新プロジェクトX「ゴジラ、アカデミー賞を喰う」 ― 2025-02-06
2025年2月6日 當山日出夫
新プロジェクトX ゴジラ、アカデミー賞を喰う〜VFXに人生をかけた精鋭たち〜
この映画は、私は見ていない。そもそも、ここしばらくまったく外に出て映画館で映画を見るということがない。
「新プロジェクト」という番組は、どうしても、人間ドラマとして番組を作ってしまうので、技術的なことにはほとんど触れない。しかし、そうはいっても、VFXの制作の現場を、よく取材したものだとは思う。
気になったのは、「VFX」ということばと「CG」ということばが、厳密にはどう違うのか、ということを曖昧にしたままだった。ただ、コンピュータで映像を作るだけのことと、それを実写の映像と合成してリアルに見せることとは、ちょっと違うはずなのだが。
山崎貴の『ALWAYS 三丁目の夕陽』は、テレビの放送を見たのを憶えている。うまいなあと感じたのは、冒頭のシーン。少年が作った飛行機のおもちゃが空に飛んで、その背景に作りかけの東京タワーと町並みが見える(だったと思うが)、こういうのは、やはりVFXならではの映像である。
この映画、ラストのところで、ロクちゃん(堀北真希)が青森に帰る列車ががら空きの状態だったのは、この時代を知っている人間としては、どうにもいただけない。ここをその当時のリアルに作ってはいけない理由も思い当たらない。
VFXが評価されるというのは、ただ本当らしく見えるということだけではだめで、それが映画のなかで効果的に使われているかどうか、だと私は思う。この意味では、まったくのVFXだけで作る、宇宙のシーンなどと、その実際の姿を見る人の多くが体験的に記憶している、昭和三〇年ごろの東京とは、その評価のポイントは違ってくるだろう。
ハリウッドにおいついた、ということもそうだろうと思うが、使っているコンピュータの性能が上がってきた、ということもあるにちがいない。
VFXが価値を持つのは、映画のなかで説得力のある映像となったときであろう。それにいたる、脚本や演出はもちろん、実写部分の俳優の演技などをふくめて、総合的に映画はなりたつ。強いていえば、今回の「新プロジェクトX」の企画で、忘れていたのは、この映画を作る、ということの基本であったように感じる。
また、これからは、(すでにそうかもしれないが)、VFXにAI技術を利用することになるだろう。では、人間の作ることの意味は何であるのか、ここのところも問いかけ蹴るべきだったことかとも思う。
2025年2月4日記
新プロジェクトX ゴジラ、アカデミー賞を喰う〜VFXに人生をかけた精鋭たち〜
この映画は、私は見ていない。そもそも、ここしばらくまったく外に出て映画館で映画を見るということがない。
「新プロジェクト」という番組は、どうしても、人間ドラマとして番組を作ってしまうので、技術的なことにはほとんど触れない。しかし、そうはいっても、VFXの制作の現場を、よく取材したものだとは思う。
気になったのは、「VFX」ということばと「CG」ということばが、厳密にはどう違うのか、ということを曖昧にしたままだった。ただ、コンピュータで映像を作るだけのことと、それを実写の映像と合成してリアルに見せることとは、ちょっと違うはずなのだが。
山崎貴の『ALWAYS 三丁目の夕陽』は、テレビの放送を見たのを憶えている。うまいなあと感じたのは、冒頭のシーン。少年が作った飛行機のおもちゃが空に飛んで、その背景に作りかけの東京タワーと町並みが見える(だったと思うが)、こういうのは、やはりVFXならではの映像である。
この映画、ラストのところで、ロクちゃん(堀北真希)が青森に帰る列車ががら空きの状態だったのは、この時代を知っている人間としては、どうにもいただけない。ここをその当時のリアルに作ってはいけない理由も思い当たらない。
VFXが評価されるというのは、ただ本当らしく見えるということだけではだめで、それが映画のなかで効果的に使われているかどうか、だと私は思う。この意味では、まったくのVFXだけで作る、宇宙のシーンなどと、その実際の姿を見る人の多くが体験的に記憶している、昭和三〇年ごろの東京とは、その評価のポイントは違ってくるだろう。
ハリウッドにおいついた、ということもそうだろうと思うが、使っているコンピュータの性能が上がってきた、ということもあるにちがいない。
VFXが価値を持つのは、映画のなかで説得力のある映像となったときであろう。それにいたる、脚本や演出はもちろん、実写部分の俳優の演技などをふくめて、総合的に映画はなりたつ。強いていえば、今回の「新プロジェクトX」の企画で、忘れていたのは、この映画を作る、ということの基本であったように感じる。
また、これからは、(すでにそうかもしれないが)、VFXにAI技術を利用することになるだろう。では、人間の作ることの意味は何であるのか、ここのところも問いかけ蹴るべきだったことかとも思う。
2025年2月4日記
『坂の上の雲』「(21)二〇三高地(前編)」 ― 2025-02-06
2025年2月6日 當山日出夫
『坂の上の雲』 「(21)二○三高地(前編)」
ようやくだが、
『二〇三高地 旅順攻囲戦と乃木希典の決断』(角川新書). 長南政義.KADOKAWA.2004
を読んだ。去年の夏に出た本だが、部屋の中に積んであったものである。この本を読んだことをふまえて、ドラマの「二〇三高地」の回を見ることになった。
NHKの作った『坂の上の雲』のドラマは、近代の国民国家というものを、日露戦争を通じて描くことには、成功しているといっていいだろうが、しかし、その一方で、戦争をあまりにも感情的に描きすぎている。というよりも、戦争における、戦術、戦略、それから、作戦、という技術的な面を、あまりにも軽んじている。この観点からは失敗であるといってよい。
だが、日本で作る戦争のドラマとして、このようになってしまうことは、理解はできるつもりではある。これまでの多くの戦争映画やドラマの蓄積としては、かなり緻密で大胆な脚本であるとは思うが、やはり、戦争を精神論で語る、ということは避けることができていない。
まず、日露戦争が何を原因として起こり、何を目的として戦ったのか。これまでのこととしては、東方へ勢力をのばしてくるロシアに対する防衛戦争、という解釈であった。では、それを阻止するために、何を達成すればよいのか、日本が戦争で目的としたものが何であったか、具体的にはしめされていなかった。(これは、その後の太平洋戦争でも同じかと思う。アメリカ相手に戦争して、何を達成すればいいのか、ということになる。歴史的には、大東亜共栄圏の確立というのは、後付けの理由ということなるはずだが。)
その戦争において、旅順のロシア軍の要塞がどういう意味をもつのか、それは壊滅させねばならないものなのか、あるいは、旅順港のロシア艦隊が問題であったのか、このあたりの判断が、はっきりとしめされていない。日本海の制海権、ロジスティックスの確保、という観点からは、旅順艦隊の存在が脅威であり、なんとかこれを封じ込めなければならない。初期の旅順港閉塞作戦は、これを意図したものであった。
旅順要塞を攻撃することについての陸軍の戦略の意義(要塞を陥落させた後に、第三軍を満州に投入する)と、海軍としては旅順港の艦隊を陸上から攻撃するために二〇三高地を観測点として確保する、これは、戦略の目的が異なる。そして、そのための戦術も作戦も異なってくることになる。
