英雄たちの選択「戦国乱世 フィクサー伝 〜堺の豪商 今井宗久〜」 ― 2026-04-24
2026年4月24日 當山日出夫
英雄たちの選択「戦国乱世 フィクサー伝 〜堺の豪商 今井宗久〜」
ゲストで出ていたのは、川戸貴史、真山仁。戦国時代の商人や経済のこととなるので、川戸貴史の出番ということなのかと思う。
かんぐれば、なのだが……『豊臣兄弟!』があまりにつまらないので、この時代は、実はこうだったんだよ、ということを言いたいということなのかなと、思いながら感じたことである。
戦国時代だから、合戦はあるとしても、合戦ばかりしていたわけではない。田畑は耕作しないといけないし、漁業などもあったし、生活のためには、物流と商業ということがあった。そして、銭が必要であった。銭が無ければ、合戦はできない。それどころか、その領地を治めることもできない。この当たり前のことを忘れているのが、いまの戦国時代ドラマということかもしれない。(『豊臣兄弟!』では、ドラマの中に銭のことがあまり登場しなくなった。はじまってしばらくころは、銭の話題が多くあったが。)
戦国時代の商業を象徴するのが、堺の街であり、今井宗久である、ということになろうか。
見ていて一番興味深かったのは、出てきた古文書で、商品の代金を銀で払うか、米で払うか、とあったことである。銀が通貨として利用されていたことは確かだとして、それと同時に、米が、(食べるためだけではなく)通貨(のようなものとしての価値をもって)取引されていた、ということでいいのだろうか。
信長が天下人になりそうと見こんで、信長に集中投資する。鉄砲を作る技術を向上させ、量産化して、大量に信長に提供する。これは、大きなビジネスになった。
鉄砲一丁が、今のお金で60万ほどということなら、おそらくは、世界で大量に流通しているカラシニコフ(のコピー品の廉価なもの)よりは高いかもしれないが、そこそこの性能の自動小銃といったところだろうか。
鉄砲よりも、むしろ硝石の貿易に大きくかかわっていることの方が、重要かもしれない。火薬がなければ、鉄砲があっても、ただの鉄のかたまりである。
本能寺の変の後、明智光秀が次の天下人になる可能性は低いと判断するのは妥当だっただろうが、では、秀吉が勝ち残るとは、断定するのは難しかったかもしれない。本能寺の変のときの、戦国武将や、寺社、それから、商人たちは、それぞれにどう考えて判断したのだろうか。また、その判断のもとになった情報は、どういうルートで流れていたのか。
おそらく、今井宗久という人物の動きを戦国時代で描くならば、インテリジェンスと、ロジスティックスについて、かなり実証的に、そして、深く調べなければならないだろう。(さて、こういうことの史料は、どれぐらい残っているものなのだろうか。)
茶が、レガリアである……というのは、そうだろうと思う。だが、その下地としては、室町時代からの、様々な芸能、遊芸、芸術、ということに、連なるのかとも思う。
それを、暴力装置と並行してうまく使ったのが信長であり、次の秀吉であった、という理解になるだろうか。
信長の茶壺が、今では、静嘉堂にあるというのも、近代におけるレガリア、美術品の意味を考えるとき、面白いことではある。
茶の席を、ビジネス……武器商人としての……の場として、うまく利用したのが、今井宗久であり、信長であった、ということでいいだろうか。千利休も、純然たる茶人であったということはないはずである(直接、政商として、ビジネスには関わらなかったかもしれないが)。
