センリョウの花2017-07-12

2017-07-12 當山日出夫(とうやまひでお)

我が家の庭には、かなりのセンリョウの木がある。

冬になると、黄色い実をつける。そのセンリョウを観察していると、今がちょうど花の咲く時期であるようだ。先月から今月にかけて、時々、センリョウの花を写しておいた。白っぽい小さなつぼみが、わずかではあるが徐々に大きくなって、それが花ひらく。これが、冬になると、黄色く色づいて、季節を知らせてくれる。

冬になって、色づいた実を愛でるのもいいが、その前に、どのように花、実をつけるのか、その有様を観察するような時間をすごしたいものだと思っている。

ジャパンナレッジで「センリョウ」を検索してみると、日本国語大辞典には、江戸時代からの用例がのっている。

見出しは「千両」の表記であるが、樹木については、「仙蓼」ともとある。センリョウ、マンリョウと対にして憶えている樹木であるので……ちなみに、我が家の庭には、マンリョウの木もある……「千両」の表記をついつい思い浮かべてしまう。

最古例は、俳諧・増山の井(1663)に「仙蓼(センレウ)」とあるらしい。それから、『和漢三才図会』にあるよし。おそらくは、江戸時代から、観賞用に栽培されていたのであろう。

写した写真を並べてみると、やはり葉っぱの緑の色が安定していない。それぞれに微妙に緑の色がちがっている。まあ、写した時期が違うから、違ってあたりまえではあるのだが。花の写真を写してみると、花の色よりも、葉っぱの緑の色の色彩表現の方が、写真としては難しいことに気付く。RAWでデータを残しておいて、ある程度一定の色合いになるように調整してみるべきかなという気がしている。

センリョウ


センリョウ


センリョウ


センリョウ

Nikon D7500 AF-S NIKKOR 16-80 AF-S Micro NIKKOR 40

『居酒屋』ゾラ2017-07-13

2017-07-13 當山日出夫(とうやまひでお)

ゾラ.古賀照一(訳).『居酒屋』(新潮文庫).新潮社.1970(2006.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/211603/

今、新潮文庫で読めるゾラの作品は、『居酒屋』と『ナナ』だけのようである。検索してみると、文庫本で短編集が他にいくつかある。それから、『ジェルミナール』の岩波文庫版もある。これは、中央公論の「世界の文学」の中にもはいっている。

さて、この『居酒屋』であるが、文学史的に基本的なことを書いておけば、「ルーゴン・マッカール叢書」という一群の作品の一つ。1877年の刊行。19世紀、フランス自然主義文学の一つ、ということになる。

自分自身が、大学で、文学部国文科というところを出ているので、フランス自然主義文学というものには、何かしら、ちょっとした思い入れのようなものがある。日本の近代文学に与えた影響ということで、読んでおかねばならない作品であると意識すると同時に、なんだか敷居の高いような感じがしてきた。

そして、このゾラの作品も、これまで、なんとなく読まずに過ごしてきたのだが、読んでおきたくなって読んでみた。まず『居酒屋』から読んで、次に『ナナ』と読んだ。系図的には、母親と娘がそれぞれの主人公になる。だが、作品としては、完全に独立している。

私の好みとしては、この『居酒屋』の方が、文学作品、小説として、完成度が高いように感じる。『ナナ』について、別に書いてみたい。

『居酒屋』は、19世紀のパリの下層階級、職人階級の物語である。主人公は、ジェルヴェーズという洗濯女。男に捨てられ、それでも、子供を育てるために、結婚して、必死に働く。ようやく自分の店(洗濯屋)ひらいて、これからまともな生活になろうかというときに、昔の男(ランチエ)がもどってくる。そして、それから、彼女の生活の転落がはじまる。

大雑把な筋道はいたって簡単である。そこに、当時のパリの下層階級、特に職人たちの様々な生活が、詳細に記述されている。それは、現代の21世紀の我々の目から見れば、悲惨な生活かもしれないし、しかし、その中に充実した生活の喜びもまたある。この作品は、主人公のジェルヴェーズによりそいながら、その周りの人びと(職人たち)の生活の悲喜こもごもを、リアルな筆致で綿密に描写してある。

