『真田丸』あれこれ「信之」2016-09-21

2016-09-21 當山日出夫

9月18日、放送の『真田丸』第37回「信之」についていささか。

やはり私の関心は、信繁は、いったい何のために行動しているのであろうか、そのエトスにある。

兄、信幸(信之)は、真田の家(イエ)のために行動している。決して、徳川の一員としての忠誠心からではない。

父、昌幸が、昔はよかった、楽しかったと回想するシーンがあった。戦乱の世をなつかしんでいる。それは、それなりに理解できるものである。

しかし、信繁はどうだろう。真田のイエのために行動しているようでもある。だが、父のように昔の戦乱の世にもどって、領地を戦って得ようとは思っていない。それは、もはや不可能なことである。むしろ、これからは、徳川の世になって、戦乱がおさまることを予見しているかのごとくである。

であるならば、信繁は、なぜ徳川に敵対することになるのであろうか。徳川に降伏して、蟄居を命ぜられた恨みからか。あるいは、馬廻衆としてつかえた、豊臣の一員としての忠誠心のためか。このあたり、現在の時点での信繁の描きかたとしては、そのどれでもなく、ただ、ひたすら冷静に世の中の動き(豊臣から徳川に実権が移っていくこと)と、己の立場……運命とでもいえばいいだろうか……を、見据えているがごとくである。牢人となってしまった信繁には、もはや守る故郷もない。ここには、このドラマの最初の方によく登場した、真田の郷へのパトリオティズムの入り込む余地はもはやない。

これから、九度山での生活を経て、大阪の陣へと物語は進んでいくのだろう。信繁はどう描かれることになるのであろうか。豊臣の家臣としてか、あるいは、牢人としてか、あるいは、武士としてか。このあたりの、信繁の立場とエトスをどのように描写していくことになるのか、気になっている。

徳川に敵対し、豊臣の側につく、そこに、牢人ではあっても「武士」としてのエトスを見いだすことになるのであろうか。今はまだ、信繁にとって雌伏のときのようである。

服部龍二『田中角栄』2016-09-22

2016-09-22 當山日出夫

服部龍二.『田中角栄-昭和の光と闇-』(講談社現代新書).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883825

著者は、1968年(昭和43年)の生まれとある。私よりも若い……私ぐらいの世代(1955)だと、ちょうど、田中角栄の登場(首相になったとき)から、コンピューターつきブルドーザー、日中国交回復、日本列島改造論、立花隆の田中金脈問題、ロッキード事件、そして、その晩年から死にいたるまでを、マスコミなどでつきあってきて、記憶にもっている。そのせいであろう、この本をざっと読んで、あまりにも冷静・客観的に、「歴史」として田中角栄のことを書いてあるので、う~ん、このような見方ができる時代になったのか、という感慨の方が先になってしまう。

で、気になるところといえば、どうしても、ロッキード事件の真相はいかに、ということなのだが、この本、読んでみてもはっきりとは書いてない。まあ、真相は別にどうでもよくて、裁判がどのように推移したかを描いておけばよい、という立場もあるのだろう。しかし、なんとなく、物足りない気がしている。
第6章 誤算と油断――ロッキード事件(pp.228-259)

たぶん、このように感じるのは、私よりも上の世代までなのかもしれない。若い人になれば、もはや昭和の過去の歴史の一コマなのであろう。

「日本列島改造論」についても、結局は東京への一極集中をまねくことになったとの批判があることについて、

「これらのことを田中の限界とするのは簡単だろう。しかし、地方から東京に向かおうとするメンタリティは、政策や理屈を超えた日本人の本能である。田中といえども、それは容易に是正できなかったのである。(p.143)

というのは、どうなのだろうか。「日本列島改造論」の登場したときの熱気と、それから、田中金脈問題、ロッキード事件を契機として、手のひらを返したようなマスコミの反応、これらを体験的に知っている人間としては、そのようなドラマの背景にある日本の心性とでもいうべきものを探っていくべきではないかと思えてならない。ただ、政治、あるいは、政局の話をするだけではなく、それを受けとめる、あるいは支持する(しない)人びとの心情というものがある。

