こころの時代〜宗教・人生〜「ファンタジーに秘められた宗教 (1)『星の王子さま』」 ― 2026-05-08
2026年5月8日 當山日出夫
こころの時代〜宗教・人生〜「ファンタジーに秘められた宗教 (1)『星の王子さま』」
録画しておいたのをようやく見た。
やっぱり気になるのは、書誌。『星の王子さま』は、内藤濯の訳(岩波書店)でつけられた名前で、原題に忠実に訳すならば、「小さな王子」。また、テレビの画面に映っていたのは、英語版だった。オリジナルは、フランス語で書かれている。(こういうことは、今では常識的なことだから略したのか、言うほどのことではないと思ったのか、とは思うが、しかし、この作品の日本での受容ということを視野にいれるならば、無視してはいけないことだと思う。今では、日本語訳として、多くの訳本が出ている。)
それから、無粋なことを考えることになるのだが、サン=テグジュペリがアフリカの空を飛行機で飛んでいたとき、その下には、フランスの殖民地があった。こういうことにまったく触れないでいるというのも、どうかなと思うところがある。だからといって、サン=テグジュペリのことを悪く言うことにはならない。そういう時代に生きた人間であるということは、ふまえておくべきだろうと思う。(研究としては、フランスのヴィシー政権の時代に、どう考えていたかということになるはずだが。)
バラの花の言っていることばが、日本語訳では、いわゆる女ことばになっている。内藤濯訳をそのまま使ったということなのだろうが、はたして、バラの花が女性であるというのは、妥当なことなのだろうか。現代の日本語学としては、こういうことは大きな問題である。
さらにいえば、カトリックの一神教の宗教観の中で書かれた作品だろうと思うのだが、それを、無限定に、汎神論的なアニミズムに溶かし込んでしまうような話しの持っていきかたは、どうなのだろうか。若松英輔なら、こういうことはきちんと分かっているはずだが、鈴木大拙の『日本的霊性』をいきなり出してくるあたりは、無理があると、私は感じる。
プロセスが大事だというのは、そのとおりだとしても、それで、『一遍上人聖絵』が出てくる理由が分からない。これは、これでなければならない必然性はない。(むしろ、日本の美術史の流れの中における絵巻で、何をどう描いてきたのかという視点が重要である。プロセスを描きたいから絵巻という形式になったともいえようか。「~~絵巻」がたくさん現存している。)
ファンタジー作品に、宗教性を読むということはあっていい。だが、このとき、手続きとしては、作者がどういう意図で書いたのか(その時代や、歴史的背景、想定した読者など)ということと、それを、現代の日本のわれわれが読んで、何を感じることになるのか、これは、区別して論じる必要があるだろう。なんでもかんでも、宗教的なもの、霊的なものを、大風呂敷の中に包み込んでしまうような、語り方は私はあまり賛成できない。(まあ、だいたい、この番組は、こういう発想でつくってあることが多いのだが。宗教は、人間の社会にあって、対立の要因でもあるので、それを避けようとするなら、こうならざるをえないとしても、しかし、いささか欺瞞的であるということは、自覚しておくべきであろう。)
大切なものは目に見えない。これは、確かに至言である。それが、実際の世の中で、具体的に、どういうものに何を感じるかということで、人間は共感し合えるものなのだが、それが、ときとして、すれ違った場合には深刻な対立になりうる。それが、人間の歴史である。
三宅香帆が、ノイズが必要といっていた。これは、そのとおりである。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』については、ちょっと異論がないわけではないが、こういう視点はあってもよい。だが、この番組の作り方としては、この番組を見るような人にとって、その語る内容が、ノイズにならないような作り方をしているとも感じるところがある。(宗教について語ることは、場合によると、かなりのノイズになる。)
このように思ってはみるものの、宗教的なことについて語るとき、複数の人の対話という形式で作ってあるというのは、この番組の制作の見識であると私は思っている。(だが、対話という形をとることで、ことなる考え方や感じ方がノイズとなるとして、それを止揚するのではなく、中和してしまう方向になっているとは感じることであるが。)
