聖なる空間としての神社2016-08-05

2016-08-05 當山日出夫

菅野覚明.『神道の逆襲』(講談社現代新書).講談社.2001
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061495609

この本については、また改めて書いてみたいと思っている。ここでは、この本の最終章「神様の現在」から、次のところを見てみたい。

「少なくとも、神社の最大勢力を占める神社神道は、定まった教義や教典を持っていない。しかし、そうした事情とはかかわりなく、神のあらわれを受けとめる知恵や力は、今日の神道界にも確実に保持されているように見える。」(p.272)

としたうえで、次のような事例をあげる。

「伊勢の皇学館大学構内に一歩足を踏み入れたときに受ける、あの折り目正しく張りつめた感じは、みずからのありようを積極的に神の境位へと反転させようとする伊勢神道・垂加神道の清浄・正直の伝統が変わらずに保たれていることを実感させる。」(p.272)

さらに、

「あるいは、ほとんど世俗的なイベントと化してしまっているような今日の結婚式においても、時に粛然と背筋を正されるような神のあらわれに出会うこともある。何年か前、筆者が都内の式場で出会った巫女舞い(中略)は、まさに大都会の華やかな式場の一隅にひそやかに神のあらわれを告げる緊迫した瞬間であった。」(p.272)

このようなことは、神社・神道がそうであるというよりも、むしろ、受け手である人間の方の感覚・感性の問題かもしれないと私などは思っている。われわれが神社の境内において、何を感じるか、である。

このような観点からは、すでにふれた本だが、

島田裕巳.『「日本人の神」入門-神道の歴史を読み解く-』(講談社現代新書).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883702

の次のような記述とつながるものであると思う。

「明治神宮の場合もそうだが、平安神宮を訪れて、桓武天皇や孝明天皇の存在を意識する参拝者はそれほど多くはないだろう。(中略)重要なのは、そこが神を祀った神社であるという、その一点である。」(p.211)

これにつづけて、

「実はこれは、明治以降に創建された神社に限らず、神社一般にも当てはまることだろう。私たちが、どの神社でもいい、そこを訪れたときに祭神が何かということを考えることは決して多くはない。」(p.211)

「そうだとすれば、私たちは、それぞれの神社に祀られた個別の祭神に対して礼拝をしているのではなく、神一般に対して礼拝していることになる。」(pp.211-212)

そして、これにつづくこととして、島田裕巳の本では、「日本的一神教」の章で、天理教、それから、皇室祭祀、国家神道へと話しがつづいていく。

さて、上記のことを、私なりにいいかえるならば、「聖なる空間としての神社」とでもいうことができようか。そして、それは、そのような場所、そのようにあらしめている共同体のあり方と無縁ではない。われわれが、そのように感じるのである。

だが、そうはいっても、たとえば伊勢神宮(内宮・外宮)の境内にはいったときの神聖な感覚というものは、厳然としてあるという気もする。それはあくまでも「聖なる空間」であって、固有名詞をもった特定の祭神をまつる場所ではない。伊勢神宮においてさえも、その祭神が何であるかと、特に問うことはないように感じている。知識としては知っていても、である。

しかしながら、そこが「聖なる空間」であることを認識しつつも、どこかで、祭神が何であるかを意識せざるをえない神社がある……靖国神社である。(靖国神社には、私は、何度か行ったことがある。)

靖国神社については、いろいろと考えなければならないと思っている。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/05/8146236/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。