加藤陽子『戦争まで』「百年前の古傷がうずく現代史」2016-09-11

2016-09-10 當山日出夫

加藤陽子.『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』.朝日出版社.2016
http://www.asahipress.com/sensomade/

この本については、また改めて書いてみたいと思っている。いつものように、後ろの方がから読んで気になったこと。ここでは、以前に書いたこととの関連で、一つだけ記しておきたい。

中東におけるISの存在をどう見るか、ということである。

やまもも書斎記 2016年7月12日
長谷部恭男『憲法とは何か』「冷戦の終結とリベラル・デモクラシーの勝利」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/12/8129901

やまもも書斎記 2016年7月21日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「ホッブズを読むルソー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/21/8135281

ここで記した、ホッブズとルソーに依拠して、長谷部恭男の言っていること……戦争とは国家と国家との間の戦いであり、それは、相手側の憲法を書き換えさせることを目的とする、というあたりのことである。この考えかた、著者(加藤陽子)は、かなり気にいっているようである。この本の冒頭で、まずこの考えを紹介してある(p.24)。そして、また、最後の方ででてくる。

ところで、私は、このように書いておいた。

「だが、このルソーの議論は、「国家」が「憲法」という基本原則を持つという状態においてしか、なりたたない現在、世界で問題となっている、国家を相手としない「テロとの戦い」に、この論理が適用できるかどうかは、また別の観点が必要であろう。」(7月12日)

今、世界でいわれている「テロとの戦い」を象徴するのがISとの戦いであることは、大方の異論はないと思う。では、ISは「国家」なのか、という疑問がある。

『戦争まで』の「終章 講義のおわりに」の「百年前の古傷がうずく現代史」(p.444)で、以下のような議論を展開している。

ISの目的が、第一次大戦後イギリス・フランスの間でむすばれたサイクス・ピコ協定への攻撃、これを使っているとしている。

「百年前のサイクス・ピコ協定を終わらせる、との主張自体、彼らの組織と権力を成り立たせている正統性原理として機能しているのだと思います。/ですから、ISと各国の戦いは、テロリストとの戦いであって、それは、お互いの憲法原理を攻撃する戦争ではない、とは必ずしも言えないのではないかと私は考えています。ルソーの見立ては、この非対称的に見える紛争においても、十分に通用しているのではないでしょうか。」(p.447)

確かにこのように言われてみると、ISには、それなりの正統性を主張する理由はある、ということになる。であるならば、このISとの戦いを終わらせるには、ISの主張の根底にある歴史……百年前にさかのぼって歴史を検証し、納得する結果を導き出すほかはないことになる。ただ、武力攻撃すればよいというものではない。

だからといって、現在の世界のテロ行為すべてが、これで説明できるわけでもないようにも思われる。はたして、現代の世界における紛争のすべてが、このように理解されうるものなのであろうか。

そして、また、次のような疑念も残るのである……武力によって強引に書き換えさせられた憲法は、はたしてどこまで有効であろうか。もちろん、これは、現在の日本における改憲論議を念頭に言っている。力によって作られた憲法は、その有効性として、また別の問題をはらむように思えてならない。

たぶん、憲法の制定を歴史的に見るというこの視点は、現在の憲法が改定されることがあるとすれば、それは、現代史におけるどのようなポイントにおいてであるのか、という視点を導き出すことになる。戦後70年を経て、日本はその「戦後」の歴史をどのように描くことなっているのか、このような観点から近現代史を見ることになる。

憲法の制定(あるいは、改定)の問題は、現代の問題であると同時に歴史の問題であもある。

追記 2016-09-12
『戦争まで』については、
2016年9月12日
加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/12/8182853

加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』2016-09-12

2016-09-12 當山日出夫

加藤陽子.『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』.朝日出版社.2016
http://www.asahipress.com/sensomade/

この本を読み終えて、まず私がしたこと。それは、次の文章をWEBで見て確認することであった。

天皇陛下のお言葉
全国戦没者追悼式 平成27年8月15日(土)(日本武道館)
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h27e.html#D0815

内閣総理大臣談話 平成27年8月14日
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html

この『戦争まで』の「1章 国家が歴史を書くとき、歴史が生まれるとき」において、言及(引用)してあるものを、全文、確認しておきたかったからである。そして、たぶん、このようなことが、この本の著者(加藤陽子)の期待している本の読まれ方、その少なくとも一つではないかのかと思う。