2026年5月6日記
ハートネットTV「特集 罪を犯した障害者と向き合う 第1夜 刑務所が変わる」 ― 2026-05-08
2026年5月8日 當山日出夫
ハートネットTV「特集 罪を犯した障害者と向き合う 第1夜 刑務所が変わる」
基本的に、私は、何か犯罪を犯した場合、ペナルティがある……警察につかまり、裁判があり、有罪となったら場合によっては刑務所にはいる……のだが、それが終われば、一般の市民(あるいは、国民といってもいいかもしれないが)として、他の人と同等にあつかわれなければならない、このように思っている。
(この観点から、私は、性犯罪者についての、日本版DBSについては、職業選択の自由という基本的人権の制約にかかわることなので、きわめて慎重でなければならないと思っている。なお、日本国憲法のもとで、職業選択の自由が奪われているのは、天皇であることは、いうまでもない。思想信条の自由もない。日本国憲法は、天皇の基本的人権を認めていない。)
そして、刑務所というのは、犯罪についてペナルティの機関であるが、同時に、社会的な教育機関であるべき、ということもある。
社会の中に、知的障害のある人は、一定数は存在する。だから、そういう人が、犯罪にかかわることがあるとしても、これはこれで当然のことである。逆に、被害者になることもある。
こういう人の世としては当たり前のことを、確認することだと、私は思う。
番組の中では言っていなかったこととして、知的障害のある人が犯罪者になる、あるいは、被害者になる割合は、そうでない人と比べてどうなのか、気になる論点ではあるが、しかし、その割合がどうであろうと、同じようにあつかわれなければならないという原則が変わるわけではない。
2026年5月6日記
世界のドキュメンタリー「チョルノービリ 新たな証拠 KGB極秘資料が語る真実」 ― 2026-05-08
2026年5月8日 當山日出夫
世界のドキュメンタリー「チョルノービリ 新たな証拠 KGB極秘資料が語る真実」
2021、イギリス。
前編・後編と、録画しておいて、続けて見た。
世界のドキュメンタリーのシリーズは、おおむね制作されてから一年以内の番組がほとんどだと思って見ているのだが、この番組について、制作から5年後になる。チョルノービリ原発事故を扱った番組として、5年前のものを探し出してきたということなのだろうか。
2021年の番組なので、ロシアのウクライナ侵攻の前に作ったものである。原子力発電所も、戦闘地域となっている。今では、様子が変わっているだろう。映っていた昔のキエフ(キーウ)の街の風景が美しい。
KGBの資料が明るみになることによって、いろんなことが分かってきた。原子力発電所の危険性について、KGBも事前に把握していた。しかし、事故が起こってからは、その情報の統制にかかわることになる。これは、昔の、米ソの冷戦下の時代としては、こうなることかと思う。KGBとCIAの戦いは、熾烈であった。
見ていてよく分からないのが、この事故で、いったい何人の人間が亡くなったのかということ。事故が起こってすぐの消火活動で、消防士が二人死んだということはあった。それから、何人かの死者もあった。だが、最終的に、この事故の犠牲者の実態ということになると、どうもはっきりしないようである。
危険な高放射線量のエリアで作業をした人が、その影響があったことは確かだろうとは思うが、具体的に、その後の追跡調査がされているのだろうか。子どもの甲状腺がんのことが出てきていたが、これは、どういう検査をしてのことなのだろうか。
人間の立ち入りが禁止されている地域で、動植物について、特に変化が見られないというのは、そうかと思う。これは、詳細に継続調査が必要だと思うが。
立ち入り禁止区域に、とどまり続ける老人の姿があったが、これは、ウクライナだからできていることになるだろう。日本ではこういうことはできない。このような人も、2022年のロシアのウクライナ侵攻以降は、どうなったのだろうか。
2026年5月6日記
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