「仏教×テック 2050」2024-09-24

2024年9月24日 當山日出夫

ドキュメント20min. 仏教×テック 2050

このプロジェクトのことは、時々、ニュースでも扱っているので知っていたのだが、このように具体的な番組になるのは、始めてかもしれない。おそらくあえてそう作ってあるのだろうが、つっこみどころ満載である。これはいい意味で言っている。それだけ、AIと宗教について考えることは、多岐にわたり奥の深い問題だということになる。

いろいろ思うことはあるが、重要なことは、ブッダの悟りはテキストで表現可能か、ということがある。ここは、あえて「テキスト」ということばを使った。「ことば」にはしなかった。「ことば」というと、話しことばをふくむし、話しことばのコミュニケーションには、狭義の言語以外のいろんな要素がある。話し方、抑揚、話し声、表情、また、男性が話すか女性が話すかということもある、それから、もっとも重要なことの一つとして、沈黙がある。沈黙ということも、ことばのコミュニケーションにとっては、大事なことである。しかし、これは、テキストになったときには、絶対に伝えられないものである。

きわめて抽象的で純度の高いテキストで、宗教を語ることが可能か。

Eテレの「こころの時代」で、『歎異鈔』を安満利麿が講じているのを、録画しておいて見た。また、「100分de名著」で「新約聖書 福音書」を若松英輔が講じていた。これを見て思ったことは、すでに書いた。が、関連して確認しておきたいことは、これらの番組では、『歎異抄』も「福音書」も、純然としたテキストとしてあつかっていたことである。それから、番組として成りたたせるために、それを講じる人がいて、一方でそれを聴く人がいる、という設定になっている。これは、当たり前のことかもしれないが、宗教を語るというときに、それを人が語るということの意味を、改めて考えるべきだと私は思う。

別の角度から見るならば、宗教の身体性という言い方になるかもしれない。いうまでもなく、AIについての最大の問題点は、それが身体性を持たないということである。少なくとも、現在の時点で話題になることの多いAIについてはそうである。そして、「ことば」というのは、特に話しことばは、身体性をもっている。

ブッダも、イエスも、自分自身では書き残すということをしていない。宗教は、テキストとして書き記すことが可能なのであろうか。まず、ここのところをクリアしておかないと、そのテキストをAIに学習させても意味のないものになる。

他にも、脳と心の問題とか、様々に考えるべき論点がある。これらを、じっくり考えていかねばならないのだが、それよりも、AIの技術的発達の方が先行してしまっているのが、現在の姿かと思う。

2024年9月16日記

「多国籍アパートで暮らせば」2024-09-24

2024年9月24日 當山日出夫

ETV特集 多国籍アパートで暮らせば

見ていて思うことはいろいろとあるが、思いつくままに書いておく。

可児市に限らず、今の日本には、外国からきた人が多くいる。この番組であつかったのは、ブラジルから来た日系人の人たち。他には、ベトナムとかインドネシアとかネパールとかから多くの人たちがきている。(このごろ問題になっている、川口市のクルド人とされる人たちもふくめて考えるべきことかもしれない。合法的な手続きを経て日本で暮らしているか、そうではないか、ということは確かに論点の一つにはちがいないが。)さらには、近年では、中国人による日本でのビジネスも視野にいれて考えないといけなくなってきている。

日本で暮らす外国ルーツの人たち。やはり言い方が難しい。「外国人」とも「外国籍の人たち」とも言いづらいところがある。現在の国籍の問題もあるが、実質的な問題としては、日本のなかに住む、外国からやってきた人たちとその家族、関係者、ということになる。

そのような人たちが、日本のなかで暮らすとき、二つの生き方があるはずである。

日本のなかにとけこんで、日本文化や生活習慣、ルールを尊重して、そのなかで生きていこうとする生き方。日本の側から見れば、同化ということになる。

そうではなくて、その人たちでコミュニティを作り、自分たちの生活文化や言語を保持しながら生きていこうとする生き方。

これは、日本だけに限らず、他の国においても問題になることのはずである。いわゆる反移民政策とか、不法移民対策、とかいわれるが、その背景には、上記のような考え方、生き方の問題があると思っていいだろう。

