BS世界のドキュメンタリー「アメリカ “出産ツーリズム”の現実」 ― 2025-07-10
2025年7月10日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「アメリカ “出産ツーリズム”の現実」
2023年、アメリカの制作。
見ていて今一つよく分からなかったのは、なぜ、中国の人はアメリカ国籍を欲しがるのだろうか。その理由を語ることがなかった。
アメリカにまでわたって出産しようということは、かなりのお金持ちの人の考えることだとは思うのだが、今の中国の富裕層にとって、共産党の政権について、実のところはどう思っているのだろうか。(このことについて、正直に語ってしまうと、中国に帰ってからの生活が、決して比喩ではなく危険ということもあるかと思うが。)
生まれた子どもが大きくなるまで、中国の共産党政権の支配が続くことを願っているのだろうか。少なくとも、社会的な安定は望んでいるだろう。もし、崩壊して国がメチャメチャになった場合、アメリカ国籍があれば、なんとかなるかと思っているのかもしれない。はたしてどうだろうか。
番組の中で出てきた金額は、おそらく日本で普通に出産する場合と比べて、10倍以上の金額になるはずである。いや、もっとかかっているだろう。こういうことが出来るというのは、かなりのお金持ちということになる。
中国からやってきた妊婦が、白人の医者をのぞみ、台湾人を露骨に侮辱していたのは、見ていて、そういうものなのだろうと思ったところである。(今の日本の価値観であれば、明白に差別意識の丸出しである。)
アメリカの国籍の出生地主義は、変わるかもしれない。しかし、中国の富裕層がアメリカにあこがれるということは、やむことはないかと思われるが、このあたりの事情はどうなのだろうか。
2025年7月9日記
BS世界のドキュメンタリー 「アメリカ “出産ツーリズム”の現実」
2023年、アメリカの制作。
見ていて今一つよく分からなかったのは、なぜ、中国の人はアメリカ国籍を欲しがるのだろうか。その理由を語ることがなかった。
アメリカにまでわたって出産しようということは、かなりのお金持ちの人の考えることだとは思うのだが、今の中国の富裕層にとって、共産党の政権について、実のところはどう思っているのだろうか。(このことについて、正直に語ってしまうと、中国に帰ってからの生活が、決して比喩ではなく危険ということもあるかと思うが。)
生まれた子どもが大きくなるまで、中国の共産党政権の支配が続くことを願っているのだろうか。少なくとも、社会的な安定は望んでいるだろう。もし、崩壊して国がメチャメチャになった場合、アメリカ国籍があれば、なんとかなるかと思っているのかもしれない。はたしてどうだろうか。
番組の中で出てきた金額は、おそらく日本で普通に出産する場合と比べて、10倍以上の金額になるはずである。いや、もっとかかっているだろう。こういうことが出来るというのは、かなりのお金持ちということになる。
中国からやってきた妊婦が、白人の医者をのぞみ、台湾人を露骨に侮辱していたのは、見ていて、そういうものなのだろうと思ったところである。(今の日本の価値観であれば、明白に差別意識の丸出しである。)
アメリカの国籍の出生地主義は、変わるかもしれない。しかし、中国の富裕層がアメリカにあこがれるということは、やむことはないかと思われるが、このあたりの事情はどうなのだろうか。
2025年7月9日記
ダークサイドミステリー「世界の怪鳥・聖鳥伝説を追え!〜ヤタガラスから翼竜生存説まで〜」 ― 2025-07-10
2025年7月10日 當山日出夫
ダークサイドミステリー 世界の怪鳥・聖鳥伝説を追え!〜ヤタガラスから翼竜生存説まで〜
再放送である。最初は、2024年4月2日。
鳥にかんするいろんな話題で構成した回である。
樋口広芳さんが出ていた。日本を代表する鳥の研究者といっていいはずである。書いた一般的な本のいくつかは読んだことがあるのだが、まさに、鳥の研究をするために生まれてきたような人だという印象がある。世の中の学者のなかには、その研究をするために生まれてきたという感じの人がいるものだが、その一人と思っている。
ヒッチコックの『鳥』のシーンから始まっていた。これは、少し前にNHKで放送したのを録画しておいて、まだHDに残っている。この映画で、私が一番印象に残っているのは、公園のジャングルジムの場面である。なにげない映像なのだが、たくみな演出と編集で、怖さを感じる。
古代からの神話などで、鳥、という生きものがいろんな場面で活躍しているのは、たしかなことである。やはり人間は、空を飛ぶということに、なにかしら神秘的なものを感じてきたのだろうと思うことになる。
私の知る範囲だと、日本語学の分野においては、鳥の鳴き声のオノマトペが面白い研究課題である。このことについては、山口仲美先生が第一人者である。
『古事記』『日本書紀』に八咫烏が出てくるが、足が三本とは記されていない。三本の足の八咫烏が、その後、どのように日本のなかで伝承として伝えられてきたのか、これはこれとして、興味深い研究テーマである。(きっと研究されていることであるにちがいないが。)
カラスはとても賢い。我が家の近くにもカラスはいっぱいいる。朝、暗いうちに起きると、今の季節だと、聞こえてくるのは、ホトトギスかさもなくばカラスである。池の鯉にエサをやりにいくと、待ち構えていて、鯉のエサを盗もうとする。だから、できるだけカラスがクチバシをのばしてもとどかないようなところに、エサを投げるようにしている。
世界の神話で、カラスにまつわるものが多いのは、その賢さもあるだろうし、黒い色ということもあるのかもしれない。さて、カラスは、なぜ黒くなるように進化してきたのだろうか。体が黒いことのメリットは何なのだろうか。
番組の中では言っていなかったが、どうしても気になるのは、どうして、(恐竜から)鳥は飛ぶように進化したのか、それでも、飛ぶことをやめた鳥(ダチョウのように)もいるのはなぜか、哺乳類でもコウモリのように飛ぶようになったものがいるのはなぜか、渡り鳥が長距離を移動するのはなぜか……というようなことである。
それにしても、プテラノドンの形をした模型飛行機を作って飛ばすというのは、面白いことかもしれないが、勘違いする人もいることを考えると、どうなのだろうか。個人の趣味としては、別に悪いことではないだろうが。勘違いする方が、馬鹿だったといわれればそれまでである。
