サイエンスZERO「迷惑植物?“クズ”驚異の生命力に迫る」2025-09-26

2025年9月26日 當山日出夫

サイエンスZERO 迷惑植物?“クズ”驚異の生命力に迫る

HDに録画しておいたのが残っていたので、ようやく見た。

ちょうど今頃が葛の花のシーズンである。道路を歩いていて、地面に紫色の小さな花びらが落ちているのを見つけて、上をみると、木にからまった葛の花が咲いている。ただ、今年は、九月になってもものすごく暑いので、カメラを持って外を歩くということをしていない。もうちょっと涼しくならないと。

葛という吉野葛が有名である。テレビのニュースなど見ていると、葛を作る工場の様子とか、山の中にはいって葛を掘り出してくる仕事とか、紹介されることがある。これも、山の中から葛の根を掘り出すのは、重労働で、後継者がいない仕事になっているらしい。

葛からバイオ燃料が作れる、こういう基礎研究はとても大切だと思う。葛以外の植物についても、いろんな研究が進んでいることだろうと思う。(現在だとバイオ燃料というと、トウモロコシを使うことが多いかと思っている。人間が食べることのできるものを、いくらそれなりの事情があるとはいえ、燃料の原材料にしてしまうのは、なんかおかしいという気がしている。)

葛布は、古くから使われてきていて、今でも作っている。しかし、これも手間暇かかる仕事になるので、大規模なビジネスにはなりにくいかとも思う。しかし、残っていってほしいものの一つである。

速く成長して、栽培の管理に手間がかかるというわけでもなさそうであるので、広く利用法があればいいのにと思うが、どうなのだろうか。

一方で、都市部で電柱などにからまってしまう葛をどう除去するか、生えなくするかということの研究も必要になるにちがいないが。

2025年9月18日記

クラシックTV「点と線 つながるヒストリー」2025-09-26

2025年9月26日 當山日出夫

クラシックTV 「点と線 つながるヒストリー」

録画してあったのをようやく見た。

いわゆるクラシック音楽というのが、西洋の歴史の中で新しいことである、というのは、まあ、常識的なことだろう。バッハは江戸時代、元禄のころといってもいいだろうが、の人である。ざっくりいって、西洋の近代という時代の芸術、それが文学だったり、音楽だったり、また、美術だったり、これを日本では多く受け入れている。

日本で戦国時代の終わりのころ、キリシタン宣教師たちがやってきたのだが、キリスト教がやってきたと同時に、西洋音楽も入ってきた。また、鉄砲ももたらされた。キリシタン宣教師が、日本で布教のために学校を作っているが、そこでは、音楽も教えられていたはずである。信長や秀吉が西洋音楽を聴いたというのは、そのとおりだろうと思う。

シーボルトがピアノを持ってきていた、ということは知らなかった。これは今も山口県に残っている。

ペリーがやってきたとき、軍楽隊も一緒だった。絵に描かれているので、知っていたことではあるが、実際にどんな音楽を演奏したのかということは、あまり考えたことがなかった。

幸田延のバイオリンソナタは、いい曲だと感じる。幸田延をモデルに、NHKが朝ドラを作ったりしないだろうか。

山田耕筰の作曲した『赤とんぼ』の曲については、現代の国語学研究者、日本語の歴史の研究者なら、かならず知っているはずである。「あかとんぼ」ということばのアクセントについて、山田耕筰は、その時代の日本語のアクセントにしたがって曲を作った。つまり、時代によってアクセントが変化したが、その昔の形を、『赤とんぼ』は残していることになる。(こういう話しは、学生のときに、金田一春彦先生の授業で習ったことかと憶えている。)

日本語のアクセントにあわせて作曲する、というのが、昔は自然なこととして考えられていた。だが、近年の音楽(Jポップなどになるが)では、意図的になのだろうが、日本語のアクセントやリズムを、壊して曲を作ることが多い。こういうのは、私としては、あまりなじめないということになる。まあ、私が古い人間なのかとも思うが。(規定の日本語に合わせないということは、それはそれで、ひとつのカウンターカルチャーとしてのあり方ではある。)

バイオリンというと、夏目漱石の『吾輩は猫である』の中に、バイオリンを演奏することがでてくる。また、『それから』では、代助が、実家に行ってピアノを練習する子どもに手ほどきをするシーンもある。明治の終わりのころに、家にピアノのある家というのは、ごく一部のお金持ちだっただろう。今では、わりと普通の家にピアノのある時代になった。(ちなみに、我が家にもある。アップライトであるが。孫が大きくなったら使うかと思って、調律だけは定期的にしている。)