それに対して社会のマジョリティ側が、どう対応するか、これからの日本の、あるいは、世界の大きな課題であることは確かである。みんな仲よくすればいいという、いわゆるリベラル的な楽観論ではうまくいかないというのが、現実の社会のありようである。人間は、そう簡単に生活習慣や文化的な環境を捨てられない。それは、外国からの人たちを受け入れる側であっても、逆に、移民、労働者として新しく入ってくる人たちであっても、同様である。(アメリカにおけるヒスパニック系移民の人たちに、英語を勉強して話すようにしろというべきか、あるいは、スペイン語を使う権利を主張することになるのか、そう簡単ではないだろう。)

このアパートの場合、ことばの問題としては、日本語でコミュニケーションができ、普通に日本の社会のなかで働いて生活することのできる人たちということになるので、この点については、問題ない。いや、番組の準備段階として、このようなアパートを選んだということもあるかと思う。ポルトガル語のコミュニティのなかに、入っていくことは、困難が予想される。

子どもが何人か登場してきていた。中には日本の学校になじめない子どももいた。外国からやってきた、あるいは、そのような親を持って日本で生まれた子どもたちに、公教育として何ができるのか、ということは、喫緊の課題ではある。法的に国籍がどこになるかということもあるが、いわゆるアイデンティティの問題として、どこに帰属意識を持って育っていくことになるのだろうか。

番組のなかで映っていた限りでは、街にポルトガル語の表記は見当たらないようだった。街角の看板とか、行政からの広報とかである。(これも地域によっては、他言語表示が必要になるところもある。)

このアパートの人たちについていえば、ブラジル系ということで、一つのコミュニティを作っているようであり、同時に、日本の社会のなかに溶け込もうとしているようでもあり、その中間的なところかなという印象を持った。(だからこそ、このアパートが選ばれたのかと思って見ていたのだが。)

日本の社会が、外国人労働者を受け入れるという方向にむかってから、そのような人たちに対して、過酷であったという面は否定できない。しいていえば悪徳仲介業者の存在ということもある。また、雇用主によっては、労働に見合った給料や待遇となっていないところもあるかもしれない(番組の中では、そのような事例はなかったが。)

ひとつのアパートのなかで生活してみると、やはり普通の人間としての喜怒哀楽を持って生きている人たち、ということになる。当たり前の感想になるが、やはり、ここいらへんが、この種の番組としての落とし所かなと思う。

今の日本、これからの日本は、外国ルーツの人たちを隣人として受け入れていかなければなりたたないことは確かである。かつて、日本は、近代になって、中国や朝鮮半島から、多くの人たちがやってきて、その末裔が今も生活している(ことの経緯の善悪の判断を別にしてであるが。)また、日本からもアメリカや南米などに、多くの日本人が移民として渡り、その地で今のその人たちの子孫が生活している。このような、人の移動を総合的にふまえたうえでの、多文化共生論の可能性が考えられねばならないと思う。極端な排外主義は避けるべきだし、だからといって、人間はそんなに簡単に、生活文化の異なる人たちと、うまく共存できるものでもない。適切なコミュニケーションと行政のサポート、また、必要以上に干渉しない適切な距離の置き方が重要かと思う。少なくとも、このような人たちを敵とするような社会であってはならない。これは、お互いのために、である。

気になることしては、このアパートの住人がさらに年齢を重ねていったとき、その介護や医療について、誰がどうになうのかということがある。これこそ、まさに今考えるべきことであると思う。

コーラを大量に飲むのはいいとして、そのゴミの始末をきちんとしてくれればいいということになるだろうか。それから、最後に映っていたのはピアノだった。NHKの職員と、ブラジルからの出稼ぎ労働者の、社会的階層の違いを象徴するものであったと思う。

2024年9月17日記