『国文学』休刊と人文情報学2009-05-29

2009/05/29 當山日出夫

確認のため、以前に書いたことを、ふたたび引用する。

やまもも書斎記 2008年12月27日
『源氏物語千年紀とはなんだったのか』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/12/27/4029102

ここで以下のように書いた。

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ところで、人文情報学との関連でいうと、次のことに触れておきたい。日本で人文学研究者がパソコンを使い始めたとき、まっさきにデータ入力の対象となったのは、『源氏物語』である。私が知る限りでも、これまでに、数種類のデジタル化『源氏物語』がある。

私だったら、「源氏物語はどう電子化されてきたか」というようなシンポジウムでも企画するところである。しかし、その力量も無いので、傍観するだけであったのだが。

デジタル・ヒューマニティーズ(人文情報学)の歴史を考えるとき、日本における『源氏物語』の電子化の歴史と、そこで、どのような人が何を考えてきたのか、そして、それは、『源氏物語』研究に何をもたらしたか/もたらさなかったのか、考えてみなければいけないテーマであると思っている。

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デジタルが国文学研究に何をもたらしたか。結局のところ、「国歌大観CD-ROM」ぐらいのものかもしれない。だが、このことは、デジタル化された和歌研究資料に接することで、「うたを文字に書くとは」という問題意識を生み出したといえるであろう。この研究成果はある。

しかし、このような方向からの、国文学研究が、他の分野全般におよぶことはなかった。メディア論的な、あるいは、情報論的なアプローチは、個別には試みられており、それなりに研究成果をあげてはきているだろう。だが、しかし、国文学研究全体の、方向を変えるにいたっていない。

すでに「文字」「書物」になった作品の訓詁注釈的研究と、メディア論的・情報論的研究(口承とは、書くとは、書物とは、活版印刷とは、などなど)、がデジタル技術で融合した基盤のうえに、作品論・作家論などの個別研究が展開するという方向にならなかった。いや、すくなくとも、このような方向に向かおうとしていない。

デジタルによる、資料の共有と、学術情報の交流のないところに、これからの人文学研究の未来はない。

人文情報学、デジタル・ヒューマニティーズ(立命館)、次世代人文学(東京大学)、文化情報学(同志社大学)、これから何をなすべきか、考えるときである。

『国文学』の休刊に、あえて、未来への希望を見出す方向があるのかもしれない。いや、これをきっかけに、その方向にむけて、みづから、あゆみでなければならない。『国文学』休刊に、私は、感傷的になろうとは思わない。

ふたたび問う。パソコンが登場して、『源氏物語』がデータとして使えるようになったときから、国文学研究者は何を考えてきたのか。

當山日出夫(とうやまひでお)

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