滝廉太郎の『荒城の月』は、NHKのドラマの『坂の上の雲』でロシアのペテルブルグで演奏されたシーンがあった。(このシーンは、司馬遼太郎の原作にはない部分である。)

北原白秋の「この道」の歌唱があったが、北原白秋の詩は、ことばの音楽であるといってもよい。これは、古い詩人に共通する。『荒城の月』の作詞は、土井晩翠であるが、漢語を基調としてた晩翠の詩もまた日本語の音楽であるといっていいい。「あかとんぼ」の作詞は、三木露風である。このような日本語の音楽というべき詩の感覚は、萩原朔太郎にも受けつがれている。草野心平の作品もそうだろう。

2025年9月22日記

新日本風土記「津軽晩夏」2025-09-25

2025年9月25日 當山日出夫

新日本風土記「津軽晩夏」

津軽といってイメージすることはいろいろとある。太宰治のことは、思いうかぶことの一つである。(この番組のなかでは、ほとんど触れることはなかったが。)それから、あまり普通の人は思わないかもしれないが、『渋江抽斎』(森鷗外)がある。渋江抽斎の蔵書印は、「弘前医官渋江氏蔵書記」である。

あまり大きくとりあげていなかったことの一つは、ねぷた、であった。弘前の祭りになるが、これは、これまでいろんな番組でとりあげられてきたので、冒頭に軽くふれる程度だった。

津軽三味線は、私の年代だと、高橋竹山(初代)が、その時代のいわばヒーロー的な存在だったことを、記憶していることになる。これは偏見だろうが、津軽三味線の音は、三味線という楽器が自然に出す音で演奏しているのではない、という印象をずっと持ってきた。津軽三味線は、弦楽器ではない、打楽器である、ということばを聞いて、なるほどと思ったところである。おそらくは、津軽の厳しい風土の中での門付け芸として起こったものとしては、激しく鋭い音色の音楽になるのかと、思ってみることになる。

青森といえばリンゴだが、収穫のために余分な実を落とすのは理解できるのだが、あんなにたくさんの実を省いてしまうことになることは、知らなかった。(落とした実は、どう再利用されるのだろうか。)

オシラサマは、民俗学の知識としては知っていることである。今でも家の中にお祀りして、毎日、ご飯をそなえて、また、外にも連れ出す。まだ、生活の中にオシラサマが生きているということを感じる。オシラサマには、新しい服を着せる。これが、古風な地味なものでなく、派手でキラキラしたものであるというのも、オシラサマには、きれいな姿でいてほしいという、人びとの気持ちのあらわれである。こういうことを見ると、まさに、まだ生活の中に生きているということを、強く感じる。

賽の河原地蔵も、興味深い。昔は、人が死んで死体を野辺に捨てていた(らしい)ということだったが、日本における葬送儀礼は、さまざまな歴史がある。現在のように、火葬してお墓に納骨して、というスタイルが一般になったのは、かなり新しい。少し前までは、日本でも土葬が多くおこなわれていたことである。京の都でも、鳥辺野や化野のあたりは、いうなれば死体の捨て場、だったといっていいだろうか。火葬もおこなわれるようになり、いろいろと歴史的変遷と多様性のあることがらになる。

ここのお地蔵さんも、新しい服を着せてもらっている。

イタコの口寄せが、テレビの映像として映るのは、めずらしいかもしれない。こういう人がいて、また、それを信じる人がいて、こういう人びとの心性ということが、地域の生活の中で伝えられていくことになる。

津軽地方に鬼にまつわる神社があるというのは、どういうことなのだろうか。一般には、鬼は異界のものであり、非常に今日的な解釈をするならば、この土地に入ってきた人びとより先に住んでいた、いわゆる先住民ということになるだろう。場合によっては、それは、山の民であったかもしれないし(柳田国男にならっていえば)、あるいは、古来よりこの地域に住んできたアイヌの人びとであったのかもしれない。(番組では、こういうところには踏み込んでいなかったが。)

カヤとワラで船を作って、川を流す行事。今の時代だと、ワラは、それをとるために特別に稲刈りをしないと手に入らないものになってしまっている。コンバインの使えない、山の中の棚田で、手で稲刈りをするようなところは、たしかに、日本に残っていることではあるが。