第三軍の司令官としての乃木希典の意図したことと、連合艦隊で秋山真之が考えていたことが、乖離していたことになる。また、このことについて、陸海軍を統合して、どのようにして、旅順要塞、旅順艦隊を、攻撃することになるのか、統一的な見識がなかった、といっていいかもしれない。まあ、結果的には、旅順は陥落し、旅順艦隊も殲滅することができたので、成功した戦争ということにはなる。
だが、その結果にいたる意志決定がどのようであったのか、その根拠となった、戦争についての大局的な判断、また、旅順要塞をめぐるインテリジェンスの実態、こういうことが、このドラマを見ていてほとんど分からない。
歴史の結果としては、乃木希典は二〇三高地を奪い、そして、旅順を手に入れたことになるが、その結果にいたるまでに、どのような状況判断があって、何を考えて、どのような作戦を計画したのか……このあたりのことが、ドラマを見ていて理解できない。これは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでも同様である。小説では、乃木希典は愚将として描かれている。それに対して、戦争の大局を見て作戦をたてたのが児玉源太郎ということになっている。28サンチ砲の投入は、児玉源太郎の賢明な判断であったということになっている。
だが、長南政義の本を読むと、乃木希典は、決して愚将というべきではなく、軍人として的確に判断していたということになるらしい。(この評価については、軍事史の専門家が、さらにどう考えるか、ということになる。)
戦争を技術的に描くことも、必要だろう。この当時の軍事の常識的判断として、要塞の攻略は、どのようにすすめるべきものであったのか、ここのところはきちんと描いておくべきことだったと思う。ドラマの画面では、要塞に近づくために、ジグザグに塹壕を掘っていったということのようだが、このような戦術については、しかるべく説明してあった方がよかったと思う。ただ肉弾攻撃ばかりで敵の機関銃の餌食になる、というような描写だけでは、まあドラマとして戦場の映像としては迫力はあるが、この戦争の実態がどうであったかの理解には役にたたないかもしれない。
乃木希典を人格者として描くことはいいとしても、軍の統率者として部下や兵卒からどう見られていたのか、ということも重要である。それをふまえないでは、司令官としての乃木希典も描くことはできないはずである。何故、兵士たちは無謀ともいえる戦場に向かったのか、戦場における兵士、軍人の心理こそ描くべきことである。
また、絶対に言ってはいけないことは……ここで退却したら死んだ兵士にもうしわけない、という論理である。このことは、確かに心情としては理解できることであるし、死者とともに今生きてている人間が存在するという感覚は大事である。しかし、これを戦争を継続することの理由にしてはいけない。このことは、その後、日本が大陸に進出して引くに引けなくなっていく過程を考えると、非情なようだが、冷静な政治的判断、軍事的判断が、求められるところである。
つくづく、戦争のドラマとは難しいものだと思う。
2025年2月5日記
『坂の上の雲』 「(21)二○三高地(前編)」
ようやくだが、
『二〇三高地 旅順攻囲戦と乃木希典の決断』(角川新書). 長南政義.KADOKAWA.2004
を読んだ。去年の夏に出た本だが、部屋の中に積んであったものである。この本を読んだことをふまえて、ドラマの「二〇三高地」の回を見ることになった。
NHKの作った『坂の上の雲』のドラマは、近代の国民国家というものを、日露戦争を通じて描くことには、成功しているといっていいだろうが、しかし、その一方で、戦争をあまりにも感情的に描きすぎている。というよりも、戦争における、戦術、戦略、それから、作戦、という技術的な面を、あまりにも軽んじている。この観点からは失敗であるといってよい。
だが、日本で作る戦争のドラマとして、このようになってしまうことは、理解はできるつもりではある。これまでの多くの戦争映画やドラマの蓄積としては、かなり緻密で大胆な脚本であるとは思うが、やはり、戦争を精神論で語る、ということは避けることができていない。
まず、日露戦争が何を原因として起こり、何を目的として戦ったのか。これまでのこととしては、東方へ勢力をのばしてくるロシアに対する防衛戦争、という解釈であった。では、それを阻止するために、何を達成すればよいのか、日本が戦争で目的としたものが何であったか、具体的にはしめされていなかった。(これは、その後の太平洋戦争でも同じかと思う。アメリカ相手に戦争して、何を達成すればいいのか、ということになる。歴史的には、大東亜共栄圏の確立というのは、後付けの理由ということなるはずだが。)
その戦争において、旅順のロシア軍の要塞がどういう意味をもつのか、それは壊滅させねばならないものなのか、あるいは、旅順港のロシア艦隊が問題であったのか、このあたりの判断が、はっきりとしめされていない。日本海の制海権、ロジスティックスの確保、という観点からは、旅順艦隊の存在が脅威であり、なんとかこれを封じ込めなければならない。初期の旅順港閉塞作戦は、これを意図したものであった。
旅順要塞を攻撃することについての陸軍の戦略の意義(要塞を陥落させた後に、第三軍を満州に投入する)と、海軍としては旅順港の艦隊を陸上から攻撃するために二〇三高地を観測点として確保する、これは、戦略の目的が異なる。そして、そのための戦術も作戦も異なってくることになる。
第三軍の司令官としての乃木希典の意図したことと、連合艦隊で秋山真之が考えていたことが、乖離していたことになる。また、このことについて、陸海軍を統合して、どのようにして、旅順要塞、旅順艦隊を、攻撃することになるのか、統一的な見識がなかった、といっていいかもしれない。まあ、結果的には、旅順は陥落し、旅順艦隊も殲滅することができたので、成功した戦争ということにはなる。
だが、その結果にいたる意志決定がどのようであったのか、その根拠となった、戦争についての大局的な判断、また、旅順要塞をめぐるインテリジェンスの実態、こういうことが、このドラマを見ていてほとんど分からない。
歴史の結果としては、乃木希典は二〇三高地を奪い、そして、旅順を手に入れたことになるが、その結果にいたるまでに、どのような状況判断があって、何を考えて、どのような作戦を計画したのか……このあたりのことが、ドラマを見ていて理解できない。これは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでも同様である。小説では、乃木希典は愚将として描かれている。それに対して、戦争の大局を見て作戦をたてたのが児玉源太郎ということになっている。28サンチ砲の投入は、児玉源太郎の賢明な判断であったということになっている。
だが、長南政義の本を読むと、乃木希典は、決して愚将というべきではなく、軍人として的確に判断していたということになるらしい。(この評価については、軍事史の専門家が、さらにどう考えるか、ということになる。)
戦争を技術的に描くことも、必要だろう。この当時の軍事の常識的判断として、要塞の攻略は、どのようにすすめるべきものであったのか、ここのところはきちんと描いておくべきことだったと思う。ドラマの画面では、要塞に近づくために、ジグザグに塹壕を掘っていったということのようだが、このような戦術については、しかるべく説明してあった方がよかったと思う。ただ肉弾攻撃ばかりで敵の機関銃の餌食になる、というような描写だけでは、まあドラマとして戦場の映像としては迫力はあるが、この戦争の実態がどうであったかの理解には役にたたないかもしれない。