番組では言っていなかったことだが、近年、スズメが減少しているということは気になる。昔は、京都の町でも、スズメ焼きを売っていたのだが、今はどうなっているのだろうか。
アメリカの創造博物館はとても面白い。進化論を信じる、信じない、これは個人の自由だと思うが、博物館まで作るということは、よほど強固に進化論を否定していることになるだろう。さらには、世界のいろんな国や地域で、進化論が一般の人たちにどのように受けとめられているのか、文化や社会との関連でどうなのか、これは面白い課題であると思う。
2025年7月6日記
ダークサイドミステリー 世界の怪鳥・聖鳥伝説を追え!〜ヤタガラスから翼竜生存説まで〜
再放送である。最初は、2024年4月2日。
鳥にかんするいろんな話題で構成した回である。
樋口広芳さんが出ていた。日本を代表する鳥の研究者といっていいはずである。書いた一般的な本のいくつかは読んだことがあるのだが、まさに、鳥の研究をするために生まれてきたような人だという印象がある。世の中の学者のなかには、その研究をするために生まれてきたという感じの人がいるものだが、その一人と思っている。
ヒッチコックの『鳥』のシーンから始まっていた。これは、少し前にNHKで放送したのを録画しておいて、まだHDに残っている。この映画で、私が一番印象に残っているのは、公園のジャングルジムの場面である。なにげない映像なのだが、たくみな演出と編集で、怖さを感じる。
古代からの神話などで、鳥、という生きものがいろんな場面で活躍しているのは、たしかなことである。やはり人間は、空を飛ぶということに、なにかしら神秘的なものを感じてきたのだろうと思うことになる。
私の知る範囲だと、日本語学の分野においては、鳥の鳴き声のオノマトペが面白い研究課題である。このことについては、山口仲美先生が第一人者である。
『古事記』『日本書紀』に八咫烏が出てくるが、足が三本とは記されていない。三本の足の八咫烏が、その後、どのように日本のなかで伝承として伝えられてきたのか、これはこれとして、興味深い研究テーマである。(きっと研究されていることであるにちがいないが。)
カラスはとても賢い。我が家の近くにもカラスはいっぱいいる。朝、暗いうちに起きると、今の季節だと、聞こえてくるのは、ホトトギスかさもなくばカラスである。池の鯉にエサをやりにいくと、待ち構えていて、鯉のエサを盗もうとする。だから、できるだけカラスがクチバシをのばしてもとどかないようなところに、エサを投げるようにしている。
世界の神話で、カラスにまつわるものが多いのは、その賢さもあるだろうし、黒い色ということもあるのかもしれない。さて、カラスは、なぜ黒くなるように進化してきたのだろうか。体が黒いことのメリットは何なのだろうか。
番組の中では言っていなかったが、どうしても気になるのは、どうして、(恐竜から)鳥は飛ぶように進化したのか、それでも、飛ぶことをやめた鳥(ダチョウのように)もいるのはなぜか、哺乳類でもコウモリのように飛ぶようになったものがいるのはなぜか、渡り鳥が長距離を移動するのはなぜか……というようなことである。
それにしても、プテラノドンの形をした模型飛行機を作って飛ばすというのは、面白いことかもしれないが、勘違いする人もいることを考えると、どうなのだろうか。個人の趣味としては、別に悪いことではないだろうが。勘違いする方が、馬鹿だったといわれればそれまでである。
番組では言っていなかったことだが、近年、スズメが減少しているということは気になる。昔は、京都の町でも、スズメ焼きを売っていたのだが、今はどうなっているのだろうか。
アメリカの創造博物館はとても面白い。進化論を信じる、信じない、これは個人の自由だと思うが、博物館まで作るということは、よほど強固に進化論を否定していることになるだろう。さらには、世界のいろんな国や地域で、進化論が一般の人たちにどのように受けとめられているのか、文化や社会との関連でどうなのか、これは面白い課題であると思う。
2025年7月6日記
ドキュメント72時間「新宿駅前 ライオン像の募金箱」 ― 2025-07-09
2025年7月9日 當山日出夫
ドキュメント72時間 新宿駅前 ライオン像の募金箱
最後に新宿に行ったのは、いったいいつのことになるだろうか。COVID-19のはやる前、ある研究会で行ったが、会場は西の方であった。新宿駅の東口方面には、もうかなり長い間、行っていないと思う。もし行っていたとしても、このライオンには気がついていないかもしれない。
ライオンズクラブの設置した募金箱だから、ライオンの形をしている、とても分かりやすい。しかし、募金箱であることを知らずに通り過ぎる人の方が圧倒的に多いようである。
見ていて思ったことは、1円を寄付しても、それを使おうとすると、銀行で両替の手数料がかかるので、ほとんど寄付として意味がない、これはいたしかたないが、今の事実である。あまり知られていないことかもしれないが。
募金箱に寄付する人ということで企画してあるのだが、それでも、やはり新宿ということもあって、いろんな人がいるものだと感じる。(田舎の路傍の野菜の無人販売所とはちがう。)
大学院生が、寄付をしても、それがどう使われるかわからないのでしない、と言っていたけれど、ライオンの横のQRコードを読みとって調べて、これはまともに使われていそうだから寄付する、というのは、確かに賢明ではある。たいていは、どうつかわれるかということは、あまり考えずに寄付することが多い。
ただ、一般的な言い方になるが、寄付したお金が直接、困っている人のもとにとどくだけが寄付の意味ではない。そのような活動をしている組織をささえる、という面もある。助ける人を助ける、という視点である。
そうはいっても、実際には、本当に現地の困っている人のもとにとどくのは、かなり減少する、国内的にも、国際的にも……これは、いろんなケースがあるけれど……ことは、たしかなことだとは思うのであるが。
ライオンを拝んでいる人がいるが、寄付ということは、寺社などでのお賽銭に近い感覚があるのかと思う。こう感じることは、別に悪いことではない。
就職氷河期世代である人は、同情すべきところもあると思う一方で、占い師というのは、はっきりいって、なんとなくうさんくさい。
深夜になって終電をのがして、ライオンのところに未成年が座って夜を明かす、というのも新宿ならではのことだろう。それで、特に非行として悪いことをするのでなければ、いいとしなければならない。
若い人が、将来の夢はと聞かれて、ネイリストとこたえるのは、なんだか定番化していると感じるのだが、どうなのだろうか。