岩木山のふもとの嶽きみ(トウモロコシ)の栽培の歴史は、いろいろと考えるところがある。樺太に入植していた農家の人びとが、日本にひきあげてきて、北海道にはもう場所がないということで、青森の岩城山麓を開拓することになった。苦労して農地を開拓しても、育つ作物が見つからない。ブラジル移民の話が持ち上がり、それに応募していれば、今の嶽きみ栽培がはじまることはなかった。幸運だったというべきか、あるいは、我慢強い農民の物語というべきか。どう考えるにせよ、日本の中の農村風景には、その歴史があることになる。

十三湖のシジミ量は、今のことばでいえば、持続可能な漁業ということになる。たしか、十三湖については、司馬遼太郎の「街道をゆく」であつかっていたかと憶えているが、どうだっただろうか。この地域は、かつては、北前船の寄港地として、栄えたところだったかと思うのだが、どうだったのだろう。

太宰治のことについて触れることがないというのは、確かに、一つの番組を作る方針だと思うのだが、しかし、その一方で、その家が、津軽地方で、どのようにして富をたくわえてきたのか、そのプロセスは、おそらく近代になってからの、この地方の人びとの生活の歴史とふかくかかわっている。

また、秋になって刈り入れをむかえた水田の映像があったのだが、この地域で稲作が広くおこなわれるようになったのは、これも、近代になってからの、稲の品種改良(寒冷地でも栽培できる)と、農村の歴史、ということを考えることになるだろう。

2025年9月23日記

英雄たちの選択「江戸城の怪人〜御三卿 一橋治済の野望〜」2025-09-25

2025年9月25日 當山日出夫

英雄たちの選択 江戸城の怪人〜御三卿 一橋治済の野望〜

『べらぼう』の放送がなければ、一橋治済が一般に知られることはなかったかもしれない。だが、これも、近世の政治史などを専門にしている研究者なら、周知のことであったろうとは思うが。

将軍(家斉)の父親という立場で、政治の黒幕として実験をにぎる。こういうのは、さかのぼれば、平安時代の摂関政治もそうだし、院政もそうだし、江戸時代になってからの大御所政治もそういうことになる。このようなパターンは、日本の歴史において、少なからず見出されることだろう。日本の場合、隠居、ということはあるのだが、ご隠居さんが、のこのことしゃしゃり出てきてことをはこぶというのは、今もなくなったわけではない。政治の世界に、見られることである。(まあ、「水戸黄門」もそうともいえるし、藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』なども、その系譜になるだろうか。)

徳川さんというと、私の場合だと、(もうお亡くなりなりになってひさしいが)学習院大学の徳川さんになる。日本の方言研究の第一人者であった。学会(国語学会など)では、なんどかお目にかかったことがある。たしか、徳川宗家だったと憶えている。

近世史の専門家なら、徳川将軍の系図は頭にはいっているはずである。ここは、家康から慶喜まで、どういうつながりになるか、全体像があって、そのなかで、御三家、御三卿というのが、どういう役割を果たしてきたのか、という説明がもうちょっとあってもよかったかと思う。

松平定信が白河藩主のとき、飢饉で餓死者が少なかった。これは、米を藩内に輸入(?)したからということだったのだが、江戸時代、全国的な米の流通というのは、どういうふうになっていたのだろうか。自分のところの農民が餓死しても、米を藩の外に売った方がもうかった、ということなのだろうか。

徳川家斉が子だくさんだったというのは有名なことだが、ここで、どのような閨閥(?)があって、それが、徳川幕府の政治にどう影響したのか、知りたいところである。番組の中で言っていたこととして、この時期は、政治的には停滞期であったが、文化としては化政文化として爛熟した時代であった……このあたりのことを、総合的にはどのように考えるべきなのか、いろいろと面白いことがあるかと思う。

そうなると、江戸幕府における大奥というものの存在感が大きくなる。大奥が、江戸時代の政治にどうかかわるものであったのか、これからの研究ということなのかと思う。

この番組は、人物を中心に構成するということなので、その背景にある大きな時代の流れが見えにくくなるということはある。人間とはいつの時代であっても、こんなもんだよ、という見方もできる一方で、歴史の中にあって翻弄される人間の姿もある。さらにその背景には……きわめて古いことばをあえてつかえば、下部構造としての社会のあり方もある。

