「ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (3)言語は虐殺さえ引き起こす」2024-02-23

2024年2月23日 當山日出夫

100分de名著 ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (3)言語は虐殺さえ引き起こす

もう今年度(二〇二三)で、国語学、日本語学を教える仕事は終わりにした。いろいろと理由のあってのことだが、最大の理由の一つは、生成AIのことである。これからの時代に、人間にとって言語とはなんであるか、考えるのが非常に困難な状況になると考えた。もうここいらで隠居しようと思った。

これまで、国語学、日本語学を教えてきて、一番注意して使ってきたことばが、「日本人」と「日本語」である。「日本語」は言語の名称として使用する。そして、その「日本語」を使うのが「日本人」であるとは言えない。

私の場合、これまで極力「日本人」ということばは授業で使わないできた。「日本人」と言わなければならない場合、それは、日本列島に住んで日本語を話している人びとのことぐらいの意味でつかっておくことにしますが……というような断りを必ず入れるようにしてきた(無論、「日本人」をめぐてはこれで十分ではなく、さらなる議論が必要である。最低限、無反省に使わないことである。)これはかなり面倒なことではある。しかし、このような面倒なことわりを入れることで、「日本人=日本語」という概念にとらわれない見方がありうるのだということは、伝えることができればと思ってのことである。

言語と本質主義というのは、いつの時代にも議論になることである。

人権ということばを語る人が、意見の異なる立場の人に対しても、人権を尊重しているかどうか……昨今のSNSでのやりとりを見ていると、どうかと思うことが多い。強いていえば、人権はマイノリティの特権ではない。少なくとも人権は平等であるという理念は必要である。(アファーマティブ・アクションの価値は認めるのだが。)

旧ユーゴスラビアのことについては、いろいろと思うことがある。少なくとも、私の若いころ、それは東西冷戦の時代であったが、旧ユーゴスラビアを始め、東欧社会主義国を礼讃することが多くあった。ソ連や中共(今はもうこのような言い方はしないが)には賛同できないが、東欧社会主義を理想的に語ることが、左翼的な立場からは多くあったと記憶する。(今のリベラルを自称する人たちは、このような歴史がなかったかのごとくである。)

配偶者のことをどう呼ぶかで気になるのはNHKの方針である。街頭インタビューなどで、女性が「主人」と言ったとき、字幕では「夫」に改めている。ひとのことばを勝手に変えていいのかと思うが、どうだろうか。これなど、時代の変化、世代の移り変わりとととも自然に変わっていくものだと思うのだが。(ついでに書けば、同様にいわゆる「らぬきことば」は訂正するのを基本としていると観察される。これも、ほうっておけばいいものだと思うが。)

「わたしたち」というとき、それは確かにある種の排他性を持つ。「わたしたち」ではない人びとのことを前提にする。しかし、人間というものは、「わたしたち」という仲間を作りそのなかで生きてきたという歴史がある。

一方、最近言われることとして、コミュニティの再生、というようなことがある。

良い「わたしたち」と、悪い「わたしたち」があるのだろうか。問題は、そのメンバーが、自分たちのことをどう自己認識しているか、ということ、そのことに常に反省的でありうるかどうかということではないかと思うが。

2024年2月21日記

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