何回も映っていたが、深夜に寄付のお金をいれて立ち去っていく男性は、いったい何者なのだろうか、ちょっと気になるのだが、正体不明のままでもいいかなと思う。
2025年7月5日記
ドキュメント72時間 新宿駅前 ライオン像の募金箱
最後に新宿に行ったのは、いったいいつのことになるだろうか。COVID-19のはやる前、ある研究会で行ったが、会場は西の方であった。新宿駅の東口方面には、もうかなり長い間、行っていないと思う。もし行っていたとしても、このライオンには気がついていないかもしれない。
ライオンズクラブの設置した募金箱だから、ライオンの形をしている、とても分かりやすい。しかし、募金箱であることを知らずに通り過ぎる人の方が圧倒的に多いようである。
見ていて思ったことは、1円を寄付しても、それを使おうとすると、銀行で両替の手数料がかかるので、ほとんど寄付として意味がない、これはいたしかたないが、今の事実である。あまり知られていないことかもしれないが。
募金箱に寄付する人ということで企画してあるのだが、それでも、やはり新宿ということもあって、いろんな人がいるものだと感じる。(田舎の路傍の野菜の無人販売所とはちがう。)
大学院生が、寄付をしても、それがどう使われるかわからないのでしない、と言っていたけれど、ライオンの横のQRコードを読みとって調べて、これはまともに使われていそうだから寄付する、というのは、確かに賢明ではある。たいていは、どうつかわれるかということは、あまり考えずに寄付することが多い。
ただ、一般的な言い方になるが、寄付したお金が直接、困っている人のもとにとどくだけが寄付の意味ではない。そのような活動をしている組織をささえる、という面もある。助ける人を助ける、という視点である。
そうはいっても、実際には、本当に現地の困っている人のもとにとどくのは、かなり減少する、国内的にも、国際的にも……これは、いろんなケースがあるけれど……ことは、たしかなことだとは思うのであるが。
ライオンを拝んでいる人がいるが、寄付ということは、寺社などでのお賽銭に近い感覚があるのかと思う。こう感じることは、別に悪いことではない。
就職氷河期世代である人は、同情すべきところもあると思う一方で、占い師というのは、はっきりいって、なんとなくうさんくさい。
深夜になって終電をのがして、ライオンのところに未成年が座って夜を明かす、というのも新宿ならではのことだろう。それで、特に非行として悪いことをするのでなければ、いいとしなければならない。
若い人が、将来の夢はと聞かれて、ネイリストとこたえるのは、なんだか定番化していると感じるのだが、どうなのだろうか。
何回も映っていたが、深夜に寄付のお金をいれて立ち去っていく男性は、いったい何者なのだろうか、ちょっと気になるのだが、正体不明のままでもいいかなと思う。
2025年7月5日記
新日本風土記「水辺の京都」 ― 2025-07-09
2025年7月9日 當山日出夫
新日本風土記 「水辺の京都」
再放送である。最初は、2023年6月20日。
京都の町を舞台に番組を作ると、古くからの伝統ということを強調することになるが、この番組の場合は、それとはちょっとちがった角度からの京都である。地下水と疎水。
京都が地下水の豊かな都市であることは、古くから言われていることだと思う。これを京都の魅力としてとらえることもできるが、そもそもなぜここに平安京が作られたのか、ということを考えることにもなる。人が住むには、水が必須である。飲料水であり、農業用水である。近代になれば、工業用水も必要になる。
京都の水というと、鴨川(賀茂川)をまず思い浮かべる。あるいは、高瀬川もあるし、郊外には桂川や宇治川もある。
京都の地下水がそのまま飲料に使えるということは、これはきちんと水質検査をした結果ということになるはずだが、驚異的なことかもしれない。日本中で、地面を掘れば井戸ができて、その水を飲むことができる……このような地域が、他にどれぐらいあるだろうか。飲料水と日本の歴史という視点で見ると、いろいろと面白いことが見えてくるはずである。
ちなみに、江戸の町で、下町の方は海岸を埋め立てたところが多いので、簡単に井戸を掘って飲料水を得るということはできなかったはずである。神田上水、玉川上水ということを抜きにして、江戸の町の歴史は語れない。また、近代になってからの水道の普及の歴史もある。(最近出た本で、川本三郎の『荷風と昭和』を読んでいるのだが、『濹東綺譚』のなかで主人公の男性が、娼婦の家で、井戸水か水道水か確認しているシーンについて説明がある。)
地下水の豊富な京都で、どのように水道が普及していったのか、ということが、逆に近代になってからの京都の歴史としては意味があるかと思う。
疎水は、近代の京都を代表するものである。近年になって観光名所になってきている。この工事のことは、いろんなエピソードがあるはずである。疎水が近代の京都にどうかかわってきたか、これはとても面白いテーマである。少なくとも、今の、岡崎あたりの景観は、疎水なしにはなりたたない。
町の豆腐屋さんという存在は、もう絶滅危惧である。ラッパを鳴らして売り歩こうにも、昔からの家がなくなってマンションになってしまうと、商売にならない。たしかに、町の豆腐屋さんの豆腐はおいしい。(私が、半世紀前に、東京で住むようになってまず感じた食の違いは、豆腐が美味しくないことだった。)ところで、ラッパを鳴らして豆腐を売り歩くというスタイルは、いったいいつごろから生まれたものなのだろうか。
2025年7月7日記
新日本風土記 「水辺の京都」
再放送である。最初は、2023年6月20日。
京都の町を舞台に番組を作ると、古くからの伝統ということを強調することになるが、この番組の場合は、それとはちょっとちがった角度からの京都である。地下水と疎水。
京都が地下水の豊かな都市であることは、古くから言われていることだと思う。これを京都の魅力としてとらえることもできるが、そもそもなぜここに平安京が作られたのか、ということを考えることにもなる。人が住むには、水が必須である。飲料水であり、農業用水である。近代になれば、工業用水も必要になる。
京都の水というと、鴨川(賀茂川)をまず思い浮かべる。あるいは、高瀬川もあるし、郊外には桂川や宇治川もある。
京都の地下水がそのまま飲料に使えるということは、これはきちんと水質検査をした結果ということになるはずだが、驚異的なことかもしれない。日本中で、地面を掘れば井戸ができて、その水を飲むことができる……このような地域が、他にどれぐらいあるだろうか。飲料水と日本の歴史という視点で見ると、いろいろと面白いことが見えてくるはずである。