一橋治済という人物は面白いが、治済、徳川家斉の時代、日本の社会がどのように変わっていったのか、ここのところにふれるところが少なかったのが、なんとなく残念な気のするところである。

~~の子どもとか、~~の孫とかで、政治を動かしてはいけない。まさに、今の日本の政治にあてはめて考えることになる。それが弊害となるのは、実力主義である、民主的なシステムである、ということになるのだろう。

2025年9月21日記

100分de名著「福沢諭吉“福翁自伝” (4)事業の達人に学べ」2025-09-25

2025年9月25日 當山日出夫

100分de名著 福沢諭吉“福翁自伝” (4)事業の達人に学べ

『福翁自伝』の最終回に、永松茂久が出てくるというのは、番組を作る側としては、かなり考えた結果なのだろうと思うが、成功だったかどうかは、疑問に感じるところである。だが、少なくとも、ある意味で、斬新な視点で作った番組になったことは確かである。

結果として、福澤諭吉が出版業にかかわることになって経緯で、いくつかのことが抜けてしまったことになる。だが、そういうことは、福澤諭吉関係のいろんな本で書かれているから、今さら語るほどのことではない、ということなのかもしれない。

そもそも、『福翁自伝』の講師に齋藤孝を起用するということ自体が、かなり苦肉の策という印象がある。といって、塾の関係者ということになっても、また、問題が生じかねないので、慶應義塾とは関係のない人選ということになったと思うことになるのだろう。

江藤淳が書いた文章で、慶應の三田キャンパスのことにふれて、(江藤淳の時代になっても)三田には、福澤諭吉が作った慶應義塾の面影がある、という意味のことを書いていたのを憶えている。これと同じことは、私自身も、どことなく感じるところがある。

私が勉強したころのこととしては、習った先生は、ほとんどが塾員、つまり、慶應義塾大学の卒業生、ということだった。こういうことの、いいことも、わるいことも、ある。だが、いいことの方が大きかったと思う。先生に習う、というよりも、先輩に習う、という関係がどことなくあった。今では、このような雰囲気の師弟関係ができるようではなくなっていると思うが、それはそれでしかたない。

『福翁自伝』や福澤諭吉に関連しては、書いておきたいことはたくさんあるが、書かないでおくことにする。

「時事新報」に掲載の、人による歩き方の違い……これは、身体の動作の、職業的、階級的な違いが、この時代に普通にあったということなので、こういうあたりのことは、齋藤孝が専門のこととして、一家言あってしかるべきところだっただろう。

2025年9月24日記

よみがえる新日本紀行「人形師と山車祭り〜愛知県・尾張地方〜」2025-09-24

2025年9月24日 當山日出夫

よみがえる新日本紀行 「人形師と山車(だし)祭り〜愛知県・尾張地方〜」

再放送である。2020年10月18日。オリジナルは、1975(昭和50)年10月13日。

祭りの囃子を、口伝えで伝える老人の目の表情がとてもいい。もう、今の時代に、こういう目をした人はいなくなってしまったと、と私などは感じる。

からくり人形をメンテナンスする職人が、昭和50年の段階で一人だけになってしあまっていたが(17代目)、今も受け継がれている(19代目)。こういう仕事をする人が、残ってくれることは、いいことだと思う。

四日市の街に産業道路(もう今ではすたれた言い方になってしまったが)ができて、古くからの街が分断され、祭りができなくなった。これは、高度経済成長の時代としては、このようなことは、日本全国の各地にあったことだろう。(番組の中では言っていなかったが)四日市のコンビナートに働きに来ていた人びとは、おそらくは、地方の農村部からやってきた人たちなのだろうと思う。その人たちにも、故郷があり、そこでの祭りがあったはずである。

尾張では、今でも山車の祭りが生き残っている。からくり人形も生き残っている。祭りは、本来は、その地域に生活する人たちのためのものであり、その人たちがになってきたものである。(決して、観光客のためのものではない。)昔ながらの祭りの風景は、これからも残っていってほしいものである。

2025年9月17日記

知恵泉「時代が生んだ?幕末の“悪奉行”鳥居耀蔵」2025-09-24

2025年9月24日 當山日出夫

知恵泉「時代が生んだ?幕末の“悪奉行”鳥居耀蔵」

再放送である。最初は、2024年11月19日。

鳥居耀蔵は、確か宮部みゆきが小説に書いていたと憶えている。その晩年、丸亀に幽閉されてからのことである。

鳥居耀蔵については、かろうじて名前を知っているぐらいで、蛮社の獄のときに辣腕をふるった悪役人という印象である。だが、これも、立場を変えてみれば、すぐれた官僚であり、能吏であった、ということになるだろう。