昨年、上記の二つの文章は、さんざんマスコミで言及され、場合によっては(特に、首相談話については)強く批判されてきたものである。だが、その全文をあらためて読み直してみる価値、その必要はあると思う。これが、日本の国として、過去を顧みて、そして、将来に残すことになることばなのである。

で、この本、『戦争まで』は、太平洋戦争(私は、あえて大東亜戦争といういいかたをしたいのだが)の開戦にいたるまでの日本の決断・選択について、主に高校生を対象として語ったものである。先に刊行された、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の続きと思えばいいだろうか。

http://www.shinchosha.co.jp/book/120496/

決断・選択の場面は三つ設定してある。
・リットン報告書
・日独伊軍事同盟
・開戦前の日米交渉
これらについて、一次史料にもとづいて、日本に他に選択肢はなかったのか、検証してある。

たとえば、満州事変の後のリットン報告書については、これは、自らも大英帝国の一員であったリットン卿の作成したものとして、日本としても妥協できる余地を十分に与えるものであったことが検証されている。

高校生を対象に語っている本であるから、高校程度の日本史の知識があれば、十分に理解できる内容になっている。私のならった高校の日本史の知識としては、満州事変後の国際連盟が派遣したリットン調査団は、日本がとてものめないような結論をつきつけた。その結果、日本は国際連盟を脱退するという道を選んだ……と覚えているのだが、実はそうではなかったらしい。

日独伊軍事同盟についても、バスに乗り遅れるな、のかけ声のもとに、ドイツ・イタリアについた、というわけではないようである。その条約締結の直接の担当者の残した史料から、意外な理由があきらかにされる。

開戦にいたる日米交渉については、よくいわれるアメリカ謀略論……アメリカが日本を開戦においこんだ、はては、アメリカは真珠湾を攻撃されることを知っていた……が、批判的に検証されている。

そして、蛇足で私見を付け加えるならば、もし、日米交渉があと半年つづいていたら、つまり、ドイツとソ連の戦争の行方がどうなるか分からないという時点まで判断を先延ばしすることができたなら、という思いがしてならない。この本では、そこまでは語ってはいないのだが。

この本のはじめの方で、高校生に話をする目的を、登山にたとえている。

「大学や大学院という学びの最終段階で長年教え、また自ら研究も続けてきた人間ならではの役割があるとすれば、それは、山登りの準備段階をすっ飛ばし、富士山を登りきったとき、山頂から見える風景や見晴らしを語ることにあるのではないかと感じています。」(p.19)

これは、著者の専門家としての自信の表明であると同時に、歴史学研究というのは、何よりも史料にもとづいて構築されるべきものである、その手続きが重要であることを言っていると、私は理解して読んだ。そして、この本でも、基本的に史料にもとづいて歴史を検証していくという方法論をとっている。

これは当たり前のことのように思えるが、実は重要な点だと思う。世にある、いろんな歴史関係の書物は、必ずしも、この歴史学の手続きをふまえたものばかりとは限らない、ということがある。特に、この本が対象とした、日本が開戦にいたった経緯については、いろんな俗説がはびこっている。それを、最新の研究成果にもとづいて、そして、史料を読みながら、高校生にもわかるように語っているのである。

いわば、大学生を相手にする、研究入門の授業のその前段階のことである。歴史を語るとはどういうことなのか、何が史料として利用できるのか、その史料から何が読み取れるのか……である。

それから、この本で重要なことは、先に『日露戦争史』(半藤一利)で出てきた「民草」の視点をもちこんではいない、ということである。これについては、改めて書くことにする。

追記 2016-09-13
ここで記した「民草」については、
加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』国民観
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/13/8184222

加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』国民観2016-09-13

2016-09-13 當山日出夫

加藤陽子.『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』.朝日出版社.2016
http://www.asahipress.com/sensomade/

やまもも書斎記 2016年9月12日
加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/12/8182853

ここで、私は、加藤陽子は、「民草」の視点では歴史を見ていないと書いておいた。それは、半藤一利の本を念頭においてのことである。

やまもも書斎記 2016年9月8日
半藤一利『日露戦争史』全三巻
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/08/8174084