かつて、若いとき、『田中角栄研究』(立花隆)を読んだことのある人間としては、この本を通読してみて、時代が変わったな、という気がした本である。

おそらく、このような政治を歴史的に語る語法では、現代の問題として、民主党政権の誕生と挫折、それから、昨今の安保法案をめぐる攻防、このような動きも、いずれは、冷静に分析される対象となるのだろうと思う。これは、必要なことなのかもしれないが、その同時代に生きている人間の感じたこと、思ったこと、これをどのようにくみ上げていくか、その方法論も別にあってよいのではないかと思えてならない。

この本にかぎらず、最近、田中角栄についての本がたくさん刊行になっている。ここのところの一連の動きをみていると、やはり田中角栄というのは再評価されるべき政治家なのだと、再認識させられる。これは、これからの次の世代の人の仕事になるのだろう。ともあれ、昭和(戦後)という時代も、「歴史」として研究されるようになってきた、その思いをつよく感じた本である。

小書きの仮名は別の文字なのか(その2)2016-09-23

2016-09-23 當山日出夫

以前に書いたことのつづきである。

やまもも書斎記 2016年9月19日
小書きの仮名は別の文字なのか
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/19/8194165

小書きの仮名、これが通常の大きさの文字(仮名)と同じであるかどうか、という問題。これを考えるときに次のことも考慮にいれないといけないだろう。

第一には、小書きの仮名は、それ単独では音を表ささないということである。一般には、仮名は表音文字である。だが、小書きの仮名は、それ単独で読むことができない。

たとえば、

「しゃ」

の「ゃ」だけを取り出して読もうとしてもできない。促音の「っ」も同様である。それ単独で音を取り出すことができない。前後の文字(仮名)と一緒になって初めて、ある特定の音を表すことができる。「しゃ」の「し」と「ゃ」を分離してしまうことは、できない。

第二には、文字の大きさだけではなく、表記されたときの位置も問題になることである。横書きでは、左下にくるようになるし、縦書きでは、右上にくるようになる。ただ、文字の大きさが小さくなっているだけでは、表記として不十分である。つまり、どの方向に小さくなっているのか、位置するのかということまで含めての文字ということになる。

ワープロで文書を書いていて、そこだけフォントのポイントを下げてやったのでは、不体裁な文書にしかならない。現代の通常の日本語文では、そのような表記法はつかわない。

以上の、二点。こういうことを考えるならば、単に文字の大きさの大小では割り切れないことになる。単独では同じかたちの文字であるが、表記されたときの行内における位置情報までふくんでいる文字ということができようか。

ただ、そうはいっても文字の「かたち」、これを字体といっておくことにするが、これは、同じである。さて、どう考えればよいのであろうか。

実際に表記されるときのあり方から、ただ文字それだけを取り出してきて論ずることは、不適切なのであろうか。あるいは、文字と、表記の方法(文字をどう使うか)を、分けて考えるべきなのであろうか。

今のところこのように考えることもできよう……たとえば、宣命書のことなどを念頭においていみるならば、あるいは、延慶本平家物語などを考えてみるならば、文字の大きさというのは、表記の方法に属することがらであって、文字そのものの属性ではないと考えておくべきなのかもしれない。

アイヌ語の仮名表記2016-09-24

2016-09-24 當山日出夫

現在のコンピュータにある仮名は、日本語の表記のためのものもあるが、アイヌ語の表記のためのものもある。

次の仮名である。

セ゚ツ゚ト゚ (半濁点)

ㇰㇱㇲㇳㇴㇵㇶㇷㇸㇹㇷ゚ㇺㇻㇼㇽㇾㇿ (小書き)

