「汚名 沖縄密約事件 ある家族の50年」2024-05-16

2024年5月16日 當山日出夫

ETV特集 汚名 沖縄密約事件 ある家族の50年

外務省機密漏洩事件、沖縄返還密約事件……このことは、私の記憶のうちにある。沖縄返還があったのが、高校生のときのことだった。今、この事件のことを記憶にとどめている人は、私と同年配以上の人間ということになる。ただ、事件については、その後、マスコミなどで言及されることがあったので、忘れ去られたことということにはなっていないが。

結論的に今考えることを書いてみるならば……外交交渉などにおいて秘密扱いになる事項があることはいたしかたないことだろうと思う。しかし、それは、記録に残さなければならないし、そして、その記録は時がたてばどこかの時点で開示されなければならない。これは、公文書というものに対する基本的な大原則である、ということである。

以前、学生のデジタルアーカイブについて教える授業をしていたことがある。そのとき、まず「アーカイブズ」とはどういうものなのか、特に公文書の記録、保存、管理、公開はどうあるべきか、という話しをすることにしていた。フランスのミッテラン大統領が、公文書は未来への財産であり、それを残す義務が今の我々にはあるという意味のことを語っていることを、紹介することにしていた。

残念ながら、現在の日本では、公文書の作成や保存、公開ということについては、まったく信用できない状態にある。これがどうしようもない状態になったのは、言うまでもなく安倍政権のときのことである。公文書管理ということがらは、今話題の裏金よりも、より深刻な問題、強いていえば近代的な国家の運営にとって致命的なことがらである。

私は、このことを深く憂慮する。

無論、西山太吉というジャーナリストとその妻の人生については、いろいろと感じるところ、思うところはある。仕事一筋のジャーナリストというのも、ある意味ではもう過去の存在になってしまったのかもしれないとは感じるところである。

ジャーナリズムの役割が権力の監視であることは、忘れてはならない。これは、長い目で見れば、国家というものの健全な存続のためには、それに対する批判を含まなければならない、という意味においても、そう思うものである。批判を封じる国家はもろいというのは、二〇世紀のベルリンの壁の崩壊以降の世界のできごとから学ぶべきことであるにちがいない。(いや、場合によっては、独裁的な国家の方がうまく運営できるという現象もあるかと思うのだが、このことについては、また別に考えることにする。)

さらに書けば、逆説的な考え方になるが、本当に秘密を守ろうとするならば、基本は原則公開とすべきなのである。基本はすべてオープンにするということで、秘密にすべきことを厳格に規定して秘することができる。なんでもかんでも秘密にしてしまうのは、本当に秘密にすべきことが紛れて分からなくなってしまう危険性がある。この意味において、日本政府は政治のリアリズムが分かっていないと言ってもいいかもしれない。

また、沖縄返還におけるアメリカとどのような交渉があったかということは、特に秘密にすべきこととは思えないのである。公開したからといって、国家の基本がゆらぐという性質のものではないだろう。アメリカに対して従属的な立場にあるとするならば、それはそれとして認める立場で臨むのが妥当だろう。それをしないのは、欺瞞の独立というべきである。

2024年5月13日記