磯田道史が、この時代の価値の源泉として、中華・王法・仏法、と言っていたが、さあ、どうだろうか。日本は中国の冊封体制下にあったということではない。王権ということは、文学研究では近年つかうようになってきているが、日本の歴史を通じて王権ということを、どう考えるべきか。近代になってからの天皇のこともはいってくる議論になるが、考える価値はあると思うが、そう簡単に語れることではないだろう。仏法については、寺社勢力(経済と軍事)で考える部分と、仏教的なものの考え方という部分と、分けて考えるべきかもしれない。
2026年4月20日記
ドキュメント20min.「マスターピース 〜大滝詠一「幸せな結末」〜」 ― 2026-04-24
2026年4月24日 當山日出夫
ドキュメント20min.「マスターピース 〜大滝詠一「幸せな結末」〜」
大滝詠一というと、正直にいって、名前を知っているだけである。その音楽を、それと意識して聞いてきたということではない。知らないうちに耳にしていたということは、あるかとも思うが。
ドキュメンタリー番組としては、残っていた、「幸せな結末」の制作過程を記録した録音テープがあって、それを、どう使って作るかということかと思う。大滝詠一自身は登場しない。楽曲の制作にたちあった人たちの、いくつかの証言をもとに、そのプロセスを再構成したということになる。
見ていて面白いことと思ったのは、最初は、コード進行だけがあって、こまかなことは、スタジオでその場で口伝えでミュージシャンたちに伝えていく。それで、曲ができてくる。
音楽を作るというと、楽譜を前にして呻吟して頭の中のイメージを、どう書いていくのか、というようなことかと想像してみるのだが、かなり思っていたこととは違う。それでも、こういうことで、曲が作れてしまうというのが、プロのミュージシャンということになるのだろう。
そういえば、確か、勝新太郎が、撮影の現場で監督のことなんか無視して、その場で台詞を役者さんに口伝えで伝えて、映画・ドラマを作ったということがあったと覚えているのだが、プロの世界には、いろいろな流儀があるものである。
2026年4月23日記
ドキュメント20min.「マスターピース 〜大滝詠一「幸せな結末」〜」
大滝詠一というと、正直にいって、名前を知っているだけである。その音楽を、それと意識して聞いてきたということではない。知らないうちに耳にしていたということは、あるかとも思うが。
ドキュメンタリー番組としては、残っていた、「幸せな結末」の制作過程を記録した録音テープがあって、それを、どう使って作るかということかと思う。大滝詠一自身は登場しない。楽曲の制作にたちあった人たちの、いくつかの証言をもとに、そのプロセスを再構成したということになる。
見ていて面白いことと思ったのは、最初は、コード進行だけがあって、こまかなことは、スタジオでその場で口伝えでミュージシャンたちに伝えていく。それで、曲ができてくる。
音楽を作るというと、楽譜を前にして呻吟して頭の中のイメージを、どう書いていくのか、というようなことかと想像してみるのだが、かなり思っていたこととは違う。それでも、こういうことで、曲が作れてしまうというのが、プロのミュージシャンということになるのだろう。
そういえば、確か、勝新太郎が、撮影の現場で監督のことなんか無視して、その場で台詞を役者さんに口伝えで伝えて、映画・ドラマを作ったということがあったと覚えているのだが、プロの世界には、いろいろな流儀があるものである。
2026年4月23日記
サイエンスZERO「色彩の科学へようこそ!“黄色”は二重人格!?」 ― 2026-04-24
2026年4月24日 當山日出夫
サイエンスZERO「色彩の科学へようこそ!“黄色”は二重人格!?」
黄色は、RGBでは、R(赤)とG(綠)で作る(?)ことのできる色である。また、可視光のスペクトラムでも、黄色の領域はある。それから、L*a*b* では、単独の色(青と黄色の線)として存在する(?)。
