こころの時代「歎異抄にであう 無宗教からの扉 (3)「悪人とはだれか」」2024-01-01

2024年1月1日 當山日出夫

こころの時代 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (3)「悪人とはだれか」

この回は悪人について。

おそらく三つの視点があることになる。

第一には、『歎異抄』という書物のなかにおいてどういう意味で使われているか、ということ。また、仏教のことばとしては、どのような意味であるか、考えることになる。

第二には、その当時、『歎異抄』が書かれた時代、鎌倉時代に普通の日本語としてどのような意味であったか、という観点。

第三には、現代の我々がこのことばをどのように理解することになるのかという観点。

以上の三つの観点があり得ると思うのだが、この番組では、これらの観点についてそれぞれにとりあげ、総合的に考えるということになっていた。この意味では、非常にバランス感覚のいい構成になっていたと思う。

だが、総じて、近代的な視点での解釈であった。特に近代的な自我とか、無意識というような概念と、親鸞の語ったことがどう結びつくのかというあたりは、今日ならではの『歎異抄』の読み方だと感じる。

漱石が出てきていた。それから、武田泰淳の『ひかりごけ』のこともでてきた。『ひかりごけ』は、高校生のころに読んだ。

清沢満之は、中央公論の「日本の名著」で手にしたことがあるぐらいである。『歎異鈔』が近代になってから広く読まれるようになったのには、清沢満之などの活動があってのことだと思っているが、この番組ではこのような方向からのアプローチはしていない。仏教という枠組みのなかで、法然から親鸞そして唯円という流れでうけつがれてきた教えというスタンスである。

2023年12月25日記

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