あるいは、次の本もある。

半藤一利.『B面昭和史 1926-1945』.平凡社.2016
http://www.heibonsha.co.jp/book/b214434.html

加藤陽子『戦争まで』の「4章 日本人が戦争に賭けたのはなぜか」の「尾崎秀実と天皇の国民観」に次のようにある。

「では、普通に日々の生活をしていた国民はどうであったのか。これを見たいのですが、たとえば彼ら、彼女らが残した日記などを通して、その考え方を知る方法もありえます。ただ、そのためにはかなり長い期間にわたって調査し、その変化と背景を注視する必要があり、思うよりもずっと難しい。そこで、歴史学では、国民と大局的な場にある人間が国民をどう見ていたのか、ある意味、国民の姿を鏡に映すことで、間接的に国民像を探る方法をとります。」(p.401)

とりあげてあるのが、尾崎秀実と昭和天皇である。結論として、次のようにある。

「スパイと天皇という、対局の立場にいる二人が、ある意味で、同様の国民観を抱いていたという点が興味深い。ただ、二人とも、国民を批判しているのではなく、国民がそのように思い込まされてきている、その点を憂慮した言葉になっている点を読み取ってください。」(p.405)

このような歴史学の方法論がいかんなく発揮されているのが、日独伊三国軍事同盟締結のあたりになるのかと思う。ここで、著者(加藤陽子)は、外交実務者(課長クラス)、陸海軍の佐官クラスの実質的担当者の史料をもちだして、その同盟の本当の意図はなんであったかをさぐっている。三国同盟が、当時の世論においていかに受け止められていたかは、あまり考慮していない。(逆に、このような視点で描いているのが、半藤一利の仕事であるといえるのかもしれない。)

注意すべきは、ここで著者は、国民・庶民・市民・民草がどう考えていたか見る必要はないと言っているのではない、ということである。それは必要なことではあるが、歴史学研究としての手続きをふまえたものでなければならない、この方法論にしたがっている。

このような箇所は、これから歴史学を学ぼうという、高校生、あるいは、大学生にとって、是非とも、読み取っておくべきところであろうと思うのである。

ただ、文学研究・思想研究というような観点からは、以前にとりあげた、『神やぶれたまはず』(長谷川三千子)のような仕事も有りうると思っている。

やまもも書斎記 2016年8月16日
長谷川三千子『神やぶれたまはず』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/16/8152889

ここで確認しておかなかればならないのは、『戦争まで』(加藤陽子)は、「歴史」を語った書物なのである、ということである。

追記 2016-09-13
考証→交渉 誤字を訂正しました。

追記 2016-09-14
この本については、正誤表がWEBで公開されている。
http://www.asahipress.com/sensomade/teisei.html

由紀さおり『あなたと共に生きてゆく』2016-09-14

2016-09-14 當山日出夫

漱石の『猫』の苦沙弥先生は、寝るときに必ず本をもっていくらしい。私も昔は、そうしていた。今から考えれば若いときのことである。今では、本のかわりにKindleをもっていくようになった。Kindleの方が、文字がおおきいし、眼鏡をはずしても読める。逆に、眼鏡をかけていると、もう本が読みづらくなってきた(老眼である)。そのKindleも、最近ではあまりつかわないで、カバンにいれっぱなしになっている。で、何をもっていくかというと、Walkmanである。

そのWalkmanで、最近、毎晩のようにきいているCD。しかし、WalkmanでCDをきくというのも無くなっている。CD用Walkmanは、昔は持って使っていたが、いまではもう無い。全部メモリのタイプになってしまっている。だから、厳密には、持っているCDを、パソコンを使って、Walkmanに入れた音楽、ということになる。なお、ファイルの形式は、FLACを使ってる。

このところ、聞いているのが、

由紀さおり『あなたと共に生きてゆく-由紀さおり テレサ・テンを歌う-』
http://www.universal-music.co.jp/yuki-saori/products/upcy-7149/

である。

今の時代である。オンラインでもダウンロードできる。これは、ハイレゾもある。
http://mora.jp/package/43000006/00600406779915/

一昨年(2015)、テレサ・テンが亡くなって20年。それを記念してか、いくつかのCDが出たりした。私もCDを買ったりもした。だが、今ひとつ好きになれないでいた。

たしかに日本語の歌としてうまいのであるが……やはり、どこか無理をしているような印象……母語ではない日本語で歌っていることの無理……が残ってしまう。そのなかでは、かなり以前に買ってあったCDだが、鄧麗君の名前で歌っている『淡々幽情』は好きで時々聞いていた。(中国古典文学の「詞」にメロディをつけて歌っているものである。もちろん、中国語で。)

