを、きちんと使っていて、話しの筋がとおるようになっている。

うまい演出だなと思ったのは、おトキが、小谷と出かけたときのヘブン先生の様子。おトキのことが気になって、執筆に集中できないようなのだが、このとき、ヘブン先生の机の上には、イライザの写真がなかった。これまでだと、執筆中のヘブン先生は、イライザの写真を手にして話しかけることが多くあったし、机の上には見えるところに、写真があった。それが、おトキが小谷と出かけて留守にしているときには、まったく画面の中に出てきていない。

以前ならおトキがちょっと音をたてただけで、シャラップ、と言っていたヘブン先生だが、机のとなりでおトキが三味線を弾いているのを、心地よさそうな表情で聞いている。その三味線も、おトキ(髙石あかり)は自分で演奏している。私の耳で判断して、上手とは感じないのだが、しかし、その演奏がドラマの中ではうまく使ってある。

何が映っていないか、ということで、何かを表現するというのは、かなり凝った演出だと思うのだが、それが、ごく自然に映像として表現されている。これは、ここまでの、作り方がうまかった、丁寧であった、ということでもある。

科白で、「とんでもないことでございます」と言っているのを見て、ちょっと驚いたところでもある。今なら普通は、「とんでもございません」と言うことが多い。また、このドラマの中では、「ありがとう存じます」「ありがとうございます」を使い分けている。ヘブン先生は、「アリガト」であるが。

印象に残るのは、寝込んだヘブン先生が、自分は、とおりすがりのただの異人、と言って、そのことば(小谷が通訳したのだが)を聞いたときの、おトキの表情の変化である。こういうところを見ると、髙石あかりは、とても上手いと思う。

また、チェア(ウグイスのふりをしているが実はメジロ)の世話をしているときのおトキの座り方や姿勢が、リラックスした雰囲気を出しているのもいい。ヘブン先生の部屋のふすまを開けるときには、きちんとかしこまっているのだが、チェアの世話のときは、膝を崩していたりする。

2025年12月6日記

『どんど晴れ』「失意の帰郷」2025-12-07

2025年12月7日 當山日出夫

『どんど晴れ』「失意の帰郷」

この週は、盛岡での女将修行をあきらめて、横浜に帰った夏美のことであった。加賀美屋で、女将修行での苦労を描くドラマといういことで見ているのだが、途中にこういう挫折(?)ということも、あっていいことになる。

ただ、見ていて思うことだが、ちょっと話しの筋に無理を感じる。

夏美は、仲居としてミスをしたということになるが、その責任のとりかたと、加賀美屋という旅館の経営のあり方とは、別の次元のことだろうと思う。女将修行中、仲居見習いという立場であっても、旅館の従業員であることには変わりないのだから、組織としての加賀美屋において、何の処分もない、ということにはいかないはずである。普通は解雇ということになるかもしれないが、それでは、ドラマにならないから、このドラマのように作ってあるのかと思う。そう思って見るのだが、しかし、ちょっと無理があるかなあ、とは感じてしまうところである。

それから、横浜に帰ってきた夏美を、柾樹は自分のアパートに泊める。これもどうだろうか。こういうときには、柾樹は自分の勤務しているホテルに部屋を用意して、そこに泊まらせる。そこで、旅館とホテルという違いはあっても、宿泊・接客業ということの、基本の考え方を学び直すきっかけになる、というような展開の方が、素直ではないかと、見ながら思って感じたことである。

柾樹がホテルにつとめているということが、これまでの話しのなかで、ほとんど意味のあることとして描かれていない。普通の企業の会社員であっても、同じようなドラマになるだろう。さて、柾樹のつとめるホテルのことが、これからドラマの展開にどうかかわるのだろうか。(以前にも、一度、見ているのだが、このことがほとんど記憶に残っていない。)

2025年12月6日記

『とと姉ちゃん』「常子、大きな家を建てる」2025-12-07

2025年12月7日 當山日出夫

『とと姉ちゃん』「常子、大きな家を建てる」

最終盤になったのだが、このドラマをそう面白いとは思わなくなっている。いろいろ理由はあるのだが、商品テストということについて、「あなたの暮し」の編集の視点からのみ描いているということがあるからなのかと思う。

戦後の日本の高度経済成長期にあって、家電製品などの開発や販売にあたって、実際に、企業の技術者たちは、何を思っていたのだろうか。こういうことが私としては、とても気になることなのだが、ドラマの中では、まったく出てこない。