これらの仮名、今、私がこの文章を書いているエディタ(WZ9)では、正しく表示してくれない。これらの仮名は、「0213」で追加になった仮名である。だから、JIS規格にはなっている文字。しかし、実際の運用は、ユニコードで使うようになっている。ワープロ(Wordなど)では、ユニコードとしてあつかって表示する。(なお、同じファイルを、EmEditorでひらいて表示させると、ただしく見える。たぶん、WEBでも大丈夫だと思うので使っておく。また、ワープロ(一太郎2016)を使っている場合、横書きでは正しく表示(合成)するのだが、縦書きになると乱れてしまう。これは、ガ行鼻濁音の半濁点についてでも同様の現象が起こる。)

アイヌ語の場合、半濁点「゜」付きの仮名は、合成で示す。

したがって、JISの文字のコード表にはあるのだが、ユニコードの表にははいいっていない文字がある。その文字単独でははいっていない。「゜」と合成してつかうことを知らなければ使えない文字ということになる。

小書きの「ㇷ゚」(半濁点)などが、特に問題となる。

アイヌ語を表記する仮名が、JIS規格に決められ、そして、ユニコードで運用が可能になっている、このこと自体はよろこぶべきことであろう。だが、問題があるとすれば、次の二点。

第一に、現在のJIS規格「0213」で、アイヌ語用の仮名が入っていることが、どれほど知られているだろうか、ということ。

第二に、半濁点つきの仮名は、ユニコードでは合成で表示するようになっているため、エディタやワープロがそれに対応していない場合、正しく表示されないことがある、ということ。

以上の二点が、今後の問題として残っていることになる。

ところで、このアイヌ語仮名、知識としては知っていたが、実際に使用された事例を目にしたのは、最近になってからである。

池澤夏樹=個人編集「日本文学全集」30『日本語のために』.河出書房新社.2016

この本については、すでにふれた。

やまもも書斎記 2016年9月17日
日本文学全集30『日本語のために』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/17/8192276

「アイヌ神謡集」、知里幸恵 著訳/北道邦彦  編
「アイヌ物語」、山辺安之助/金田一京助 編
「萱野茂のアイヌ語辞典」

これらのアイヌ語の表記に、JIS規格で制定された仮名を見いだすことができる。おそらく、一般的な書物(アイヌのことを専門にしたのではない)において、アイヌ語仮名が使用された、珍しい例といえるのかもしれない。

気になるのは、この本『日本語のために』の組版において、アイヌ語の組版データはどうなっているのだろうか、ということなのである。JIS規格文字(フォント)が使用されたのであろうか。それとも、通常の仮名を小さく印刷したのであろうか。このことが気になっている。

琉球語の仮名表記2016-09-25

2016-09-25 當山日出夫

昨日はアイヌ語の仮名表記を見たので、今日は琉球語の仮名表記を見ることにする。

やまもも書斎記 2016年9月24日
アイヌ語の仮名表記
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/24/8198295

同じく、『日本語のために』を見ることにする。

やまもも書斎記 2016年9月17日
日本文学全集30『日本語のために』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/17/8192276

この本の琉球語のところ、第5章を見る。
「おもろさうし」 外間守善 校注
「琉歌」 島袋盛敏

このうち、「琉歌」の1866(p.194)に、

「ゐ」小書き

が見て取れる。これは、JIS仮名に無い字である。

この本の解題をみると、『標音評釈 琉歌全集』が1968年、『琉歌大観 増補』が1978年、とある。

もちろん、琉球語を日本語の一方言とみなすか、あるいは別言語とみなすか、議論のあることは承知している。さらに、ただ琉球語というのではなく、言語学的には、さらに細かな言語になることも、一応の知識としては持っている。

そのうえで、あえて問われてしかるべきであろう……アイヌ語の仮名がJIS仮名としてはいっているのに、琉球語の仮名表記ができなのは、どうしてなのか。JIS規格「0213」のとき、琉球語は考慮しなかったのか。「0213」の制定は、2000年である。年代としては、資料的に利用しえたはずのものである。