乃木希典を人格者として描くことはいいとしても、軍の統率者として部下や兵卒からどう見られていたのか、ということも重要である。それをふまえないでは、司令官としての乃木希典も描くことはできないはずである。何故、兵士たちは無謀ともいえる戦場に向かったのか、戦場における兵士、軍人の心理こそ描くべきことである。
また、絶対に言ってはいけないことは……ここで退却したら死んだ兵士にもうしわけない、という論理である。このことは、確かに心情としては理解できることであるし、死者とともに今生きてている人間が存在するという感覚は大事である。しかし、これを戦争を継続することの理由にしてはいけない。このことは、その後、日本が大陸に進出して引くに引けなくなっていく過程を考えると、非情なようだが、冷静な政治的判断、軍事的判断が、求められるところである。
つくづく、戦争のドラマとは難しいものだと思う。
2025年2月5日記
カラーでよみがえる映像の世紀「(1)20世紀の幕開け」 ― 2025-02-05
2025年2月6日 當山日出夫
カラーでよみがえる映像の世紀 (1)20世紀の幕開け 〜カメラは歴史の断片をとらえ始めた〜
「映像の世紀」が放送が始まったのは、一九九五年、ということは、リュミエール兄弟によって映画が作られてから、一〇〇年後のことということになる。一九九五年のころに、こういう番組を作るということは、第一には、こんな珍しい過去の映像が残っていたのか、という驚きにあった。その後、このシリーズは、全部を見たということはなかったが、気のつくかぎりは見ていた。そして、「映像の世紀」「新・映像の世紀」「映像の世紀プレミアム」とつづき、数年前に、これらをまとめて順番に再放送していったのは、全部見た。この後に、今の「映像の世紀バタフライエフェクト」になって、これはたぶん全部見ていると思う。
「映像の世紀」シリーズで、カラー化するのは、これが始めてではない。しばらく前に、どの回であったかは憶えていないが、カラー化したのを放送したのを憶えている。
私は、基本的には、こういうカラー化には反対である。記録映像は、その当時の技術で何が記録できたか、ということが重要なことの一つである。その時代の技術で出来なかったことを、今の技術で再現してみてもあまり意味がないと考える。しかし、それを分かったうえで見ると、映像により説得力があるのは事実であるが。
これも、今回の企画のように、第二次世界大戦ごろまでが、かろうじて意味のある時代ということになる。一九四〇年ごろになると、カラーフィルムが実用化されるので、カラーで残る映像が存在するようになる。そうすると、その時代にあって貴重なカラーフィルムを使って、何を撮ったかということの選択が、資料として重要な意味を持つようになる。(太平洋戦争中、アメリカ軍の艦艇に向かってくる日本軍の特攻機の映像もカラーで残っている。これは、アメリカ軍にとって、日本の特攻機をカラーフィルムで記録するに価するものと考えていたことになる。)
だが、モノクロが当然である時代のことについては、カラーフィルムという選択肢がまだ無かった時代なので、かろうじて、このようなカラー化も意味が見いだせることになる。
見ていて思うことはいろいろとある。何よりも、番組を作る側の歴史観である。最初の「映像の世紀」では、一般的な歴史観に沿って作ってある。知られていないが、歴史の裏側でこんなことがあった、というような視点は、あまり持ち込んでいない。貴重なフィルムの存在によって、実際はこんなふうだったと認識することはある。たとえば、実際に踊っているイサドラ・ダンカンの映像などが、そうである。
番組制作の歴史観が表面に出るようになったのは、「映像の世紀プレミアム」からであるかと思う。これは、テーマの設定自体が、一つの歴史の見方を示すことになる。今の「映像の世紀バタフライエフェクト」は、良くも悪くも偏った歴史観、ということを感じる。最近の事例としては、「カラシニコフを持ったベトコン」が登場しないベトナム戦争、というのには、やはり違和感を感じる。
あるいは、もう一般的に共有できるような大きな物語としての歴史観を人びとが共有できなくなった、ということもあるだろう。最初の「映像の世紀」のころは、ベルリンの壁の崩壊、東西冷戦の終結、ということで、ある意味では、それまでの歴史をかなり統一的な見方で見ることが、かろうじて可能だった時期といってもいいかもしれない。
最初の放送からの研究で、評価が変わった部分があるという断り書きから始まっていたが、実際にはどの部分であるのか、分かると面白い。私の記憶にある範囲だと、ロマノフ王朝の王女、アナスタシアが実際に死亡していたということが確定したということが、あるかと思う。
あるいは、昔は本物の映像記録だと思われていたものが、その後の研究で、後になってからの、いわゆるやらせ映像であったことが判明した、ということもあるはずである。この観点では、日露戦争時の、28サンチ砲の映像は本物ということであったが、これはとても興味深い。(ちょうど、『坂の上の雲』の再放送で、児玉源太郎が出てきて、二〇三高地の戦いになるところである。)
リュミエール兄弟の作った最初の映画、工場から出てくる人びとのカラー映像は、非常に興味深く見た。また、一九世紀末から二〇世紀の初頭にかけてのパリやロンドンの映像は、『失われた時を求めて』を読んだり、ロンドン留学の夏目漱石を思ったり、あるいは、シャーロック・ホームズの活躍したロンドンの街を想像したりということで、とても面白いと思う。
始めの方で、ゴーリキーのことばとして、映画の発明は人びとの考え方を変えるだろうという意味のことを紹介してあったが、たしかにそのとおりであった。今の時代、インターネットからスマホの時代になって、大きく人びとの意識は変わった。
また、初期の映画はいうまでもなく音がなかった。しかし、このことが、音の無い世界の動く映像ということで、ある意味で非常に衝撃的な体験となったことは、興味深いことである。今の我々は、映画が登場したとき、音が出るようになったとき、このときの体験を、想像してみることしかできなくなっている。スマホひとつあれば、映像も音声も記録し、あるいは、作ることもできる時代である。
2025年2月4日記
カラーでよみがえる映像の世紀 (1)20世紀の幕開け 〜カメラは歴史の断片をとらえ始めた〜
「映像の世紀」が放送が始まったのは、一九九五年、ということは、リュミエール兄弟によって映画が作られてから、一〇〇年後のことということになる。一九九五年のころに、こういう番組を作るということは、第一には、こんな珍しい過去の映像が残っていたのか、という驚きにあった。その後、このシリーズは、全部を見たということはなかったが、気のつくかぎりは見ていた。そして、「映像の世紀」「新・映像の世紀」「映像の世紀プレミアム」とつづき、数年前に、これらをまとめて順番に再放送していったのは、全部見た。この後に、今の「映像の世紀バタフライエフェクト」になって、これはたぶん全部見ていると思う。
「映像の世紀」シリーズで、カラー化するのは、これが始めてではない。しばらく前に、どの回であったかは憶えていないが、カラー化したのを放送したのを憶えている。
私は、基本的には、こういうカラー化には反対である。記録映像は、その当時の技術で何が記録できたか、ということが重要なことの一つである。その時代の技術で出来なかったことを、今の技術で再現してみてもあまり意味がないと考える。しかし、それを分かったうえで見ると、映像により説得力があるのは事実であるが。
