『楡家の人びと』北杜夫(その五)2017-04-14

2017-04-14 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記
『楡家の人びと』北杜夫(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/13/8468203

この小説の重要な要素として、ユーモアがあることはすでに述べた。

それと関連して、この作品のもう一つの重要な要素である叙情性ということについて考えてみたい。

先に書いたように、この作品は、日本の近代(大正~昭和・戦前)を中心とした、市民、国民、庶民の物語である。だが、いたずらに、歴史談義にはいりこんで深刻になるということがまったくない。常に平明に叙述されている。

その平明な叙述、といっても、作品中では、まさにいろんな出来事、事件がおこるのであるが、その叙述のなかできわだっているのは、ユーモアと叙情性である。

この作品で、その叙情性をもっとも感じるところといえば、やはり、夏の箱根の別荘での、子どもたち(藍子、峻一、周二など)の様子の描写だろう。あるいは、そこでの夏の間の徹吉の勉強を加えてもいいかもしれない。

とにかく、清冽な叙情性に満ちた描写になっている。作品中で、このような箇所がでてくると、ちょっとほっとする感じがある。特に、時代背景としては、戦前の日中戦争はじまった、暗くなりかけている時期にあたる。その時代のなかにあって、おさなく、無邪気に、しかし、溌剌として、そして、どことなく、子どもらしい意地悪な、また、いじけたような、楡家の子どもたち。

いや、箱根の別荘に限らず、東京の青山の楡脳病院のあたりの情景の描写も、これまた、叙情性にとんだものである。

さらに書けば、太平洋の孤島で飢餓に苦しむ峻一の姿、その島(ウエーク島)の自然のなんとのびやかでおおらかなことか、とも思う。飢えさえなければ、太平洋の楽園である。

この作品では、こうした叙情性が、先にのべたユーモアと、密接に一体化して描写されている。そこが、この小説の見事なところだろう。

えてして、叙情的な文学は、それだけで自己完結してしまいがちである。だが、この作品は、そうなってはいない。抒情的に描きながらも、そこには、人びとの生活があり、また、戦争があり、また、死がある。これらを描きながらも、叙情性をうしなっていない、また、そしてユーモアもどことなくただよっている。このことをもってしても、『楡家の人びと』は、日本近現代においてすぐれた文学作品であるといえよう。

追記 2017-04-15
このつづきは。
やまもも書斎記 2017年4月15日
『楡家の人びと』北杜夫(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/15/8481451

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