ちなみに、江戸の町で、下町の方は海岸を埋め立てたところが多いので、簡単に井戸を掘って飲料水を得るということはできなかったはずである。神田上水、玉川上水ということを抜きにして、江戸の町の歴史は語れない。また、近代になってからの水道の普及の歴史もある。(最近出た本で、川本三郎の『荷風と昭和』を読んでいるのだが、『濹東綺譚』のなかで主人公の男性が、娼婦の家で、井戸水か水道水か確認しているシーンについて説明がある。)
地下水の豊富な京都で、どのように水道が普及していったのか、ということが、逆に近代になってからの京都の歴史としては意味があるかと思う。
疎水は、近代の京都を代表するものである。近年になって観光名所になってきている。この工事のことは、いろんなエピソードがあるはずである。疎水が近代の京都にどうかかわってきたか、これはとても面白いテーマである。少なくとも、今の、岡崎あたりの景観は、疎水なしにはなりたたない。
町の豆腐屋さんという存在は、もう絶滅危惧である。ラッパを鳴らして売り歩こうにも、昔からの家がなくなってマンションになってしまうと、商売にならない。たしかに、町の豆腐屋さんの豆腐はおいしい。(私が、半世紀前に、東京で住むようになってまず感じた食の違いは、豆腐が美味しくないことだった。)ところで、ラッパを鳴らして豆腐を売り歩くというスタイルは、いったいいつごろから生まれたものなのだろうか。
2025年7月7日記
BS世界のドキュメンタリー「ナチスのピンク・トライアングル ―ある同性愛者の独白―」 ― 2025-07-09
2025年7月9日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「ナチスのピンク・トライアングル ―ある同性愛者の独白―」
ドイツ、オーストリア。2024。
ナチスの時代の同性愛者への迫害は、補賞の対象ではない。なぜなら、それ以前からドイツでは、同性愛は違法であったのだから。これはこれとして、法律的には筋がとおっていると、私は思う。
だが、このような法的な正当な論理とは別に、歴史的にヒトラーは絶対悪であり、そこで行われたことについては、許容すべきものは何一つない、という発想によると、強制収容所におくられた男性には、補賞すべきということになる。
さて、どちらがまともな議論なのだろうか、一概には判定しかねると、私は思う。
同性愛が犯罪であったのは、ナチス以前もそうだったし(ワイマール体制では、一部で黙認されたが、法律が変わったわけではない)、第二次世界大戦後になっても、違法である状態はつづいてきた。そうであるならば、ナチスの支配が終わった後にも、違法とされた同性愛者にも、なにがしかの謝罪や補償は必要だと思うのだが、このことについて、番組では何も言っていなかった。むしろこちらの方がより大きな問題だと思えるのだが。
それから、女性の同性愛者について言及したところでは、レズビアンとトランスジェンダーを区別していない。今では、性的マイノリティ、あるいは、クィアとして、さまざまに考えることになっているが、この番組のあつかいは大雑把すぎると感じるところがあった。
現在でも、世界のなかには、同性愛が違法である国はたくさんある。それらの国や地域では、人びとはどう思ってくらしているのだろうか、気になるところである。
この番組で重要だと思ったのが、体験者の証言や記憶は間違っている場合がある、正確な歴史のためには史料批判が必要だとしていたこと。これが、日本だと、体験者(それが被害者の立場だと)全面的に受け入れ、まったく間違ったことはないのであって、別の解釈があるのではないかということを言ったりしただけで、歴史修正主義と言われてしまうことになる。「語り部」の語ることは絶対の真理であって、疑問を持つことはタブーである。こういうことでは、まともに歴史を考えることもできなくなってしまう。(私は、むしろこういうことを危惧する。)
2025年7月7日記
BS世界のドキュメンタリー 「ナチスのピンク・トライアングル ―ある同性愛者の独白―」
ドイツ、オーストリア。2024。
ナチスの時代の同性愛者への迫害は、補賞の対象ではない。なぜなら、それ以前からドイツでは、同性愛は違法であったのだから。これはこれとして、法律的には筋がとおっていると、私は思う。
だが、このような法的な正当な論理とは別に、歴史的にヒトラーは絶対悪であり、そこで行われたことについては、許容すべきものは何一つない、という発想によると、強制収容所におくられた男性には、補賞すべきということになる。
さて、どちらがまともな議論なのだろうか、一概には判定しかねると、私は思う。
同性愛が犯罪であったのは、ナチス以前もそうだったし(ワイマール体制では、一部で黙認されたが、法律が変わったわけではない)、第二次世界大戦後になっても、違法である状態はつづいてきた。そうであるならば、ナチスの支配が終わった後にも、違法とされた同性愛者にも、なにがしかの謝罪や補償は必要だと思うのだが、このことについて、番組では何も言っていなかった。むしろこちらの方がより大きな問題だと思えるのだが。
それから、女性の同性愛者について言及したところでは、レズビアンとトランスジェンダーを区別していない。今では、性的マイノリティ、あるいは、クィアとして、さまざまに考えることになっているが、この番組のあつかいは大雑把すぎると感じるところがあった。
現在でも、世界のなかには、同性愛が違法である国はたくさんある。それらの国や地域では、人びとはどう思ってくらしているのだろうか、気になるところである。
この番組で重要だと思ったのが、体験者の証言や記憶は間違っている場合がある、正確な歴史のためには史料批判が必要だとしていたこと。これが、日本だと、体験者(それが被害者の立場だと)全面的に受け入れ、まったく間違ったことはないのであって、別の解釈があるのではないかということを言ったりしただけで、歴史修正主義と言われてしまうことになる。「語り部」の語ることは絶対の真理であって、疑問を持つことはタブーである。こういうことでは、まともに歴史を考えることもできなくなってしまう。(私は、むしろこういうことを危惧する。)
2025年7月7日記
ブラタモリ「大山詣り山頂へ▼絶景・天空の神社へ!江戸のヒーローなぜ参拝?」 ― 2025-07-08
2025年7月8日 當山日出夫
ブラタモリ 大山詣り山頂へ▼絶景・天空の神社へ!江戸のヒーローなぜ参拝?
