クラシックTV「山寺宏一は、ピアノだ!」2026-04-15

2026年4月15日 當山日出夫

クラシックTV「山寺宏一は、ピアノだ!」

これは、面白かった。おそらく、この番組を見た人のかなりは、「ビストロボイス」も見ていただろうと思うのだが、山寺宏一の魅力を、ピアノという楽器の特性とともに、うまく紹介していたと感じる。

見ていて、一番重要だなと感じたところは、山寺宏一が声優の仕事しての完成は、その存在が消えることである、という意味のことを言っていたことである。このアニメやドラマの、この声は、誰がやっているのか、声優は誰か、ということを意識させるようではいけない。その役の俳優、登場人物が、演じているそのままを表現しなければならない。これはそうだろうと思って見たところである。

これについて、清塚信也が、クラシックは再現芸術だと言っていた。モーツアルトやベートーベンが、生きていたら、そのように演奏しただろうというふうに演奏するのが、正しい、ということになる。

これには、異論もあるにちがいない。

古い楽器を使って、その当時の演奏法で演奏すること……古楽……の再現に価値があるのか、あるいは、昔の音楽家が目指したものが何であるかを追求するのがいいのか、その時代の楽器の性能の限界ということもある。チェンバロで出せる音と、現代のピアノで出せる音は違う。これは、議論の尽きることのないテーマであるにちがいない。

それよりも、現代の音楽は、クラシックでもそうだが、演奏家の個性を重視するようになっている。私は、ショパンをこう理解しているので、こう演奏しました、ということで、個性を競うような方向に向かっている。このことがいいのかどうかという問題もあるだろう。はたして、バッハは、自分の個性を出そうとして曲を作っていたのか、というようなことは思ってみてもいいかもしれない。

個性的でなければならない、自分は自分らしくあらねばならない、それはそうだとしても、これが脅迫観念として人を、あるいは、アーティストを、圧迫することは、どうなのだろうか。

声優の仕事でも、クラシックの演奏でも、その人物が消えて、役だけ、音楽だけが残る、ということが、一つの理想の形であるという価値観があってもいいとは思っている。

なお、こういう考え方は、夏目漱石の『三四郞』で与次郎が、落語家について、うんちくを語っている部分で、同じようなことを言っている。

2026年4月10日記

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