問題としては、安定した字体・表記法があるかどうか、ということがあったのかもしれない。

ここで、小書きの仮名は、通常の文字と同じ文字なのか、別の文字なのか、という議論がふたたび必要になってくる。同じ文字で大きさがちがうだけならば、それはそれでよい。しかし、別の文字として存在を認めるならば、文字の規格に必要であるという論になる。情報交換のための文字としての必要性を主張できる可能性がある。

さて、どうしたものだろうか。

半藤一利『荷風さんの昭和』2016-09-26

2016-09-26 當山日出夫

半藤一利.『荷風さんの昭和』(ちくま文庫).筑摩書房.2012 (原著、『荷風さんと「昭和」を歩く』.1994.プレジデント社 文藝春秋.『永井荷風と昭和』(文春文庫).2000.文藝春秋)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480429414/

「歴史探偵」を自称する著者が、仕事(文藝春秋での編集者)をやめて、独立して最初に書いた本、とのこと。はじめプレジデント社で出て、その後、改題して文春文庫で出て、さらに改題して、ちくま文庫になっている。ちくま文庫には、『荷風さんの戦後』がすでにあるので、それにタイトルを合わせたものである。

私のこれまでの読書をふりかえれば、永井荷風の作品を読むよりも、荷風について書かれたものを読む方が多くなってきているような気がしている。その転機となったのは、

川本三郎.『荷風と東京-『断腸亭日乗』私註-』.都市出版.1996

あたりからかなという気がしている。

この本、おわりの「あとがき」から読んだが、参考文献に『荷風と東京』(川本三郎)はあがっていない。そう思って確認してみると、半藤一利のこの本は、1994に出ている。川本三郎の本は、1996。これでは、参考文献に出てこないのも無理はないと納得した次第。

上述のように、今の私としては、荷風の作品を読むよりも、荷風について書かれたものを読むことの方が多くなってきている。また、その方が面白いような気もする。無論、『断腸亭日乗』も、岩波書店版(「荷風全集」からのもの)を持っているし、岩波文庫の抄録版も読んではいる。もちろん、『濹東綺譚』『あめりか物語』『ふらんす物語』など、文庫本で若いときに読んだものである。また『珊瑚集』なども手にとったりしていた。

ここまで書いて確認のため、ジャパンナレッジで『珊瑚集』を検索してみたが、ヒットするのは一件だけ(『日本大百科全書』)だった。岩波文庫版も、いまではもう売っていないようだ。

ところで、この本『荷風さんの昭和』は、「歴史探偵」の視点で書かれている。特に筆者が、文藝春秋をやめて文筆業で生きていくことのスタートとなったのがこの本であることを考えると、「歴史探偵」を自称したことの意味が、重みをましてくる。

歴史家、歴史学研究者ではない。かといって、小説家、歴史随筆の類でもない。史料、研究書にもとづきながらも、自由に、そして読者の読みやすいように、歴史のできごとのなかを探索して歩く、そんな意味があるのだろうと思う。ここからは、「歴史とは何か」ということを考える、一つのヒントがあるようにも思える。

「歴史探偵」は史料批判もおこなう。たとえば、

生前に刊行では、
「五月三日、雨。日本新憲法今日より実施の由なり」
とあるものが、死後のものでは、
「五月初三。雨。米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑う可し」
となっているとのこと。(p.17)

「日記」だからといって事実が書いてあると鵜呑みにしてはいけない。その書き手がどのような思いで、その時代を生きてきたのか、そこをくみ取って読んでいかなければならない。この本は、このような姿勢で、『断腸亭日乗』を読み解きながら、荷風によりそって、昭和(戦前)という時代を眺めたものになっている。この戦前の『断腸亭日乗』からは、その時代をみてとることができる。(このことは逆に言えば、戦後になってからは、そうではなくなってしまうことを意味するのだが、それについては、また改めて書いてみたいと思う。同じ著者の『荷風さんの戦後』がある。)