大山の山頂まで行ったことになる。実際に山頂の神社の本殿まで行くのは大変なので、代わりにスタッフが登って中継だったが。
ケーブルカーというのは、信仰と観光が結びついたところに出来る、商業的な交通手段ということになるだろう。近くにあるものとしては、生駒山のものがある(これは日本で一番古い)、石清水八幡宮へのケーブルカー、比叡山に登るケーブルカー、などがある。
途中の駅で降りて、階段になっているベンチで並んで座っている映像は、なんとなく面白い。
木製の独楽がお土産としてあったが、これが人気であるのはどういう理由によるものなのだろうか。材料となる木材と、加工技術(木地師といっていいだろうか)が必要であるはずだが。
この回になって、ようやく地学の解説があった。大山が、丹沢山系の端っこにあるので、急峻な山になった理由が、そういわれてみるとわかる。確かに雨にかかわることにはなるが、だからといって、それで雨の神様になったというのはどうだろうか。各地には、水の神様、火の神様は、たくさんあるのだが、それらと比べてどうなのだろうかと思う。
江戸時代に奉納された大きな太刀が映っていたが、いったい重さはどれぐらいあるのだろうか。これをかついで、江戸から運んでくるのは、さぞかし大変だっただろうと思う。
江戸時代だったら、大山まで参詣して、ほとんど(男性の)楽しみとしては、女性相手のことだったと思うのだが、この大山詣りの場合、どこでどうしていたのだろうか。
近世までは大山寺があったということだが、おそらく、明治になってからの神仏分離、廃仏毀釈でつぶれたということなのだろうか。ここは、ちょっと説明が欲しかったところである。
2025年7月6日記
ブラタモリ 大山詣り山頂へ▼絶景・天空の神社へ!江戸のヒーローなぜ参拝?
大山の山頂まで行ったことになる。実際に山頂の神社の本殿まで行くのは大変なので、代わりにスタッフが登って中継だったが。
ケーブルカーというのは、信仰と観光が結びついたところに出来る、商業的な交通手段ということになるだろう。近くにあるものとしては、生駒山のものがある(これは日本で一番古い)、石清水八幡宮へのケーブルカー、比叡山に登るケーブルカー、などがある。
途中の駅で降りて、階段になっているベンチで並んで座っている映像は、なんとなく面白い。
木製の独楽がお土産としてあったが、これが人気であるのはどういう理由によるものなのだろうか。材料となる木材と、加工技術(木地師といっていいだろうか)が必要であるはずだが。
この回になって、ようやく地学の解説があった。大山が、丹沢山系の端っこにあるので、急峻な山になった理由が、そういわれてみるとわかる。確かに雨にかかわることにはなるが、だからといって、それで雨の神様になったというのはどうだろうか。各地には、水の神様、火の神様は、たくさんあるのだが、それらと比べてどうなのだろうかと思う。
江戸時代に奉納された大きな太刀が映っていたが、いったい重さはどれぐらいあるのだろうか。これをかついで、江戸から運んでくるのは、さぞかし大変だっただろうと思う。
江戸時代だったら、大山まで参詣して、ほとんど(男性の)楽しみとしては、女性相手のことだったと思うのだが、この大山詣りの場合、どこでどうしていたのだろうか。
近世までは大山寺があったということだが、おそらく、明治になってからの神仏分離、廃仏毀釈でつぶれたということなのだろうか。ここは、ちょっと説明が欲しかったところである。
2025年7月6日記
BS世界のドキュメンタリー「怒りの街の子供たち 〜ヨルダン川西岸 入植 拡大する中で〜」 ― 2025-07-08
2025年7月8日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「怒りの街の子供たち 〜ヨルダン川西岸 入植 拡大する中で〜」
2024年、パレスチナ、イスラエル、ドイツ、イギリス。
日本の報道では、たいていの場合、イスラエルかパレスチナか、どちらかが一方的に悪い、ということで番組を構成しがちである。今のところ、イスラエルのガザ攻撃の非人道性を非難するのが、基本になっている。
イスラエルとパレスチナの対立のそもそも原因、それをどこまでさかのぼって考えるかで、いろいろと立場があるのだが、これはとりあえずおいておいて、イスラエルとパレスチナに住む人びとが、どのような生活の感覚でくらしているのか、その一面を浮かびあがらせている。見ていて、いくぶん演出がかなりあるかなという部分もあるが、とりあえず、双方の言い分というか、気持ちがどんなであるか、ということは分かるかと思う。
ヨルダン川西岸への入植が国際法違反であるとしても、すでにそこに住んでいる人を、武力で攻撃して追い出していい、ということではない。(これには、反論はあるだろうと思うが。)
端的にいえば、憎悪の連鎖、ということになり、この気持ちは、10代ぐらいの子どもにも、深く根づいたものになっている。これは、そう簡単には消すことはできないだろうと感じることになる。
パレスチナの土地に対して、ユダヤの人びとも、アラブの人びとも、ともにここが自分たちの生きる土地である、故郷である、と強く思っている。この心情の対立には、そう簡単な解決策があるとは思えない。おたがいがそれぞれに、相手はこの世界からいなくなってしまえばいいと思っている限りは、どうしようもないだろう。国際社会としてできることは、紛争(テロでもあり、抵抗運動でもある)の犠牲が最小限になるように働きかけることと、犠牲者への人道的な援助ぐらいかと思うことになる。
この番組の作り方の視点としては、子どもに焦点をあてている。これは意図的にそうなのだろう。このことの根底には、純粋無垢なものとしての「子ども」という発想があってのことになると、私は見て思うことである。本来ならば、敵意も差別も憎悪もないはずの「子ども」が、敵対する相手への憎しみの感情をあらわにするからこそ、ことの問題は深刻なのだ……という価値観やストーリーが見える。子どもの純真さの絶対化とでもいうことができよう。こういう作り方があっていいとは思うが、しかし、子どもというのは、本当に純朴なものなのだろうか、これを疑うことは許されないのだろうか。
どうでもいいことだが、イスラエルの子どもたちがジャンケンをして遊んでいたが、これは、世界中でどれぐらい広まっていることなのだろうか。
2025年7月5日記
BS世界のドキュメンタリー 「怒りの街の子供たち 〜ヨルダン川西岸 入植 拡大する中で〜」
2024年、パレスチナ、イスラエル、ドイツ、イギリス。
日本の報道では、たいていの場合、イスラエルかパレスチナか、どちらかが一方的に悪い、ということで番組を構成しがちである。今のところ、イスラエルのガザ攻撃の非人道性を非難するのが、基本になっている。
