『ブギウギ』「あんたと一緒に生きるで」2024-02-04

2024年2月4日 當山日出夫

『ブギウギ』第18週「あんたと一緒に生きるで」

この週の主な見どころは、ジャズカルメンと愛助の死と愛子の誕生である。

カルメンの「ハバネラ」はCDで時々聴く。車のなかで聴くことにして設定してある音楽のなかにはいっている。CDをMP3に変換して、USBメモリに入れたものである。なかに、ナナ・ムスクーリの歌っている「ハバネラ」が入っている。(今時、ナナ・ムスクーリの歌を聴いているというのは、年のばれる話である。高校生のころによくラジオで聴いていた。)

「ハバネラ」に日本語の歌詞がどうのるのかと思っていたのが、ドラマのなかで流れた音楽は、見事に日本語の歌詞がうまくあっていた。また、舞台シーンもよかった。

愛助は大阪で死んだ。それと時を同じくして東京で愛子が生まれた。この死と誕生の場面が、非常に効果的に描かれていた。おそらく朝ドラのなかでも、もっとも感動的な死と誕生のシーンだったのではないだろうか。

ただ、ちょっと気になったこととしては、愛子が生まれたとき、病院の看護婦さんがママと言っていた。昭和二二年である。一般的に、母親のことをママというのはそんなに広まっていなかったのではないかと思うのだが、どうだろうか。

さて、次週以降、いよいよ「東京ブギウギ」になるようだ。愛助と死別した後のスズ子をどう描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2024年2月3日記

ドキュメント20min.「悪口の美学」2024-02-04

2024年2月4日 當山日出夫

ドキュメント20min. 悪口の美学

言語学としては、とても興味深いことではある。悪口とはなにか、何故人は悪口を言うのか、悪口を言われた人は何故不快になるのか。

それと興味深いことは、それが悪口が許容される状況が、社会的、歴史的、文化的な様々な要因によって変わりうることである。以前と比べれば、現代の日本語においては、悪口は使いづらい状況になってきている。言いかえれば、全体として、PCであることを志向している。強いていえば、PCではない、という指摘こそが、相手への最大の批判である、という時代を迎えている。

『紫式部日記』については、この作品が何のために書かれたのか、読者としてはどのような人びとがいたのか、というあたりが重要なポイントかと思う。その他、『今昔物語集』など、その目で読んでみるならば、平安時代の人びとの悪口というものについて、いろいろと面白いことがあるだろう。

2024年2月2日記

「陰陽師・安倍晴明〜平安京のヒーローはこうして誕生した〜」2024-02-04

2024年2月4日 當山日出夫

英雄たちの選択 陰陽師・安倍晴明〜平安京のヒーローはこうして誕生した〜

再放送である。たぶん、『光る君へ』で安倍晴明が登場するのに合わせてのことになるのだろう。

私が見ていて一番興味深かったのは、京都の歴彩館の収蔵庫。(非常にマニアックな趣味かもしれないが。)閲覧していたのは、「若杉家文書」。それから、「占事略決」も面白かった。

「大刀契」のことがテレビで語られることは希なことかもしれない。それに安倍晴明がかかわっていたということは、これはこれで面白い。

「禹歩」は、知ってはいることなのだが、昔の人は面倒くさいことをしたものだという気もする。

「泰山府君祭」のことは、古典文学でよく知られていることだと思う。ただ、私は、学生のころから、「たいざんぶくん」と読み慣れてきている。

平安神宮での「追儺」は知らなかった。NHKの関西のローカルニュースでも、見たことがない。「追儺」は、昔、中学生のとき、『徒然草』を国語の授業で読んだときに憶えたことばだったかと思う。

足利義満が、直筆の文書で泰山府君祭のことを記しているのも、興味深かった。

安倍晴明を祖として土御門家になる。この家は、私の知識では、陰陽道の家であり、暦を司っていた家でもある。その仕事として、日時勘文のようなことで、ことこまかに貴族たちの日常生活を規定することにもなった。

なるほどそうかなと思ったのは、明治になって、大久保利通にとって土御門家が邪魔だった……ということ。本当にそうなのかどうかは分からないのだが、明治になって、暦が新しくなり、近代化を進めるなかで土御門家という存在は、無用のものになっていっただろうとは思うが、どうなのだろうか。

私にとって陰陽師というのは、やはり『今昔物語集』のイメージが強い。式神をつかいこなす、不気味な存在である。

現代のサブカルチャーのなかでの安倍晴明についてはよく知らない。たぶん、今の若い人にとって安倍晴明というのは、平安朝に活躍したヒーローということなのかとは思うのだが。これもまた時代の流れである。

2024年2月2日記