ブラタモリ「東京・青山通り▼江戸の街道がルーツ?皇居から赤坂へ!大名屋敷」2025-06-17

2025年6月17日 當山日出夫

ブラタモリ 東京・青山通り▼江戸の街道がルーツ?皇居から赤坂へ!大名屋敷

私が、青山通りと聞いて思いうかぶのは、「楡脳病院」である。北杜夫の『楡家の人びと』である。

皇居のお堀端からスタートである。三宅坂というと、今では、最高裁判所のあるところであり、そして、その隣に国立劇場のあるところ、というイメージでいるのだが、国立劇場は、いったいどうなってしまうのだろうか。ここでの文楽公演は、学生のころ、かなり通って見た。むかしは、三宅坂というと陸軍であった。

東京の町に、大名屋敷の門が三箇所しか残っていない。明治以降にとりこわされたり、関東大震災や太平洋戦争のときの空襲で焼けてしまったり、ということだろうか。この意味では、東京大学の赤門は貴重であり、昔の前田家の屋敷の跡がキャンパスになっている。当然、掘ればなにがしか出てくる。

青山通りが、昔の大山街道だったというのは、そうなのだろうが、江戸時代に多くの人たちが生活していた下町エリアから、どういうルートでこの大山街道に向かうことになったのか、これも興味がある。

江戸や東京の歴史に詳しい人なら知っているだろうが、大名屋敷というのは、明治になってどうなってしまったのだろうか。また、江戸時代まで、江戸にあった藩の江戸屋敷で勤めていた人たち(狭義の武士にかぎらず、周辺の人びとをふくめて)は、いったいどうなったのだろうか。私としては、こういうことの方が気になる。

この回でも坂が出てきていた。東京の町は坂が多いので、そこで荷車を押す仕事が、最下級の労働として、たちんぼ、と言われていたはずだが、今では、別の意味で使うようになっている。

牛鳴坂という坂の名前が残っているということは、物資の輸送に牛が使われたということなのだろう。

石垣など、今の東京にも江戸時代から残っているものがたくさんある。若くて東京に住んでいるのだったら、こういうところをめぐってみたいと思うのだが、もうその元気もない。

この続きは、BKでは、変則的に28日ということらしい。

2025年6月16日記

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