イスラエルとパレスチナの対立のそもそも原因、それをどこまでさかのぼって考えるかで、いろいろと立場があるのだが、これはとりあえずおいておいて、イスラエルとパレスチナに住む人びとが、どのような生活の感覚でくらしているのか、その一面を浮かびあがらせている。見ていて、いくぶん演出がかなりあるかなという部分もあるが、とりあえず、双方の言い分というか、気持ちがどんなであるか、ということは分かるかと思う。
ヨルダン川西岸への入植が国際法違反であるとしても、すでにそこに住んでいる人を、武力で攻撃して追い出していい、ということではない。(これには、反論はあるだろうと思うが。)
端的にいえば、憎悪の連鎖、ということになり、この気持ちは、10代ぐらいの子どもにも、深く根づいたものになっている。これは、そう簡単には消すことはできないだろうと感じることになる。
パレスチナの土地に対して、ユダヤの人びとも、アラブの人びとも、ともにここが自分たちの生きる土地である、故郷である、と強く思っている。この心情の対立には、そう簡単な解決策があるとは思えない。おたがいがそれぞれに、相手はこの世界からいなくなってしまえばいいと思っている限りは、どうしようもないだろう。国際社会としてできることは、紛争(テロでもあり、抵抗運動でもある)の犠牲が最小限になるように働きかけることと、犠牲者への人道的な援助ぐらいかと思うことになる。
この番組の作り方の視点としては、子どもに焦点をあてている。これは意図的にそうなのだろう。このことの根底には、純粋無垢なものとしての「子ども」という発想があってのことになると、私は見て思うことである。本来ならば、敵意も差別も憎悪もないはずの「子ども」が、敵対する相手への憎しみの感情をあらわにするからこそ、ことの問題は深刻なのだ……という価値観やストーリーが見える。子どもの純真さの絶対化とでもいうことができよう。こういう作り方があっていいとは思うが、しかし、子どもというのは、本当に純朴なものなのだろうか、これを疑うことは許されないのだろうか。
どうでもいいことだが、イスラエルの子どもたちがジャンケンをして遊んでいたが、これは、世界中でどれぐらい広まっていることなのだろうか。
2025年7月5日記
新日本風土記「奈良 菩薩が来た道」 ― 2025-07-08
2025年7月8日 當山日出夫
新日本風土記 「奈良 菩薩が来た道」
當麻寺の練供養は、テレビのローカルニュースでよく見るのだが、実際に行って見たということはない。昔からの地域の伝統行事の一つということで、知識として知っていたことである。
ただ、當麻寺といっても、実際にはいくつかの寺院の集合体といっていいかと思うので、ここは説明があった方がよかったかもしれない。単独に當麻寺という寺院がある、ということではないはずである。
二上山と當麻曼荼羅や中将姫のことは、日本の古代の文学史など勉強すれば出てくることである。(こういうことについて、そう深く勉強しようとは思わなかったのではあるのだが。)
練供養が、この地域にあるいくつかの講によってささえられてきた、寺の行事であるというよりは、民俗的な行事であることは、この番組で知った。
今のところ、練供養を継続できるだけの組織が残っていることになるが、これが、将来はどうなるだろうか。當麻寺のある葛城市は、どちらかといえば、人口減少の傾向の地域ではあるが、まだ危機的状況にあるということではない。だが、若い人たちが、この行事に関心を持って引き継いでいこうという気持ちがあるなら、当分の間は大丈夫かもしれない。
100メートル以上の木製の橋の上を行って帰ってくるだけかと思っていたのだが、実際の所作は、とっても大変なことである。重労働といっていいだろうか。練習もしなければならない。(これまでに、お寺の本堂の出入りとかでつまずいたり、ひょっとすると、橋の上から落ちてしまったようなこともあったかもしれないと思って見ていたのだが、はたしてどうだったのだろうか。)
テレビの画面で見たかぎりであるが、使っている仮面は、美術品としても非常によくできている。また、衣装も非常にいい。こういう民俗行事には、古くからのものを伝えていくと同時に、新しい綺麗なものを使っていこうというのも、これをささえてきた人びとの感覚であったということになるだろうか。
2025年7月4日記
新日本風土記 「奈良 菩薩が来た道」
當麻寺の練供養は、テレビのローカルニュースでよく見るのだが、実際に行って見たということはない。昔からの地域の伝統行事の一つということで、知識として知っていたことである。
ただ、當麻寺といっても、実際にはいくつかの寺院の集合体といっていいかと思うので、ここは説明があった方がよかったかもしれない。単独に當麻寺という寺院がある、ということではないはずである。
二上山と當麻曼荼羅や中将姫のことは、日本の古代の文学史など勉強すれば出てくることである。(こういうことについて、そう深く勉強しようとは思わなかったのではあるのだが。)
練供養が、この地域にあるいくつかの講によってささえられてきた、寺の行事であるというよりは、民俗的な行事であることは、この番組で知った。
今のところ、練供養を継続できるだけの組織が残っていることになるが、これが、将来はどうなるだろうか。當麻寺のある葛城市は、どちらかといえば、人口減少の傾向の地域ではあるが、まだ危機的状況にあるということではない。だが、若い人たちが、この行事に関心を持って引き継いでいこうという気持ちがあるなら、当分の間は大丈夫かもしれない。
100メートル以上の木製の橋の上を行って帰ってくるだけかと思っていたのだが、実際の所作は、とっても大変なことである。重労働といっていいだろうか。練習もしなければならない。(これまでに、お寺の本堂の出入りとかでつまずいたり、ひょっとすると、橋の上から落ちてしまったようなこともあったかもしれないと思って見ていたのだが、はたしてどうだったのだろうか。)
テレビの画面で見たかぎりであるが、使っている仮面は、美術品としても非常によくできている。また、衣装も非常にいい。こういう民俗行事には、古くからのものを伝えていくと同時に、新しい綺麗なものを使っていこうというのも、これをささえてきた人びとの感覚であったということになるだろうか。
2025年7月4日記
『べらぼう』「三人の女」 ― 2025-07-07
2025年7月7日 當山日出夫
『べらぼう』「三人の女」
この回から、舞台は日本橋の蔦屋の店に移ることになる。
吉原のときは、吉原という場所の説明が現代の視聴者には必要だったかと思うが、日本橋の蔦屋になると、この時代の日本橋の商店の実際がどうであったか、ということが説明してほしいことになる。脚本としては、この部分は、必要最小限にとどめていたという印象である。
