『論文の教室』を読む(1)2007-11-30

アカデミック・ライティングの授業を、はじめるにあたって、まず、困ったのが教科書。

毎回、A4で4ページ(A3で二つ折りにする)を、作って配布することを、原則としている。これは、他の授業でも、基本的に同じ。あるいは、短い場合は、A4で1枚(場合によっては、裏表の両面に印刷する。)

コンピュータの時代・・・になっても、ぜんぜん、ペーパーレスにはならない。

紙にプリントしたレジュメを配って、一方で、パワーポイント(これは、スクリーンにではなく、パソコン教室の各学生の前のディスプレイに表示される)を使って説明していく。観察していると、かなりの学生は、説明を聞きながら、くばったレジュメに、メモを書き込んだり、あるいは、重要と判断した箇所にマーカーで印をつけたりしている。

何が重要であるかは、学生それぞれの判断によってわかれるだろう。やはり、紙メディアで、プリント配布、というのは、教育的には意味のあることと思う。

ただ、大学が導入している、授業支援システム(WEB-CT)があるので、そこに、休んだ学生のため、ということで、PDFにしたものを、授業の後でアップロードしておく。

ところで、レジュメだけで授業をすすめるのは無理。何かテキストを指定しておく必要がある。

いろいろ候補はあるのだが、私が選んだのは、『論文の教室』(戸田山和久)。

木下是雄の本も考えてみた。確かに、『理科系の作文技術』(中公新書)、『レポートの組み立て方』(ちくま学芸文庫)なども、いい本である。

ただ、時代の流れというものがある。今の時代には、今の学生のための、論文の書き方の本が、ある。この意味において、『論文の教室』がふさわしいと判断した。

しかし・・・文学部の2回生対象の授業で使うには、すこし無理があったかもしれない。

このあたりの事情は、続けて書いていきたい。

戸田山和久(2002),『論文の教室―レポートから卒論まで―』(NHKブックス),日本放送出版協会

木下是雄(1994),『レポートの組み立て方』(ちくま学芸文庫),筑摩書房,(原著は、1990,筑摩書房)

木下是雄(1981),『理科系の作文技術』(中公新書),中央公論社

データベースはどう評価されるか2007-11-30

ある時、ある場所でのこと・・・COEを決める側の立場の人と同席したことがある。もう、次の年度には退官ということで、かなり自由にものを言う気分であったようだ。

いわく・・・COEの計画書を見ると、どれもこれも、データベースを作るというものばかりだ。近頃の若い研究者は、ろくな研究をしない。データベースばかり作っている。

さて、どう考えるべきか。私としては、内心、非常な複雑な気持ちで、このことばをきいた。

たしかに、半分は、あたっていると、思わざるをえない。現在、各研究分野で、データベースが、さかんに構築されつつあることは、確か。そして、まだ、それが、途上であることも、確か。

だが、一方で、こうも思う。

1. 若い研究者が、まさに、データベース構築に動員されて、現場での作業にあたっている。専門的なデータベースは、それなりの学識がないと作れない。そのため、業績となる論文を書くための時間がうばわれてしまう。データベースを作ったスタッフの一員というだけでは、業績として、高く評価されるということはない。

2. 現在では、ある程度の利用価値のあるデータベースは、いろいろと蓄積されている。だが、それを、本格的に使った研究が乏しいのも現状ではなかろうか。データベースの価値を決めるのは、それを使って専門の研究者が、どのような研究成果をあげられるか、である。どんなに充実したデータベースであっても、使う研究者がいなければ、評価の対象とならない。

3. さらには、次のようなこともある。たとえば、東京大学史料編纂所のデータベース。今、日本の歴史学研究者で、ここを利用しない人はいないだろう。ある意味、ここまでになってしまうと、作った人のことが、逆に、忘れ去られてしまう。

『日本国語大辞典』(小学館)は、いったい誰が実際の編集・執筆にたずさわったのか。どれほど知られているだろうか。『大漢和辞典』(大修館書店)は、一応、諸橋徹次、ということになっている。しかし、実際の編集に、自ら手をくだしてはいないことは、周知のこと。「データベース」が「工具書」として充実して利用価値が高まるほど、その実際の作成者は、忘れ去られていく。

理想をいえば・・・データベースを使った研究がどんどん発表されて、そして、それが同時に、データベースを作った人の評価にもつながる・・・このようになってほしい。