カラーでよみがえる映像の世紀「(5)世界は地獄を見た」2025-03-04

2025年3月4日 當山日出夫

カラーでよみがえる映像の世紀 (5)世界は地獄を見た 〜無差別爆撃、ホロコースト、原爆〜

以前にも書いたことだが、私は基本的には、こういうカラー化には反対である。その当時の技術として、モノクロ映像しか撮ることができなかったのなら、その技術で表現している範囲内で、記録としての価値を考えるべきである。原則的にこう思っている。

だが、この回の放送を見て、やはりカラー化することによって、より映像の説得力が増す、と感じたシーンがある。それは、神宮球場での学徒出陣の場面である。この学生たちのなかに、慶應義塾の学生もいたことは知識としては知っていたことなのだが、カラー化した映像で、慶應の旗(三色旗)を見ると、非常に印象深いものがある。

学徒出陣の映像は、これまでに何度も見ている。そのたびに感じることだが、雨の中の撮影、地面にできた水たまりに映る行進する学生たちの姿を撮った、カメラマンのセンスは、敬服に価する。映像として非常にいいし、それだけではなく、この場面の悲壮さが、確かに伝わってくる。

この回で、元々がカラーフィルムであったものがある。山荘でのヒトラーの姿である。エヴァ・ブラウンのプライベート・フィルムということであった。この場面は、その後、「映像の世紀」シリーズのなかで何度も目にする。

それから、太平洋戦争中の日本軍の特攻機についても、これも、一部はカラー映像で残っているはずである。この回の放送で使われていたかどうか、もし、使われていたなら、その旨はきちんとことわってあるべきかと思う。アメリカ軍が、日本の特攻の場面を、カラーフィルムで記録していたということ、それ自体が、非常に重要な意味を持つと、考えるからである。

アウシュビッツのシーンは、モノクロのままだった。これは、いたしかたないかと思う。地面に積み重なったユダヤ人の死体を、ブルドーザーで片づけている場面など、特にカラーで見たいと思うことはない。

第二次世界大戦の描き方としては、今から三〇年前なら、こういうものだろうと思って見ていたことになる。これが、今では、独ソ戦でも、様々な戦争の惨状を記録が残っているし、ただ、ヒトラーが悪であった、というだけの視点ではなく、多面的に見るようになっている。スターリンの時代にあった出来事を、かなりはっきりと描くようになってきている。

「映像の世紀」シリーズ全体を通じてだが、私が印象深く思っているのは、第二次世界大戦の終戦後、フランスでドイツ軍と懇意にしていた女性たちが、髪の毛を刈られて街頭で見せしめにされるシーン。おそらく、人間の愚かさ、というものをもっとも現している映像かと思っている。アウシュビッツのユダヤ人の死体の映像よりも、むしろ、こちらの方が、人間とはどういうものなのか、考えることになる。

2025年3月3日記

木村多江のいまさらですが「縄文時代〜DNA研究と考古学から見た最前線〜」2025-03-04

2025年3月4日 當山日出夫

木村多江の、いまさらですが 縄文時代〜DNA研究と考古学から見た最前線〜

たまたまテレビの番組表で見つけたので録画しておいて見た。

かなり手際よく、最新の研究成果をまとめていたと感じる。これが、NHKでも他の番組だったら、必要以上にドラマチックに盛り上げて、世紀の大発見だ、とでもしかねないところだが、そういうことはなかった。

ただ、やはり余計だなと感じたのは、岡本太郎のこと。岡本太郎を芸術家としては評価するが、しかし、彼が縄文時代について何を思ったかを、ここで持ち出すことはないだろう。

縄文時代に限らず、古代の人びとの精神面、文化面、あるいは、社会構造というようなことは、かなりの想像でなければ語ることができないことである。特に、宗教というようなことについては、私の考えでは、無理である。可能なこととしては、現在のいわゆる未開民族というような生活を残しているような人びとの暮らしから、文化人類学の知見を借りて、何か言えるかどうか、というぐらいのことだろう。それも、想像の域を出るものではない。