テレサ・テンの歌は、日本の歌謡曲の歴史のなかにあって、その正統な位置にあると思う。ただ、それを、日本語を母語としない歌手が歌うことによって、かろうじてなりたっていたものであったのかもしれない。

ところで、そうこうしているうちに、最近でたのが上記の由紀さおりのアルバム。なんで知ったか忘れてしまったが、たまたまWEBで見つけて買った。(このごろ、CDを買うのにCD屋さんに行くことも無くなってしまっている。)

これはいいと思っている。

収録曲は、
・時の流れに身をまかせ
・つぐない
・スキャンダル
・別れの予感
・恋人たちの神話
・空港
・夜のフェリーボート
・ふるさとはどこですか
それから、
・あなたと共に生きてゆく(これは、故・テレサ・テンと一緒に歌っているという構成に作ってある。)
・つぐない(これは、ほんとに蛇足だと思う。由紀さおりが中国語で歌っている。こんなことしなくていいのに。)

テレサ・テンの歌……日本における歌謡曲……その歌の魅力を最大限に表現しているのが、この由紀さおりのアルバムであると思う。しっとりとおちついた大人の女の魅力を感じさせる。これはおすすめと言っていいと思う。

石母田正『平家物語』2016-09-15

2016-09-15 當山日出夫

石母田正.『平家物語』(岩波新書).岩波書店.1957

古本で買った。緑表紙の岩波新書である。今は、もう売っていない。

この本を最初に読んだのは、国文科の学生のときだったろうか。ある授業で紹介されていたのを覚えている。そこで言及されていたのは、

「見るべき程の事は見つ」

という、知盛のことばであった。壇ノ浦でこれが最期というときのことば。なぜか、このことばは印象に残っている。平家の栄華、源平の争乱、そのすべてを体験してきて、最後に身を海に投じようというときに言っている。この世の中で、見るにあたいするほどのすべてのものごを見尽くした……散文的に言ってしまえば、このような意味になろう。ここは、現代語訳してしまったのでは、原文の持っているきっぱりとした覚悟のようなものが伝わってこない。

この箇所、現代のテキストで確認してみると、『岩波文庫本』では、第4巻の212ページ「内侍所都入」にある。

特に、中世文学を専門にしたということもないのであるが、(実際にやってきたのは、それとはほど遠いコンピュータ文字のことなどである)、この「見るべき程の事は見つ」の言葉だけは、妙に印象に残っていた。そろそろ、自分もそういう年なのかなあと思ったりりもするのだが、これまでにいったい自分はどれほどのことを見てきたのだろうか、これからどれほどのことを見ることができるのだろうか、という思いが時折去来するようになってきている。

ふと思い立って、ネットで本を探して注文してみた次第である。探せば昔の本がどこかにあるのかもしれないが、とてもそんな気にはなれない。便利な時代になったものである。ほとんど手数料・送料だけで、家にいながら古本が手にはいるようになってきている。

たしかに、今の時点で、石母田正の本は古くなっているのか、という気はしないでもない。特に、この本、歴史学者である石母田正が、『平家物語』について書いているというところがうりの本だと思う。石母田正の賞味期限がきれてしまえば、ある意味で、この本も古くなってしまう宿命なのであろう。(歴史学は専門というわけではないので、現在の石母田正の評価がどうなっているのか、よく分からないのだが。)

ところで、この『平家物語』(石母田正)を再読してみて、「運命」ということが気になってしかたがない。最初にあげた「見るべき程の事は見つ」の言葉も、「第一章 運命について」のはじめの方で言及・引用されている。

「むすび―平家物語とその時代」で、筆者は次のように書いている。

「近代人のように歴史の必然をでなく、歴史を運命という観念でとらえていた時代の作品にたいして、それが時代を一面的にしか表現しなかったということを証明してみせたところで、どれほどの意味もあるまい。」(p.203)。

また、『平家物語』の作者にあったのは……「物語精神」であるという(p.46)。この「物語精神」は、それ以前の王朝物語にも、また、同時代の西行や定家にないものであるともある。