歴史探偵として日記を読むということは、何がどのように書かれているか、あるいは、いないか、その時代のながれに沿ってみていくことになる。たとえば、昭和11年のこと、世の中はベルリン・オリンピックで大騒ぎしている状況のなかで、荷風の日記は、淡々とした記述しかみられない。意図的に、世の中のオリンピック騒ぎを無視しているのである。

このところ筆者はこのように記している、

「わたくしは荷風さんへの敬愛をより深くするのは、『日乗』のこの辺のところを読むことによってである。この、連日記録されているほとんど天象だけの一行の背後で、実はナチス・ドイツの首都ベルリンでひらかれていたオリンピックの、国民的熱狂があったのである。全国民が日の丸が揚がるかどうかで一喜一憂、それはラジオの実況放送を通して煽られ、国家ナショナリズムがいっそう燃え上がっていたとき。」(p.165)

史料を読むとき、そこに何が書かれていないかまで読み解くものでないと、本当に読んだことにはならない。その見本とすべき箇所であろう。このような箇所は、歴史のかがみとすべきといってもよいであろう。

この本の魅力は二つの方向から考えることができると思っている。

第一には、歴史探偵・半藤一利の描き出す昭和(戦前)の時代の動きである。

たとえば、荷風の玉の井通いに関連して「ちょんの間」ということばにふれている。そして、こうある。

「脇目もふらず、高度経済成長に突っ走るまでは、昭和はほんとうに貧しくむごい時代であったのである。」(p.142)

第二には、史料として読んでいる『断腸亭日乗』、あるいは、永井荷風という人間の生き方の面白さである。この本で、著者は、荷風を昭和(戦前)の時代における、日本国内での「亡命者」であると言っている。そして、その視点から、時代を記録しておこうという強固な意志のもとに書かれたのが『断腸亭日乗』ということになる。荷風は、自分の書いている日記が、後世に残るものであるとして書いていた。いや、この日記こそを自分の仕事として残そうとしていた。

戦後、荷風の晩年、その「全集」が刊行になったとき、荷風は『断腸亭日乗』を入れている。このあたりの経緯については、この本の続編というべき『荷風さんの戦後』に書いてある。(この戦後の本のことについては、あらためて書いておきたいと思っている。)

「亡命者」である荷風が、安逸の場を見出したのが、東京の下町、なかんずく玉の井界隈であったことになる。このあたりのことを描いたのが、川本三郎の『荷風と東京』になるのかなと思っている。

以上の二点が、この本が、歴史探偵の荷風論として、読むべきポイントかと思う。

そういえば……『荷風と東京』(川本三郎)を読んだのは、この本が出たとき。ずいぶん昔のことになる。ふと、読み返してみたくなっている。

『夏目漱石の妻』第一回2016-09-27

2016-09-27 當山日出夫

やっと録画してあったのを見た。土曜日は国語語彙史研究会、日曜日は表記研究会で家をあけていたので、今日になって録画を見ることができた。

感想はといえば、NHKが頑張って作ったという力作だなあ、という印象。尾野真千子がうまい。

で、気になって見たいたことが一つある。登場人物の中の女性は、女学生言葉を使うだろうか、ということ。漱石の作品の重要な要素に、女学生言葉を使う女性の存在がある。『三四郎』における美禰子。『それから』における三千代。『こころ』の先生の奥さん(お嬢さん)もそうである。これらの女性は、作中でどれも重要な位置にある。

第一回を見た限りでは、そのような女性は出てこない。ヒロイン(鏡子)のつかっていることばは、ややおてんばな感じのする東京山の手ことば、とでもいえばいいのだろうか。この脚本では、女学生言葉を使うという設定にはしていない。たぶん、脚本で苦労するのは、どのようなことばを使わせるか、というあたりだと思ったりもするのだが、実際、できあがったドラマは、それなりに考えた上で作っているのだろうな、という感じをいだいた。

ところで、次回(第二回)は、もう『猫』の話しになるのか。第一回の終わりは、漱石の英国留学の話しが起こったところで終わっていた。その留守の間の東京での生活とか、次回は出てくるのだろうか。あるいは、英国での漱石の暮らしぶりとか、描くのだろうかと気にはなっている。