これも、今回の企画のように、第二次世界大戦ごろまでが、かろうじて意味のある時代ということになる。一九四〇年ごろになると、カラーフィルムが実用化されるので、カラーで残る映像が存在するようになる。そうすると、その時代にあって貴重なカラーフィルムを使って、何を撮ったかということの選択が、資料として重要な意味を持つようになる。(太平洋戦争中、アメリカ軍の艦艇に向かってくる日本軍の特攻機の映像もカラーで残っている。これは、アメリカ軍にとって、日本の特攻機をカラーフィルムで記録するに価するものと考えていたことになる。)
だが、モノクロが当然である時代のことについては、カラーフィルムという選択肢がまだ無かった時代なので、かろうじて、このようなカラー化も意味が見いだせることになる。
見ていて思うことはいろいろとある。何よりも、番組を作る側の歴史観である。最初の「映像の世紀」では、一般的な歴史観に沿って作ってある。知られていないが、歴史の裏側でこんなことがあった、というような視点は、あまり持ち込んでいない。貴重なフィルムの存在によって、実際はこんなふうだったと認識することはある。たとえば、実際に踊っているイサドラ・ダンカンの映像などが、そうである。
番組制作の歴史観が表面に出るようになったのは、「映像の世紀プレミアム」からであるかと思う。これは、テーマの設定自体が、一つの歴史の見方を示すことになる。今の「映像の世紀バタフライエフェクト」は、良くも悪くも偏った歴史観、ということを感じる。最近の事例としては、「カラシニコフを持ったベトコン」が登場しないベトナム戦争、というのには、やはり違和感を感じる。
あるいは、もう一般的に共有できるような大きな物語としての歴史観を人びとが共有できなくなった、ということもあるだろう。最初の「映像の世紀」のころは、ベルリンの壁の崩壊、東西冷戦の終結、ということで、ある意味では、それまでの歴史をかなり統一的な見方で見ることが、かろうじて可能だった時期といってもいいかもしれない。
最初の放送からの研究で、評価が変わった部分があるという断り書きから始まっていたが、実際にはどの部分であるのか、分かると面白い。私の記憶にある範囲だと、ロマノフ王朝の王女、アナスタシアが実際に死亡していたということが確定したということが、あるかと思う。
あるいは、昔は本物の映像記録だと思われていたものが、その後の研究で、後になってからの、いわゆるやらせ映像であったことが判明した、ということもあるはずである。この観点では、日露戦争時の、28サンチ砲の映像は本物ということであったが、これはとても興味深い。(ちょうど、『坂の上の雲』の再放送で、児玉源太郎が出てきて、二〇三高地の戦いになるところである。)
リュミエール兄弟の作った最初の映画、工場から出てくる人びとのカラー映像は、非常に興味深く見た。また、一九世紀末から二〇世紀の初頭にかけてのパリやロンドンの映像は、『失われた時を求めて』を読んだり、ロンドン留学の夏目漱石を思ったり、あるいは、シャーロック・ホームズの活躍したロンドンの街を想像したりということで、とても面白いと思う。
始めの方で、ゴーリキーのことばとして、映画の発明は人びとの考え方を変えるだろうという意味のことを紹介してあったが、たしかにそのとおりであった。今の時代、インターネットからスマホの時代になって、大きく人びとの意識は変わった。
また、初期の映画はいうまでもなく音がなかった。しかし、このことが、音の無い世界の動く映像ということで、ある意味で非常に衝撃的な体験となったことは、興味深いことである。今の我々は、映画が登場したとき、音が出るようになったとき、このときの体験を、想像してみることしかできなくなっている。スマホひとつあれば、映像も音声も記録し、あるいは、作ることもできる時代である。
2025年2月4日記
100分de名著「デュルケーム“社会分業論” (1)個人化/孤立化の時代に向き合う」 ― 2025-02-05
2025年2月6日 當山日出夫
100分de名著 デュルケーム“社会分業論” (1)個人化/孤立化の時代に向き合う
デュルケームの名前は、知っているのだが、近代の社会学の祖という程度の知識しかもっていない。
時代の背景として、一九世紀から二〇世紀にかけての近代ヨーロッパというものを、歴史的に考えないといけないだろう、ということは分かる。近代的な科学的な思考がひろまり、都市部における近代的市民というものが成立してきた時代である。番組のなかでは、コッホやダーウィンやマリ・キュリーなどが出てきていたが、そのなかにマルクスやウェーバー、それから、フロイトなどをふくめてもいいかもしれない。
社会にあって人間を拘束する何かがあるのであり、それを社会的事実として客観的にモノとして観察する……たしかに、そのとおりである。
ただ、これも、現代の価値観からするならば、それを観察する自分自身が、その歴史的文化的文脈のなかに存在する人間なのであって、ということをどう考えるのか……ここのところが問題になるはずである。逆にいえば、デュルケームの時代には、単純素朴に社会的事象について、客観的に観察が可能ということが、信じることができた時代であった、ということになる。
社会と個人ということだが、ヨーロッパでもこの時代は、まだ、社会の共同体としての感覚が、まだ強く生きのこっていた時代だろうとは思う。人間が帰属する伝統的社会に帰ろうと思えば、それがまだ存在していた時代でもあったといえるかもしれない。
2025年2月4日記
100分de名著 デュルケーム“社会分業論” (1)個人化/孤立化の時代に向き合う
デュルケームの名前は、知っているのだが、近代の社会学の祖という程度の知識しかもっていない。
時代の背景として、一九世紀から二〇世紀にかけての近代ヨーロッパというものを、歴史的に考えないといけないだろう、ということは分かる。近代的な科学的な思考がひろまり、都市部における近代的市民というものが成立してきた時代である。番組のなかでは、コッホやダーウィンやマリ・キュリーなどが出てきていたが、そのなかにマルクスやウェーバー、それから、フロイトなどをふくめてもいいかもしれない。
社会にあって人間を拘束する何かがあるのであり、それを社会的事実として客観的にモノとして観察する……たしかに、そのとおりである。
ただ、これも、現代の価値観からするならば、それを観察する自分自身が、その歴史的文化的文脈のなかに存在する人間なのであって、ということをどう考えるのか……ここのところが問題になるはずである。逆にいえば、デュルケームの時代には、単純素朴に社会的事象について、客観的に観察が可能ということが、信じることができた時代であった、ということになる。
社会と個人ということだが、ヨーロッパでもこの時代は、まだ、社会の共同体としての感覚が、まだ強く生きのこっていた時代だろうとは思う。人間が帰属する伝統的社会に帰ろうと思えば、それがまだ存在していた時代でもあったといえるかもしれない。
2025年2月4日記
BS世界のドキュメンタリー「インビジブル・ネーション 蔡英文が語る台湾」 ― 2025-02-05
2025年2月6日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「インビジブル・ネーション 蔡英文が語る台湾」
2023年、台湾、アメリカの制作。
こういうような番組は、もう日本のテレビ局では無理なのだろうか。私には、そんなに過激に中国を刺激しているとも、見えないのだけれども。今の台湾の人たちが、何を思っているのか、その実情を細やかに描いていると感じる。
私の世代だと、国連の代表が、中華民国(台湾)から、中華人民共和国(いわゆる今の中国)に変わったときのことは、ニュースで記憶している。私自身の感覚としては、台湾というのは、独立した国家であると思う。また、そうあるべきである。