DNAから、いわゆる日本人の成り立ちを考えるという研究は、近年になって急速におこってきた学問である。基本的に、現在の人類(ホモ・サピエンス)については、DNAによる差違はまったくといっていいぐらいない。また、絶滅したネアンデルタール人のDNAも引き継いでいる。混雑したということは、分かっている。

だから、これを根拠に、「日本人」だとか「アーリア人」だとかいうことは意味のないことになる。「黒人」が劣っているとか、というような議論は無意味である、ということになる。

一方で、同じ論理で、「アイヌ人」の純粋さというような概念も、否定されることになる。(こういうことは、あまり言われないと思っているが。)

つまりは、「民族」とか「人種」とかという概念は、社会構成的なものである、ということになる。しかし、だから無意味である……とはならない、このあたりの議論が難しいところだろう。

「想像の共同体」ということを再確認することになる……こういうところに落ち着くのと思っている。これはある意味では虚構である。だが、その虚構は、人びとのものの感じ方や考え方を、強く規定するものである。そして、多くの人は、自分がどの「想像の共同体」に属することになるかを、自分の自由意志で選択することはできない。すくなくとも非常に困難である。いわば、宿命的なものとして受け入れざるをえない。人間とは、人間の社会とは、そういうものである。

この番組では、縄文時代について語っていたのだが、次の弥生時代、古墳時代、その後の時代にいたるまで、日本列島に住んできた「日本人」は、DNAの観点からは混雑した状態として今にいたっている。この事実をふまえて、では、「日本人」という歴史的な概念をどう構築していくのか、というのが歴史学の課題だろう。

素朴なDNA決定論でもなく、また、社会構築主義の肯定でもなく、人間とはどのようにして生きてきたものなのかを、ダイナミックに、また、多面的、総合的に、考えることが重要になってくる。

2025年2月25日記

「イゾラド アマゾン 未知の人々との”再会”」2025-03-04

2025年3月4日 當山日出夫

NHKのHPを探したが、この番組のことがヒットしない。とりあえずタイトルは、番組が始まったところで表示されたものにしておく。

NHKのイゾラドをあつかった番組は、これまでのものは見てきている。今年になって再放送があったので、録画しておいて見た。

過去の番組と比べてということになるが、今回のこの番組では、少し視点の置き方が変わってきている。

昔は、アマゾンの源流域の奥地に、こんな人びとがいる、という発見の驚きがメインであったと感じる。また、たまたま文明社会にやってきて、孤独になってしまった男性については、人間とは何かということを考えさせるところがあった。それとくらべると、今回の番組の作り方は、文明への批判、ということがかなり大きく扱われている。

イゾラドの人びとは、文明の側にいる人間を敵視している。それは、悪徳業者によるアマゾンの森林の伐採が原因であると考えられる。できれば、イゾラドの人びとは、今のままで平穏にアマゾンの森の中で暮らしていってほしい。文明の側とは、なんとかして共存できるだけの距離をたもって存在してほしい。・・・このようなメッセージが伝わってくる。

これは、この間の、人間社会の文明というものついての考え方が、変わってきたということもあるにちがいない。文明の側にいるわれわれは、もはや、昔の生活にもどることはできない。アマゾンの奥地であっても、人びとが暮らすには、スマホが必要という時代に生きている。しかし、だからといって、イゾラドの人びとを、無理に文明の方にひきずりこむことはしない。彼らには彼らの生き方があるのであり、それを尊重しなければならない。こんなふうに考え方が、微妙に変化してきていると感じる。

ところで、この番組を見ながら思ったことであるが……むかし、数百年前、西欧人がこの地にやってきて、先住民の人びとに始めて接したとき、どのように感じたのであろうか。同じ人間であり、文化があり、言語があり、という視点では、おそらく見てはいなかっただろう、ということは推測できる。その後、疫病による大量死もあるし、また、虐殺もあった。さらには、奴隷として使われることもあった。

はたして、昔の西欧人は、どんなふうに先住民の人たちのことを思ったのか。調べれば、記録、史料、研究書などは、あるのだろうが、どうだったのだろうか、というのは、気になったところである。