次回(もう、今週末か)は、家にいる予定なので、第二回をたのしみに見ることにしよう。

そういえば、次の本、まだ読んでいない。

末延芳晴.『夏目金之助ロンドンに狂せり』.青土社.2016
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2930

今週の内(次回までに)読めるかな。

手帳のはなし2016-09-28

2016-09-28 當山日出夫

今年も、来年の手帳を用意しなければならない時期になってきた。先日、近所のホームセンターに行ったら、文房具売り場のところに、来年の手帳がならんでいた。家にかえってさっそくオンラインで注文した。店で買ってもいいのだが、どうせ同じ種類のを毎年つかっているので、型番がわかればオンラインですむ。

私が毎年つかっているのは、高橋の104番、というものである。
http://www.takahashishoten.co.jp/notebook/31104.html

見開きの左が、一週間の予定(時刻の目盛りもある)、右が、空欄になって自由に書き込める。

昔は、歴史手帳(吉川弘文館)をつかっていた。学生のころのことである。何のためかというと、西暦と年号の対照表を見るためである。日本の古典文学など勉強していると、自分が机にすわって勉強していて、そのまま手のとどくところに、西暦・年号の対照表がないといけない……そんな気持ちから、使っていた。

ただ、普通の手帳としては使いにくい。右のページに、いろいろ歴史的な事項が印刷してあるので、書き込みがしにくい。特に、週末の予定について、細かに何か記しておこうとすると邪魔になる。

一時、山川の歴史手帳をつかっていたこともある。これも便利だが……サイズが小さいので、ちょっと使いにくかった。逆に、吉川弘文館のは、大きすぎて、これも困った要因になる。その吉川弘文館の歴史手帳も、近年、さらにサイズが大きくなっている。

そこで割り切ることにした。手帳は手帳として使いやすいものを選んでつかう。それとは別に、歴史手帳を買って、それを身の回りにもっておく。手のとどくところにおいておく。このように考えるようになった。

手帳についてふりかえれば、今でも売っているが、一時、システム手帳というのがはやったことがある。だが、私は、なんとなく好みに合わなかったのでつかなかったし、今でも使っていない。綴じるためのファイルのリングが中央にくるため、左ページに書き込みがしにくい、というのが主な理由なのであるが。

これは都市伝説なのだろうか……と思っている知識なのだが、件のシステム手帳というもの、かなりサイズが大きいものになる。これは、身につけてて持ち運べる限度を考えてのことらしい。だが、これも割り切りだと思っている。どうせカバンにいれて持ち運ぶものであるなら、大きさは大きい方がいい。逆に、服のポケットにはいる……夏場、上着のシャツのポケットにも充分にはいるサイズとなると、これは、小さめのサイズがいい。システム手帳、あるいは、大きめのサイズの手帳というのは、夏でも上着を着ているような気候・環境、あるいは、そのような服装をする職業でないと意味がないことになる。

そういえば、学生のころ、習ったある先生。日本美術史が専門の先生だったと記憶するが……吉川弘文館の歴史手帳の西暦・年号の対照表のところだけをきりとって、別の手帳にはさんでつかっていた先生がいた。これもひとつのアイデアだと思って、感心してみていたが、自分では実行せずに、今にいたっている。

『真田丸』あれこれ「昌幸」2016-09-29

2016-09-29 當山日出夫

この前の日曜日の放送の『真田丸』第38回「昌幸」についていささか。

やはり続けて、信繁のエトスについて考えてみる。

この観点で一番興味深かったのは、板部岡江雪斎と高野山での再会のシーン。ここで、江雪斎は、信繁に対して、「瞳の奥には、武士の精神が、熾火のようにある」という意味のことを言っていた。言い換えるならば、信繁は、武士のとしてのエトスを失ってはいない、ということなのだろう。そして、これは、将来の信繁の生き方についての伏線にもなっている。