中国共産党が、一つの中国にこだわるのは、それなりの理由があってのことではあるが、しかし、それであからまに武力で恫喝するような行為は、どうかなと思う。懸念すべきは、いわゆる台湾有事であるが、これは、すでに始まっているというのが、私の認識である。ハイブリッド戦争……ということであるなら、すでに戦時中である。ただ、実際にミサイルが飛んだり、流血の事態になっていないだけである。無論、台湾有事は、日本にとってもおおごとである。台湾周辺の制海権、制空権を考えるならば、日本の領土が範囲内に入ること、戦場になることは、理の当然である。
台湾は、民主的な国家であり、経済的に成功している、ということは誰しもが認めざるをえないことであるにちがいない。この民主的で経済的に成功、ということが、中国共産党にとっては、もっとも気に入らないポイントになるのだろうけれど。
歴史的に、台湾は、中国のものだったということはない……おそらく、学問的にはこのことが正しい。だが、中国では、学問的正確さよりも、政治が優先する。
ただ、この番組のなかで言っていなかったことは、台湾にもともとからいた人びとのことである。いわゆる先住民族、少数民族であるが、これらの人びとをふくめて、現在の台湾の政府を支持している、ということが重要なことになるかと思う。
革命を経ずに民主化したということについては、韓国も同様である。(韓国についていえば、その独立は、日本の敗戦ということでもたらされたものだし、朝鮮戦争の後の軍事政権からの民主化も、革命があってのことではない。このあたりが、日本に対する屈折した心情ということになるのだろうと思っている。)
番組のなかで、習近平が、中国はこれまでに他民族を支配したりしたことはないと言っていたシーンが映っていたが、まさか、これを額面通りに受けとめる人はいないはずである。中国の歴史は、幾多の民族の治乱興亡の歴史だと思っている。中国の今の政権は、こんなことを白々しく堂々と言うということが、印象づけられることになる。そして、このことは、かつての国民党の時代の歴史を残そうとしている、今の台湾の姿と対比されることになる。
台湾とアメリカの制作だが、映像が非常にいい。また、蔡英文が魅力的に描かれている。こういう作り方もあっていいと思う。
2025年1月30日記
BS世界のドキュメンタリー 「インビジブル・ネーション 蔡英文が語る台湾」
2023年、台湾、アメリカの制作。
こういうような番組は、もう日本のテレビ局では無理なのだろうか。私には、そんなに過激に中国を刺激しているとも、見えないのだけれども。今の台湾の人たちが、何を思っているのか、その実情を細やかに描いていると感じる。
私の世代だと、国連の代表が、中華民国(台湾)から、中華人民共和国(いわゆる今の中国)に変わったときのことは、ニュースで記憶している。私自身の感覚としては、台湾というのは、独立した国家であると思う。また、そうあるべきである。
中国共産党が、一つの中国にこだわるのは、それなりの理由があってのことではあるが、しかし、それであからまに武力で恫喝するような行為は、どうかなと思う。懸念すべきは、いわゆる台湾有事であるが、これは、すでに始まっているというのが、私の認識である。ハイブリッド戦争……ということであるなら、すでに戦時中である。ただ、実際にミサイルが飛んだり、流血の事態になっていないだけである。無論、台湾有事は、日本にとってもおおごとである。台湾周辺の制海権、制空権を考えるならば、日本の領土が範囲内に入ること、戦場になることは、理の当然である。
台湾は、民主的な国家であり、経済的に成功している、ということは誰しもが認めざるをえないことであるにちがいない。この民主的で経済的に成功、ということが、中国共産党にとっては、もっとも気に入らないポイントになるのだろうけれど。
歴史的に、台湾は、中国のものだったということはない……おそらく、学問的にはこのことが正しい。だが、中国では、学問的正確さよりも、政治が優先する。
ただ、この番組のなかで言っていなかったことは、台湾にもともとからいた人びとのことである。いわゆる先住民族、少数民族であるが、これらの人びとをふくめて、現在の台湾の政府を支持している、ということが重要なことになるかと思う。
革命を経ずに民主化したということについては、韓国も同様である。(韓国についていえば、その独立は、日本の敗戦ということでもたらされたものだし、朝鮮戦争の後の軍事政権からの民主化も、革命があってのことではない。このあたりが、日本に対する屈折した心情ということになるのだろうと思っている。)
番組のなかで、習近平が、中国はこれまでに他民族を支配したりしたことはないと言っていたシーンが映っていたが、まさか、これを額面通りに受けとめる人はいないはずである。中国の歴史は、幾多の民族の治乱興亡の歴史だと思っている。中国の今の政権は、こんなことを白々しく堂々と言うということが、印象づけられることになる。そして、このことは、かつての国民党の時代の歴史を残そうとしている、今の台湾の姿と対比されることになる。
台湾とアメリカの制作だが、映像が非常にいい。また、蔡英文が魅力的に描かれている。こういう作り方もあっていいと思う。
2025年1月30日記
よみがえる新日本紀行「都ぞ弥生〜札幌・北大恵迪寮〜」 ― 2025-02-04
2025年2月4日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 都ぞ弥生〜札幌・北大恵迪寮〜
たまたま私が勉強してきた分野が、国語学、日本語学のなかでも、訓点語、文字、表記、ということなので、(その分野に知識のある人にとってはよく知られていることだが)、北海道大学の関係者には知り合いが多い。そこの先生であったり、卒業生であったりという人たちとは、学会などでよく話しをした。(もう、今では、ほとんど学会にも出なくなってしまったが。)
もとの番組は、昭和五〇年の放送である。ちょうどこの時期、私が、大学生になって東京で一人暮らしをはじめたころになる。同じ時代、北海道大学で勉強していた人たち(番組に映っていた)とは、ほぼ同年配ということになる。
昭和五〇年ごろは、その数年前までの、七〇年安保闘争が終わって、全国の大学がようやく平穏をとりもどしたころだったと、今から回顧することになる。都会……特に東京……の若者は、おしゃれに見えた。この時代、ちまたに流行った歌でいえば、『神田川』(かぐや姫)、『木綿のハンカチーフ』(太田裕美)、などが印象に残っている。まさに、この時代の学生の感覚を表している。
一方で、戦前からの旧制高校、大学での、バンカラの気風も一部には残っていた。私が学んだのは、慶應義塾大学の文学部であったが、春と秋の慶早戦(慶應の場合、こういう言い方になる)では、随分と無茶をする学生もいた。慶應の場合であれば、日比谷公園の噴水でおよぐということになるが……もう、今では、このようなことはなくなっているだろうと思うが。
北大の恵迪寮の生活は、旧制の高校、予科、などの雰囲気を色濃く残していたことになる。この時代、このような学生の生活があったということは、記録には残っていていいことだと思う。ストーム映像などは貴重なものかもしれない。
いまなお、この恵迪寮の生活は、古くからの「伝統」を残しているようだ。世の中に、このようなところがあってもいいと私は思っている。(今時の学生だから、昔のような無茶なことはしないだろう。)