最後、主人公の人生は破綻していくことになるのであるが、それをリアルにおっていく。読んでいくと、その生きている姿に、やはり文学的感銘をうける作品である、といえよう。

近代、19世紀のヨーロッパの都市、パリにおける、下層階級、職人階級の生活をリアルに描写してあるこの作品は、それだけで、ある意味で、歴史的な証言にもなっている。登場人物たちの生活は決して恵まれているというわけではないのだが、その描写は、実に生き生きとしている。生活のちからがみなぎっている。みんな死に物狂いで働き、そして、よろこび、かなしんでいる。読んでいくと、小説中の人びとの生活感覚のなかに、はいりこんでいくような感じがする。

このような生活が、近代のヨーロッパの下層階級の市民なのだな、と深く感じるところがある。この意味では、『ブッデンブローク家の人びと』(トーマス・マン)が、ドイツを舞台にして、裕福な市民階層の物語であるのと、きわめて対照的である。とはいえ、『ブッデンブローク家の人びと』を面白く読むことができたならば、この『居酒屋』も、同じように面白く読むことができるにちがない。

文学的感動の普遍性……などというと大げさであるが、そのようなものをこの『居酒屋』に感じ取ることができるだろう。

19世紀、フランスの自然主義文学のリアリズムの目が、日本の近代文学にどのように影響を与えたか、受容されたか、これは、日本近代文学史の重要なテーマになる。このことについては、改めて書いてみたい。

追記 2017-07-15
この続きは、
やまもも書斎記 2017年5月15日
『居酒屋』ゾラ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/15/8620613

『ひよっこ』における方言(その二)2017-07-14

2017-07-14 當山日出夫(とうやまひでお)

NHKの朝ドラ『ひよっこ』における方言使用のことについて、ちょっと以前に書いてみた。

やまもも書斎記 2017年6月26日
『ひよっこ』における方言
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/26/8604596

みね子と島谷がデートした。そのシーンであるが、みね子は相変わらずの茨城方言が抜けていない。その一方で、島谷は、故郷(佐賀)のことばを話さない。共通語で話している。

その前の回。みね子と島谷たちが、バー「月時計」にあつまったとき。この時も、島谷は、自分の故郷の方言を自らは口に出していなかった。女性店主が、言ってみせて、「完璧です」と言っていた。

また、地方出身でありながら、共通語で話しているのは、早苗。バーのシーンで、東北(一関)の出身であると言っていたが、彼女もまた、方言を話さない。

どうやら、このドラマ、登場人物によって、その出身地の方言を話す/話さない、の違いを設定しているようだ。

乙女寮で働いていた女性たち、彼女たちは、みなその出身地の方言を話している。東京にでてかなり時間がたっているはずなのに、変化していない。また、富山出身の漫画家志望の青年二人も、富山方言で話している。

一方、慶應の学生である島谷、一応は自立した生活を送っているOLの早苗は、方言を話さない。

これを、社会的階層と方言使用という観点から考えると、かなり興味深い。

このドラマ、ひょっとすると方言がこれからの展開のキーになるのかとも思っている。みね子たちが乙女寮の同窓会をしていたとき、ふと現れた女優(菅野美穂)に、時子は、その方言を指摘されていた。

しかし、時子は女優を志して劇団にも所属して稽古にはげんでいるという設定。なのに、自分の方言に無頓着であるということは、どう考えてもおかしい。

店で働いているみね子の場合も、お客さんに接するとき、その方言が抜けていない。これは、接客業としては問題ないのだろうか。少なくとも、みね子は、自分の方言にコンプレックスをいだくということは、基本的にない、ということになっている。

女優(菅野美穂)の茨城方言への関心……茨城方言を話す登場人物、みね子、時子、それから、失踪している父親・実……これらをむすびつける糸になりそうである。

『居酒屋』ゾラ(その二)2017-07-15

2017-07-15 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年7月13日
『居酒屋』ゾラ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/13/8619336

ゾラ.古賀照一(訳).『居酒屋』(新潮文庫).新潮社.1970(2006.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/211603/