現在の平家物語の研究の現状にはうとい。しかし、あえてその故であろうか、久しぶりに、『平家物語』(石母田正)を再読してみて、新鮮な感じがしている。無論、歴史学研究者として述べている部分には、ちょっと今の観点からはどうかな、というところもある。特に、琵琶法師を社会の下層に位置づけているあたり。おそらく今の解釈であれば、むしろ、身分秩序の範囲外にあった自由な人間となるのではなかろうか。

このような点があるとしても、『平家物語』を「運命」の物語、それを、作者はどう描いているか、このような視点から『平家物語』の魅力にせまった本として、まだ、この本は読む価値があると思う。いや、中世文学研究者ではないから、このような自由な読み方が許されるのかもしれない。

ともあれ、この『平家物語』(石母田正)を読んで、じっくりと『平家物語』を読んでみたくなった。

『源氏物語』もそうであるが、『平家物語』も、全部ページをめくっていることはあるのだが、順番に読んだことのない本なのである(正直に言ってしまえば)。そろそろ、研究のためというよりも、読書のたのしみのために『平家物語』を読んでみるべきときになってきたのか、という感慨である。

そして、「運命」ということについて、考えてみたくなっている。

半藤一利『B面昭和史 1926-1945』2016-09-16

2016-09-16 當山日出夫

半藤一利.『B面昭和史 1926-1945』.平凡社.2016
http://www.heibonsha.co.jp/book/b214434.html

この本は、細かなことをみれば、今年(2016)の二月の刊行。加藤陽子の『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』は八月の刊行。

加藤陽子が、半藤一利のこの本を知らないで書いたとは思えない。だからであろうか、「尾崎秀実と天皇の国民観」として、一般市民の感覚を歴史的に研究することについて書いているのは……そのように、思いたくなってしまう。

やまもも書斎記 2016年9月13日
加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』国民観
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/13/8184222

やまもも書斎記 2016年9月12日
加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/12/8182853

で、この本『B面昭和史』は、昭和戦前の歴史について、政治・軍事・外交などをA面の歴史とするならば、一般庶民の暮らし・生活感覚などをB面としてとらえて、その変遷をたどったものである。では、これは、歴史書なのであろうか、ということになると、ちょっと微妙な気がする。確かに歴史について書かれた本には違いないが、歴史書というのには、いささか抵抗がある。

歴史書として書くならば、民衆史・大衆史とでもいうべき方向になるのだろうか。そのような観点からみると、この本、面白く書けてはいるのだが、問題がないわけではない。それは、史料のあつかいかた、視点のおきかたあるのだろう。次の二点である。

第一に、史料のあつかいかたである。たしかにこの本を読めば、記述してあることのほとんどは、一次史料にさかのぼって確認できることを基本としてある。当時の新聞や雑誌、流行歌などである。だが、それを網羅的に調べて史料批判の眼を通しているかというとそうでもない。歴史書であるためには、ある一定の範囲の史料について網羅性、そしてその史料批判が必須である。

第二に、上記のこととの関連で、基本的に、著者の個人史の視点から描かれている。著者(半藤一利)は、1930(昭和5)年の生まれとある。であるならば、昭和戦前の歴史は、記憶に残っている範囲であろう。すくなくとも、日中戦争以降については、なにがしかの体験があるはずである。だが、それも、あくまでも著者の視点(東京生まれ)に限定される。東京以外の地方の視点からというのは、基本的にあつかわれていない。つまり、史料批判の視点があまりないということになる。

以上の二点を考えると、この本を歴史書というのは、はばかられる。だが、歴史と無関係かというとそうでもない。このあたりの機微をついて、著者が自らを「歴史探偵」と言うこととつながっていくのかもしれない。

大学などで歴史学として、昭和の歴史を勉強しようという学生にとっては、この本は、おそらく必読書のひとつになっていいと思う。だが、だからといって、この本に書いてあることをそのまま信用していいかとなると、そうはいかないだろう。さらに原典・一次史料にさかのぼって、史料批判の眼を加えなければならない。

とはいえ、その研究の手がかり、出発点を提供してくれる本としては、まさに格好の本といえそうである。

歴史……昭和史……といっても、なにも政治・軍事・外交ばかりが歴史であるわけはない。一般庶民、市民、国民、がどのように感じてその時代をすごしてきたのか。その当時の歴史のなかにあって、特に戦争というものをどのようにとらえてきたのか、これはこれとして、きわめて重要な研究課題である。