この「知恵泉」という番組は、ときどき見るのだが、歴史としてどうだったのかという観点については、どうしても掘り下げが浅い。まあ、たいていの場合、ゲストで出てくるのが、歴史学の専門家ということではない、そのように意図的に人選していることは分かるのだが、番組としては、もうちょっと歴史的背景にふみこんで解説するところがあってもいいのではないだろうか。

天保の改革であるが、教科書的には、江戸時代の終わりごろの水野忠邦による改革で、質素倹約をむねとし、蘭学を弾圧した、ということで知られている。高野長英や、渡辺崋山のことも、たいていは、この文脈で出てくる。

教科書に出てくるような改革(享保、寛政、天保)は、質素倹約ということが言われているのだが、それを命じたとしても、世の中が根本的に変わることはないはずなので、どうして、凝りもせずに同じ事を繰り返していたのだろうか、ということが気になる。天保の改革があっても、世の中はどうにもならず、さらには、いろんな外国から船がやってきたりして、最終的には幕末から明治維新ということになると思っているのだが、この時代の流れをどう描くかというのが、難しところかもしれない。

鳥居耀蔵も、時代が違っていたら、あるいは、林家の出身として儒学で身をたてる方向の人生だったら、もうちょっと違ったことになったかもしれない。

2025年9月19日記

ブラタモリ「京都 国宝・三十三間堂SP▼超拡大版!なぜ800年守られた?」2025-09-24

2025年9月24日 當山日出夫

ブラタモリ 京都 国宝・三十三間堂SP▼超拡大版!なぜ800年守られた?

三十三間堂は、若いころに一度行ったことはある。とにかく、たくさんあった、という印象で憶えている。その1000体以上の観音菩薩像などは、かならずしも、できた当時のままで残っているのではなく、後から、なくなったものを追加したのもある。そうではあっても、鎌倉時代だから、かなり古い。

その全ての仏像について、学術的に調査するとなると、これはかなり大変だっただろうと思う。運び出して順番に、というわけにもいかない。

1995年の地震のとき、わずかながらここも影響をうけたらしい。(この日の朝は、寝ていて地震の揺れで目が覚めたのを憶えている。)

たくさんある観音菩薩像の中が、木造でありながら、空洞に作ってあるというのは、どういう意図なのだろうか。結果的には、地震のゆれに対して効果があったということになる。しかし、現存する仏像の多くは、中をくりぬいて作るということはないのだろうと思うが、仏像の歴史として、こういう作り方の意味は、どういうことになるのだろうか。

秀吉の作った大仏のことは、普通の歴史の中であまり語られることはないかもしれないが、秀吉としては、どういう目論見だったのだろうか。三十三間堂がある、このエリアには、智積院がある。ちょっと歩けば、鳥辺野のあたりになるし、清水寺まで歩いて行ける。京都で東山の山麓のこのエリアのもつ、歴史的、文化的な意味というのは、どういうものだったのだろうか。

そして、そこに、明治になって、京都国立博物館を作ったということも、近代の京都の街のなりたちとしては、興味深い。(近年になって、京都駅近辺が、再開発されはじめてきているが、数十年前までは、京都駅の近くは、京都の市内でも、特にステイタスの高いところではなかった。強いていえば、いろいろと問題をふくんだ地域でもあった。)京都国立博物館や京都女子大学が、今のところに作られた、歴史的、文化史的な、背景ということは、気になるところである。

豊国神社は出てきていたのだが(今はそうなっているので、これは仕方ないだろうが)、方広寺ということがまったく出てきていなかった。これは、意図的に、このことは省いて番組を構成したということなのだろうと思うが、どういう意図だったのだろうか。

三十三間堂の隣にある、養源院のことは、まったく出てきていなかった。智積院や養源院のことまで話しがおよぶと、内容的にまとめきれないということかと思うが。

最後のシーン……照明に照らされた三十三間堂の内部を、外から見る……これは、今日のような照明ができてからのことである。蝋燭の明かりでは無理である。後白河院の時代に、こんな光景が見られたはずはない。

また、扉が障子(現在のような紙を貼った)が使われるようになったのは、普及するのは近世以降のはずだが、出来たころは、板戸であっただろう。中世の三十三間堂の内部の光景は、現在とはかなり違っていたはずである。蝋燭や灯明のあかりだったころのことを、想像してみることもあっていいかと思う。

2025年9月22日記

ウチのどうぶつえん「南極、ねずみ、レッサーパンダ!」2025-09-23

2025年9月23日 當山日出夫

ウチのどうぶつえん 南極、ねずみ、レッサーパンダ!