サイエンスZEROの、色彩のシリーズを見ていて、よく分からない、あるいは、番組を作る側で言っていないこととしては、色というのは、実在するものなのだろうか、ということである。人間の眼には、RGBに対応するセンサー(錐体)があって、そこからの情報を脳で処理して、色彩として認識していると思っているのだが、その色彩とは、自然界に実在するものなのだろうか。それとも、人間が脳の中で作った、いわば虚構なのだろうか。
色彩が実在するとしても、それは、人間にとっての可視光の範囲でのことになる。異なる眼の機能を持った動物(紫外線を見ることができる)などは、また別の色彩の世界を見ているはずである。
動物の体の色は、いったい何のためにあるのか。その細胞と遺伝子レベルでのメカニズムは分かるとしても、より本質的なことは、その色彩が、自分をふくめ、他の動物や、自然界で、どういう意味があるのか。黄色い色の動物は、他の動物にも、人間と同じように黄色で見えているのだろうか。
もっとも、色の認識ということについては、ニュートンのように考えることもできるし、ゲーテのように考えることもできるが、ウィトゲンシュタインのように考えることもできる。
黄色い蛍光色の鉱物が発見されたというのは、とても興味深いのだが、そもそも、鉱物で蛍光という現象が起こるのは何故なのだろうか。そして、それが、人間の可視光の範囲で、黄色と認識されるということは、たまたまのことでいいのだろうか。
2026年4月20日記
サイエンスZERO「色彩の科学へようこそ!“黄色”は二重人格!?」
黄色は、RGBでは、R(赤)とG(綠)で作る(?)ことのできる色である。また、可視光のスペクトラムでも、黄色の領域はある。それから、L*a*b* では、単独の色(青と黄色の線)として存在する(?)。
サイエンスZEROの、色彩のシリーズを見ていて、よく分からない、あるいは、番組を作る側で言っていないこととしては、色というのは、実在するものなのだろうか、ということである。人間の眼には、RGBに対応するセンサー(錐体)があって、そこからの情報を脳で処理して、色彩として認識していると思っているのだが、その色彩とは、自然界に実在するものなのだろうか。それとも、人間が脳の中で作った、いわば虚構なのだろうか。
色彩が実在するとしても、それは、人間にとっての可視光の範囲でのことになる。異なる眼の機能を持った動物(紫外線を見ることができる)などは、また別の色彩の世界を見ているはずである。
動物の体の色は、いったい何のためにあるのか。その細胞と遺伝子レベルでのメカニズムは分かるとしても、より本質的なことは、その色彩が、自分をふくめ、他の動物や、自然界で、どういう意味があるのか。黄色い色の動物は、他の動物にも、人間と同じように黄色で見えているのだろうか。
もっとも、色の認識ということについては、ニュートンのように考えることもできるし、ゲーテのように考えることもできるが、ウィトゲンシュタインのように考えることもできる。
黄色い蛍光色の鉱物が発見されたというのは、とても興味深いのだが、そもそも、鉱物で蛍光という現象が起こるのは何故なのだろうか。そして、それが、人間の可視光の範囲で、黄色と認識されるということは、たまたまのことでいいのだろうか。
2026年4月20日記
100分de名著「ウィトゲンシュタイン“論理哲学論考”“哲学探究” (3)生成AIは言葉を理解しているのか?」 ― 2026-04-24
2026年4月24日 當山日出夫
ウィトゲンシュタイン“論理哲学論考”“哲学探究” (3)生成AIは言葉を理解しているのか?