これを考えるには、実は、あまりにも史料が膨大であるというのが、問題なのかもしれない。しかも、昭和戦前のことなら、まだ、体験として覚えている人がたくさんいる。

このような状況にあって、昭和史のある側面を個人史を軸にして、描き出したこの本は、貴重なものといえるかもしれない。歴史書ではないかもしれないが、歴史とはなんであるかを考えるうえでは、軽視できない性質の本だと思う。

日本文学全集30『日本語のために』2016-09-17

2016-09-17 當山日出夫

池澤夏樹・個人編集.日本文学全集30『日本語のために』.河出書房新社.2016
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309729008/

この本について、書きたいことはいくつかあるが、二点。

第一には、「日本語」といいながら、漢文、琉球語、アイヌ語の文献・資料・作品まであがっている。漢文(訓読文)、それから、琉球語はいいだろう。だが、アイヌ語は日本語とは別の言語であるはず。

これを悪いというつもりはない。これはこれで画期的な試みとして評価されていいとは思う。だが、そのことにもうすこし自覚的であった方がいいのではないか、という気がしてならない。

ざっと見た限りの印象なのだが、なぜ、ここでアイヌ語の作品をとりあげるのか、ということについては、あまり踏み込んでいない。これはこれでいいのかもしれない。だが、ここで、「日本文学全集」のなかで「日本語のために」というアンソロジーを編集するにあたって、どの範囲のことばをあつめるのか、もうすこし説明があってしかるべきではないだろうか。

いや、そうではなく、とにかくこのような形であれ、アイヌ語、琉球語の作品をおさめることに意味があるのだ、という立場もありえよう。その意味では、今回のこのこころみは、いろんなことを考えるきっかけになるにちがいない。いや、そうあってほしいものである。

第二に、この本はアンソロジーのアンソロジーという編集でもある。

これも別にこのことを悪いという意味で言おうとしているのではない。たとえば、「日本詩人選」(筑摩書房)などから、いくつかとられている。
・寺田透 義堂周信・絶海中津
・富士正晴 一休
・唐木順三 良寛
などである。

時代が変わったなという印象をもった。私の世代なら、これらの本は若いときの読書の範囲であった。「日本詩人選」のシリーズもいくつか買って読んだ記憶がある。唐木順三全集も買ってもっている。

そういえば、この「日本語のために」には出てこないが、山本健吉というような人も活躍していたな、と思い出す。今では、もう読まれなくなってしまった人であろう。評論家といえばいいのだろうか。特に和歌・俳諧について、いくつか本を読んだように覚えている。

もうこのような仕事……古典文学、古文を、現代の視点から解読して解説する……というような仕事が、文芸評論の仕事の範囲ではなくなってしまった、ということなのだろうと思う。それにかわって新しく出てきているのが、大塚ひかりのような人材なのであろう。大塚ひかり訳の『源氏物語』については、すでに触れた。

やまもも書斎記 2016年9月10日
大塚ひかり訳『源氏物語』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/10/8177645

そして、もはや、唐木順三の文章、それ自身が古典というべき範囲のなかにはいるようになってしまったといえばいいだろうか。

以上の二点、『日本語のために』を手にとって、パラパラとページを繰ってざっと眺めてみての感想である。

日本文学の古典を現代語訳で読むこと2016-09-18

2016-09-18 當山日出夫

昨日、言及した、池澤夏樹・個人編集『日本文学全集』(河出書房新社)には、いくつかの古典作品も収録されている。

http://www.kawade.co.jp/nihon_bungaku_zenshu/

見ると現代語訳である。たとえば、

『古事記』、池澤夏樹 (新訳)
『万葉集』、折口信夫「口訳万葉集」
『源氏物語』、角田光代(新訳)
『平家物語』、古川日出男(新訳)
『徒然草』、内田樹(新訳)

など、である。まあ、折口信夫の「口訳万葉集」は別格としておいても、他の作品は、新訳、それも、古典文学研究者ではなく、作家が訳している。たしかに、これが、この「全集」の新しさなんだろうとは思う。

もちろん外国語で書かれた外国文学は日本語訳で読む。これが普通である。であるならば、日本の古典文学も現代語訳で読んで悪いということはない。いや、これからは、このような読書、受容・鑑賞のあり方が、むしろ普通になってくるのかもしれない。