自然主義文学の日本への影響ということについては、一般的、教科書的な知識しか私にはない。それでも、一応、書き留めておくことにする。

第一は、日本で、自然主義文学がどのように受容されたか、影響を与えたかになると、「私小説」と「プロレタリア文学」になる。ともに、あまり私の好みではない。そんなに嫌いということではないが。このようなこともあって、フランス自然主義文学は、ちょっと遠ざけてきたきらいがないではない。

だが、自分も歳をとってきたせいもあるのだろう……これまで読んでこなかった作品を読んでおきたいと思うようになった。世界の文学、名著、古典というものをきちんと読んでおきたいと思う。それで、今回、手にしてみたということである。

第二は、特に、ドレフェス事件と永井荷風の一件である。日本の近代文学、あるいは、永井荷風について書いたものなら、たいてい触れてあると思う。

最近、永井荷風について書いたものを読むことが多くなってきている。それは、永井荷風それ自体を読むよりも、ある意味で面白いともいえる。それぐらい、永井荷風は、いろんな角度から、日本の近代というものを照らし出している作家である。

その永井荷風が、社会から目をそむけて、文人趣味に韜晦するきっかけになったのがドレフェス事件であるというのは、知られたことであろう。つまり、日本文学の側から、それも、永井荷風というフィルターを通してしか、ドレフェス事件というものに接してこなかった。

そうではなく、やはりゾラの作品自体を読んでおくべきだという気がしてきた。そのこともあって、読んでみたということもある。

うがった読み方をすればであるが……かなり屈折した形ではあるが、ゾラの社会批評のまなざしが、永井荷風の作品、特に『断腸亭日乗』などに見ることができるのではなかろうか。もし永井荷風が、フランスの自然主義文学というものに、日本において、どう対処するかということを経ていなければ、『断腸亭日乗』のような「作品」を残すこともなかったのではないか。

だいたい以上の二つの点が、ゾラの作品を読んで感じるところである。他に『ナナ』も読んだ。『ジェルミナール』も買ってある(「世界の文学」版)。読んで思ったことなどは、また書くことにしたい。

ともあれ、日本近代文学への影響ということをぬきにして、これらの作品を読んでみたいと思っている。だが、その一方で、やはりゾラが『居酒屋』で示したような社会批判のまなざしに接してみることによって、永井荷風という作家の生き方がすこしわかったような気にもなる、このことも書いておきたい。

追記 2017-07-17
この続きは、
やまもも書斎記 2017年7月17日
『居酒屋』ゾラ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/17/8622043

『ひよっこ』あれこれ「恋、しちゃったのよ」2017-07-16

2017-07-16 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

第15週、「恋、しちゃったのよ」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/15/

今週は、なんといってもみね子の恋の物語であった。みね子は、同じアパート(あかね荘)の住人、島谷と恋をすることになる。

昭和40年頃、高卒で地方から東京に働きに出てきている女の子と、慶應の学生との恋など、そうめずらしいものではなかったろうと思う。しかし、相手の島谷は、佐賀の名家の御曹司である。みね子とは違う……土曜日に大家さん(富さん)の言っていたことばでいえば「身分」である。

いまどき「身分」などということは、時代遅れだろう。だが、それが、アパートの大家さんのお富さんから、「身分違いの恋」といわれると、なんとなく説得力がある。

たぶん、そんな周囲の思いとは別に、みね子と島谷の恋はすすんでいくことになるのであろうとは思う。

しかし、である。ここでみね子と島谷が結ばれて幸福になってしまったのでは、ドラマが終わってしまう・・・まあ、失踪した父親のことはあるとしてもである。まさか、みね子が島谷と結婚して佐賀に行くことはないだろう。

佐賀に嫁に行くといえば、私などは「おしん」を思い出してしまう。

このみね子の恋の行方にどのように決着をつけるのか、そして、失踪した父親のゆくえはどうなるのか、これが、このドラマの後半の見どころになってくるにちがいない。

ところで、島谷は慶應の学生という設定である。だが、その大学キャンパスでのロケは、三田キャンパスはつかえなかったようだ。帝京大学でロケしたとあった。できれば、三田のキャンパスでのロケが実現していたらと思って見ていたのであった。といっても、もう、かつての「幻の門」もなくなってしまっているし、建物も随分と新しくなっているのだが。

