『いだてん』あれこれ「真夏の夜の夢」2019-03-12

2019-03-12 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年3月10日、第10回「真夏の夜の夢」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/010/

前回は、
やまもも書斎記 2019年3月5日
『いだてん』あれこれ「さらばシベリア鉄道」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/05/9043522

ストックホルムについた四三と弥彦、彼らは孤独だった。これは、ナショナリズムではなく、ヒューマニズムのドラマである。

印象的だったのは、「君が代」を歌うシーン、それから、最後の四三のことば、「日本」としてほしい(JAPANではなく)。これら、一見すると、ナショナリズムに傾きがちな題材であるが、まったくそれを感じさせない。そのような脚本であり、演出である。

このドラマが始まったときから感じていたのは、やはりオリンピックにまつわるナショナリズムをどのように描くか、あるいは、描かないか、ということである。今のところ、日本で最初のオリンピック参加ということでストックホルムについた、四三と弥彦はナショナリズムとは無縁であるかのごとくである。すくなくともナショナリズムを背負っているようには描かれていない。

それよりも、彼らを悩ませるのは、なれない異国での生活、そこでの孤独な練習……たぶん、夏目漱石の英国留学の時のことばをつかっていうならば「神経衰弱」とでもいうべき、精神的な負担。だが、それは、日本の代表としての気負いによるものではない。もっと、人間的な、ひとりの人間として、異国において感じる不安のようなものである。

この人間としての孤独感を描くことによって、このドラマは、ナショナリズムを払拭している。その中にあって、四三は、弥彦とちがって、日本を強く意識しているようだ。だが、その四三のことばは熊本方言である。熊本という日本の一つの地方のリージョナリズムをもちこむことによって、日本という国へのナショナリズムを、それと強く感じさせない作り方になっている。

日本、日本人とオリンピックという題材のドラマではあるが、そこで描いているのは、あくまでもひとりの人間として、オリンピックというものにどう立ち向かっていくかという、ヒューマニズムと精神のドラマである。

ところで、ここまで見てきて思うことなのだが、落語家(志ん生)の部分が、今ひとつ面白くない。まあ、確かに、オリンピックにまつわるナショナリズムを、毒をもって制すという意味で、ビートたけしの起用ということになったのだろうと思っているのだが、いまのところ、その毒が効果を出しているとは思えない。これは、たぶん、これから登場する、人見絹枝とか前畑秀子とかのあたりを描くときに、たかがメダル、たかが日の丸、ということになるのかもしれない。

次回、オリンピックの開催になるようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-03-19
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月19日
『いだてん』あれこれ「百年の孤独」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/19/9048972