浮世絵を売るときの店の様子とか、奉公人の生活とか、このあたりはそうだろうと思うのだが、この店の奉公人というのは、具体的にどんな仕事をしていたのだろうかとは思う。食客というような存在は、蔦重の場合、たしかにあったのだろうとは思うところではあるが。
見ていて気になったことの一つが、「念者」ということばが出てきて、このことについては、特にナレーション(お稲荷さん)で説明がなかったことである。たいていの視聴者なら状況から分かったことだろうと思うのだが、解説があってもよかったかもしれない。
江戸時代以前、男性の性の相手が女性ばかりではなかったことは、歴史の知識として普通のことだろう。むしろ、中世から近代にかけてのヨーロッパ社会の方が、この種の性についてのタブーは厳しく、同性愛は犯罪であり、その反動が現代になってのいろんな運動……少なくとも、近いところでは、ウーマンリブの運動ぐらいがあって、性の解放が言われた時代があって、今にいたっている……このような経緯を思うことになる。(その現代の結果の部分のみを絶対的な尺度として、今の日本社会に杓子定規にあてはめて考えると、これはおかしなことになる、私としてはこのように思う。思想にはそれぞれの文化の歴史があるという認識が必要である。だからといって、今の日本のことを全肯定するというわけではない。)
説明がなかったこととしては、蔦重の母親のことがある。この回から突然の登場であるが、これは、脚本・演出の方針としていいだろう。見ながら私が思ったことを書くとこのようである……その仕事が、自分の店を持たない出張の髪結い、ということである。相手は男性である。この時代、江戸市中には男性の単身者が多く、そこに髪結いの出張の仕事があれば(そしてそれが女性であれば)、それは、ただ髪結いだけではなく、それ以上のサービス(?)があったことは、ごく自然なことである。おそらく、女性の職業としては、最下層の部類であっただろう。このての商売のなかには、髪結いの道具などはただのかざりにすぎなかった場合もあるかもしれない。蔦重の母親は実際に髪結いが出来たようだが。もうかなりの年齢のはずだが、その商売(?)ができたということだろうか。……ここは、視聴者の知識と想像にまかせるということなのか、あるいは、分からなくてもさしつかえないということなのか。私の勝手な思いこみか。
天明の飢饉である。田沼意次は、米屋の株仲間を禁止し、自由に流通させることを命じる。あるいは、幕府の管理する米を市場に放出する。この結果として、マーケットの論理にまかせておけば、または、強引に価格を下げるように市場に政治が介入すれば、米の値段は下がるだろう……という見込みであったことになるのだが、こんなことで、米の価格を幕府がコントロールできるようなら、飢饉などなかったことになってしまう。幕府政治は、ずっと続いていただろう。
江戸時代、米の価格がどのように決まったのかということについては、農業史や経済史などの分野で研究のあるところだと思っている。ただ、米は、食料として食べるしか消費の仕方がないものである。また、基本的に年に一回しか収穫できない。計画的に急に生産を調整できるようなものではない。しかし、天候の影響などで、飢饉となれば、生産量は一気に減少する。そのための救恤米(今でいう備蓄米)は、政治にとって必須であったことになる。
江戸時代は石高制といわれる。これで、もし、現物の米で武士が俸給を貰っていたのなら、米の値上がりは利益になるはずである(きまった量を確実に貰えればであるが)。しかし、実際にはお金で貰っていたのであるならば、米の値上がりは生活を直撃することになる。さて、実際はどうだったのだろう。
江戸時代まで、米は、日本において、どのように栽培され、流通し、消費されてきたのか。その全体像を分かりやすく解説した本があるといいと思っているのだが、見当たらないでいる。日本における、農業と経済と食生活の歴史を総合することになる。
大田南畝が出てきていたのだが、あいかわらず戯作者、狂歌師という面で描いている。しかし、歴史的には、大田南畝はれっきとした幕吏であり、また、この時代きっての教養人であった。このドラマの描き方については、私としては、かなりもの足りないものを感じる。
日本橋で夜になって聞こえてくるのは犬の遠吠えであるが、同じころに、吉原では音曲である。こういう対比の描写はたくみである。
2025年7月6日記
『べらぼう』「三人の女」
この回から、舞台は日本橋の蔦屋の店に移ることになる。
吉原のときは、吉原という場所の説明が現代の視聴者には必要だったかと思うが、日本橋の蔦屋になると、この時代の日本橋の商店の実際がどうであったか、ということが説明してほしいことになる。脚本としては、この部分は、必要最小限にとどめていたという印象である。
浮世絵を売るときの店の様子とか、奉公人の生活とか、このあたりはそうだろうと思うのだが、この店の奉公人というのは、具体的にどんな仕事をしていたのだろうかとは思う。食客というような存在は、蔦重の場合、たしかにあったのだろうとは思うところではあるが。
見ていて気になったことの一つが、「念者」ということばが出てきて、このことについては、特にナレーション(お稲荷さん)で説明がなかったことである。たいていの視聴者なら状況から分かったことだろうと思うのだが、解説があってもよかったかもしれない。
江戸時代以前、男性の性の相手が女性ばかりではなかったことは、歴史の知識として普通のことだろう。むしろ、中世から近代にかけてのヨーロッパ社会の方が、この種の性についてのタブーは厳しく、同性愛は犯罪であり、その反動が現代になってのいろんな運動……少なくとも、近いところでは、ウーマンリブの運動ぐらいがあって、性の解放が言われた時代があって、今にいたっている……このような経緯を思うことになる。(その現代の結果の部分のみを絶対的な尺度として、今の日本社会に杓子定規にあてはめて考えると、これはおかしなことになる、私としてはこのように思う。思想にはそれぞれの文化の歴史があるという認識が必要である。だからといって、今の日本のことを全肯定するというわけではない。)
説明がなかったこととしては、蔦重の母親のことがある。この回から突然の登場であるが、これは、脚本・演出の方針としていいだろう。見ながら私が思ったことを書くとこのようである……その仕事が、自分の店を持たない出張の髪結い、ということである。相手は男性である。この時代、江戸市中には男性の単身者が多く、そこに髪結いの出張の仕事があれば(そしてそれが女性であれば)、それは、ただ髪結いだけではなく、それ以上のサービス(?)があったことは、ごく自然なことである。おそらく、女性の職業としては、最下層の部類であっただろう。このての商売のなかには、髪結いの道具などはただのかざりにすぎなかった場合もあるかもしれない。蔦重の母親は実際に髪結いが出来たようだが。もうかなりの年齢のはずだが、その商売(?)ができたということだろうか。……ここは、視聴者の知識と想像にまかせるということなのか、あるいは、分からなくてもさしつかえないということなのか。私の勝手な思いこみか。