せいぜい、アカバネという会社を、かなりステレオタイプに描くことはあったのだが、それだけである。

実際にあった企業の名前を連想させるような脚本にはしたくない、ということはあったのだろうと思う。しかし、それにしても、ちょっと遠慮しすぎという気がしてならない。

また、何度も書いていることだが、昭和の戦後の人びとの生活の感覚の変化ということが、出てきていない。洗濯機や炊飯器について、家庭の主婦は、実際にどう感じていたのか。さらには、それが、買えないような貧乏な人びともいたはずだが、その人たちは何を思っていたのか。どうも、見ていて、こういうことに想像力がひろがっていかない。

にもかかわらず、ドラマの中で、働く女性の待遇、ということが出てきても、ほとんど何にも共感するところがない。

2025年12月6日記

ブラタモリ「信長の安土城▼わずか3年で消えた幻の城!信長が描いた夢とは?」2025-12-06

2025年12月6日 當山日出夫

ブラタモリ 信長の安土城▼わずか3年で消えた幻の城!信長が描いた夢とは?

安土城については、いろいろと研究が進んできて、実際にどんなだったか、かなり分かるようになってきている、ということだと思う。信長が、安土城を作ったのは、琵琶湖のことがあって、その水運を考えてのことであり、また、畿内をおさえる要衝でもあったということである。

見ていて、私が一番興味深く思ったのは、今ではもう無くなってしまった琵琶湖の内湖。昔は、安土城の近くまで水辺であった。それが、昭和の戦前までは残っていた。では、なぜ、その湖を埋め立てたのだろうか。おそらくは、干拓して農地にしたということなのかと思うのであるが、この経緯や理由、そして、その現在の様子ということが、知りたいところである。そして、これらをふくめて、琵琶湖のまわりに人びとがどんな生活をいとなんできたのか、総合的に考えることになる。

楽市楽座は、歴史の教科書にはかならず出てくることである。特に、信長の先見性をしめすものとしてあつかわれる。これは、日本の経済史の全体をみわたしたときには、どのように考えられることになるのだろうか。その後、江戸時代になれば、藩を単位としての統制経済という方向になったかとも思える。産業、交易、流通、経済、ということに、それぞれの時代の為政者は、どうかかわってきたのか、あらためて考えることがあっていいかと思っている。(とはいえ、今から、こういうことを自分で勉強してみようという気にはならないでいるのだが。)

2025年12月5日記

映像の世紀バタフライエフェクト「アメリカと中東 終わりなき流血」2025-12-06

2025年12月6日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト アメリカと中東 終わりなき流血

この回の協力は、酒井啓子。現代の中東問題の専門家として知られる。

見ていて思ったことは、出てきていなかったのが、サイクス・ピコ協定、そして、アラビアのロレンス。これまでの「映像の世紀」シリーズだと、中東問題となると必ず言及があったのだが、この回では、まったくふれることがなかった。

それから、イスラムということばは可能な限り使わないように作ってあった。また、アラブということばもほとんど使っていない。このあたりは、かなり周到に考えて作ったという印象がある。

メインは、イラクとイラン、そして、そこに介入することになるアメリカ、ほぼこの三者の歴史、ということになっていた。

さかのぼれば、イランは、ペルシャであったし、言語としては、ペルシャ語の国ということになる。イスラムの中では、シーア派の国ということになるだろう。無論、中東のそれぞれの地域……その範囲となるのは、必ずしも今の国家の領域と重なるわけではない、ということが、中東の問題のややこしさだろうと思っているが、そのややこしさがどんなものかについては、基本的にふれることがなかった。

ソ連のアフガニスタン侵攻のことも、まったく出てきていなかった。(アフガニスタンは、地域としては、中東というよりも、中央アジアになるのだが、しかし、現代のイスラムの問題を考えるときには、さけてとおることはできないはずである。中東というエリアではない、ということで、アラブの春のこともふれることをしなかったと理解していいだろうか。)

イランのアメリカ大使館の事件は、イランとアメリカとの関係において重要なことだが、それが起こったことは言っていたが、どう解決したのか、このことによってどんな問題が残ったのか、ということについては、何もいわなかった。

非常にシンプルな構図……イランとイラクとアメリカ……ということで語っているのだが、見ていて、それほど大きな破綻や矛楯を感じるところなく作ってあったのは、うまく考えたということになるのだろう。

私の思うこととしては、ただ、アメリカが余計な介入をしなければよかった、ということではすまないことが多くあるはずであり、近現代の国際社会の中で、イスラムの地域の人びとが、どのようにして生きていくことになるのが良いことなのか……近代的な国民国家の枠組みで対処できるのか……というあたりのことは、もうちょっと踏み込んで語るところがあってもよかったかもしれない。