『都ぞ弥生』の歌は知っている。いつ憶えたかは定かではないが、私の年代ならば、若いときにどこかで耳にしたことがあったはずである。その歌をうたうとき、「アインス、ツヴァイ、ドライ」とドイツ語で言っているのは、まさに、旧制の高校以来の、これも「伝統」というべきことになる。
少し前のことになるが、「ドキュメント72時間」で、この恵迪寮のことをあつかっていたのを思い出した。寮に女子学生が入るようになり、個室もある、これも時代の流れである。
2025年2月2日記
よみがえる新日本紀行 都ぞ弥生〜札幌・北大恵迪寮〜
たまたま私が勉強してきた分野が、国語学、日本語学のなかでも、訓点語、文字、表記、ということなので、(その分野に知識のある人にとってはよく知られていることだが)、北海道大学の関係者には知り合いが多い。そこの先生であったり、卒業生であったりという人たちとは、学会などでよく話しをした。(もう、今では、ほとんど学会にも出なくなってしまったが。)
もとの番組は、昭和五〇年の放送である。ちょうどこの時期、私が、大学生になって東京で一人暮らしをはじめたころになる。同じ時代、北海道大学で勉強していた人たち(番組に映っていた)とは、ほぼ同年配ということになる。
昭和五〇年ごろは、その数年前までの、七〇年安保闘争が終わって、全国の大学がようやく平穏をとりもどしたころだったと、今から回顧することになる。都会……特に東京……の若者は、おしゃれに見えた。この時代、ちまたに流行った歌でいえば、『神田川』(かぐや姫)、『木綿のハンカチーフ』(太田裕美)、などが印象に残っている。まさに、この時代の学生の感覚を表している。
一方で、戦前からの旧制高校、大学での、バンカラの気風も一部には残っていた。私が学んだのは、慶應義塾大学の文学部であったが、春と秋の慶早戦(慶應の場合、こういう言い方になる)では、随分と無茶をする学生もいた。慶應の場合であれば、日比谷公園の噴水でおよぐということになるが……もう、今では、このようなことはなくなっているだろうと思うが。
北大の恵迪寮の生活は、旧制の高校、予科、などの雰囲気を色濃く残していたことになる。この時代、このような学生の生活があったということは、記録には残っていていいことだと思う。ストーム映像などは貴重なものかもしれない。
いまなお、この恵迪寮の生活は、古くからの「伝統」を残しているようだ。世の中に、このようなところがあってもいいと私は思っている。(今時の学生だから、昔のような無茶なことはしないだろう。)
『都ぞ弥生』の歌は知っている。いつ憶えたかは定かではないが、私の年代ならば、若いときにどこかで耳にしたことがあったはずである。その歌をうたうとき、「アインス、ツヴァイ、ドライ」とドイツ語で言っているのは、まさに、旧制の高校以来の、これも「伝統」というべきことになる。
少し前のことになるが、「ドキュメント72時間」で、この恵迪寮のことをあつかっていたのを思い出した。寮に女子学生が入るようになり、個室もある、これも時代の流れである。
2025年2月2日記
BS世界のドキュメンタリー「ドイツの内なる脅威 躍進する“極右”政党」 ― 2025-02-04
2025年2月4日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「ドイツの内なる脅威 躍進する“極右”政党」
二〇二四年、イギリス、アメリカの制作。
この番組自体は、どちらかといえばリベラルより、あるいは、反右翼、という立場で作ってある。これは、今の時代のジャーナリズムのあり方としては、普通かと思う。
そうはいっても、ドイツの右翼政党(あるいは、立場によっては、極右政党と見ることになる)のAfDの主張も、取材している。
このような番組について、私が考えることとしては、何故、多くの人びとがAfDを支持することになっているのか、ということの背景について語っているかどうか、ということである。AfDは、ドイツへの移民のこれ以上の増加を歓迎しない。あるいは、排斥しようとしている。これは、主張としてはたしかにそのとおりなのだが、では、何故、ドイツにすむ人びとが、そのような気持ちになるのか、現実を見ることが重要だと思っている。
ドイツ国内で、イスラム系の人びとが、どこにどれぐらい生活していて、そこでの暮らしぶりはどんななのか、地元にもとからいる人たちはとはどうなっているのか、このあたりのことをきちんとふまえないで、ただ、双方の主張だけを並べても意味はない、と思うのである。
人間は同じような文化や宗教や価値観を持ったものどうしで、仲間をつくりたがるものである。これは、右派も左派も同じである。現実に、リベラルという人たちも、その主張を共有する人間同士で、仲間をつくっている。問題なのは、それと異なる価値観をいだく人に対して、どう接するかということになる。
自分たちの価値観を共有しないというだけで、犯罪者あつかいするのは、どうだろうかと思うこともある。
興味深かったのは、リベラル側のデモの映像。ここで、多様性をかかげてレインボーフラッグを持っている人がいた。移民に対して寛容であれ、という主張なのだろうと思う。だが、イスラムの教義はで同性愛は認められない罪である、ということを分かっているのだろうか。多様な価値観を認めるべきだといいながら、その結果として、不寛容な価値観を持つことを肯定することになる。多様性を主張するときに、性的多様性に不寛容な人たちも許容せよ、というのは矛盾している。(だからといって、私は、イスラムの教えを否定するつもりはまったくない。その教義のなかで普通に生活する人びとのことは、尊重されなければならない。)
番組の中でも指摘されていることだが、右翼政党の活動を取材するのに、隠れてしのびこんでこっそりと、そこにいる人間の姿を写したり、手紙の宛名を記録したり、これはどう考えてみても、正統な取材方法とはいえないだろう。(完全に違法とはいえないかもしれないが。)目的が正しければ、どんな手段をとってもかまわないという発想は、きわめて危険である。
番組の意図としては、AfDの脅威ということを伝えたかったのかと思うが、結果的には、いわゆるリベラル側の問題点を露呈することになったかと思うことになる。
2025年1月23日記
BS世界のドキュメンタリー 「ドイツの内なる脅威 躍進する“極右”政党」
二〇二四年、イギリス、アメリカの制作。
この番組自体は、どちらかといえばリベラルより、あるいは、反右翼、という立場で作ってある。これは、今の時代のジャーナリズムのあり方としては、普通かと思う。
そうはいっても、ドイツの右翼政党(あるいは、立場によっては、極右政党と見ることになる)のAfDの主張も、取材している。
このような番組について、私が考えることとしては、何故、多くの人びとがAfDを支持することになっているのか、ということの背景について語っているかどうか、ということである。AfDは、ドイツへの移民のこれ以上の増加を歓迎しない。あるいは、排斥しようとしている。これは、主張としてはたしかにそのとおりなのだが、では、何故、ドイツにすむ人びとが、そのような気持ちになるのか、現実を見ることが重要だと思っている。
ドイツ国内で、イスラム系の人びとが、どこにどれぐらい生活していて、そこでの暮らしぶりはどんななのか、地元にもとからいる人たちはとはどうなっているのか、このあたりのことをきちんとふまえないで、ただ、双方の主張だけを並べても意味はない、と思うのである。
人間は同じような文化や宗教や価値観を持ったものどうしで、仲間をつくりたがるものである。これは、右派も左派も同じである。現実に、リベラルという人たちも、その主張を共有する人間同士で、仲間をつくっている。問題なのは、それと異なる価値観をいだく人に対して、どう接するかということになる。