再放送である。最初は、2024年7月26日。

南極観測隊に水族館の飼育員の人が参加した、という話しは、以前に見たような記憶があるが、さだかではない。だが、南極にいる魚たちを、日本までつれて帰って飼育するというのは、とても難しいことである。水温が低いのは当然としても、白夜のある緯度の地域だから、日照時間(照明の時間)を調整しなければならないことになる。こういう工夫は、現場の人間でないと分からないことだろう。

オキアミというと、クジラの食べるもの、という印象があるのだが、将来の貴重な人類の食料源になるかもしれない、ということは、現代ではかなり切実な問題かもしれない。

シワヒモムシというのは、初めて見たかもしれない。どこかの水族館で見ているかとも思うのだが、記憶にはない。その食事が大胆である(?)のには、驚く。

齧歯類もいろんな種類がいて面白い。まだ、我が家の近所に遊園地があったころ……あやめ池遊園地であるが……中に、小さな動物園があって、レッサーパンダがいて、それから、モルモットがたくさんいたのを憶えている。モルモットは、子どもが触れるようにしてあったはずである。

ハダカデバネズミは何度か見ていると思うが、その生活が、社会性のあるもの(らしい)ということは、初めて知ったかと思う。その生態とか行動の様子は、どれぐらい研究されているのだろうか。

レッサーパンダが竹の選り好みをするのは、なんと贅沢なと思ってしまうところもある。だが、これも、レッサーパンダの身になってみないと分からないことだろう。誰だって、好き嫌いはあっていいかとも思う。そのレッサーパンダの食べなかった竹を、動物園の中の他の動物たちが食べているというのも、なんとなくほほえましい。

2025年9月5日記

憶えのない殺人「前編「容疑者」」2025-09-23

2025年9月23日 當山日出夫

憶えのない殺人「前編「容疑者」」

番組表を見ていて、ちょっと気になったので録画しておいた。

たまたまだろうが、世を騒がせた事件と重なる部分がある。また、認知症ということは、今の時代にあっては、他人事ではない。自分自身のこともあるし、また、周囲の誰かが、ということもある。

前編を見た範囲で気になったことは、もし、佐治(小林薫)が犯人だったとして、刑事責任能力を問えるのだろうか。ここのところは、ドラマを作るにあたって、もっとも考えて作った部分にちがいない。

現在の刑法の基本にあるのは、人間は個人として自由意志があり、その自由意志の結果の行為については、責任を負うべきである……という、啓蒙主義の人間観である。殺意のある殺人と、過失致死の違いということになる。どのような結果が起こったにせよ、その責任能力が問えない……例えば、心神耗弱であったとするならば……罪にとえない、少なくとも、十分に考慮すべき事情ということになる。こういうことの範囲に、認知症の症状をふくめることは、はたして妥当なことなのだろうか。

これは、自分自身が、加害者になりうる可能性もあり、被害者にもなりうる可能性もある、そういうこととして、社会的な課題として、これからの大きな問題であるにはちがいない。

このようなことを思って見ることではあったのだが、ミステリとしては、非常によくできている。

ただ、軽度の認知症ならば、周囲の人間が気づくこともあるだろうと思うし、また、その本人にとっては、感じ方、自覚のあり方は、さまざまだろうと思う。このあたりが、ややステレオタイプに描いているかな、という印象はある。

なお、人間の自由意志ということは、近代的な人権意識と深いかかわりがある。人間は、自分の意志で選んだことではないことで、不利益をこうむってはならない。たとえば、いわゆる人種として黒人であるとか白人であるとか、また、女性であるとか男性であるとか、その性的指向が少数の例外的なものであるとか(性的マイノリティ)、こういうことで、差別的なあつかいをうけることはない、これが現代の人権意識の基本にあることだと理解している。

この延長としては、自分の意志で認知症になったわけではない、と考えることにもなるだろう。

2025年9月22日記