この回になって、古田徹也は、自分の考えを述べるようになっている。前回までは、ウィトゲンシュタインが考えたことを、やさしく解説する、ということに徹していて、自分の意見を語るということがなかった。(これは、別に悪いということではない。自分の考えと、他の人が考えたこと、これを、きちんと区別して話すのは、研究者として当然のことである。)
AIに人間のことばが分かるのか、これは、ウィトゲンシュタインの時代には存在しなかった問題だが、現代では、非常にアクチュアルな哲学の、あるいは広く人文学の大きな課題となっていることである。
ことばが分かる、というのは、どういうことなのか、そもそものこの定義をめぐっては、まさにいろんな立場から議論がある。
個人的なことを書いておくと、数年前(というよりかなり近いが)、ChatGPTが登場してきたとき、もうことばをあつかう研究者の仕事を止めようと思った。日本語学の分野で、各種の文献資料をもとに、いろいろと考えることになるが、ここで、AIがつかったことばは、人間がつかったことばと、同列に見なしていいかということが問題になる。具体的には、その語や言い方の用例として使っていいか、ということになる。
これには、二つの立場がある。
(1)人間がつかったものではないのだから、人間のことばの用例として見なすことはできない。
(2)それを読んだり聞いたりした人間が、それで意味がわかり、特に不自然に感じることがないのならば、それは人間のことばと同じにあつかってよい。
原則的には、この二つの立場がある。もし、前者(1)の立場を厳格につらぬくとなると、ことばの研究は、非常な困難に直面することになる。現代では、もはや、文章を書くのにAIを補助的につかってもよい、あるいは、使うのが当たり前という時代になってきている。純然たる人間のつかったことばをとりだして集めるということが、(今の時代以降の資料・用例としては)絶望的に難しくなる。
では、(2)のAIのことばを人間のことばとまったく同じにあつかっていいのかとなると、これはこれで、その先にかなりややこしい議論がある。人間にとってことばとはなんであるかという問いについて、AIをふくめて考えなければならなくなる。
このような面倒なことにかかわるのは、もういやであると思って、きっぱりと日本語の研究の領域からは、手をひくことにした。年齢的にも、もう、そろそろリタイアしてもいいときだったし、ということもある。
これからは、AIがもたらす言語研究の世界を横目で見ながら、自分の好きな本……昔読んだ古典など……を、読んですごしたいと思っている。
2026年4月23日記
ウィトゲンシュタイン“論理哲学論考”“哲学探究” (3)生成AIは言葉を理解しているのか?
この回になって、古田徹也は、自分の考えを述べるようになっている。前回までは、ウィトゲンシュタインが考えたことを、やさしく解説する、ということに徹していて、自分の意見を語るということがなかった。(これは、別に悪いということではない。自分の考えと、他の人が考えたこと、これを、きちんと区別して話すのは、研究者として当然のことである。)
AIに人間のことばが分かるのか、これは、ウィトゲンシュタインの時代には存在しなかった問題だが、現代では、非常にアクチュアルな哲学の、あるいは広く人文学の大きな課題となっていることである。
ことばが分かる、というのは、どういうことなのか、そもそものこの定義をめぐっては、まさにいろんな立場から議論がある。
個人的なことを書いておくと、数年前(というよりかなり近いが)、ChatGPTが登場してきたとき、もうことばをあつかう研究者の仕事を止めようと思った。日本語学の分野で、各種の文献資料をもとに、いろいろと考えることになるが、ここで、AIがつかったことばは、人間がつかったことばと、同列に見なしていいかということが問題になる。具体的には、その語や言い方の用例として使っていいか、ということになる。
これには、二つの立場がある。
(1)人間がつかったものではないのだから、人間のことばの用例として見なすことはできない。
(2)それを読んだり聞いたりした人間が、それで意味がわかり、特に不自然に感じることがないのならば、それは人間のことばと同じにあつかってよい。
原則的には、この二つの立場がある。もし、前者(1)の立場を厳格につらぬくとなると、ことばの研究は、非常な困難に直面することになる。現代では、もはや、文章を書くのにAIを補助的につかってもよい、あるいは、使うのが当たり前という時代になってきている。純然たる人間のつかったことばをとりだして集めるということが、(今の時代以降の資料・用例としては)絶望的に難しくなる。
では、(2)のAIのことばを人間のことばとまったく同じにあつかっていいのかとなると、これはこれで、その先にかなりややこしい議論がある。人間にとってことばとはなんであるかという問いについて、AIをふくめて考えなければならなくなる。
このような面倒なことにかかわるのは、もういやであると思って、きっぱりと日本語の研究の領域からは、手をひくことにした。年齢的にも、もう、そろそろリタイアしてもいいときだったし、ということもある。
これからは、AIがもたらす言語研究の世界を横目で見ながら、自分の好きな本……昔読んだ古典など……を、読んですごしたいと思っている。
2026年4月23日記
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