『チョッちゃん』(2025年5月5日の週) ― 2025-05-11
2025年5月11日 當山日出夫
『チョッちゃん』 2025年5月5日の週
この週から、蝶子の東京でのくらしがはじまることになる。音楽学校に入学でき、住むところは、おじさん(泰輔)の家に下宿することになる。新しい登場人物としては、同じ下宿の落語家であったり、映画館の楽師であったり、そして、バイオリニストの岩崎要である。また、邦子と神谷先生も再登場であった。
見ながら思うことはいろいろとある。
このドラマの作られた1980年代だと、昭和の戦前の時代の雰囲気を憶えている人が多かった。さりげないところに、それを感じる。
おじさんの家にはラジオがあった。北海道の家には、まだラジオがなかった。そのラジオを聞くとき、チューナーのダイヤルを回して周波数を合わせていた。ほんのちょっとしたことだが、昔のラジオは、こうする必要があった。今のドラマでラジオが出てくると、スイッチをいれてすぐに音声が聞こえることが多い。これにはどうしても違和感があった。『カムカムエヴリバディ』でも、この点はあった。
おじさんの家にやってきた男性(岩崎要をなぐろうとしてやってきたのだが)、玄関で、挨拶して帽子をちょっと取っていた。普通は男性は外出するときに帽子をかぶるものであり、人と会ったらそれを取るのが礼儀である……ことさら言うほどのことではないかもしれないが、人びとの生活のなかで、今は失われてしまった感覚であるとも感じる。
蝶子が、洗濯物を干しているシーンがあったが、そのなかに、女性の腰巻きがあった。これは、今のドラマでは出てこない。洗濯物を干すシーンはあっても、たいていは、手ぬぐいか、男性用のシャツぐらいである。実際の家庭の洗濯物は、多様であったはずだが(今でもそうだが)、ドラマのなかでは映すものが、非常に限定されるようになってきている。
音楽学校に入って勉強する蝶子であるが、あまり歌はうまくないようである。東京に来て、はじめてピアノを見たと言っていた。これは、この時代(昭和のはじめごろ)では、こんなものだっただろうと思う。地方(北海道の滝川)と東京とでは、音楽という芸術にこころざそうという人においても、文化資本の格差ということは、歴然としてあったにちがいない。
蝶子は、バイオリニストの岩崎に、どうしたら、声楽家になれるでしょうか、ときいていた。それに対して、努力や才能も必要だが、それを超えるための何かが必要である、と答えていた。これは、そのとおりである。努力と才能だけで、仕事ができる分野もあるだろうが、芸術、また、学問の世界もそうであるが、努力と才能だけではない、何かが必要である、と感じることは確かにある。
週の最後で、邦子が蝶子のもとをたずねてきた。女学生と先生の関係であるから、この時代として、かなりスキャンダラスであったかもしれないのだが、そんなことはまったく感じさせない。(女学生と教師の関係というと、私などの世代だと、どうしても石坂洋次郎の『若い人』を思い出すことになる。)
邦子と神谷先生は、一緒に暮らしているという。その部屋を蝶子はおとずれるのだが、そこに男性と女性の生活を見ることになり、おそらく内心でかなり動揺したらしい。しかし、まだ純情で素朴な少女としての蝶子は、その気持ちをうまく表現出来ないということもある。この雰囲気を、非常にうまく描いてあった。こういう場面で、古村比呂は品を感じさせる。『チョッちゃん』のヒロインとして、古村比呂が魅力的であると感じるところである。
2025年5月10日記
『チョッちゃん』 2025年5月5日の週
この週から、蝶子の東京でのくらしがはじまることになる。音楽学校に入学でき、住むところは、おじさん(泰輔)の家に下宿することになる。新しい登場人物としては、同じ下宿の落語家であったり、映画館の楽師であったり、そして、バイオリニストの岩崎要である。また、邦子と神谷先生も再登場であった。
見ながら思うことはいろいろとある。
このドラマの作られた1980年代だと、昭和の戦前の時代の雰囲気を憶えている人が多かった。さりげないところに、それを感じる。
おじさんの家にはラジオがあった。北海道の家には、まだラジオがなかった。そのラジオを聞くとき、チューナーのダイヤルを回して周波数を合わせていた。ほんのちょっとしたことだが、昔のラジオは、こうする必要があった。今のドラマでラジオが出てくると、スイッチをいれてすぐに音声が聞こえることが多い。これにはどうしても違和感があった。『カムカムエヴリバディ』でも、この点はあった。
おじさんの家にやってきた男性(岩崎要をなぐろうとしてやってきたのだが)、玄関で、挨拶して帽子をちょっと取っていた。普通は男性は外出するときに帽子をかぶるものであり、人と会ったらそれを取るのが礼儀である……ことさら言うほどのことではないかもしれないが、人びとの生活のなかで、今は失われてしまった感覚であるとも感じる。
蝶子が、洗濯物を干しているシーンがあったが、そのなかに、女性の腰巻きがあった。これは、今のドラマでは出てこない。洗濯物を干すシーンはあっても、たいていは、手ぬぐいか、男性用のシャツぐらいである。実際の家庭の洗濯物は、多様であったはずだが(今でもそうだが)、ドラマのなかでは映すものが、非常に限定されるようになってきている。
音楽学校に入って勉強する蝶子であるが、あまり歌はうまくないようである。東京に来て、はじめてピアノを見たと言っていた。これは、この時代(昭和のはじめごろ)では、こんなものだっただろうと思う。地方(北海道の滝川)と東京とでは、音楽という芸術にこころざそうという人においても、文化資本の格差ということは、歴然としてあったにちがいない。
蝶子は、バイオリニストの岩崎に、どうしたら、声楽家になれるでしょうか、ときいていた。それに対して、努力や才能も必要だが、それを超えるための何かが必要である、と答えていた。これは、そのとおりである。努力と才能だけで、仕事ができる分野もあるだろうが、芸術、また、学問の世界もそうであるが、努力と才能だけではない、何かが必要である、と感じることは確かにある。
週の最後で、邦子が蝶子のもとをたずねてきた。女学生と先生の関係であるから、この時代として、かなりスキャンダラスであったかもしれないのだが、そんなことはまったく感じさせない。(女学生と教師の関係というと、私などの世代だと、どうしても石坂洋次郎の『若い人』を思い出すことになる。)
邦子と神谷先生は、一緒に暮らしているという。その部屋を蝶子はおとずれるのだが、そこに男性と女性の生活を見ることになり、おそらく内心でかなり動揺したらしい。しかし、まだ純情で素朴な少女としての蝶子は、その気持ちをうまく表現出来ないということもある。この雰囲気を、非常にうまく描いてあった。こういう場面で、古村比呂は品を感じさせる。『チョッちゃん』のヒロインとして、古村比呂が魅力的であると感じるところである。
2025年5月10日記
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