『沈黙』遠藤周作(その三)2017-01-29

2017-01-29 當山日出夫

遠藤周作.『沈黙』(新潮文庫).新潮社.1981(2003改版) (原著 新潮社.1966)
http://www.shinchosha.co.jp/book/112315/

さらに一昨日・昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2017年1月28日
『沈黙』遠藤周作(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/28/8337757

読みながら付箋をつけたことばがある。それは「愛」「愛する」である。

キリスト教が日本にはいってきて、それが日本でどのように受容されたかを考えるためのキーワードになる。なお、『沈黙』が舞台設定としている近世初期のキリシタン布教においては、「愛」ということばは、宗教用語としてはつかっていなかったと理解している。

『日本国語大辞典』(ジャパンナレッジ)を見ると、「愛、愛する」には、様々な用法があげられているが、ここで問題になるのは、次の意味である。

(7)キリスト教で、神が人類のすべてを無限にいつくしむこと。また、神の持っているような私情を離れた無限の慈悲。→アガペー

初出例は、1890 植村正久

これと、

(8)男女が互いにいとしいと思い合うこと。異性を慕わしく思うこと。恋愛。ラブ。また一般に、相手の人格を認識し理解して、いつくしみ慕う感情をいう。

初出例は、1890 森鴎外

おそらく、キリスト教の用語として、ここにあげた用法は、厳密に区別して使われなければならないものと考える。でなければ、キリスト教における「愛」の意義が雲散霧消してしまう。

『沈黙』には、かなりの「愛、愛する」の用例がひろえる。

まず、基督の像の顔を見ての感想。

「私はその顔に愛を感じます。男がその恋人の顔に引きつけられるように、私は基督の顔にいつも引きつけられるのです。」(p.31)

このような用例は、まだ、キリスト教の「愛」に近い用例かもしれない。次の用例はどうか。

「怒りと、憎しみのためか。それともこれは愛から出た言葉か。」(p.116)

この用例は、キリスト教の「愛」として理解できようか。だが、次の例はどうか、

「たとえば、妻に裏切られた夫を想像するといい。彼はまだ妻を愛し続けている。」(p.117)

この箇所は、連続して出てくる。まず、基督のユダに対する思いを「愛」といい、それにつづけて、男女の間にある感情を、おなじく「愛」とことばで表して、類似するもののようにあつかっている。

他にも数多くの「愛、愛する」の用例はひろえる。これらの用例を見ていくと、どうも、キリスト教本来の「愛」の用法と、男女の間の「愛」とが、そう厳密には区別されることなく、使われているように観察される。

たぶん、この問題を考えていくならば、遠藤周作におけるキリスト教の「愛」とは何であるのか、その思想、信仰の根本にかかわる課題となってくるであろう。

私は、遠藤周作、そのキリスト教文学について論じようという気はないので、これ以上の詮索はやめにしておく。だが、「愛」ということばから見えてくる遠藤周作の信仰の世界というものがあるだろう、とはいえそうである。

付記 2017-01-30
この続きは、
やまもも書斎記 2017年1月30日
『沈黙』遠藤周作(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/30/8341477