『居酒屋』ゾラ(その三)2017-07-17

2017-07-17 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
『居酒屋』ゾラ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/15/8620613

ゾラ.古賀照一(訳).『居酒屋』(新潮文庫).新潮社.1970(2006.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/211603/

この小説を読みながら付箋をつけた箇所。

「みんなは台帳にしがみついて署名したが、その字たるや跛で太かった。新郎だけは字が書けぬために十字架を一つ書いた。」(p.118)

「とりわけブリキ屋が回復期間に字を習うのを断ったこと、彼女はこれが我慢ならなかった。」(p.213)

何故、このような箇所に付箋をつけたか。それは、作者(ゾラ)がその小説を書いて、その中の登場人物が、必ずしも字が読めるとは限らないという設定にしていることである。さらにいうならば、ゾラは、自分が書いた小説を、この登場人物たちは読むというようなことを想定していないことになる。

これが日本文学だとどうだろう。例えば、近代の漱石の作品。『猫』などは、その作中人物が字が読めないということはないようである。また『三四郎』以下の諸作品については、漱石は、その読者層として、自分と同程度のリテラシがあると想定して書いたとおぼしい。

近代文学を専門にしているということではないので、近代文学作品のなかのリテラシがどのように記述されているかは不案内である。しかし、小説を書いて発表したとき、その小説がどのような人たちに読まれると想定して書いたのか、また、その中の登場人物が小説を読むような人間として描かれているのか、この点は、きわめて興味深い論点になるだろうとは思っている。

あるいはこのようにいうこともできようか、もし日本近代文学が「文壇」というようなもののなかに閉じこもっている、あるいは、その周辺に位置するものとしてあるならば、社会の人びとのリテラシというのは、視野の外にあることになってしまう。日本近代文学を考えるうえで、重要なポイントになるのではなかろうか。

『おんな城主直虎』あれこれ「死の帳面」2017-07-18

2017-07-18 當山日出夫(とうやまひでお)

「おんな城主直虎」2017年7月16日、第28回「死の帳面」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story28/

前回のは、
やまもも書斎記 2017年7月11日
『おんな城主直虎』あれこれ「気賀を我が手に」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618205

今回は、直虎、井伊ではなく、今川の話しだった。今川というと、桶狭間の合戦で、義元が信長に敗れて以来、その後のことは、あまりドラマなどに描かれることはなかったように思う。それを、この『おんな城主直虎』では、丁寧に描いている。見方によっては、井伊の物語と平行して、今川のその後の物語があるかのごとくである。

なんといっても圧巻であったのは、寿桂尼(浅丘ルリ子)の存在感。ちょっと化粧がきついかなという気がしないでもないが、年取ってもなお、その迫力はたいしたものである。

そして、武田信玄との場面。これが見どころといったところであったろうか。

私が注目したのは、直虎のせりふ。イエを守るということはきれい事ではできない、このような意味のことをいっていた。直虎にとって、なにより大事なのは、井伊のイエを守ることである。それは、ちょうど、寿桂尼が、今川のイエを守るのと同じように。

だが、これは両立し得ない。直虎は、寿桂尼に恩義を感じてはいるようである。しかし、それが、主家である今川への忠誠心として、直虎のエトスになっているかというとそうでもない。直虎のエトスは、あくまでも、井伊のイエの存続にある。

このあたり、前作『真田丸』では、真田信繁の豊臣への忠誠心がそのエトスとして描かれていたのと、非常に対照的である。(歴史の結果としては、今川から離反して、徳川についた井伊は生き延びることになることを、現代の我々は知っている。)

この意味で、ちょっとだけ出てきた井伊の気賀の城の場面。この城を、直虎は、方久にあずけることにする。方久は武士ではない。商人の出身である。その時、こう言っていた……銭のちからは非常に強い、しかし、銭のちからだけではどうにもならないことがある、という意味のことを言っていた。このせりふ、何気なく言っているようだが、これからの、井伊のイエの存亡をかけた、重要なせりふになってくるのではないだろうか。

