100分de名著「ウィトゲンシュタイン“論理哲学論考”“哲学探究” (1)言語の限界はどこにある?」 ― 2026-04-14
2026年4月14日 當山日出夫
100分de名著「ウィトゲンシュタイン“論理哲学論考”“哲学探究” (1)言語の限界はどこにある?」
私の学生のころ、一部の学生の間では、ウィトゲンシュタインは、とても人気があった。だが、そのころは、あまり読もうとは思わなかった。(それよりも、折口信夫や柳田国男などを読んでいた。慶應の国文科の学生としては、そういうことだった。)
この番組を見るようになってかなりたつが、だんだんと見方が変わってきたのを自分で感じる。啓蒙的で、分かりやすい解説、という趣旨での番組だということは理解しているのだが、どういう本をとりあげて、どういうことを語るのか、ということもあるのだが、それを、どんな人がどう語るのか、ということを見ているのが面白くなってきている。
特に哲学関係の書物については、語りかたが難しい。その哲学者の書いたことを、分かりやすく解説する、ということが一般的なのだが、それに加えて、その考え方が哲学の世界ではどういう意味があることなのか、それについて他の哲学者はどう言っているのか、さらに、自分(この番組の講師である人)はどう考えているのか、こういうことを、きっちりと分けて語るということもある。こういう立場では、最近だと、ヤスパース『哲学入門』の戸谷洋二が、そうだった。
このウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の第一回を見ると、古田徹也は、自分の意見を基本的に言っていない。あくまでもウィトゲンシュタインが書いたこと、考えたことを、分かりやすく解説するとどういうことなのか、という路線を堅持している。これはこれで、ものすごく難しいことなのだが、見事である。
これまでのこの番組では、あつかっている本や作家をダシにして、ただ自分の言いたいことを話す人も結構たくさんいた。私は、こういうのは、あまり好きではない。
ウィトゲンシュタインであるが、言語とは何であるか、という観点からするならば、その言語観自体が、きわめてオーソドックスなものかと思えるが、これは、言語学と哲学との間で、どのように考えることになるのだろうか。(若かったならば、生成文法からはどうか、認知言語学からはどうか、というようなことを考えてみることになったと思うが、もう、そんな面倒なことはいやになったので、ただ、ぼんやりとテレビを見ているだけにしたい。)
2026年4月11日記
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