この回のメインは、父(昌幸)の最期。ここで、昌幸は、戦国の武士として死んでゆく。その昌幸は、信繁に、徳川と戦うことになったときの策略を伝授して亡くなる。父(昌幸)は、戦国武将として生きた人間となる。昌幸のエトスは、戦国武将のそれであったといえるであろう。では、その子(信繁)は、どう描かれることになるのだろうか。

徳川にうとまれ、高野山で蟄居の身。だが、武士であることは捨てていないようだ。これからの信繁のエトスとなるのは、武士として生きていく限り、徳川につくことがないとすれば、豊臣のために戦うしかないという選択だろう。

このドラマでは、様々なエトスが描かれている。徳川家に対する忠誠(本田正信など)、豊臣家への忠誠(石田三成など)。それから、信繁……牢人となっても武士であることのエトス。信繁は、もはや、豊臣の家臣ではない。しかし、徳川と戦うことになると豊臣につかざるをえない。これは、時代の「運命」といってもよいものかもしれない。信繁が豊臣のために戦うことになるのは、私には「運命」であるように思える。

「運命」ということば、現代人には似つかわしくないかもしれない。しかし、一昔前までの人間にとって、おのれの「運命」のもとに生きるというのは、自然ななりゆきであったのかもしれないと思って見ている。

さて、次回はどうなるだろうか。

大日本帝国という言い方2016-09-30

2016-09-30 當山日出夫

半藤一利.『荷風さんの昭和』(ちくま文庫).筑摩書房.2012 (原著、『荷風さんと「昭和」を歩く』.1994.プレジデント社 文藝春秋.『永井荷風と昭和』(文春文庫).2000.文藝春秋)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480429414/

26日のつづきである。

やまもも書斎記 2016年9月26日
半藤一利『荷風さんの昭和』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/26/8201755

歴史学者ではなく、歴史探偵の書いたものを読むと、貴重な勉強になることがある。たとえば、次のような箇所。

「戦前は一貫して「大日本帝国」であったと思いこんでいく人が多いが、ほんとうにそうときまったのは昭和十一年の二・二六事件のあとなのである。正確には四月十八日。すなわち、詔書、公文書のなかでこれまで日本国、大日本国、大日本帝国などまちまちであったものを、外務省はこの日、大日本帝国に統一し、すでに実施していると国民に発表した。また、天皇と皇帝が混用されてきたが、これを大日本帝国天皇に統一したとも発表した。」(pp.171-172)

残念ながら、その外務省の発表の史料が示されていない(これは、自分で探してみるしかない。ここから先は、歴史研究の分野になる。)

以前、『歴史を考えるヒント』(網野善彦)についてふれたことがある。

やまもも書斎記 2016年8月28日
網野善彦『歴史を考えるヒント』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/28/8164364

ここで、網野善彦は、「日本」という国名がいつからつかわれているか問いかけている。この本で、著者は、7世紀(689)の浄御原令の施行からであるといっている。一般の日本史の年表風にいえば、奈良時代になる(710)の少し前から、ということになる。

日本史、日本文学、日本語、というようなことを勉強していながら、「日本」という国の名称がいつきまったのかは、それほど強く意識することがない。その問題点をついた問いかけになっている。

「日本」の名称と同様、近代になってからの「大日本帝国」という言い方も、戦前は、明治からずっとそうであったと思ってきているかもしれないが、上記のように正式に対外的に決まったのは、昭和11年からということらしい。

ちなみに、ジャパンナレッジで、「大日本帝国」を検索してみると、「大日本帝国憲法」がヒットする。そして、この明治憲法による日本の国名と出てくる。見出し単独では、「大日本帝国」は出てこない。

憲法で決められた国の名称という意味でなら、明治(憲法)にさかのぼる。だが、国際社会のなかで、日本がみずからの名称をそうきめたのは、昭和になってから、ということのようだ。「日本」という国の名称の使用について慎重であるべきなら、「大日本帝国」という名称の使用についても慎重でなければならないだろうと考える。