中世、戦国時代といっても、銭……商品経済といってもよいか……が、非常に大きな影響力をもってきている時代である。そのちからを最大限に発揮しつつも、「武」もおろそかにすることはない。それは、おそらく、直虎の次の世代、井伊直政の時代にうけつがれていくことになるのだろう。

今回、和尚は出てきたが、ネコが出てこなかった。ちょっとさびしい。

追記 2017-07-25
この続きは、
やまもも書斎記 2017年7月25日
『おんな城主直虎』あれこれ「女たちの挽歌」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/25/8627025

キキョウの花2017-07-19

2017-07-19 當山日出夫(とうやまひでお)

家の池の横でキキョウが咲いている。白い花の種類である。

ジャパンナレッジで、日本国語大辞典をしらべると、初出例は、平安時代の村上御集(967年頃)になる。

また、「ききょう」は、かさねの色目でもある。栄華物語に用例があるよし。表は二藍(ふたあい)、裏は青。きちこう。

薄紫の花が、少し前に一輪だけ咲いていたのを見つけたのだが、それ以上咲かずに、雨にうたれてしおれてしまった。今、咲いているのは、白い花。園芸種なのであろうと思う。

池の端に、池に向かって咲いているので、写真に撮るのは、対岸から望遠レンズをつかってになった。つぼみとか花一輪だけなら、近寄って何とか写すこともできるが、まとまってになると無理である。

NikonのDXで300ミリ。35ミリ換算で450ミリになる。数メートル離れた花の咲いているところを、なんとか写すことができた。


キキョウ


キキョウ



キキョウ


キキョウ

Nikon D7500 AF-S Micro NIKKOR 40 2.8 G AF-P NIKKOR 70-300 G ED

『源氏物語』岩波文庫2017-07-20

2017-07-20 當山日出夫(とうやまひでお)

岩波文庫版の『源氏物語』が、新しくなって出たので買ってみた。

柳井滋ほか校注.『源氏物語(一)桐壺-末摘花』(岩波文庫).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b297933.html

これは、以前にも書いたことなのだが、『源氏物語』を読むとき、まったくゼロの状態から読むということは一般にはない。その全体のストーリー、そして、その巻の概要、さらには、今読んでいるところがどんな場面であるのか、あらかじめ知ってから、「原文」に接してみる、ということが多い。

この新しい岩波文庫版でも、基本的にそのようなつくりになっている。各巻ごとに概要、あらすじがあり、系図もついている。

この時期に、第一巻(全部で六巻になる)を出したということは、たぶん、大学の教科書につかわれることを考えてのことかなと思う。たいていの日本文学科、国文科のある大学なら、平安朝の専門にしている先生が、『源氏物語』を順番に読んでいくような、講読、演習のようなものを担当しているだろうと思う。(今は、どうか、あまりよく知らないが、私の学生のころは、たいていそんなもんだったように記憶している。)

見開きで、右ページに本文、左ページに注釈、というスタイル。これは、同じ岩波文庫の『平家物語』と同じである。ともに、もとになったのは、「新日本古典文学大系」である。

『源氏物語』の本文、凡例を見ると……歴史的仮名遣いに統一してある。これは、その方が読みやすい。少なくとも、現代人にとって古典を読むとき、すくなくとも平安朝のものについては、歴史的仮名遣いの方が慣れ親しんでいる。また、歴史的仮名遣いで書いてないと、古語辞典がひけない。原文(底本)にしたがうと、いわゆる定家仮名遣いになってしまう傾向になるだろう。これは、そのことをちゃんと知っていないと、辞書がひけないということになる。

一般に読む、あるいは、大学での教科書に使用するということであるならば、歴史的仮名遣いの本文にしたというのは、適切な判断であったと思う。

この文庫本、ある程度、日本古典文学についての素養のある人にとっては、これで十分に読めるものになっていると思う。下手な現代語訳はかえってわずらわしいというむきもあるだろう。