私が見た範囲では、Twitterなどでは、評判はいいようである。

これは、これとして別に悪いことではないのだろうと思う。だが、私自身、日本語の歴史的研究の片隅で仕事をしてきたということもあるので、やや複雑な感じがしないでもない。

小学館の「新編日本古典文学全集」、これは校注だけではなく現代語訳もついている。
https://www.shogakukan.co.jp/books/series/A10030

だが、その現代語訳は研究者(日本古典文学)によるものである。研究者として訳すことになるから、どうしても逐語訳になってしまう、と言えるかもしれない。端的に言えば、読んであまり面白くない。それに、あくまでも「原文」が、書籍・組版の中心であって、現代語訳は、欄外の補足的な位置づけでもある。

それにくらべれば、現代の作家の訳した古典文学は、読んで面白いのであろう。実は、私は、この河出書房新社のシリーズ、買って読んでいるというわけではないので、よくわからないのであるが・・・

私個人の趣味からするならば、『源氏物語』の現代語訳は、それはそれとして読んで楽しめばいいのだと思うようになってきている。ただ、こういうことを思う背景としては、原文(校注本)でも十分に読めるという、日本語学研究者としての矜恃のようなものがあってのことである。現代語訳は、あくまでも現代語訳であって、原文ではないという意識がどうしてもある。これは、しかたのないことでもあるとは思う。だが、これを人におしつけようとは思わない。

強いて言ってしまえばであるが、内田樹の訳した『徒然草』を読みたいとは、正直言って思わない。読むのなら、スタンダードなところで、岩波文庫。あるいは、新しい角川文庫版だろう。

小川剛生(訳注).『徒然草』(角川文庫).角川学芸出版.2015
http://www.kadokawa.co.jp/product/201004000516/

なんだか残念な気がしてならない。古典文学の素養があって、しかも、現代文学に通じていて、文章がうまくて……そして、古典の文学作品を現代の読者にわかりやすく提供する、このような仕事が少なくなってしまっているように思えてならない。私の若いころであれば、山本健吉とか、唐木順三とか、読んだりしたものであるが。

ところで、たまたま見つけた大塚ひかりの文章。

大塚ひかり「誰のための現代語訳か」[古典の面白さを伝えたいという立場から]【特集・古典の現代語訳を考える】●リポート笠間59号より公開
http://kasamashoin.jp/2015/12/59_20141130.html

『リポート笠間』は、毎号送ってもらっている。この文章も興味深く読んだ。それが、上記のようにWEBでも読めるようになっている。

古典が現代の読者にとどく、それも、学問的厳密さをある程度保ちながら、しかも、現代のセンスをもって、これは難しいことなのかもしれないが、これからの若い人たちの活躍に期待したいものである。もうこれからは、私自身としては、ひたすら、楽しむ側にまわって読んでいきたいと思っている。

小書きの仮名は別の文字なのか2016-09-19

2016-09-19 當山日出夫

これは、別のところにすでに書いたことなのだが、日本語(それから、アイヌ語)の表記でもちいる、小さい仮名……これは、別の文字なのであろうか。

たとえば、




どう見ても、同じ字体であるとしか判断のしようがない。ただ、違うのは大きさである。大きさの違いというのは、文字の属性(字体とか書体とか)とどのように関係するのであろうか。

一つの考え方としては、コンピュータによる情報交換用の文字であるから、あらかじめ大きさの違う文字として設定しておかなければならない、という考え方があると思っている。つまり、文字としては同じであるが、ただ、その用法として、小さく表記するだけのこと、ということになる。

だが、その一方で、別のコードを付与している文字である、ということは、別の文字であると認定している……このように考えることもできる。

この小書きの仮名、日本語においては、「0208」では、

ぁぃぅぇぉ

ゃゅょ


ァィゥェォ

ャュョ

ヵヶ

がある。それが、「0213」では、ちょっと追加になって、

ゕゖ

ㇰㇱㇲㇳㇴㇵㇶㇷㇸㇹㇺㇻㇼㇽㇿ

になる。上記のうち、「0213」で追加の片仮名はアイヌ語表記用である。
なお、このうち「ㇷ」は、半濁点つきになる。ユニコードでは、合成で示すことになっている。

さて、これはどう考えればいいのであろうか。別の文字と認定するのか、同じ文字で大きさが違うだけのものと認定するのか。はっきりいってよくわからないというのが正直なところである。これを、「異体字」として考えるわけにはいかないようにも思える。