憎悪の連鎖ということは、望ましいことではない。気に入らない相手を、この世界から抹殺してしまうべきだと考える人がいる。これは、現実のものとなったときには、ジェノサイド、民族浄化として、厳しく指弾されることである。だが、このような思い……敵対する相手を消し去りたい……をいだく人が、現実に存在するということは、たしかなこととして認めなければならないことである。

これは、その原因を作りだしたのが誰かという詮索をすることでは、解決できない問題である。

2025年12月5日記

歴史探偵「「ばけばけ」コラボ 小泉八雲とセツ」2025-12-06

2025年12月6日 當山日出夫

歴史探偵 「ばけばけ」コラボ 小泉八雲とセツ

期待して見ていたというわけではないが、だいたい予想どおりの内容であった。

小泉八雲の日本についての理解としては、肯定的に見れば、明治の20年代のころに、その人びとの考え方や感じ方、生活の感覚、ということに、深い理解をしめした人ということになる。

だが、その一方で、『日本の思い出』など読むと分かることだが、明治になって近代化した日本のこと……学校教育のシステムであったり、軍隊であったり、天皇であったり、教育勅語であったり……についても、まるごと日本のすばらしさ、ということで肯定している。

小泉八雲の見た日本は、すでに近代化がということが人びとの生活の中に浸透し始めていたころであったと、考えるべきだろう。それをまるごと肯定していることになる。

無論、その後の日本のさらなる近代化ということについては、非常に否定的な見方をしている。それは、松江の次に移った、熊本の五高からのことになる。最終的には、東京に移って、日本の近代を象徴する、東京帝国大学で教えることになっている。

こういうところを考えると、小泉八雲の見た日本というのは、非常に恣意的な感覚的判断にもとづくものである、ということもできる。

それから、やはり気になるのは、小泉八雲=松江、と結びつけすぎていることであろう。小泉八雲(このときは、まだ、ラフカディオ・ハーンであるが)は、松江には、一年とちょっといただけにすぎない。日本での活動の大部分は、その後の、熊本、神戸、東京ですごしていることになる。最後は、東京で亡くなっている。その代表作とされる『怪談』は、東京にいたときに書かれたものである。松江にいたときは、ただの御雇外国人英語教師にすぎなかった。

小泉八雲の、現代の価値観では評価するのが難しい部分、松江以外のこと、こういうことについて、もっと触れるところがあっていいと思うのだが、そんなに難しいことなのだろうか。

八雲のセツにあてた手紙が映っていた。これは、興味深い。日本語の表記、学習の問題としては、面白い事例になる。カタカナで書いている。この時代であれば、ひらがなは多くの変体仮名をふくむのが通常であった。この点では、カタカナの方が整理されているし、書き方も直線を主体とするものなので、書きやすい。八雲が、どのようにしてカタカナを習得したのか、日本語研究のこととしては非常に興味のあるところである。

2025年12月4日記

英雄たちの選択「卑怯者と呼ばれて〜信長を裏切った男 荒木村重〜」2025-12-05

2025年12月5日 當山日出夫

英雄たちの選択 卑怯者と呼ばれて〜信長を裏切った男 荒木村重〜

磯田道史は、数少ない、司馬遼太郎を評価する歴史家だと思っている。なので、番組の中で、司馬遼太郎の名前は出てきていなかった。だが、私の思うところでは、織田信長を時代に先んじた革新的な戦国武将として描いたのは、司馬遼太郎の『国盗り物語』である。斉藤道三から織田信長へと、時代を新しい発想で変えていった物語である。(小説としては、とても面白い。)

織田信長は偉大な革新者であった。だから、その織田信長に逆らうような武将は、旧弊な愚か者である……まあ、たしかにそういうことになるだろうなあ、と思う。この意味では、司馬遼太郎の罪は大きい。

荒木村重というと、私の頭の中では、米澤穂信の『黒牢城』の主人公である。

この回で面白いと思うところは、戦国の戦乱を、ロジスティックスの点から見ていることである。有岡城がもちこたえるためには、尼崎城があって、瀬戸内海の海運をつかって毛利からの補給が確保できていることが絶対条件になる。この点では、有岡城と尼崎城を分断して、その兵站のルートが立たれると、有岡城はもちこたえられない。