2025年2月26日記

偉人の年収「小篠綾子」2025-03-05

2025年3月5日 當山日出夫

偉人の年収 How much ? 小篠綾子

言うまでもないが、小篠綾子は、『カーネーション』の小原糸子のモデルである。

見ていて、なるほど、ドラマはかなり事実に即して作ってある、ということが理解できる。パッチ屋での仕事も、看護婦さんの制服も、立体裁断も、史実である。(まあ、逆に、この番組を見る人の多くは、朝ドラを見ているだろうから、それに合わせてあるという部分もあるかと思うが。)

七〇歳をすぎてから、高齢者向けのファッションとして独自ブランドを立ち上げるというのは、史実としてそのとおりだとはいえ、やはりそこには、生涯、ファッションの世界のクリエイターでありつづけたい、という強い熱意があってのことであろう。九〇歳になっても、毎週のように講演会に出ていたというのも、これはすごいと思う。

面白かったのは、「ピアノ買うて」の紙が家中にあったのが、実話だということ。

人間、歳をとってどのように生きるのかと、いろいろと考えることになるが、このように生きるのも一つのあり方だとは思う。(でも、はっきり言って、私は、真似しようとは思わない。引退すべきときには退いて、ゆっくりと時間をすごしたいと思っている。)

歴史上の人物をモデルにドラマを作るとき、史実に忠実に作る、そして、その時代のなかで生きた人間の気持ち、喜怒哀楽を、時代の背景のなかで描く、それこそが普遍的な人間のドラマとなる……この基本を守ったのが、『カーネーション』が傑作となった理由だと思うことにもなった。

2025年3月5日記

BS世界のドキュメンタリー「亡き人と話せたら AIがひらく危うい世界」2025-03-05

2025年3月5日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「亡き人と話せたら AIがひらく危うい世界」

2024年、ドイツの制作。

AIをめぐっては、いろいろと本もあるし、テレビ番組もある。まあ、NHKが作ると、多くの場合、東京大学の松尾豊が登場して、AIの明るい未来について語ることが多いのではあるが。

この番組をAIの問題として見ることもできるが、その一方で、人間の側に視点をおいて、人間とはこういうもの……人間は人の死というものをどうやってうけいれるのか……と考えることもできるだろう。少なくとも、AIの登場によって、人間の死生観に変容を迫られるということは、確実にあるにちがいない。

これは、AIが死んだ人間の代わりに出てくる、というよりも、人間の側として、そのようなAIのふるまい(チャットであったり、仮想空間であったり)に対して、あたかも、本物の人間(死んだ人)がいるかのように感じてしまう、その人間の感性のあり方とか、考え方の問題として、とらえることもできるかと思う。

この番組で出てきたようなことは、今のAI技術なら、そう難しいことではないはずである。

AIの最大の問題点の一つは、その内部で何がどうなっているのか、開発した技術者でも分からないことが起きている、ということにある。つまり、人間が、AIをコントロールすることが出来ていないのである。これは、もし、AIが暴走したらどうなるか、この危険性をうったえる人は多い。

人間を模してチャットで答えてくれるAIについては、肯定的にとらえるむきもある。AIとことばのやりとりをすることによって、自分の考えていることが、徐々に形づくられて具体化していくということがある。こういう報告もある。これを、良く考えれば、自分の感情やアイデアの言語化を手助けしてくれるということになる。しかし、その一方で、人間がAIに感情や思考を操られてしまう、ということにもなる。

もしAIに人間の脳のすべてを移すことが出来たとしたら、いったい何が起こることになるのだろうか。これは、もはやSF的な空想のことではなく、現実の問題として考えなければならない課題になってきている。このとき、人間の無意識(フロイトの語った)は、どのように再定義されることになるだろうか。これを、サイエンスの方法論で、説明しきることが可能になるだろうか。

人間というものは死ぬものであり、その人が生きている間のことを憶えている人も、いずれ死んでいく。その次の世代も同様である。このようにして、世代を重ねて、人間の文化というものが形成されてきた。今の自分のあるのも、過去からの多くの人びとの死の積み重ねのうえにある。だからこそ、これからの未來の世代に対しても責任がある。そのようなものとして死んでいかねばならない。

これまでは、基本的にこのような考え方のもとに、世界のいろんな文化が継承されてきたはずである。その根本的なところが、これから大きく変わっていくことになるのだろうか。

