新日本風土記「四国 花遍路」 ― 2025-07-07
2025年7月7日 當山日出夫
新日本風土記 「四国 花遍路」
再放送である。最初は、2024年6月24日。
四国の遍路をあつかった番組は、これまでにもたくさんあった。最近は、四国の遍路を肯定的な視点から語るようになってきている。
前にも書いたことだが、私が、四国遍路といってまず思い浮かべるのは、『娘巡礼記』(高村逸枝)である。高村逸枝の『火の国の女の日記』を読んだのは、大学生のときだった。たしか、講談社文庫。それから、いくつか、高村逸枝の本を読んだかと覚えている。そのなかに『娘巡礼記』があった。読んだのは、朝日選書版。その後、岩波文庫版が出ている。
ただ、学問的には、高村逸枝の研究……日本の婚姻史であり、女性の歴史である……については、現在では、批判的に見ることになっていることは、知っている。
高村逸枝が女性史研究にこころざしたとき、自分の部屋の机の上に「古事記伝」を置いて読み始めた……と、何かで読んだのを覚えている。ことの真偽はあるにしても、非常に象徴的なエピソードである。その夫である橋本憲三の詩の最後に、たしかこうあった……(自分たちが死んだ後のこととして)……すべてを土にかえそう。この一言も、強く記憶に残っている。
『娘巡礼記』を読むと、その時代の四国遍路が、まさに世の中の一般社会から疎外された人たちが、旅をすみかとして、乞食として生きている姿が描かれている。もう今の時代だと、乞食……強いていえば、職業としての乞食といってもいいかもしれないが……を、見ることはなくなってしまった。私の子どものころまでは、まだ、社会の片隅にそのような人たちのくらしがあった。
番組の始めの方に出てきた女性(かなりの高齢である)が、子どものころ、白装束のお遍路さんは怖かった、と言っているのは、むかしの心性を伝えているものだろう。遍路墓が残っている。旅の途中で死んでしまわれると、その地域の人が弔って葬式をしなければならないので、その面倒をさけるために、次のエリアまで送り出す、そのために飲食の提供などもする、たぶん、昔はそうだったのだろうと思う。それでも死んでしまった遍路のためには、遍路墓をつくって弔うことになる。
女性が若いとき、まさに花遍路ということで、親から遍路の旅に送り出された。はっきりいえば、口減らし、ということだったのだろうと思う。それが、無事にもどってきたので、ようやく自分の娘として受け入れることになった。こう解釈していいだろうか。
今のような形での四国遍路が整備されたのは近世になってから、高野山の影響においてである、ということだった。そして、それ以前に、巡礼、ということは、それぞれの地域でいろいろと行われてきたことである。こういうことは、民俗学、歴史学、宗教史、というような領域にまたがることになる。
見ながら思ったこととしては、これは、「忘れられた日本人」の世界につながるものだな、ということである。近代以前の人びとは、どのようにくらしてきたのか、定住もあり、また、旅もあっただろうが、どのような感覚で生活していたのか、そこにつらなるものがあると感じたことになる。
2025年7月5日記
新日本風土記 「四国 花遍路」
再放送である。最初は、2024年6月24日。
四国の遍路をあつかった番組は、これまでにもたくさんあった。最近は、四国の遍路を肯定的な視点から語るようになってきている。
前にも書いたことだが、私が、四国遍路といってまず思い浮かべるのは、『娘巡礼記』(高村逸枝)である。高村逸枝の『火の国の女の日記』を読んだのは、大学生のときだった。たしか、講談社文庫。それから、いくつか、高村逸枝の本を読んだかと覚えている。そのなかに『娘巡礼記』があった。読んだのは、朝日選書版。その後、岩波文庫版が出ている。
ただ、学問的には、高村逸枝の研究……日本の婚姻史であり、女性の歴史である……については、現在では、批判的に見ることになっていることは、知っている。
高村逸枝が女性史研究にこころざしたとき、自分の部屋の机の上に「古事記伝」を置いて読み始めた……と、何かで読んだのを覚えている。ことの真偽はあるにしても、非常に象徴的なエピソードである。その夫である橋本憲三の詩の最後に、たしかこうあった……(自分たちが死んだ後のこととして)……すべてを土にかえそう。この一言も、強く記憶に残っている。
『娘巡礼記』を読むと、その時代の四国遍路が、まさに世の中の一般社会から疎外された人たちが、旅をすみかとして、乞食として生きている姿が描かれている。もう今の時代だと、乞食……強いていえば、職業としての乞食といってもいいかもしれないが……を、見ることはなくなってしまった。私の子どものころまでは、まだ、社会の片隅にそのような人たちのくらしがあった。
番組の始めの方に出てきた女性(かなりの高齢である)が、子どものころ、白装束のお遍路さんは怖かった、と言っているのは、むかしの心性を伝えているものだろう。遍路墓が残っている。旅の途中で死んでしまわれると、その地域の人が弔って葬式をしなければならないので、その面倒をさけるために、次のエリアまで送り出す、そのために飲食の提供などもする、たぶん、昔はそうだったのだろうと思う。それでも死んでしまった遍路のためには、遍路墓をつくって弔うことになる。
女性が若いとき、まさに花遍路ということで、親から遍路の旅に送り出された。はっきりいえば、口減らし、ということだったのだろうと思う。それが、無事にもどってきたので、ようやく自分の娘として受け入れることになった。こう解釈していいだろうか。
今のような形での四国遍路が整備されたのは近世になってから、高野山の影響においてである、ということだった。そして、それ以前に、巡礼、ということは、それぞれの地域でいろいろと行われてきたことである。こういうことは、民俗学、歴史学、宗教史、というような領域にまたがることになる。
見ながら思ったこととしては、これは、「忘れられた日本人」の世界につながるものだな、ということである。近代以前の人びとは、どのようにくらしてきたのか、定住もあり、また、旅もあっただろうが、どのような感覚で生活していたのか、そこにつらなるものがあると感じたことになる。
2025年7月5日記
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