天明の飢饉である。田沼意次は、米屋の株仲間を禁止し、自由に流通させることを命じる。あるいは、幕府の管理する米を市場に放出する。この結果として、マーケットの論理にまかせておけば、または、強引に価格を下げるように市場に政治が介入すれば、米の値段は下がるだろう……という見込みであったことになるのだが、こんなことで、米の価格を幕府がコントロールできるようなら、飢饉などなかったことになってしまう。幕府政治は、ずっと続いていただろう。
江戸時代、米の価格がどのように決まったのかということについては、農業史や経済史などの分野で研究のあるところだと思っている。ただ、米は、食料として食べるしか消費の仕方がないものである。また、基本的に年に一回しか収穫できない。計画的に急に生産を調整できるようなものではない。しかし、天候の影響などで、飢饉となれば、生産量は一気に減少する。そのための救恤米(今でいう備蓄米)は、政治にとって必須であったことになる。
江戸時代は石高制といわれる。これで、もし、現物の米で武士が俸給を貰っていたのなら、米の値上がりは利益になるはずである(きまった量を確実に貰えればであるが)。しかし、実際にはお金で貰っていたのであるならば、米の値上がりは生活を直撃することになる。さて、実際はどうだったのだろう。
江戸時代まで、米は、日本において、どのように栽培され、流通し、消費されてきたのか。その全体像を分かりやすく解説した本があるといいと思っているのだが、見当たらないでいる。日本における、農業と経済と食生活の歴史を総合することになる。
大田南畝が出てきていたのだが、あいかわらず戯作者、狂歌師という面で描いている。しかし、歴史的には、大田南畝はれっきとした幕吏であり、また、この時代きっての教養人であった。このドラマの描き方については、私としては、かなりもの足りないものを感じる。
日本橋で夜になって聞こえてくるのは犬の遠吠えであるが、同じころに、吉原では音曲である。こういう対比の描写はたくみである。
2025年7月6日記
『八重の桜』「新しい日々へ」 ― 2025-07-07
2025年7月7日 當山日出夫
『八重の桜』「新しい日々へ」
このドラマの再放送を見て(最初の放送のときも見ているが)思うことの一つは、全体としての品の良さである。
ドラマを見て、品の良さというようなことは、あまり感じることはないのだが、今は放送が中止になっている『チョッちゃん』を見ていて思ったことでもある。『チョッちゃん』は、非常に品が良い。蝶子の夫の要は、今の価値観からすれば暴君でありとても乱暴ではあるが、しかし、ドラマ全体の作り方として、品のある作り方になっている。
『べらぼう』を見ていても品の良さということは感じない。いや、『べらぼう』は、それとは逆の方針、ケレン味のある演出で見せようとしている。これは、吉原とい場所を舞台にしたドラマだから、ケレン味の演出で味付けして見せるというのが、妥当なところだとは思うが。
八重は尚之助と結婚する。その祝言は、(実際はどうだったかは別として)こんなもんだったのかなあ、と思うように作ってある。八重の髪飾りは鼈甲であった。白無垢の花嫁衣装には、派手なかんざしよりも、鼈甲の方が似つかわしいと感じる。
鉄砲を撃つ角場で、尚之助は、八重に対して、私はあなたという女生と結婚したのである、旧来の風習などどうでもいい……という意味のことを言うのだが、これは、いかにも現代的である。この時代に、こんな考え方はなかっただろう。だが、このドラマの中では、ここでこういう台詞があってもおかしくはないと感じる。
会津の殿様、松平容保は、やはり歴史の流れの中では貧乏くじをひいたようである。孝明天皇への忠誠心と、徳川譜代大名としての公儀への忠誠心、これがかろうじてバランスをたもっているということだろうか。これが、日本という国、天皇の絶対性という方向になると、容保の立場がなくなってしまう。
岩倉具視は、どんな人物だったのだろうか。幕末から明治にかけての歴史のなかの重要人物であるのだが、今一つ、イメージが定着していない。日本という国家の将来を憂えた経世家というわけでもなさそうだし、幕末の朝廷で暗躍した策士というわけでもなさそうである。まあ、京都の公家というのは、よく分からない。
2025年7月6日記
『八重の桜』「新しい日々へ」
このドラマの再放送を見て(最初の放送のときも見ているが)思うことの一つは、全体としての品の良さである。
ドラマを見て、品の良さというようなことは、あまり感じることはないのだが、今は放送が中止になっている『チョッちゃん』を見ていて思ったことでもある。『チョッちゃん』は、非常に品が良い。蝶子の夫の要は、今の価値観からすれば暴君でありとても乱暴ではあるが、しかし、ドラマ全体の作り方として、品のある作り方になっている。
『べらぼう』を見ていても品の良さということは感じない。いや、『べらぼう』は、それとは逆の方針、ケレン味のある演出で見せようとしている。これは、吉原とい場所を舞台にしたドラマだから、ケレン味の演出で味付けして見せるというのが、妥当なところだとは思うが。
八重は尚之助と結婚する。その祝言は、(実際はどうだったかは別として)こんなもんだったのかなあ、と思うように作ってある。八重の髪飾りは鼈甲であった。白無垢の花嫁衣装には、派手なかんざしよりも、鼈甲の方が似つかわしいと感じる。
鉄砲を撃つ角場で、尚之助は、八重に対して、私はあなたという女生と結婚したのである、旧来の風習などどうでもいい……という意味のことを言うのだが、これは、いかにも現代的である。この時代に、こんな考え方はなかっただろう。だが、このドラマの中では、ここでこういう台詞があってもおかしくはないと感じる。
会津の殿様、松平容保は、やはり歴史の流れの中では貧乏くじをひいたようである。孝明天皇への忠誠心と、徳川譜代大名としての公儀への忠誠心、これがかろうじてバランスをたもっているということだろうか。これが、日本という国、天皇の絶対性という方向になると、容保の立場がなくなってしまう。
岩倉具視は、どんな人物だったのだろうか。幕末から明治にかけての歴史のなかの重要人物であるのだが、今一つ、イメージが定着していない。日本という国家の将来を憂えた経世家というわけでもなさそうだし、幕末の朝廷で暗躍した策士というわけでもなさそうである。まあ、京都の公家というのは、よく分からない。
2025年7月6日記
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