ところで、この番組で、はじめて、シェリー・タークルの顔を見た。その著書(翻訳)はいくつか読んでいる。こういう問題を考えるには、適任の一人だと思う。

2025年3月2日記

映像の世紀バタフライエフェクト「死の大地 ドイツ敗走の2200キロ」2025-03-05

2025年3月5日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 死の大地 ドイツ敗走の2200キロ

ここ数年で流れが変わってきたと感じる。おそらく一〇年前だったら、独ソ戦のことをこのような視点で描くことはなかっただろう。変化のきっかけにになったのは、やはり、『独ソ戦』(大木毅、岩波新書)の存在が大きいかと、思うところがある。それに加えて、ロシアとウクライナの戦争で、かつてのヨーロッパでの戦争の記憶がよみがえったということもある。プーチンに、スターリンを重ねてイメージするというところが、(少なくとも日本での報道などを見ていると)感じるところがある。むろん、ロシアにおける、スターリン時代の再評価ということもあるのだろうが。

これまでだったら、とにかく、ヒトラーが悪かった、ということを語っておけば番組が作れた。しかし、ウクライナでの戦争を契機にして、かつてのヨーロッパからソ連にかけての地域で、どんな戦いがおこなわれていたのか、それは、それ以前のどのような歴史的背景があってのことなのか、そして、その後、現在にいたるまでどんな影響を残しているのか……人びとの歴史の記憶、民族の記憶(とでも言っておくことになるが)が、そう簡単に正邪善悪で語れるものではない、ということが確認されてきたということなのかと思う。

独ソ戦、スターリングラード攻防戦、その戦場は悲惨で残酷なものだったことは、映像の語るとおりなのだが、このときに思っておくべきこととしては、そこに映っている兵士(ドイツ軍であれ、ソ連軍であれ)は、もし戦争ということがなければ、平穏な市民生活をおくっていた人びとだったろうということである。そして、戦争が終われば、まさに鬼畜としかいいようのない、ドイツ兵も、ソ連兵も、普通の生活にもどっていったにちがいないということである。

歴史のなかに、ヒトラーが出てきて、スターリンが出てきて、様々な民族と国家の歴史が錯綜するなかでこうなったのだろう……やや、無責任な言い方になるかもしれないが、覚めた目で見てみるならば、こうとしか言いようがないかもしれない。このような人びとの感情、強いていえば民族の怨念、というべきものを、現在の国民国家の制度の枠組みのなかで、どうコントロールしていくかということが、為政者にとっての課題ということになると、今の私としては思っている。

プーチンやゼレンスキーの考えていることとは別に、ロシアやウクライナの人びとが、さらに、そのなかでも地域や階層によって、あるいは民族によって、どのような歴史の心情のもとに生きているのか、これは落ち着いて考えるべきことのように思う。

と同時に、今、行われている戦闘や残虐行為に対して、とにかくストップをかけることも、必要である。特に、ウクライナに限らず、イスラエルでも、ミャンマーでも、そうであるべきだと思う。(だからといって、侵略者が勝利する形にしてはならない、というジレンマもあるのだが。)

2025年3月4日記

所さん!事件ですよ「アジアで争奪戦!?“リユース”最新事情」2025-03-05

2025年3月5日 當山日出夫

所さん!事件ですよ アジアで争奪戦!?“リユース”最新事情

テレビのHDに残っていたのを、ようやく見た。

このごろ日本で遺品整理などの業者のことが、テレビ番組などでとりあげられることが多い。多くは、その仕事の様子についての取材である。整理して引き取った品物が、その後、どうなるのかということについて、追跡した番組はあまりなかったと思う。

タイで、日本からのリユース品(中古品)が、非常に人気があるというのは、とても興味深い。あんなものまで、日本の中古品を買って使うのかと驚く。仏壇まで、輸出するというも、需要があればこそなのだろう。

その品物を送り出す日本の業者についても、紹介していた。興味深かったのは、着物の簞笥が、海外では利用価値が無いので、木材としてリサイクルしかない、というのは、そういうものなのかと思う。