明治維新を薩長の視点でみる薩長史観をどうにかしなければならないし、戦国時代を、織田・豊臣・徳川の視点でみる織豊徳史観もどうにかしなければならない……というのは、そのとおりだと思う。(しかし、いずれにせよ、京都の天皇を手中にしたものが勝者であった、ということは確かだと思うところであるが。)

ところで、番組の冒頭に映っていたのは、徳富蘇峰の『近世日本国民史』だった。今では一般にはもう読まれることのない本になってしまっているが、歴史学の世界では、どう評価されるのだろうか。歴史学として意味はないかもしれないが、日本人の歴史観の歴史、という観点からは重要な仕事であるにちがいない。

2025年11月28日記

おとなのEテレタイムマシン「わたしの自叙伝 山本茂實〜野麦峠への道〜」2025-12-05

2025年12月5日 當山日出夫

おとなのEテレタイムマシン「わたしの自叙伝 山本茂實〜野麦峠への道〜」

1980年の番組である。

テレビの番組を見て感動をおぼえるということは、あまりないのだが、(見て、いろいろと考えるということは多いが)、山本茂美のことばは、深くこころにしみいるものがある。

番組のタイトルには、『野麦峠』とある。たしかにこの作品は有名である。しかし、この作者が、『葦』という雑誌を作っていたということは、知らなかった。不明であったとしかいいようがない。(この番組の放送の時代にあっては、『野麦峠』は有名であったが、『葦』は忘れられていた、といっていいだろうか。)

『葦』については、福間良明『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書)で知っていた雑誌である。

青年学校ということについては、知識としては知っていることなのだが、これは、日本における教育(さらには教養や修養になるのだが)の歴史の中で、どう考えられてきたのだろうか。私が読んだことのある日本の教育史にかんする本の多くは、公的な正規の学校教育についてのものがほとんどであった。地方の農村部で、働きながら、あるいは、都市部であっても工場などで働きながら、青年学校などで学んでいた人たちが大勢いたということは、現代のインテリ層(その中に、私自身をふくめて考えることになってしまうのだが)の意識の中で、ぽっかりと抜け落ちている部分かと思う。

私は、慶應義塾大学に学んだのだが(昭和50年の入学)、慶應には通信制もあった。また、大学によっては、夜間もあった時代であるが、これも、時代とともに姿を消してしまったことになる。

現代における、教育をめぐる問題(放送大学や夜間中学、それから、不登校などふくめて)は、また、別の側面から考えることになる。

山本茂美のような生き方、考え方をする人が、少なからずいたのが、かつての日本の社会であったということは、もっと考えられなければならないと思う。私の年代だと、昭和の戦後でも、高度経済成長期までの農村部の生活を、かろうじて実感として感じとれるギリギリのところである。

信州で百姓の生活をしていたとき、東京に出て『葦』を刊行していたとき、山本茂美がどんなことを体験してきたのか、簡単にいいきることはできないにちがいない。『葦』を刊行しようとして集まったときの、早稲田の学生のインテリ意識については、私としても、そう感じるところはあっただろうと思うところがある。しかし、その一方で、早稲田だからこそ、山本茂美のような人がいたとも感じるところがある。(はっきりいって、慶應から出てこなかったかもしれない。)

一番印象に残っているのは、過去の体験をふりかえって、百姓をしているとき、『葦』を編集・刊行しているとき、人間の良い面もたくさん見てきたが、汚い面も見てきたと、言っていたことである。普通は、学歴がない勤労青年であってもという文脈で、人間の善良な面を強調することが多いと思うのだが、その中で、さりげなく、人間の汚い面、ということを言っている。

『葦』という雑誌名を見ると、どうしてもパスカルの『パンセ』を思ってしまうのだが(私自身もそうだったのだが)、そうではなく、執拗に地面に根を張って容易には抜き去ることもできない、枯れない、生命力の強いものとして、「葦」であったことを知った。こういうことを肯定的にとらえる感覚は、もう今の社会では失われてしまったものである。

自らを「市民」と位置づける、場合によっては、「劣等民族」とも言ってしまうような人たちには、もう分からない感覚だろう。無論これは、「国民のみなさま」と言う、今の政治家も同様である。かろうじて、「大衆の原像」という言い方が、なんとか説得力をもっていた時代が最後だろうか。

『葦』の寄稿者の中に、早乙女勝元とか有吉佐和子の名前が出てきていた。有吉佐和子は、現在、読者がもどりつつある作家になっているが、有吉佐和子が、『葦』に親しんでいたということは、私にとって、とても意味のあることだと感じる。

2025年12月4日記