自分たちの価値観を共有しないというだけで、犯罪者あつかいするのは、どうだろうかと思うこともある。
興味深かったのは、リベラル側のデモの映像。ここで、多様性をかかげてレインボーフラッグを持っている人がいた。移民に対して寛容であれ、という主張なのだろうと思う。だが、イスラムの教義はで同性愛は認められない罪である、ということを分かっているのだろうか。多様な価値観を認めるべきだといいながら、その結果として、不寛容な価値観を持つことを肯定することになる。多様性を主張するときに、性的多様性に不寛容な人たちも許容せよ、というのは矛盾している。(だからといって、私は、イスラムの教えを否定するつもりはまったくない。その教義のなかで普通に生活する人びとのことは、尊重されなければならない。)
番組の中でも指摘されていることだが、右翼政党の活動を取材するのに、隠れてしのびこんでこっそりと、そこにいる人間の姿を写したり、手紙の宛名を記録したり、これはどう考えてみても、正統な取材方法とはいえないだろう。(完全に違法とはいえないかもしれないが。)目的が正しければ、どんな手段をとってもかまわないという発想は、きわめて危険である。
番組の意図としては、AfDの脅威ということを伝えたかったのかと思うが、結果的には、いわゆるリベラル側の問題点を露呈することになったかと思うことになる。
2025年1月23日記
『あ・うん』「(3)「青りんご」」 ― 2025-02-04
2025年2月4日 當山日出夫
『あ・うん』 (3)「青りんご」
一九八〇年のドラマなのだが、やはりこれは向田邦子の作品ということで見ることになる。今の時代だったら、このドラマに描かれたような、友情とか、夫婦の関係とか、親子の関係とか……これらを、とても題材にできないだろう。一九八〇年(昭和五五年)のときには、このドラマの登場人物や設定に理解があり、共感する視聴者が多くいた。現在、そのような人がまったくいなくなったというわけではないが(現に、私はこの再放送を見ている)、このような筋立てのドラマを書ける脚本家は、もういないだろう。
現代の価値観からすると到底容認できないような、家庭のあり方だったり、夫婦関係だったりする。水田と門倉の友情も、どのようなきっかけがあれば、こんな人間関係が構築できるのか、想像することも難しいだろう。いや、ドラマが放送された一九八〇年の当時でも、かなり特殊な関係と思われていたにちがいない。だが、その無理なところを、ドラマに仕立ててみせるのが、向田邦子のうまいところ、ということになる。
そうはいっても、見ていると、こういう人間の気持ちもわかる気がする……という気になる。誰も悪い人は出てこない。山師のおじいちゃんも、悪い人手はない。みんなが、お互いの気持ちを分かるようでいて、本当のところは若いあえていない、しかし、だからといって孤独(近代的な意味での)ということでもない。
ところで、水田千吉は夜学の出である。これが、会社勤めをするなかで、コンプレックスになっていた時代があった。これも、過去のことである。門倉には二号がいるが、これを悪徳としては描いていない。まだこの時代には、こういうことに社会全体としておおらかであった。(今は、とてもこうはいかない。)
2025年1月30日記
『あ・うん』 (3)「青りんご」
一九八〇年のドラマなのだが、やはりこれは向田邦子の作品ということで見ることになる。今の時代だったら、このドラマに描かれたような、友情とか、夫婦の関係とか、親子の関係とか……これらを、とても題材にできないだろう。一九八〇年(昭和五五年)のときには、このドラマの登場人物や設定に理解があり、共感する視聴者が多くいた。現在、そのような人がまったくいなくなったというわけではないが(現に、私はこの再放送を見ている)、このような筋立てのドラマを書ける脚本家は、もういないだろう。
現代の価値観からすると到底容認できないような、家庭のあり方だったり、夫婦関係だったりする。水田と門倉の友情も、どのようなきっかけがあれば、こんな人間関係が構築できるのか、想像することも難しいだろう。いや、ドラマが放送された一九八〇年の当時でも、かなり特殊な関係と思われていたにちがいない。だが、その無理なところを、ドラマに仕立ててみせるのが、向田邦子のうまいところ、ということになる。
そうはいっても、見ていると、こういう人間の気持ちもわかる気がする……という気になる。誰も悪い人は出てこない。山師のおじいちゃんも、悪い人手はない。みんなが、お互いの気持ちを分かるようでいて、本当のところは若いあえていない、しかし、だからといって孤独(近代的な意味での)ということでもない。
ところで、水田千吉は夜学の出である。これが、会社勤めをするなかで、コンプレックスになっていた時代があった。これも、過去のことである。門倉には二号がいるが、これを悪徳としては描いていない。まだこの時代には、こういうことに社会全体としておおらかであった。(今は、とてもこうはいかない。)
2025年1月30日記
ドキュメント72時間「聖夜の長崎 大病院のケーキ店」 ― 2025-02-03
2025年2月3日 當山日出夫
ドキュメント72時間 聖夜の長崎 大病院のケーキ店
病院のなかにケーキ屋さんがあるというのは、とても珍しい。
ただ、病院内にあるなら、含んでいる食品の成分とか、カロリーとか、表示があってもよさそうだと思ったのではあるが。
病気によっては、味覚の障害がある。そのことを確認するために、ケーキを買って食べるということは、確かに意味のあることだろう。食事というものが、ただ栄養をとるためだけではなく、味覚のこともあるし、さらには、人と人との関係をとりむすぶものであることは確かだろう。
「ドキュメント72時間」としては、大きな病院シリーズということなる。地域の中核的な大きな病院には、いろんな病気の人がくることになるし、そこにはさまざまな人生が背後にあることになる。
この番組では、レストランなど食べ物屋さんが舞台になることが多い。やはり、食べることを通じての、人と人とのかかわりがある。食べるものについての思い出もある。
まあ、私は、甘いものは自分から進んで食べるということは、基本的にはない。酒も、もう飲まなくなった。何を楽しみ生きているのだろうと思われるかもしれないが、毎日、なにがしかの文章を書く生活というのが、続けられればと思っている。
どうでもいいことだが、大学病院は公立の施設であるが、そこで、クリスマスを祝うというのも、日本的である。日本の年中行事のなかに定着している風習である。これが、アメリカのように、クリスマスに「メリークリスマス」と言ってはいけない、(キリスト教徒ではない人に対するPCの配慮)、というのも、なんだか味気ないなあ、という気がしている。
2025年2月1日記
ドキュメント72時間 聖夜の長崎 大病院のケーキ店
病院のなかにケーキ屋さんがあるというのは、とても珍しい。
ただ、病院内にあるなら、含んでいる食品の成分とか、カロリーとか、表示があってもよさそうだと思ったのではあるが。
病気によっては、味覚の障害がある。そのことを確認するために、ケーキを買って食べるということは、確かに意味のあることだろう。食事というものが、ただ栄養をとるためだけではなく、味覚のこともあるし、さらには、人と人との関係をとりむすぶものであることは確かだろう。
「ドキュメント72時間」としては、大きな病院シリーズということなる。地域の中核的な大きな病院には、いろんな病気の人がくることになるし、そこにはさまざまな人生が背後にあることになる。