コンテナにいっぱいの中古品が、たくさん、日本からタイに送られている。それをタイで、さらに転売する。その手法として、オンラインのリアルタイムでの販売がさかんとのこと。(こういう商売のあり方は、日本では、どうなのだろう。私が興味ないだけで、一部ではおこなわれているのかとも思うが。ただ、中古品の売買は日本では誰でもできる訳ではないはずだが、どうなのだろうか。)

日本の場合の特殊性なのだろう、人形、特にひな人形については、なかなか簡単に手放すことができない。だからこそ、日本のいろんなところで、人形供養というようなことがある。同じようなことは、古い写真についてもある。

デジタル遺産については、私自身は、もうどうでもいいと思っている。書いた論文などは、しかるべきところで刊行され、図書館などに入っている。暗号資産を持っているわけでもない。また、日々に書いているこのような文章は、いずれ消えて無くなればいいと思っている。まあ、大量にあるのは、本であるが、これは、専門書のあつかいを専門する古本屋が、どうにかしてくれればいいだろう。国立国会図書館のサービスがあるとしても、実物の紙の本の専門書の需要は、あり続けるだろうとは思っている。

2025年2月28日記

天然素材NHK「価値観えれじい【昭和の会社員・奮闘の記録】」2025-03-06

2025年3月6日 當山日出夫

天然素材NHK 価値観えれじい【昭和の会社員・奮闘の記録】

たまたま番組表で目にとまったので録画しておいて見た。

まあ、この番組を見るような人が、そもそもかなりの年配者ということは、想像できる。番組の始まりでBGMに使ってあったのは、「赤色エレジー」(あがた森魚)であった。今の若い人は、こんな歌は絶対に知らないだろう。(一〇年以上も前になるだろうか、大学で教えていたとき、PC教室だったが、早めに行って鍵を開けて学生が来るのを待っている間、YouTubeで「赤色エレジー」を聞いていたことがある。無論、学生は、何の歌であるか知ってはいなかった。)

ジーンズを普通に着るようになったところから、世代の違いということを言っていた。ふりかえれば、身につけるもの、ファッションは、いつの時代であっても世代を象徴するものである。私は、ジーンズは着ない主義である。単なる好みというよりも、これが流行りだした時代を記憶していると、そこにふくまれる、世代への抵抗の気持ちというものを感じてしまう。それが嫌いというわけではないのだが、時流の流される若者の気持ちを象徴しているようで、いまだに嫌なのである。時流は理解するが、自分はそれに流されたくはないと思って生きてきている。

昭和の時代の、会社員、サラリーマンとはあんなものだったなあ、と思い出すことになる。私は、会社勤めという経験がないのだが、同世代の人間は、それなりにいろんな苦労があったものである。忘年会の隠し芸などとは縁のない生活だったが、しかし、そういう時代があったことを思い出す。

興味深かったのは、運動会屋というビジネス。会社の運動会があれば、それをビジネスにするというのも、世の中である。これは、今でも、なにか企業や自治体のイベント開催の仕事として、いろんな需要がある分野にちがいない。

パソコン、というよりも、オフィス・コンピュータと言った方がいいだろうか。まだ、PCで漢字が使えなかった時代のものである。プログラムの記録媒体は、カセットテープだった。これは、パソコンの時代になって、フロッピーディスクが普及するようになってからも、しばらくは、カセットテープが使われていた。今の若い人がフロッピディスクを知らないのは当然だろうが、その前の、カセットテープの時代など想像もできないだろう。(しばらく前のことになるが、情報処理を専門にする大学院生が、8インチのフロッピーディスク、というものを見て、始めて見ました、と言っていたのが印象的であった。)

いろいろ思うことはあるのだが、一つの時代の記録として、こういう番組の映像は残しておくべきだろうと思う。

2025年3月4日記

アナザーストーリーズ「2兆円を借りた“女相場師”」2025-03-06

2025年3月6日 當山日出夫

アナザーストーリーズ 2兆円を借りた“女相場師”

この事件のことは、なんとなく憶えているぐらいである。バブルの時代、こんな人間がいてもおかしいと思わなかった。今から考えれば、こういう感覚こそ、どこかおかしかったことになるのだが。

