日本語学会は完全中止、予稿集販売2009-05-30

2009/05/30 當山日出夫

今日は、本来の予定であれば、武庫川女子大での日本語学会。新型インフルエンザの影響で、中止。で、学会のHPを確認すると、「完全に中止」つまり、時期をみて別に開催ということは一切なし。

予稿集の執筆・販売をもって、学会の成立とみなすとのこと。

2500円、月曜日にでも、郵便局から振り込んでおくつもり。

日本語学会
http://www.jpling.gr.jp/

當山日出夫(とうやまひでお)

『国文学』休刊:雑誌というメディア2009-05-30

2009/05/30 當山日出夫

もう忘れかけていることであるかもしれない。今回の『国文学』休刊の、はるか以前に、『文学』(岩波書店)が、月刊から、季刊になった。そして、その編集の方針も、かなり変わった。

雑誌がなりたつための条件は厳しい。

・月刊であれば、毎月、同じ日に発売しなければならない。
・ページ数は、ほぼ一定でなければならない。せいぜいプラスマイナス16~32ページが、許容の範囲。
・内容的にも、毎号、同じレベルをたもつ必要がある。
・『国文学』であれば、「特集」と同時に「連載」もある。
・価格も、一定でなければならない。

というようにみれば、月刊の雑誌は、非常にハイコスト(人的労力)がかかっている。

それにくわえて、
・「特集」を組むときのテーマ設定のセンス(編集の人材)
・その原稿を書ける研究者の存在(研究者の人材)
・それを読みたいと思う読者数

など、「国文学」という研究分野における、人間の層がささえていることになる。

これが、全国の大学で、「国文学」「日本文学」が姿を消しつつあり(いろんな方向に再編されている)、狭義の「国文学」「日本文学」の研究者人口が減少すれば、そして、さらに、昨今の「大学院を出て学位はとったけれど~~」という問題をふくめれば、マイナスのスパイラルの中におちいるしかないではないか。

学燈社のHPを見て、最近の特集を確認してみるが、確かに、旧来の「国文学」「日本文学」を越えようとしている意図は見える。しかし、この程度のことなら、『ユリイカ』を買ってしまう、私なら。

学燈社
http://www.gakutousya.co.jp/contents/list/index.html

本誌 バックナンバー
http://www.gakutousya.co.jp/cgi-bin/menu.cgi?CAT=C3787


「ISSN」ではなく、「ISBN」の方向で、再びチャレンジするしかないと考える。ちなみに、勉誠出版の「アジア遊学」シリーズは「ISBN」になっている。

當山日出夫(とうやまひでお)


『翼よ、あれは何の灯だ』2009-05-30

2009/05/30 當山日出夫

『翼よ、あれは何の灯だ 清水義範パスティーシュ100 六の巻』(ちくま文庫).清水義範.筑摩書房.2009

おそらく、私の人生における最大の幸福(といってはおおげさかもしれないが)は、清水義範の作品を、ほとんど注釈なしに読めることである。そして、たぶん、後の時代になって、注釈つきで清水義範の作品を読むと、まったくこのおもしろさが理解できないだろう。

このこと自体を、すでに、この「六の巻」所収の「デストラーデとデステファーノ」という作品で、作者みずからが「実践」している。

文学作品の読者を分類するところから始まる
1.雑誌による読者
2.単行本による読者
3.文庫本による読者
4.後の世の読者

作品中で言及されていることがらについて、リアルタイムで分かるかどうか、である。

このことを、「六の巻」所収の「桃太郎vs.金太郎」でいうならば、つぎのような箇所
・ワンパクでもいい。逞しく育ってくれれば
・あれは福助さんだろうか
・かの有森とエゴロワの如く
・セイコーの電子時計でも

私の世代であれば、みんな「わかってしまう」。そして、わけがわからなくなってしまった箇所に注をつけることの、おろかしさについては、「二の巻」所収の「注釈物語」で、これまた「実践」してみせてくれている。

こんなふうにかんがえると、『源氏物語』の「ひきうた」がどうのこうのなどという「研究」は、馬鹿馬鹿しく思えるのである(半分以上、真面目な話しとして)。ま、それを、大まじめにやるのが「国文学」なのかもしれないが。

當山日出夫(とうやまひでお)