『アンナ・カレーニナ』トルストイ(新潮文庫)(その二)2017-01-08

2017-01-08 當山日出夫

やまもも書斎記 2017年1月7日
『アンナ・カレーニナ』トルストイ(新潮文庫)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/07/8307206

やはり、この作品そのものについての私の感想めいたものをいささか書いておきたい。

たぶん、独断と偏見で思って見ても、この作品は、世界の文学……それも小説というジャンルに限ってみるならば……そのベストに位置する作品であるといってよいだろう。近代、19世紀の文学、ロシア文学の傑作というにふさわしいと思う。

昨日の記事で、私は、この作品を芸術であると書いた。この冬休み、久々にこの作品を再読して……その日は、しばらく他の本を手にとる気がしなかった。それほどに、ヒロイン(アンナ)の最後のシーンと、それにいたる心のなかの描写は、圧倒的な感動をもってせまってくるものがあった。この本の読後感は、芸術的感動というべきものであった。

主人公は、アンナであるが、この作品には、幾組かの男女が登場する。
アンナを中心として、ヴロンスキー、そして、夫のカレーニン。
オブロンスキーとドリイ
リョービンとキチイ

文庫本にして、2000ページを超えるような大作でありながら、基本的な登場人物は、上記の男女でしめられている。男と女、夫婦、その間の感情の機微、これが、あらゆる角度から微細に描かれる。そして、それが、ありきたりなものとして読者を飽きさせるということがない。

たぶん、これは、若い時に読んだのでは、ただ、物語のストーリーを追っていっただけでは、分からないことだった。

文学を読むには、読者のもっている経験とか体験とか、人生観とかというものの積み重ねが必要である。ただ、文学的な想像力と感性だけでは、及ばないところがあるとおもうようになった。それは、年をとったから分かるというものでもない。その年齢に応じた読み方ができるということである。

以前、北原白秋について書いたとき、もはや若い時のような感動は味わえないという意味のことを書いた。年をとってしまえば、若い時のような素直な感性は、失われてしまってしまっている(まあ、私の場合は、としてもよいが。)

このことについては、昨年のブログで、何度かふれたことがある。

逆に、ある程度、年をとって経験を積んでからでないと分からないこともあるだろうと思うようにもなってきた。(まあ、半分は、年をとってしまったことの負け惜しみのような気分もあってのことであるが。)

文学青年など、今の時代には、絶滅危惧種かもしれない。しかし、このような時代にあっても、なお、文学というものが人に読まれる価値があるとするならば、それは、若い時のみならず、それなりに年をとってからでも、読むに値するからでなければならないと思う。何も、文学は、若い者の特権ではない……と、もう若くない私は、思う次第である。

『アンナ・カレーニナ』について、率直な感想を言えば、最終章のリョービンの部分、ここに、作者・トルストイの人生観、世界観、宗教観が凝縮して語られていることは理解できるのであるが、それまでのアンナの描写からすると、何かしら、違和感を感じないでもない。これも、ここのところを先に分かって十分に理解して、再読、再々読してみれば、納得できるものかであろう。この作品、少し時間がたってから、再々読、再々々読、と読んでみたいものである。

そして、感じることは、この作品は、トルストイの宗教観なしには成立しない作品である。しかし、そのトルストイの考えに賛同する/しないに関係なく、近代小説として完璧とでもいうべき作品になっている。その宗教観を超えて、芸術としてなりたっている小説である。

と、ここまで書いて、この作品についての感想めいたものは、書けないのであると感じたのである。それには、作者・トルストイの宗教観・人生観を、じっくりと吟味するだけの用意がこちらにできてから、ということになるのだろうと思っている。つまり、永久に超えることのできな壁のようなものとしてある。この意味においても、この作品は芸術である。

文学を芸術として鑑賞するすることができる、これが読書の喜びでなくてなんであろうか。