おそらく、『源氏物語』の標準的なテキストとして、これから使われていくことになるのだろうと思っている。

『源氏物語』にとって重要なことは、何よりも、それが「文学」として読まれることにあると思う。この意味では、それぞれの時代にあった『源氏物語』のテキストがあってよい。むろん、現代語訳で読むのもいいだろう。かならずしも「原文」によらなければならないというわけではない。なにがしかの日本古典文学に素養のある人なら、「原文」(現代の校注本)で読める。多様な、『源氏物語』の読み方があってよい。だが、「文学」としての『源氏物語』を読むという姿勢を失ってはいけないと考える。

「あはれ」を感じながら読んでみたい。

『安土往還記』辻邦生2017-07-21

2017-07-21 當山日出夫(とうやまひでお)

辻邦生.『安土往還記』(新潮文庫).新潮社.1972(2005.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/106801/

いま、新潮文庫で読める辻邦生の作品というと、『西行花伝』のほかには、この『安土往還記』だけのようである。『西行花伝』については、すでに書いた。

やまもも書斎記 2017年7月8日
『西行花伝』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/08/8616269

やまもも書斎記 2017年7月10日
『西行花伝』辻邦生(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/10/8617672

この『安土往還記』もよく読み返した作品のひとつである。高校生のころであったろうか。(大学生になってからは、あまり読まなかったような気がする。キリシタン史の講義……高瀬弘一郎先生……には、三年ほど出たと憶えている。歴史学の方面から、キリシタンへのアプローチを知ってからは、遠ざかってしまってしまった。)

『西行花伝』を読んだので、この作品も読んでみたくなって手にしてみた。

読みながら付箋をつけた箇所。

「しかし大殿(シニョーレ)の場合、彼が執着するのは現世ではなく、この世における道理なのだ。常に理にかなうようにと、自分を自由に保っているとでもいえようか。」(p.75)

「私が彼のなかにみるのは、自分の選んだ仕事において、完璧さの極致に達しようとする意思(ヴォロンタ)である。」(p.104)

「少なくとも私には、彼がただ一人で寡黙に支えつづけているものの〈重さ〉がわかるのである。そしてもし人間に何か生きるに価することがあるとして、それが人間に与えられているとすれば、それは、こうした〈重さ〉を自分の〈重さ〉と感じることではないのか。」(pp.142-143) 〈 〉傍点

「おれの求めるのは、人間の極みに達する意思なのだ。完璧さへの意思なのだ」(p.151)

このようなことばで表現される、人間としての完璧さを目指す強靱な意志としての「信長」……このような信長のイメージは、やはりこの小説独自のものだろう。

ところで、私の織田信長へのイメージが何に由来するかと考えてみると……特に、日本史、中世史を専門としているわけではないので、どうしても小説などに描かれたイメージということになるのだが……この作品の他には『国盗り物語』(司馬遼太郎)によっている。ともに読んだのは、高校生のころだった。

その他、テレビのドラマ、NHKの大河ドラマなどでは、何度となく、織田信長がが描かれているのを見てきている。これらのないまぜになった形で、私の「信長」のイメージは形成されている。そのなかにあって、『安土往還記』に描かれた「信長」のイメージは、屹立している。

戦国武将ではない、むしろ、芸術家にちかいような人物として描かれている。強靱な意志をもった人物造形。この「信長」のイメージから、私は、自由になることができないでいる。このことは、歴史学研究の分野で戦国時代などを専門にしているというわけではないので、ある意味で、自由に想像の領域で考えることができる。これはこれとして、悪いことではないと思う。ただ、そのことに自覚的でありさえすれば、であるが。

『西行花伝』を読んで、現実の西行を思い浮かべるのではなく、あくまでもこの作品に描かれた「西行」を考えてみなければならないのと同様、歴史的にどうであるかということとは切り離して「信長」を見ることになる。

いや、ここで、再度『安土往還記』を読み返してみて、それだけの余裕を持って、この作品を読むことができた、といった方がよいかもしれない。

『西行花伝』『安土往還記』と読んでみたが(ともに、再読)、ここはやはり『廻廊にて』を読んでおきたくなっている。おそらく辻邦生の作品が後世に残るとすれば、何よりも『廻廊にて』ではないだろうかと思っている。