この番組では、レストランなど食べ物屋さんが舞台になることが多い。やはり、食べることを通じての、人と人とのかかわりがある。食べるものについての思い出もある。
まあ、私は、甘いものは自分から進んで食べるということは、基本的にはない。酒も、もう飲まなくなった。何を楽しみ生きているのだろうと思われるかもしれないが、毎日、なにがしかの文章を書く生活というのが、続けられればと思っている。
どうでもいいことだが、大学病院は公立の施設であるが、そこで、クリスマスを祝うというのも、日本的である。日本の年中行事のなかに定着している風習である。これが、アメリカのように、クリスマスに「メリークリスマス」と言ってはいけない、(キリスト教徒ではない人に対するPCの配慮)、というのも、なんだか味気ないなあ、という気がしている。
2025年2月1日記
よみがえる新日本紀行「焼畑〜高知県池川町椿山〜」 ― 2025-02-03
2025年2月3日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 「焼畑〜高知県池川町椿山〜」
テレビの番組表でたまたま見つけたので録画しておいて見た。再放送。最初の放送は、2022年12月23日。見ながらなんとなく、椿山の焼畑のことが記憶にあったので、検索してみると、ETV特集で放送している。これは見て(再放送だったが)、思ったことを書いている。
2023年1月28日
ETV特集 消えた故郷へ帰るとき〜高知・椿山 50年の記録〜
https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/M68GV8GW52/
やまもも書斎記 2023年7月18日
ETV特集「消えた故郷へ帰るとき」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2023/07/18/9602781
今から見ると、非常に貴重な映像の記録である。焼畑がどのようにして行われているのか(山を焼く前のお祈りの作法)、ミツマタの栽培や収穫後の処理はどのようにして行われていたのか、焼畑と山林の維持との関連、虫送りの踊りと音楽……民俗学的に見ても、貴重なものだろう。
この新日本紀行が放送されたのは、昭和51年(1976年)、これは私が東京で大学生だったころのことである。まだ、この時代、四国の山奥では、このような暮らしが実際にあった。焼畑がリアルな生活として存在し、それで暮らしている人びとがいた。それが急速に失われていったのが、その後の日本の姿ということになる。
今、ある意味では焼畑は見なおされてきている。かつては自然を破壊する原始的な農法という評価だったと思うが、近年では、自然の環境に配慮した、持続可能な農業のあり方の一つ、という位置づけに変わってきている、と私は認識している。
しかし、もはや焼畑を復活させることは不可能かもしれない。少なくとも、椿山の集落がもとのような生活の場にもどることはないだろう。
今後の最大の課題は、植林したヒノキをこれからどう育てていくかということなのだが、国内の林業の先行きはどうなのだろうか。間伐などして樹木を育てても、それを山の下の街まで運び降ろすことが、できるかどうか。集落までの道路はのこっているようだが、その道路の維持も大変である。廃村となった集落のために、道路を維持することが、これからの日本で可能だろうか。
番組を見ても、出てきたのは、主な作物はミツマタのほかにはアワぐらいであった。米は出てきていない。正月の餅も、アワでつくっている。電気はきているようだったが、主な燃料は薪になる。映っていたわけではないが、上水道はないだろう。
かつてのような生活にもどることはできないとしても、日本の国土として山林の保護は重要な意味があるに違いない。山林の樹木が価値をもつのは、植林してから数十年後のことになる。将来を見すえた、山林の維持と活用について、今こそ議論すべきときだろう。
今の日本で、アワ(粟)は雑穀として、むしろヘルシーな食材というイメージになってきているかと思っているが、ほんの数十年前まで、アワぐらいしか穀物の収穫できない生活が、日本のなかであったことは忘れてはならないことであると、私は思っている。
2025年1月31日記
よみがえる新日本紀行 「焼畑〜高知県池川町椿山〜」
テレビの番組表でたまたま見つけたので録画しておいて見た。再放送。最初の放送は、2022年12月23日。見ながらなんとなく、椿山の焼畑のことが記憶にあったので、検索してみると、ETV特集で放送している。これは見て(再放送だったが)、思ったことを書いている。
2023年1月28日
ETV特集 消えた故郷へ帰るとき〜高知・椿山 50年の記録〜
https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/M68GV8GW52/
やまもも書斎記 2023年7月18日
ETV特集「消えた故郷へ帰るとき」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2023/07/18/9602781
今から見ると、非常に貴重な映像の記録である。焼畑がどのようにして行われているのか(山を焼く前のお祈りの作法)、ミツマタの栽培や収穫後の処理はどのようにして行われていたのか、焼畑と山林の維持との関連、虫送りの踊りと音楽……民俗学的に見ても、貴重なものだろう。
この新日本紀行が放送されたのは、昭和51年(1976年)、これは私が東京で大学生だったころのことである。まだ、この時代、四国の山奥では、このような暮らしが実際にあった。焼畑がリアルな生活として存在し、それで暮らしている人びとがいた。それが急速に失われていったのが、その後の日本の姿ということになる。
今、ある意味では焼畑は見なおされてきている。かつては自然を破壊する原始的な農法という評価だったと思うが、近年では、自然の環境に配慮した、持続可能な農業のあり方の一つ、という位置づけに変わってきている、と私は認識している。
しかし、もはや焼畑を復活させることは不可能かもしれない。少なくとも、椿山の集落がもとのような生活の場にもどることはないだろう。
今後の最大の課題は、植林したヒノキをこれからどう育てていくかということなのだが、国内の林業の先行きはどうなのだろうか。間伐などして樹木を育てても、それを山の下の街まで運び降ろすことが、できるかどうか。集落までの道路はのこっているようだが、その道路の維持も大変である。廃村となった集落のために、道路を維持することが、これからの日本で可能だろうか。
番組を見ても、出てきたのは、主な作物はミツマタのほかにはアワぐらいであった。米は出てきていない。正月の餅も、アワでつくっている。電気はきているようだったが、主な燃料は薪になる。映っていたわけではないが、上水道はないだろう。
かつてのような生活にもどることはできないとしても、日本の国土として山林の保護は重要な意味があるに違いない。山林の樹木が価値をもつのは、植林してから数十年後のことになる。将来を見すえた、山林の維持と活用について、今こそ議論すべきときだろう。
今の日本で、アワ(粟)は雑穀として、むしろヘルシーな食材というイメージになってきているかと思っているが、ほんの数十年前まで、アワぐらいしか穀物の収穫できない生活が、日本のなかであったことは忘れてはならないことであると、私は思っている。
2025年1月31日記
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