このことについては、表記研究会のときに研究会にあつまった人の意見をきいてみたいと思っている。

追記 2016-09-21
アイヌ語の仮名(小書き)、厳密にみれば、「フ」「プ」とある。JIS規格には両方あるのだが、ユニコードには、半濁点の「プ」ははいっていない。

追記 2016-09-23 このつづきは
小書きの仮名は別の文字なのか(その2)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/23/8197498

高取正男・橋本峰雄『宗教以前』2016-09-20

2016-09-20 當山日出夫

高取正男・橋本峰雄.『宗教以前』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2010 (原著、日本放送出版協会.1968)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480093011/

かなり以前にNHK(日本放送出版協会)から出ていて、文庫本(ちくま学芸文庫)になったもの。なぜか手にとることのなかった本であるが、文庫本で読んでみた。

共著なので、視点・論点が錯綜しているかなと感じるところがちょっとあるけれど、これはいい本だと思う。広く読まれるべきだろう。特に、柳田国男の祖霊信仰についての批判の部分、それから、国家と宗教についての考察。

ここでは、この本の柳田国男批判のところをみておきたい。柳田国男の祖霊論、『先祖の話』は、周知のことと思うので、もうくりかえさないでおく。これについて、この本は、次のように批判している。

「柳田氏のこのような意見は、もはや民俗の客観的な解明であるよりも、明治の家父長制をよしとする、官僚的な保守主義者の個人的心情の表明であり、しかもこのような心情が『先祖の話』を内容的にも支配していると考えられるのである。」(p.187)

「柳田氏は日本の神々すべてを祖霊に還元する――あるいは、還元できることを期待する。」(p.187)

「アニミズムに立つ柳田氏の祖霊と神において、それを存在論的意味での実在、アニマとみなしているのは、あくまで「家」の先祖と神までが本来であって、村の氏神や中央からの勧進神などは、社会習慣、心理的願望、政治的教化などが後次的に作り出したものとみなしている感がある。はたして日本人の古い宗教が家父長制的な「家」の観念から出発したものであるかは、きわめて疑問であろう。」(p.190)

民俗学、宗教学を専門にしているというわけではないので、この柳田国男批判の是非を判断することはさしひかえておきたいのだが、上記に引用した箇所を読むかぎり、なるほどという感じがしてならない。日本の宗教観を祖霊信仰だけから導き出すのは、やや無理があるとすべきであろう。

かつての日本の宗教がどうであったかも重要だが、それよりも、これからどうなるかも気になるところである。この点については、この本には次のようにある。

「祖先崇拝はたんに血縁のそれに限定されずにより普遍化されて、結局は「三界万霊」の供養のようなものとなり、したがってたとえば各家の仏壇も、その中心は先祖の位牌よも普遍的実在としての仏であるという、名前どおりのものになるかも知れない。むろん、先祖崇拝が存続するとしてである。死者の霊魂が個性を持ち続けると考えるか、融合単一化すると考えるかは、これからの日本人の死生観がきめることである。」(pp.196-197)

この『宗教以前』は、ちょっと古い刊行の本ではあるが、言っていることは、現在の日本の宗教(特に仏教)のかかえている問題を、みごとに指摘しているといえるのではないだろうか。

毎年、八月のお盆の時期になると、テレビのニュースでも各地の墓参りの様子が報道されたり、各種の民俗行事の報道があったりしている。たとえば、京都の大文字送り火、これなど祖霊信仰の現代版であろう。と同時に、京都の夏の一つのイベントにもなっている。これが今後どうなるかは、各自の、そして、社会全体としての、「内省」にかかっているのかもしれないと思う。

ここで「内省」と書いたが、この言葉は、文庫本の解説(「繊細の精神」安満利麿)で、次のように言及されている。

「「内省」とは、今ある自己のあり方を振り返ることである。」(p.268)

として、民俗採訪、そして、読書にときおよんでいる。昔の本を読み、また、残された民俗行事に接することによって、自ら省みる必要がある。それが、未来の自分のあり方をきめていくのである。また、祖霊信仰についてどう考えるかは、日本の文化・歴史を、どう考えるかということにも、ふかくつながっていくことでもある。