高村薫『土の記』2016-12-22

2016-12-22 當山日出夫

高村薫.『土の記』(上・下).新潮社.2016
http://www.shinchosha.co.jp/book/378409/
http://www.shinchosha.co.jp/book/378410/

日本の「現代」を描いている希有な作家の一人であると思う。その最新作。

もし、〈農業小説〉とでもいうようなジャンルがあるとするならば、そのトップに出てきそうな作品である。全編にわたって、事細かに農業、それも主に棚田での稲作を中心に、詳密な描写で埋め尽くされている。

舞台は、奈良の宇陀。県のやや南にある農山村である。県全体からみればなかほどの東よりというあたりか。

この小説を読んでの感想などとしては、次の三点をあげておきたい。

第一には、先に述べたような農業それも稲作を中心に描いた作品であること。これまで、農村を舞台にした小説というのはあったろうが、農業そのものを、執拗なまでに稠密に描いた作品があったろうか。残念ながら私は、そのような作品は知らない。

高村薫の作品でいえば『晴子情歌』における、ニシン漁の描写がある。これを、作品全編にわたって農業・稲作について、詳密に描写した、とでもイメージしてもらえればいいだろうか。これもそのギリギリのところの描写になっている。これ以上細かく書くと、農業・稲作マニュアル、土壌の解説になってしまいかねない。そうならないように、あくまでも、人間の営みと、自然の営みを、密着させて描き出しているのが、文学としての高村薫の力量なのであろう。

第二は、東日本大震災への言及である。この作品の下巻になると、地震の描写がある。そしては、それは、ある意味で非常に冷酷な視点にたっている。

東北地方で地震があり、津波があり、原子力発電所で事故があり、多くの被災者が出て……そのことは、たしかに小説中に登場する。だが、それを、奈良の宇陀の農家の視点から見ている。確かに日本でのできごとである。人ごとではない。しかし、宇陀の農家としては、何もできることはない。ただ、毎年・毎日の生活があり、農作業があり、年中行事があり、というなかですぎていく。その生活からみれば、震災というのは、生活の背景にあるひとつ点でしかない。

高村薫という作家は、言論人として、東日本大震災、原子力発電所事故について、強く発言している人であることは承知しているつもりである。その高村薫が、『土の記』で言及するそれは、非情な視点としかいいようがない。いや、あるいは、あくまでも、人びとの生活に即した日常の視点といった方がよいか。

このような、『土の記』でとっているような視点を内包しているからこそ、高村薫の現代文明批判は、その意味がある。

第三には、上記、震災・原子力発電所事故などをふくめて、「現代」の日本を描き出しているということ。農村の生活が中心になっているとはいえ、現代のかかえる様々な問題……過疎、少子高齢化、認知症、家族のあり方の変容、といったキーワードに象徴されるような様々な事象が描かれる。そして、それが、あくまでも、宇陀の農村の視点……毎日の農作業、年中行事、神事、仏事を通じて、生と死、老いの孤独が描かれるのだが、それが、農業という生命にかかわる営みと隣り合わせのこととして出てくる。だから、そこに出てくるのが人間の死であっても、自然の営みとしての人間のおわりという印象になる。いや、おわりですらない。自然のサイクルのひとつとしての、生と死である。

以上の三点が、私がこの『土の記』について思ったことである。そして、あえて記すならば、この小説の最終の一ページの非情さ、これを味わうために、この上下巻の大作をじっくりと読んでいく価値はある。

この小説のタイトルは『土の記』である。作者の書きたかったのは「土」であるのかもしれない。

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