バブル景気の時代に、日本中がどれだけ変だったかを象徴するような事件かなと思う。

いったい尾上縫という女性は、あんなに多額の金をどうやって使ったのだろうか。いや、使ったのではなく、ただ動かしていただけだったというのが実態かもしれないのだが、お金をかせいで大富豪になろうとした、というわけではなかったようである。まあ、不思議な事件であったというしかないのかもしれない。

金を貸した側の責任、これは重要ポイントになるだろう。合法的であれば、何をしてもいいというわけではない。経済のことについても、こういう視点は必要であるにちがいない。

とはいえ、その当時の興銀の担当者が責任を問われたとしても、この時代の雰囲気としてはどうしようもなかった、時代の波のなかでそう行動したということになるだろう。番組では言っていなかったが、訴訟は、興銀の銀行としての責任を問うたことになる、こういう理解でいいのだろうか。企業のかかわる事件だと、特定の現場責任者とか経営責任者の個人の責任を追及するということが多いが、この場合は、どうだったのだろうか。

お金は、集まるところに集まる。そして、それを目当てに人や企業が群がる、このあり方自体は、今も変わってはいないのかもしれないかと思うが。

2025年2月25日記

ドキュメント72時間「奥能登・珠洲 海辺の銭湯」2025-03-06

2025年3月6日 當山日出夫

ドキュメント72時間

こういう放送を見ると、たしかに感動的だなあ、と思う。そう思う人がいることは否定しないのだけれども、ここはちょっと冷静に考えてみたいこともある。

この銭湯は、地下水を使っている。だから、電気でモーターが動くなら水は大丈夫ということであり、水道代はかからないのだろう。また、燃料に薪をつかっている。この地域なら、山から薪の調達はできるだろうし、また、現在では、解体した家屋の廃材が利用できる。燃料代も安くあげることが可能、ということになるかもしれない。

全国で、銭湯か廃業するのは、利用者の減少、それから、維持コスト(水道代、燃料代の高騰)ということがあるかと思う。

珠洲市の場合、人口は減ったとしても、仮設住宅に一定数の人が住んでいて、その仮設住宅に風呂がなければ、ここに来ることになる。また、解体作業などの仕事をしている人たちの需要もある。

総合的に考えて、この銭湯の営業は継続しているということになる。また、続いてもらわなければ困るので、自治体としても、住民の利用料金を補助している。

この状態がいつまで続くことになるのか。そして、珠洲市の復興はどうなるのか、希望を持って語るべきなのか、あるいは、現実的な判断をせまられるのか、立場として別れるかもしれない。

珠洲市に解体の仕事としてやって来る人たちには、それぞれに、いろんな事情があってのことだろうと、推測することになる。想像すれば、いろいろと感動的な物語があることだろう。(この意味では、この回の放送は、見る人に感銘を与えるものになっている。)

番組のなかで何人か、移住して珠洲市に住民票を移したという人がいた。こういう人もいるにはちがいないが、一方で、やはりこの地域は、少子高齢化、過疎化、という大きな流れは止められない、また、震災や水害などで、その流れは加速している、このような現実は確かにあるとは思う。

珠洲市を地方における中核的なタウンとして、地域全体を、再整備する計画はあるにちがいないが(その中には、廃棄される村落もふくむ)……たぶん、県としては作っているはずだと思うが、具体的に提示できないでいるだけのことかもしれない。街を再整備するとなると、道路の整備が必要になり、周辺の土地の所有者の同意が必要になる。つまり、地権者がはっきりしている間に計画を作成し、手をつけなければ、その後の仕事はうまくいかないということになる。これが、もうどうしようもなくなるまで……人口が減少するにまかせたままで、それから動こうとしても遅い。はっきり言えば、土地の地権者が生きている間、つまり今、でなければならない。冷酷かもしれないが、これが現実だろう。

そして最後に思うこととしては、人間は生きていくために、気持ちのゆとり、ちょっとした贅沢、というものが必要である、ということである。生存に必要な衣食や住居があるだけでは、人間は生きていくことはできない。楽しく生きていかなければならない。そのために役立つことは、このような銭湯であるかもしれない。これは、残していかなければならないものである。

2025年3月1日記