『国文学』休刊の反応2009-05-29

2009/05/29 當山日出夫

日本文学関係者にはなじみ雑誌である『国文学』が休刊になる。このことについて、笠間書院のHPで「まとめ」が作ってある。今後も追加になるだろう。

笠間書院 2009年5月29日
http://kasamashoin.jp/2009/05/2009529.html

インターネット上でさまざまな反応があることがわかる。基本的には、残念であるという方向が多いようにみえる。(だが、これは、当然だろう。そう思うからこそ、ブログに書くのであるから。)

少し距離をおいて見るならば、現在、日本中の大学で、国文学、日本文学という学科や専攻が、滅亡寸前の状態であることは確実。であるならば、『国文学』という雑誌がなくなるのも、あたりまえといえなくもない。

昨年は、「源氏物語千年紀」で、各地で様々な展覧会や研究会が開催された。あの「さわぎ」はいったい何だったんだろうと思う。

『情報歴史学入門』について書いた。この本で、後藤さんは、今日の歴史学の危機を語っている。歴史ブームのように社会的にみえながら、「学知」としての歴史学は、衰亡の危機にあると。そして、活路を「デジタル」に見出している。

『電脳中国学』(好文出版)、これは、いまでもかなり需要があるらしい。また、漢字文献情報処理研究会も頑張っている。

では、国文学・日本文学という分野では、何をやってきただろうか。人文情報学に未来が確約されているわけではない。しかし、この方向で、国文学・日本文学の学知の再構築しか、未来への展望はない。

なんども書く、「学知はその継承の方法のなかにある」。自らの専門領域を、周辺分野の研究とともに、デジタル環境で、再構築し継承しなければならないし、そうでなければ、ほろびるのみである。

當山日出夫(とうやまひでお)

『国文学』休刊と人文情報学2009-05-29

2009/05/29 當山日出夫

確認のため、以前に書いたことを、ふたたび引用する。

やまもも書斎記 2008年12月27日
『源氏物語千年紀とはなんだったのか』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/12/27/4029102

ここで以下のように書いた。

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ところで、人文情報学との関連でいうと、次のことに触れておきたい。日本で人文学研究者がパソコンを使い始めたとき、まっさきにデータ入力の対象となったのは、『源氏物語』である。私が知る限りでも、これまでに、数種類のデジタル化『源氏物語』がある。

私だったら、「源氏物語はどう電子化されてきたか」というようなシンポジウムでも企画するところである。しかし、その力量も無いので、傍観するだけであったのだが。

デジタル・ヒューマニティーズ(人文情報学)の歴史を考えるとき、日本における『源氏物語』の電子化の歴史と、そこで、どのような人が何を考えてきたのか、そして、それは、『源氏物語』研究に何をもたらしたか/もたらさなかったのか、考えてみなければいけないテーマであると思っている。

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デジタルが国文学研究に何をもたらしたか。結局のところ、「国歌大観CD-ROM」ぐらいのものかもしれない。だが、このことは、デジタル化された和歌研究資料に接することで、「うたを文字に書くとは」という問題意識を生み出したといえるであろう。この研究成果はある。

しかし、このような方向からの、国文学研究が、他の分野全般におよぶことはなかった。メディア論的な、あるいは、情報論的なアプローチは、個別には試みられており、それなりに研究成果をあげてはきているだろう。だが、しかし、国文学研究全体の、方向を変えるにいたっていない。

すでに「文字」「書物」になった作品の訓詁注釈的研究と、メディア論的・情報論的研究(口承とは、書くとは、書物とは、活版印刷とは、などなど)、がデジタル技術で融合した基盤のうえに、作品論・作家論などの個別研究が展開するという方向にならなかった。いや、すくなくとも、このような方向に向かおうとしていない。

デジタルによる、資料の共有と、学術情報の交流のないところに、これからの人文学研究の未来はない。

人文情報学、デジタル・ヒューマニティーズ(立命館)、次世代人文学(東京大学)、文化情報学(同志社大学)、これから何をなすべきか、考えるときである。

『国文学』の休刊に、あえて、未来への希望を見出す方向があるのかもしれない。いや、これをきっかけに、その方向にむけて、みづから、あゆみでなければならない。『国文学』休刊に、私は、感傷的になろうとは思わない。

ふたたび問う。パソコンが登場して、『源氏物語』がデータとして使えるようになったときから、国文学研究者は何を考えてきたのか。

當山日出夫(とうやまひでお)