『楡家の人びと』北杜夫(その四)2017-04-13

2017-04-13 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年4月12日
『楡家の人びと』北杜夫(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/12/8460638

この作品は、近代の日本……そのなかでも、主に大正から昭和(戦前)までの時代……を描いた、ひとつ「物語」として受容されるものであることはすでに述べた。いわば、大河ドラマのような小説といってもいいかもしれない。

このような小説が他にないではない。古いところでは、『夜明け前』(島崎藤村)がそうであるかもしれない。また、私がこれも若いころに読んだ本として、『人間の運命』(芹沢光治良)も、そのような小説といえるだろう。

この『楡家の人びと』が、上述のような作品ときわだっているのは、そのユーモアにある、と私は思う。

著者(北杜夫)は、「どくとるマンボウ」のシリーズで、希なるユーモア作家としても知られていることは言うまでもない。そのユーモアのセンスが、この『楡家の人びと』には、全編にわたっている。

特に、「主人公」といってよい楡基一郎は、これ全身、生きたユーモアとでもいうべき人物造形になっている。その本人は、いたって生真面目で正直に行動しているのだが、それが傍目から見れば、どことなく滑稽みをおびているものとしてうつる。その基一郎を、実に自然に描き出しているところが、そして、それが、ユーモアを帯びているところが、この作品を通底するものとしてある。

このユーモアを一身に体現しているような人物が、次男の米国(よねくに)かもしれない。特に、第三部になって、戦争(太平洋戦争)がはじまって、世の中の情勢が不安になるなか、ひたすら、自分の病気のことばかりを延々と語る。その姿は、ユーモラスであると同時に、かえって鬼気迫るような感じもしないでもない。(本人は、いたって真面目で健康であるにもかかわらずである。)

また、この小説の最後のシーン、龍子の姿も、本人はいたって真剣に行動しているのだが、これも、ちょっと距離をおいてながめてみるならば、どことなくユーモアを感じる姿として、描かれている。

さらには、峻一のウエーク島での生活……その死と隣り合わせになった飢餓の状態を描いているところでも、どことなしか、ユーモアがある。峻一が必死になって生きようとすればするほど、それは、すでにそのような状態を過去のものと知っている……戦後の小説の読者の視点からすれば、ユーモアをもってながめることになる。そのように距離をもって、描かれている。

日本の近代文学の中で、諧謔、滑稽、ユーモア、という作品の系列がないではない。夏目漱石の『吾輩は猫である』などは、その代表といえるかもしれない。また、諧謔というものは、えてして、時の権力に対する風刺ともなりうる性質をもっている。

この諧謔、風刺による権力批判というのは、これはこれとして、重要なものであることはいうまでもない。

このような諧謔、ユーモアの系譜のなかにあって、『楡家の人びと』のユーモアは純粋である。権力に対する風刺というものが感じられない。これは、褒めているのである。ここまで自然なユーモアのある作品というのは、きわめて希なのではないだろうか。

私がこの小説を読んだのは、今か40年近く前のことになる。かなりの部分は憶えていた。にもかかわらず、今回、読み返してみて、思わず笑い出してしまった時が、幾度となくあった。自然に笑いをさそうのである。このような、いい意味での天然自然のユーモアにあふれた作品というのは、近代文学のなかでもきわめて貴重であるというべきであろう。

追記 2017-04-14
このつづきは。
やまもも書斎記 2017年4月14日
『楡家の人びと』北杜夫(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/14/8478445